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Caravan/If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You/2001 The Decca Record Company Ltd. UICY-2389



60年代後半から70年代初めにかけて、英国の地方都市カンタベリーから現れた創造的なロック・ミュージックの多くの愛好家にとって、それらバンドは一貫して興味深い音楽を生み出していた。いわゆる“カンタベリー・シーン”から出現した全てのグループの中で(多くの主なバンドはシーンの存在を否定するが)、キャラヴァンほどオリジナリティ溢れるバンドは存在しなかった。

Caravan
If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You


ヴァーヴ・レコーズから1968年10月にリリースされたデビュー・アルバム、“Caravan”(Verve Forecast 6011)によって、彼らはドイツのTV出演と1969年3月のBBC2の番組“Colour Me Pop”出演を果たし、一般的な人気とアルバム・セールスは次第に大きくなっていった。

しかし不幸なことに、“Caravan”はMGM/Verveがレーベル再編とUKでの営業停止を発表する前の数ヶ月間しか店頭に並ばなかった。バンドは将来有望なスタートを切るためのレコード会社との契約が突然なくなってしまった。パイ・ヘイスティングスは回想する。“僕たちは本当に宙ぶらりんの状態に陥ったよ。僕らは活動を始めたとたん他のレコード会社を見つけなきゃならなくなった。そんな中、僕らがロンドンのスピークイージー・クラブで演奏していると、以前僕らが最初の出版契約を交わしていたロビンズ・ミュージックのイアン・ラルフィニがやって来て、僕らにはマネージャーが必要だといったんだ。彼は僕らにテリー・キングっていうエージェントを紹介してくれて、テリーはマネージャーと代理人を引き受けてくれるといったんだ。”

キングはロンドンのロック・シーンではよく知られたエージェントであったが、彼の仕事はまずバンドにふさわしいレコード会社を見つけることであった。彼はすぐにデッカ・レコーズと交渉を始めた。“僕は元々イアン・ラルフィニといっしょにワーナー・ブラザーズに行きたかったんだ。彼がA&Rマネージャーとして働き始めた場所だったからね。”パイは思い出す。“でも残念ながら僕らが契約するだけの十分な期間、彼はワーナーに長くいなかったと感じていたんだ。テリー・キングはデッカとの好条件の契約を提供してくれて、彼は僕らに契約するようにアドヴァイスしたんだ。”

デッカ・レコーズとの契約は、主にデッカのアート部門で働いていたデヴィッド・ヒッチコックという志あふれる若きプロデューサーが示したキャラヴァンに対する熱意によって進められた。ロンドンのライシーアム劇場でバンドの夜中のコンサートを見たヒッチコックは、彼の上司であったヒュー・メンドルにバンドと契約することを強く主張していた。“デヴィッドはアート部門からプロダクション部門に移る途中だったんだ。”パイは回想する。“彼は本当に僕らをプロデュースしたがっていた。それが彼の契約の動機だったと思う。僕らはデッカでのファースト・アルバムを彼にプロデュースしてもらうのはあまり気が進まなかったね。なぜなら彼とは会ったこともなかったし、彼はレコードを作った経験もなかったから。だから僕らは次のアルバムはセルフ・プロデュースにしようと決めていたんだ。”

デッカ・レコーズでの最初のキャラヴァンのセッションは、1969年9月、ロンドン、ボールズ・ポンド・ロードにあるタンジェリン・スタジオで始まった。“僕らのエンジニアはロビン・シルヴェスターだった。”ヘイスティングスは思い出す。“タンジェリン・スタジオは裏通りにあった威厳あるスタジオだったけど、ロビンは僕らのためにとてもいい仕事をしてくれた。僕らはすごく実践的なアプローチをしたよ。全員がレコーディングとミキシングに参加した。もしかするとアルバムのサウンドがクリアじゃないのはそのせいかもしれないね。みんがみんな自分の楽器の音を一番大きくしようとしてたからね!”
初のセッションでの最初の試みとして、“Why?”(のちに“And I Wish I Were Stoned”と改題)、“Clipping the 8th”(のちの“Hello, Hello”)そして“As I Feel I Die”のファースト・テイクが生み出された。これら全ては初めてこのCDで日の目を見たのである。セッションはいったん延期され、その間にキャラヴァンは多くのライヴ契約を履行した。この頃までにバンドはブリテンとヨーロッパ両方でかなりの人気者となっていた。

1969年10月はキャラヴァンにとってその当時最も大きなライヴとなったベルギー、Amougies、モン・デ・l’EnclusでのActuelフェスティヴァルが行なわれた頃だ。これはヨーロッパでより多くのファン獲得となった重要なコンサートであった。巨大なサーカス・テントで行なわれ、キャラヴァンは宣伝ポスターにピンク・フロイド、イエス、ザ・ナイス、キャプテン・ビーフハート、コロシアム、ソフト・マシン、イースト・オブ・イーデンその他多くのグループとともに名を連ねた。ショーはまた、フランク・ザッパとマザーズ・オブ・インヴェンションもフィーチャーする予定であったが、就労ヴィザの問題によりザッパのみの出演となった。バンドが出られないことにより彼は代わりにショーの司会をつとめることにし、多くの出演バンドとジャム・セッションも行なった。パイは思い出す。“彼はギターを持ってステージに上がってきて、‘If I Could Do It All Over Again’をいっしょにジャムったんだ。信じられない体験だったね。彼とはその後も親しい間柄になったよ。”

重要なライヴ契約が多くあったため、バンドは1970年2月にオリジナル・デモの新ヴァージョンをレコーディングするまで、タンジェリン・スタジオには戻らなかった。その曲、“A Day In The Life of Maurice Haylett”もまた今回このCDに収録されるまで30年間お蔵入りとなった。彼らのサウンド・エンジニアに捧げられた“Maurice...”は何度もタイトル、形を変えることになった。これは数ヶ月間ステージのみでプレイされたが、1969年8月、BBCラジオ・ワンのセッションで“An Excerpt From The Daily Routine of Maurice Haylett”というタイトルのもとレコーディングされた。

セッション・テープはその後BBCアーカイヴから消去されてしまった。タンジェリン・スタジオのセッションでタイトルは“A Day In The Life of Maurice Haylett”と縮められ、テープ・ボックスにはそのように書かれていた。パイ・ヘイスティングスはデッカでこの曲をレコーディングしたことを全く思い出せないようだ。“全く覚えてないんだ。これは僕が当時よく使っていたリフで、ステージで何回か試したのが基になっているね。僕らはジョン・ピールのショーでレコーディングしたんだけど、それについては忘れてしまったよ。僕らはアルバム用に十分な曲を持っていたし、あのヴィニール盤の時代はレコード両面に何分も収録することは制限されていたからね。あのトラックはあるいはもうなくなってしまったのかと思っていたよ。頭をもたげる30年間のことを考えると実に奇妙だね!”

完成したアルバムは“プロデュースされた”感じでは全くなく、ヘイスティングスがそれぞれのトラックの進行を設定しレコーディングされていた。“アルバムのそれぞれのトラックは、本質的にはスタジオ内でのライヴ録音だったよ。もし曲のある部分で何か修正が必要になったら、僕らは‘差し込み’をするんだけどタンジェリン・スタジオは8トラックの機材で当時は今と違って‘差し込み’をするのはすごく大変なことだった。あの当時はもし差し込みに失敗すると、その曲全てが消去されてしまったんだ。本当に緊張する作業で、最初から最後まで完璧になるか、出来うる限り良くなるかは僕たち次第だったね。”

“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”は、愉快な両義を持つタイトルがフィーチャーされた最初の彼らのアルバムだった。抒情的なウィットとメロディが織り込まれたアルバムは、多くの傑作トラックを生んだ。それは“And I Wish I Were Stoned”、“As I Feel Die”、“Hello, Hello”、アルバムのタイトル・トラックでTHE キャラヴァンを歌った“For Richard”などだ。今日までショーの締めくくりとして演奏される“For Richard”は、キャラヴァン・サウンドの全てが凝縮されたぴかいちのナンバーだ。のどかなオープニングからジャズ・ロックへの旅となるその14分の作品は、今なおパイにとって29年後の現在でもバンドがプレイしていることを信じ難く思っているほどだ。彼はバンドの当時の曲作りに対するアプローチの好例としてこの曲を引用する。

“当時僕たちはメンバー全員による作曲としてクレジットしていたけど、実際には一緒に作ったわけじゃないんだ。僕らはお互いのアイデアをある程度まで共有していたんだ。例えば‘For Richard’はデイヴ・シンクレア作だったが、メインのリフはリチャード・シンクレアのアイデアだった。その時僕らはバンドとして、よりいっそう曲を発展させアイデアを広げ、その結果このアルバムで聴けるようにどんどん曲が長くなっていったんだ。”サキソフォンとフルートを吹くパイの兄、ジミー・ヘイスティングスはバンドのレコードへの二度目の参加だった。“For Richard”でのソロは彼の器用さを示す好例だ。

ファースト・アルバムでの伝説に基づいたジャケットに続いて、“If I Could Do It All Over Again…”のアートワークは再び強い印象を与えるものであった。アルバム・カヴァーはデヴィッド・ジュープにより立案され写真が撮られたが、これはイングランドのどこか田舎の低林地帯ではなく、実際はロンドンのホランド・パークだった。また裏ジャケットにはメンバー以外にテリー・キング、ロビン・シルヴェスター、ジミー・ヘイスティングスそしてモーリス・ヘイレットまでもが顔写真入りで登場していた!

アルバムに先立ってシングル、“Hello, Hello”b/w“If I Could Do It All Over Again I’d Do It All Over You”(DECCA F13063)が1970年8月7日にリリースされた。“Record Retailer”(?)のチャートには登場しなかったが、このシングルはいくつかの英国音楽紙のトップ20の下位に現れた。このことによって彼らはBBCテレビ・ショー、“トップ・オブ・ザ・ポップス”に驚きの出演を果たし、そこで“If I Could Do It All Over Again...”が熱狂的に演奏されたのである。

上記と同名のアルバムは1970年9月にリリースされ大きな称賛を受けた(DECCA SKL-R 5052)。アメリカではデッカの姉妹レーベル、ロンドン・レコーズから1971年3月にリリースされた(London PS 582)。

アルバム・リリースよりも前にキャラヴァンは、コンサート・ツアーに忙しい日々を送っていた。注目すべきは、5月23日に行なわれたユーエル技術大学でのコンサートで、彼らのサポート・アクトとして登場したのが若き日のブラック・サバスだったことだ!1970年6月の終わりにキャラヴァンはいくつかのショーのためにヨーロッパへ旅立ち、オランダのロッテルダム、Kraalinge Bosで行なわれたKralingenポップ・フェスティヴァルに出演した。同じ週に出演したのが、イングランドに戻ってのブルース&プログレッシヴ・ミュージックの祭典、バース・フェスティヴァルだった。キャラヴァンはピンク・フロイド、ジェファーソン・エアプレイン、フロック、フランク・ザッパ、サンタナ、クウィンテセンス、スキン・アレイその他多くのグループとともに宣伝された。1995年、リチャード・シンクレアは回想している。“オランダでのフェスティヴァルは当時僕らが経験した中で最も大きなギグだった。僕らは約25万人の聴衆に向かってプレイしたんだけど、実際起きていたのは1万人くらいだったね。なぜなら僕らは二日目の最初の出番だったんだ。一晩中雨が降っていたし、オーディエンスはマリファナなんかを吸ってたりでね!でもそれにもかかわらず多くの人たちがバンドを観ていたよ。”

この時のライヴは8月9日プランプトンで行なわれたThe 10th National Jazz, Pop, Ballad and Bluesフェスティヴァル(他はヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイター、イエス、コロシアムそしてジューシー・ルーシー)出演と対になっていた。“If I Could Do It All Over Again...”のリリースはキャラヴァンにとってさらなる発展をうながすものになった。きびしい仕事量にもかかわらず、キャラヴァンは次のアルバム1枚分の新曲を書き始めた。スタジオ入りするために十分な曲を用意した彼らは、プロダクションの任務を外部の人物に任せることに同意した。

1970年秋、キャラヴァンはプロデューサーの椅子にデヴィッド・ヒッチコックを迎え、ロンドンのエアー・スタジオでセッションを始めた。彼らの最高の時期のひとつとして見なされているアルバム、“In The Land of Grey and Pink”のためであった。

マーク・パウエル


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