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Caravan/In The Land Of Grey And Pink/2001 The Decca Record Company Ltd. UICY-2390



60年代後半〜70年代初頭にかけて登場した独創的なロック・ミュージックを愛する多くのファンにとって、その時期イングランドの地方都市カンタベリーから現れたバンドは、首尾一貫して興味深い音楽を生み出していた。いわゆる“カンタベリー・シーン”(多くのメジャーなグループはそのシーンの存在を否定するが)から出現した中で、キャラヴァンほど特異で持続性のあるグループはいないだろう。

Caravan
In The Land Of Grey & Pink

キャラヴァンのデッカ・レコードからのファースト・アルバム“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”(Decca SKL-R 5052)は、1970年9月にリリースされ大絶賛を浴びた。その年の初め、彼らはオランダのロッテルダム、Kraalings BosでのKraalingen・ポップ・フェスティヴァルに出演した。キャラヴァンはジェファーソン・エアプレイン、フロック、フランク・ザッパ、サンタナ、クィンテセンス、スキン・アレイその他と共にポスターで宣伝された。1995年にリチャード・シンクレアは語っている。“オランダでのフェスティヴァルは当時僕らが経験した中で一番大きなギグだった。僕らは25万人に向かってプレイしたけど、うち1万人だけが眠らずに起きていた。なぜなら僕らは2日目の最初の出番だったが、それまでずっと雨が降っていてしかも観客はぎゅうぎゅう詰めだったんだ!それでも多くの人たちはバンドを見ようとしてたよ。”

このライヴと並ぶフェスティヴァル、8月9日に行われたプランプトンでのThe 10th national Jazz, Pop, Ballad and Blues Festivalへの出演と“If I Could Do It All Over Again…”のリリースはキャラヴァンにとってさらなる飛躍を促した。この容赦のない仕事量にもかかわらず、キャラヴァンは次作のために多くの新曲に取りかかった。彼らはスタジオ入りに向けての充分な新曲の確保のために、プロデュースを外部の人間に委託することにした。

1970年秋、キャラヴァンはロンドンのデッカ・スタジオとエア・スタジオ両方で、プロデューサーにデヴィッド・ヒッチコックを迎えてセッションを始めた。アルバム“In The Land of Grey and Pink”は、彼らの最も充実した時期のひとつとして見なされることとなった。デッカ・レコードとの契約を導いたのが、ヒッチコックのキャラヴァンに対する熱意だった。この一人の熱意溢れる若いプロデューサーは、デッカの芸術部門で働いていたが、ある晩ロンドンのライシアム・シアターでグループのコンサートに遭遇した。翌日彼は彼のボス、ヒュー・メンディにキャラヴァンと契約することを提言した。

“デヴィッドは当時アート部門からプロダクション部門に異動するところだったんだ。”パイ・ヘイスティングスは回想する。“彼はしきりに僕らをプロデュースしたがってたから、それがきっかけだと思う。最初僕らはデッカでのファースト・アルバムを、彼にプロデュースしてもらうことに気が進まなかったんだ。なぜなら彼に会ったこともなかったし、彼はレコードを作った経験もなかったからね。で僕らは次のアルバムは自分たちでプロデュースしようと思ってたんだ。”キャラヴァンはデッカでのデビュー・アルバム制作をタンジェリン・スタジオで着々と進めていたが、その時デヴィッド・ヒッチコックは同レーベルのイースト・オブ・エデンのアルバム“Snafu”と、シングル“Jig-a-Jig”を制作していた。パイは説明する。“‘If I Could Do It All Over Again…’が出た後、僕らはついにデヴィッドと会ってすごく仲良くなったんだ。彼は素晴らしいアイデアをたくさん持っていたから、僕らは次のアルバムを彼にプロデュースしてもらうことに決めたんだよ。”

アルバムのセッションは1970年9月、ウェスト・ハムステッドのブロードハーストにあるデッカ・スタジオで始まった。まずは後にキャラヴァンの伝説的なレパートリーになる曲の最初のヴァージョンに取りかかった。今回パイ・ヘイスティングス作は、“Love To Love You”のみにとどまった。彼は説明する。“僕は最初の2枚でほとんどの曲を書いた。‘Grey & Pink’の頃になると他のメンバーの書いた曲がたまっていたんだ。特にデイヴは一番音楽的に伸びていたから、アルバムでは彼の貢献度が一番大きいね。リチャード・シンクレアも多くの良い曲を書いていた。僕は1曲と他の曲でちょっとだけだったけど、それは正当だった。前2作ではたくさん書いたから。でも当時の僕らは共同クレジットにしていたから、そのことは僕らにとって大した問題じゃなかったんだ。”

“Group Girl”は1970年9月14日にレコーディングされた。これはアルバムのオープニング・トラック、“Golf Girl”の元々のタイトルだった。このヴァージョンの歌詞は正規版とは全く異なっている。リチャード・シンクレア作の“Golf Girl”は、とても個人的な内容で、当時の彼の家庭生活からインスパイアされていた。“リチャードはすごく人の心を惹きつけるライターだよ。”パイはいう。“彼はとても身近なことを歌にするんだ。友人とか家族とかね。で曲の最後の方になると、彼の詞は普遍性を帯びてくるんだ。”Golf Girl”のオリジナル・ヴァージョンは彼と彼の妻トゥリーシャについてのすごく個人的な歌だった。で同時に彼の息子ジェイソンについての歌でもあった。内容は当時の彼の生活に起こったハプニングについてだ。素晴らしい曲を書くチャーミングな色男ってとこかな。もちろんトゥリーシャはパットになって、あとはみんな知ってのとおり!”

アルバムを飾るもう一つのリチャード・シンクレア作が“Winter Wine”で、おとぎ話と夢の歌だ。この曲の最初のスタジオ・セッションでは、最終ヴァージョンとイントロ部分が異なり、詞が乗っておらずリチャードのハミングによるメロディのみだった。“普段僕らはまずメロディを考え出して詞は最後だったね。”パイはいう。“‘Winter Wine’はその時点でのリチャード・シンクレアの最高作だと思う。”

9月の残りのセッションは暫定的に名付けられた“Dave’s Thing”に当てられた。世界中のキャラヴァン・マニアに知られている“Nine Feet Underground”のことである。“これはデイヴ作だ。”ヘイスティングスは断言する。“彼が4つの異なるセクションを書いて、それを残りの僕らがどう繋げるかを考えた。繋ぎのリフのうちの一つは僕が考えたよ。全員があちこちの詞を2、3考え出したり、違うコード・チェンジを提案した。”

なるほどこの22分の大作の5つに区切られて録音されたマルチ・トラック・マスターを聴いてみると、デヴィッド・ヒッチコックとデッカのエンジニア、デイヴ・グリンステッドによって上手く編集されているのが分かる。レコードの片面全てを費やし、それをもってアルバムを締めくくる“Nine Feet Underground”は、“For Richard”に取って代わるに相応しい価値があり、アルバム中最も人気が高く、それはコンサートでも同様だ。今日までライヴでは演奏され、彼らの最も冒険的かつ最も成功したナンバーの1曲というのが分かる。それぞれのパートは風変わりなタイトルが付けられていて、“7枚の紙ハンカチの踊り”と“おじいちゃんの鼻をつまめ”はアルバムに神秘性を加えている。“分離”の別ミックスが今回初めて収められたが、意識的な、変化に富んだ演奏を聴くことができる。

1970年12月までに、バンドはオックスフォード・ストリートに新しく開設されたスタジオ、エア・ロンドンに移った。ヘイスティングスは、そこのオーナー―ビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーチンに偶然会ったことを回想する。“僕らはエア・ロンドンで‘Love To Love You’をレコーディングしていた。コントロール・ルームにいた時、ジョージ・マーチンが大事なお客を連れて通り過ぎていったのを覚えているよ。彼は僕らがいるところを覗き込んで、‘ハロー’っていったけどすぐに行ってしまったな。彼はさっきのお客と忙しそうに商談していた。スタジオは開設されたばかりで当時の最新機材が揃っていた。僕らはエア・スタジオを使った最初のバンドの一つだ。”

エア・スタジオでバンドはある曲の最初のヴァージョンの録音に取りかかった。これはもう一つのヴァージョンがあるにもかかわらず、約15ヶ月後にリリースされた“Waterloo Lily”まで発表されなかった。“貴族”は12月14日に完了し、そこではデイヴ・シンクレアの秀逸なキーボードがフィーチャーされている。キャラヴァン・ファンにお馴染みの最終ヴァージョンよりも冴えないが、結果的にはより可愛らしく仕上がっている(多分)。“Golf Girl”も再度このセッションでレコーディングされ(今度はパイの兄弟、ジミー・ヘイスティングスの素晴らしいピッコロ・ソロがフィーチャーされている)、“Winter Wine”も同様に新しいバッキング・トラックがレコーディングされた。

エア・ロンドンでのセッションはさらに二つのリチャード・シンクレア作を生んだ。“In The Land of Grey & Pink”はリチャードのシュールな詞と、彼の泡のような口笛ソロが聞ける。もう1曲は、1970年12月14日に録られ今回まで日の目を見なかった“I Don’t Know It’s Name(別名The Word)”で、これは“Winter Wine”と似た雰囲気を持つ。しかしビニール・レコード上の時間的制約から最終的に省かれ、このCDで初のお目見えだ。アルバムの最終ミックスは、デッカのスタジオで1971年1月に完了した。セッションからの最初のリリースはシングルとして(イギリスではDecca F23125、アメリカではLondon 45-20065)、1971年2月12日“Love To Love You(And Tonight Pigs Will Fly)”が“Golf Girl”とのカップリングでリリースされた。

“In The Land of Grey & Pink”は4月8日、待ち望んでいた世界中の人々に向けてリリースされた。ヨーロッパと日本ではデッカのプログレッシヴ・ロック・レーベル、デラム(SDL-R1)、アメリカではロンドン・レコード(RS 593)だった。アルバム・パッケージは大々的に店頭に飾られた。それはデラムの“デラックス”シリーズの開始を告げるものだった。ジャケットはアン・マリー・アンダーソンによる印象的なトルキーン(英ファンタジー作家)風のイラストがフィーチャーされ、見開き部分には野原を一列になって意気揚々と行進するメンバーたちの素晴らしいシルエットが載せてあった。レコードの内容、ジャケット共々素晴らしく印象的であった。

公式のUKアルバム・チャート上での失敗にもかかわらず、このアルバムがリリースされて以来廃盤になっていないことは重要な意味を持つ。フォーク、ジャズ、そしてロックのユニークな融合がアルバムを形作り、30年後になっても、他の同時代のアルバムが幾人かの評論家によって嘲笑の的となる中、今なお高い評価を受けているのである。“Golf Girl”の脚注には、この曲は唯一他人にカヴァーされたとクレジットされている。ヒッピーのコメディアン、ニール(別名俳優のナイジェル・プレイナー)が、BBC2のヒット番組“The Young Ones”の彼名義のアルバム、“Neil’s Heavy Concept Album”の中で、シド・バレットの“The Gnome”、トラフィックの“Hole In My Shoe”とともに歌っているのだ!“‘Grey & Pink’が傑出しているのは、主にあらゆるもののタイミングの良さにあると思うね”パイは考察する。“僕らはその頃多くの面でピークに差しかかっていた。デヴィッド・ヒッチコックのおかげでプロダクションは最高だったし、デイヴ・シンクレアの作曲能力とオルガン・プレイもピークだった。僕らはバンドとしても上手くなっていたから、何か大きなことが起こる予感はしていたね。”

アルバムのリリースとUKツアーの結果、ヨーロッパ中のラジオやTV番組によってキャラヴァンへの関心が増していき、7月24日に収録されたドイツのTVショー“ビート・クラブ”での“Golf Girl”の素晴らしいライヴ映像で最高点に達した。しかしメンバーとファンにとっては、いわゆるアンダーグラウンド・ミュージックの支持者たちから大絶賛を受けても、大きな商業的成功につながらなかったことがさらにいっそう失望感を与えることになった。ヘイスティングスはいう。“その時僕らはマネージメントとレコード会社から大きな支援を受けるべきだったけど、いくつかの理由からそういうのはなかったんだ。幾人かは、僕らにこれ以上お金を投資する価値はないと思っていた。僕らはみんないいレコードを作ったと確信していたし、前進を止めることはバンド内に緊張感を引き起こすことを分かっていたよ。”

デイヴ・シンクレアがバンドを去ることを宣言した時、その緊迫状態が明るみに出た。元ソフト・マシンのドラマー、ロバート・ワイアットに誘われ、デイヴはワイアットのファースト・ソロ・アルバム“End Of An Ear”に参加した。そしてワイアットの新しいバンド、マッチング・モウル(Soft Machineのフランス訳であるmachine molleをさらにパロったもの)にも参加することになった。1975年デイヴ・シンクレアは詳しく述べている。“全てが停滞しているように感じてて、他のミュージシャンからのインスピレーションが必要だと思った。他の人と一緒にプレイしたかったけど、キャラヴァンにいるからには両立できなかったんだ。前にロバート・ワイアットと話したことがあって、彼がソフト・マシンを抜けた時に僕もキャラヴァンを去ったんだ。ポルトガルにいた時、ロバートがイングランドに戻るよう手紙をくれた。僕は何とか本国に帰ろうとしてたんだけど、リスボンで足止めを食ってた。でやっと戻った時、僕らはゆっくりとマッチング・モウルに向けて動き出したんだ。”

デイヴの脱退はバンドにとってかなりの打撃となった。しかしバンドは続行を決め、リチャード・シンクレアはカンタベリーのミュージシャンでジャズ・ロック・バンドのデリヴァリーにいたスティーヴ・ミラーを代わりに加えることにした。新しいラインナップでのデビュー・ライヴは、オーガスト・バンク・ホリデーにクラクトン(イングランド南東部)で行われたウィーリー・ロック・フェスティヴァルだった。1971年の晩秋にキャラヴァンは“In The Land Of Grey & Pink”に続くアルバムのレコーディングのためデッカのスタジオ、トーリントン・パークにいた。わずかに方向転換を図った“Waterloo Lily”は、彼女自身(Lily)の自己紹介をする準備をしていた。

マーク・パウエル


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