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Caravan/For Girls Who Grow Plump In The Night/2001 The Decca Record Company 8829802



60年代後半から70年代初頭の最盛期に現われた創造的なロック・ミュージックに執着する多くの愛好家にとって、イングランド南東部の地方都市カンタベリーから生まれたバンドは、その時期もっとも一貫して興味深い音楽を作っていた。いわゆる「カンタベリー・シーン」(主要なバンドの多くはそのシーンの存在を否定する)から出てきた中で、キャラヴァンほどオリジナルで長続きしたバンドはいなかった。

Caravan
For Girls Who Grow Plump In The Night

その忘れられないライヴ・ショーを通じ、彼らは忠実な支持を堅実に打ち立ててはいたが、『Waterloo Lily』(1972年リリース Deram SKL-R8)セッションの間に、音楽的方向性をめぐるメンバー間の相違点が明らかとなった。その結果、でき上がったアルバムは、パイ・ヘイスティングスのいつもの独特なソングライティングと、リチャード・シンクレア及びキーボード・プレーヤーのスティーヴ・ミラーによるジャズ志向の混ぜ合わせとなった。ミラーは、1971年8月にロバート・ワイアットのマッチング・モウルへ参加するために抜けたデイヴ・シンクレアの後任として、リチャード・シンクレアの招き入れによってバンドの一員となっていた。

『Waterloo Lily』は批評家と長年のファン双方からまちまちな評価を受けた。「僕たちのファンに関するかぎりでは、それまでと全く違ったアプローチだったから、彼らの多くはあまり好まなかったんだ」 パイはいう。「新しい領域で何か違うことにトライしたことで、僕らは新しいファンを獲得したけど、同時にファンを失いもした」

1972年6月のUKツアー中に、音楽的方向性についての議論は頂点に達した。パイは回想する―「しばらくして、全くうまくいっていなかったことがはっきりした。僕はこのことについて、リチャード・シンクレアとたくさん話し合ったけど、彼はさらにいっそうのジャズ的アプローチを望んでいた。僕はロック的な方向へ戻したいと思っていたから、残念ながら僕たちは衝突してしまった」

相違点を解決できないまま、コフラン、へイスティングス、ミラー、そしてシンクレアは、そのラインナップとしての最後のコンサートを、1972年7月25日にソリハル市民ホールで行なった。共演はジェネシスだった。スティーヴ・ミラーはまもなくバンドを去り、数日内にリチャード・シンクレアも去って行った。

1995年にリチャードは脱退理由を回想している―「バンドにスティーヴがいると全くうまくいかなかったんだ。なぜかっていうと、パイとリチャード・コフランのプレイにとっては、音楽がちょっとルーズっていうか締まりに欠ける感じになってしまうからだ。僕たちがブルースとジャズに手を伸ばしていた一方で、パイの考えは僕たちの昔からのファンが聴きたがっている音楽性へ向かうことになったんだと思う。そんなわけで最終的に分裂した」 

最後の一撃といえるリチャード・シンクレアの脱退があったにもかかわらず、キャラヴァンは続いていく運命にあった。「スティーヴとリチャード・シンクレアが去ったあと、僕はリチャード・コフランと話したんだけど、彼に僕はバンドを続行することに決めたと伝えたよ」 パイは説明する。「彼はそれに同意してくれたから、僕はマネージャーのテリー・キングのところへ行って、僕たちの意向を伝えた。テリーは新しいキーボード・プレーヤーとベーシストのためのオーディションを何度か設定した。僕は前にオーディションなんてやったことがなかったから、バンドの中で知らない人がプレイするのは全く初めての体験だったね」

このオーディションによって、ベースに元Thank Youのスチュアート・エヴァンス、キーボードに元キーフ・ハートリー・バンドのデレク・オースチンがやって来た。しかしこれら交代の前に、へイスティングスは1人の傑出した若きヴィオラ奏者を紹介されていた―ジェフリー・リチャードソンだ。

パイは回想する―「ダグ・チャンドラーっていう僕の友人が彼について話してくれたんだ。彼は友人にジェフ・リチャードソンというウィンチェスター・アート・カレッジの学生がいるといっていた。ダグは彼のプレイを聞いて、彼のことをブルースに影響を受けた最高のヴィオラ奏者だと思った。ジェフはスティーヴ・ボリルという1人の男といっしょにいて、ボリルはスパイロジャイラというバンドのベース・プレーヤーだった。最初にベース・プレーヤーのオーディションをした時、僕はボリルにジェフもいっしょに連れてきなよって提案したんだ。グレーヴニー・ヴィレッジ・ホールでリハーサルした結果、スティーヴ・ボリルと僕の相性は全く合わないことがはっきりしたんだけど、僕はジェフリーにすごく感銘を受けて、今すぐバンドに入らないかと誘ったんだ」

リチャードソンのヴィオラは、彼らの音楽的可能性を広げ、キャラヴァンのサウンドに新しい要素を加えた。2ヶ月以内に、ヘイスティングス、コフラン、リチャードソン、オースチン、そしてエヴァンスの新生キャラヴァンはロードに向かい、9月10日にフランスのモンベリヤールで最初のコンサートを行なった。オーディエンスによるリチャードソンへの最初の反応はまちまちだった。彼は時折、気まぐれなキャラヴァンのオーディエンスからやじを飛ばされたが、ステージ上ではっきりと見てとれるヴィオラとフルートの名人芸を、あくまで貫きとおした。1年以内に、彼への反応は一変し、彼はオーディエンスの人気者となり、バンドのメイン・アクトの1つとなった。「当時、新しい血をバンドに入れるのは全く健全なことだった」 パイは回想する。「ジェフリーはバンドに入ったとたん、バンド全体の感触を変えてしまったね」

1972年10月〜12月にかけて(その間に、バンドはサウンド・チェック時に新しいマテリアルを試し始めていた)、断続的に英国とフランスのツアーをしたあと、キャラヴァンはほぼ9ヶ月ぶりにレコーディング・スタジオに入った。

クリスマス直前の週に、田舎のオックスフォードシアにあるチッピング・ノートン・スタジオに入るバンドに、プロデューサーのデヴィッド・ヒッチコックが随行した。このセッションは、パイ・へイスティングスの様々なインストゥルメンタルがレコーディングされることになっていた。「僕はいつもどたん場になって歌詞を書くんだ」 パイは説明する。「ヴォーカル・トラックを録る時になって、歌詞を思いつくんだ。それまではヴォーカル・メロディになるように、ばかげたことを鼻歌で歌うだけだね」

12月18日のセッションでは、こっけいなタイトルのインストゥルメンタル、“He Who Smelt It Dealt It”(嗅いでさばいた彼((?)))が生まれた。1973年10月までに、これは“Memory Lain, Hugh”として知られることになった。ヴォーカル・メロディ抜きのこれは、正式ヴァージョンよりもわずかにテンポが遅い。同じ日にレコーディングされたのが、“Waffle”というインストゥルメンタルで、のちに“Chance of A Lifetime”となった。

翌日にはさらに2曲のインストゥルメンタルがレコーディングされた。“No!-Part One of Waffle”は、今では“Be Alright”としてよく知られている。“Surprise, Surprise”は、ヴォーカル・メロディをハミングするパイ・ヘイスティングスをフィーチャーする形でレコーディングされた。クリスマスと新年に続いて、バンドは1973年1月の1週目にチッピング・ノートンに戻った。その時に、以前は“Derek's Long Thing”と呼ばれていたデレク・オースチンのインストゥルメンタルが録音された。このメイン・ストリームのロックに影響を受けたナンバーは完成することなく、1月5日にレコーディングされたヴァージョンのみが生き残ることになった。

「デレクのマテリアルはハモンド・オルガンとペダルにすごく重点がおかれていたんだ」 パイは回想する。「問題はキャラヴァンらしいサウンドじゃなかったことだった。だから僕たちはちょっと衝突したね」 1972年12月下旬と1973年1月初旬のこれらレコーディングは、レコーディング・スタジオでキャラヴァンといっしょにプレイしたオースチンとエヴァンスがフィーチャーされた唯一の生き残りテープであり、今回のリイシューで初登場だ。

キャラヴァンはこれまででもっとも奇妙な組み合わせによるラインナップのツアーに取りかかる前に、ウォーミング・アップとして1月下旬に4日間英国内でプレイした。1973年2月、キャラヴァンはスレイド、リンディスファーン、そしてステイタス・クオーと共にオーストラリアン・ツアーに向かった。「なぜそんなことになったかっていうと、オーストラリア人のプロモーターがロンドンにやって来て、オーストラリアのツアーにあのメンツを集められるかどうかを確かめるために、テリー・キングのオフィスに立ち寄ったからなんだ。テリーは当時、業界トップのエージェントでもあったから、彼は僕らを含む条件でツアーを組むことができた!」 パイは回想する。

「全くおかしな話でね。なぜかっていうと、僕たちの契約がすでに切れていたから、抗議するために他のところへ行くつもりだとテリーに伝えるところだったからだ。僕たちはモントルー・フェスティヴァルでプレイして、それから僕は彼に手を切ることを告げる気満々でいた。ところがテリーは僕がそのことをいう前に楽屋に入ってきて、オーストラリアのツアーの準備が整ったことを僕らに告げた。いうまでもなく、その時点で僕らはテリーのところを去ることはなかった!」

ヘイスティングスはオーストラリアン・ツアーを次のように回想している―「僕たちはそのツアーにふさわしいタイプのバンドじゃなかった。僕たちは真昼の焼けるようなオーストラリアの太陽が照りつける野外のスタジアムで、“For Richard”みたいな歌をプレイした。ところによっては、僕たちはとても受けがよかったけど、他のところでは誰も僕たちに見向きもしなかったね。それでも僕たちにとっては大きな体験だった。すごく大きな成功を収めていたバンドたちといっしょに働くのは、興味深いことだった。ステイタス・クオーは驚異的だったね。彼らはオーディエンスへの接し方を本当によく分かっていたし、僕は彼らから多くのことを学んだ。全てのバンドがおもしろかったな」

イングランドに戻ったパイは、ラインナップの変更が必要だと判断した。彼は回想する―「僕たちがスチュアート・エヴァンスをベーシストとして迎え入れる前に、僕はSpreadeagleっていうバンドにいたジョン・ペリーという優れたベース・プレーヤーから連絡をもらっていた。彼らは解散しかけていて、彼はマーキー・クラブにいた僕たちに会いにやってきた。彼は僕に、バンドに入りたいが今はまだ自由の身じゃないといっていた。僕がオーストラリアから戻った時に、彼は手紙を送ってきて、そこには3月の初めから参加できると書いてあったから、僕は彼にすぐに加入の誘いの返事をした。それから本当にうまくいかなくなっていたバンドを解散させたんだ」

エヴァンスとオースチンが順当に去ったことで、へイスティングス、コフラン、リチャードソン、そしてペリーは新しいキーボード・プレーヤーを探さねばならなかった。その彼の名はキャラヴァンのファンにとって、すでによく知られていた―デイヴ・シンクレアだ。「デイヴはマッチング・モウルとハットフィールド&ザ・ノースに一定期間在籍していた。僕はまずは迫っていたフランスのツアーのために、戻ってくる気はないかと尋ねた」 パイは回想する。「彼はその時点では、再びバンドの一員にはなりたくなかったから、セッションのギャラに同意したんだ」 当時のインタビューでデイヴ・シンクレアは語っている―「僕はあの時、何よりもお金が必要だったから喜んでバンドに戻った。フランス・ツアーのあと、僕たちはスタジオに入って、僕はそのままバンドに居ついたような感じだね」 パイ・ヘイスティングスが喜んだことに、新しいラインナップは最初からとてもうまく機能していた。彼はいう―「バンドは信じられないくらいタイトだった。ジョン・ペリーは本当にすばらしいプレーヤーで、彼は僕らに団結するようにけしかけて、バンドをぐいぐいとひっぱっていった」

フランス・ツアーの成功に元気づけられたキャラヴァンは、1973年4月に再びスタジオ入りした。パイは説明する―「僕たちはフランスから戻って、歌を再レコーディングするためにそのままスタジオに入った。1週間以内にバッキング・トラックは全て完了した。なぜなら僕たちはロードで全てをリハーサルしていたから。僕たちはスタジオでほとんどライヴ録りしたんだ。いくらかのミスはくり返したけど、そんなに多くじゃなかったね。僕たちはそれまでの数週間に毎晩ライヴでプレイしていたから、とてもタイトにまとまっていたんだ」

バッキング・トラック・セッションはチッピング・ノートン・スタジオで録音され、そのあとバンドはウェスト・ハムステッドとトーリントン・パークにあるデッカのスタジオでオーヴァーダブ・セッションを行なった。アルバムのオープニング・トラックは、キャラヴァンのライヴ・セットのオープニング・ナンバーとしてそのまま健在だ。“Memory Lain, Hugh”はジェフ・リチャードソンによる見事なヴィオラ・プレイをフィーチャーし、同様に見事にフィーチャーされた木管楽器とブラス・アレンジメントを担当したパイの兄弟のジミー・ヘイスティングスは、フルート・ソロも取った。ジョン・ペリーの友人だったルパート・ヘインは、このトラックが切れ目なく“Headloss”へ続くところで、デイヴ・シンクレアとともにARP(アープ:商標)シンセサイザーをプレイした。

“Hoedown”がフォークロックに影響されたアップテンポのナンバーだった一方で、“C'thlu Thlu”においてパイ・ヘイスティングスは、複雑な拍子とキング・クリムゾンのようなバンドを思わせるリフを試みていた。“The Dog, The Dog, He's At It Again”は、ユーモラスな好色談義であるが、これはデッカのスタジオ、“ブロードハースト・ガーデンズ”でバンドがプレイするところをフィーチャーしたプロモーション・フィルムとしてデッカに採択された。またこれはBBC2の重要TV音楽番組、“オールド・グレイ・ホイッスル・テスト”で放映されもした。1972年12月には、“Waffle”として知られていたナンバーは今や“Be Alright”/“Chance of A Lifetime”となり、最初はジョン・ペリーの情熱的なヴォーカルをフィーチャーしていたが、その後、パイ・ヘイスティングスの魅力的なリラックスしたリフレインがフィーチャーされた。

アルバム最後のトラックは、キャラヴァンがいかにタイトで見事な音楽的一団であったかを立証している。“A Hunting We Shall Go”は、最後の数ヶ月間のライヴ・ワークにおいて次第に完成していったインストゥルメンタル・トラックだった。これはアコースティック・ギターとヴィオラをフィーチャーした“L'Auberge Du Sanglier”というセクションから始まっていた。そのタイトルはバンドがフランスでよく訪れていた宿の名前から取られていた。

“...Hunting”はさらに複数のセクションに分けられていた―すなわち、ジョン・ペリー作の短い“Pengola”と、ソフト・マシンのマイク・ラトリッジ作の“Backwards”だ。パイは説明する―「僕は“A Hunting We Shall Go”の全てを書いていたんだけど、ミドル・セクションのところで先へ進めなくなってしまった。僕はもともと違うコード進行を書いたが、気に入らなかったんだ。デイヴ・シンクレアはマイク・ラトリッジが書いたあるメロディをすごく気に入っていたから、僕が代わりにそれを使うことを彼が提案した。うまくいったね」

またそのトラックは、マーチン・フォードとジョン・ベルによる華麗なオーケストラ・アレンジメントをフィーチャーしていた。フォードは以前、バークレイ・ジェイムズ・ハーヴェストとともに働いていた。これは多くの者がこのアルバムをキャラヴァンの傑作の1枚として考える根拠となるほどの、美しいクライマックス部分だった。『...Plump In The Night』の一貫して高水準なマテリアルは、その全てを書いた作者のパイ・ヘイスティングスが次のように説明している―「2曲のインストゥルメンタル・セクションを除いて、全てを僕が書いた。他に書く人がいなかったからね。当時の僕はピークにあったと思うし、タイトで要所を得ることをキープするジョン・ペリーの影響で、元気づけられたからだと思う。ジョンはある特定の書き方を僕に教えてくれた。それがアルバムの一貫性につながっている」

アルバム・リリースに先立ち、キャラヴァンはゴードン・ギルトラップ、ホークウィンド、ピーター・ハミル、そしてアーサー・ブラウンといったアーチストたちとともに、3ヶ月間のツアーに乗り出した。『For Girls Who Grow Plump In The Night』(Deram SDL-R12)は、1973年10月5日にリリースされた。アメリカの型番は“London PS627”だった。アルバム・カヴァーにはマーク・ローレンスのデザインによる、すやすやと眠る出産間近の女性がフィーチャーされていた。もともとのプランでは、見開きジャケット内側にヌードの妊婦を載せる予定だったが、デッカ・レコードがそれに難色を示した。

キャラヴァン初のUSツアーをプロモートするためのシングル・リリースとして、“Memory Lain, Hugh”がリミックスされたものの、アルバムからのシングル・カットはなしだった。『Waterloo Lily』からの“The World Is Yours”とのカップリングで、そのシングルは1974年10月27日にリリースされた(London 20080)。かなりの違いのあるこれは、今回のリリースで初CD化だ。

チャート入りこそしなかったものの、パイ・ヘイスティングスは『...Plump In The Night』のリリースによって、キャラヴァンがより大きな成功を収め始めたと考えている―「僕たちはラジオで流れ始めて、“結局まだ彼らは峠を越えていない”といったコメントをもらうようになった。その上、当時の僕たちは常にロードに出ていた。ペンザンス、グラスゴー、ロンドン、エジンバラ、命じられればどこでもね!当時はほとんど高速道路なんてなかったけど、テリー・キング・エージェンシーは1つのギグのために僕らに300マイルの旅をしろって依頼することを屁とも思っちゃいなかった!」

その10月に、一握りの大学サーキットを回ったキャラヴァンは、それまでで最も名声あるコンサートに備えていた。1973年10月28日、シアター・ロイヤル・ドゥルリー・レーンは、ニュー・シンフォニアと共演するキャラヴァンを目撃するために押し寄せたファンたちで満席となっていた。これはクラシック・ミュージックとロックの驚くべき融合となり、それを収録するためにパイ・レコードの可動式レコーディング・スタジオが用意されていた。

マーク・パウエル


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