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Caravan/Caravan/2002 The Decca Record Company Ltd. 8829522



60年代終わり/70年代初めの隆盛期に現れた創造的なロック・ミュージックの熱心なマニアにとって、イングランドの地方都市カンタベリーから現れたバンドは、その時期最も一貫した興味深い音楽を生み出していた。それらグループはいわゆる“カンタベリー・シーン”(主要なグループの多くはそのシーンの存在を否定するが)から出現したが、キャラヴァンほどオリジナルで耐久性あるグループはいなかった。

Caravan

多くの者が彼らは商業的成功を達成できないだろうと予測したが、それにもかかわらず、キャラヴァンは多くのアルバムでそのひときわすぐれた音楽的高みに達した。そのアルバムとは例えば、“Caravan”、“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”、“In The Land Of Grey & Pink”、“For Girls Who Grow Plump In The Night”、“…And The New Symphonia”、そして“Cunning Stunts”などだ。彼らの長きに渡る魅力は、その独特な英国的アプローチによるプレイと楽曲であり、そのほとんどを(そして今なお)書いていたのが、空想家でありグループの大黒柱であったギタリストのパイ・ヘイスティングスだ。

キャラヴァンのルーツは60年代中期にさかのぼる。地元カンタベリーのバンドであったワイルド・フラワーズだ。元々のメンバーは、ロバート・ワイアット、ケヴィン・エアーズ、ヒューとブライアン・ホッパー、そしてリチャード・シンクレアだったが、バンドは多くのメンバー・チェンジを繰り返さなければならなかった。ヒュー・ホッパーはロバート・ワイアットがドラムスをプレイするより自ら歌うことを決めた時に、歯科技工士でドラマーのリチャード・コフランをバンドに招き入れた。その後すぐに新しいギタリストが加わることになる。
パイ・ヘイスティングスはスコットランド北東部のバンフシアに生まれ、彼が12歳の時にカンタベリーに移り住んだ。“僕はケヴィン・エアーズと一緒にヨーロッパに行った時に、初めて彼からギターのコードを教わったんだ。僕がイングランドに戻ると、リズム・ギターのパートが空いていた。リチャード・シンクレアは大学に行ってしまったから僕がその穴を埋めることになった。” 彼は説明する。“ワイルド・フラワーズはR&Bバンドから次第にソウル・バンドへ変わっていった。その時に僕が入って、それからデイヴ・シンクレアも加入したんだ。デイヴは元々ベース・プレイヤーだったんだけど、入って一週間後に彼はそのパートに不満を表してキーボードにシフトした。多分ヴォックス・コンチネンタル・オルガンだったと思う。それからケヴィン・エアーズはスペインに旅立って、デイヴ・シンクレア、ブライアンとヒュー・ホッパー、リチャード・コフラン、僕そしてロバート・ワイアットが残った。それからロバートが去って、のちに彼はケヴィン・エアーズと共にシーンに戻ってきたんだ。”

ロバート・ワイアットとケヴィン・エアーズはまもなく、大物バンドとなるソフト・マシンを結成し、ファースト・シングル“Love Makes Sweet Music” b/w “Feelin’, Reelin’, Squealin’”を1967年の春にリリースした。ワイルド・フラワーズの残されたメンバーはがんばって活動を続け、1968年の1月までにギターとヴォーカルにパイ・ヘイスティングス、ベースとヴォーカルにリチャード・シンクレア、キーボードにリチャードのいとこであるデイヴ・シンクレア、ドラムスにリチャード・コフランという布陣に落ち着いた。サイケデリックな音楽に関心を持ち始めた彼らは、自分たちの音楽的方向性を見直すことに決めた。“僕らは全てのギグがイマイチなのに気づいたね。なぜならその頃は誰もソウル・バンドなんて求めてなかったから。” ヘイスティングスは回想する。“それで僕らは自分たちのオリジナル曲を書こうと決心した。その時点でキャラヴァンが生まれたんだ。”

ソフト・マシンはロンドンのクラブ、ミドル・アースとUFOに通うヒッピーたちのお気に入りバンドとなった。デビュー・シングルをリリースし、ピンク・フロイドと共に現れた彼らは、ロンドンのアンダーグラウンド・シーンから新しく誕生したイコン的存在となった。ソフト・マシンの最初の成功に触発された新生キャラヴァンは、レコード契約を獲得すべくロンドンでギグを行なおうとしていた。そしてそれは1968年5月に彼らが伝説的なアンダーグラウンド・クラブ、ミドル・アースに出演していた時に実現した。

“僕らは1本のマイクと小さなフィリップス製のオープンリール・テープレコーダーだけを使ってデモ・テープを作ったんだけど、それは全く良くなかったね。” パイ・ヘイスティングスは説明する。“僕は最初のターゲットとして、アイランド・レコーズがいい会社だと考えて、オックスフォード・ストリートにある彼らの事務所に行って、そこの受付係にテープを渡したんだ。僕は本当はクリス・ブラックウェル(訳注:レーベル創始者/社長)に会いたかったんだけど、彼はその時忙しくて、僕は彼に聞いてもらうようテープだけを残してきた。一週間後、僕はトニー・コックスと名乗る男から1本の電話をもらった。彼はどこかのプロダクション会社に入りたがっていたソングライターで、ロビンズ・ミュージックのイアン・ラルフィニという男と知り合いだった。トニーはロンドンのミドル・アース・クラブで僕らを見たことがあって、僕らのことを気に入ってくれていた。彼は僕にデモ・テープがあるかどうかを尋ねて、僕は一つだけあるけどそれは今アイランド・レコーズのクリス・ブラックウェルのところにあると告げたんだ(訳注:考えてみれば、一般人にとってテープのダビングさえ気軽にできる時代ではなかったことを痛感する)。”

アイランドからテープを手に入れる許しをヘイスティングスから得たトニー・コックスは、テープを入手すべくすぐにアイランド・レコーズに電話をかけた。キャラヴァンに関心を持つライヴァルの突然の出現に、アイランド・レコーズは状況を再確認することにした。“アイランドはトニーにテープを渡さないことに決めたんだ。だから僕は翌週テープを取り戻そうと彼らのオフィスに出向いた。” パイは説明する。“クリス・ブラックウェルは僕と会ってテープを聞いたと言った。そして彼は僕にバンドのことを気に入ったと言ったんだけど、‘あの冴えないヴォーカルは誰だ?’って尋ねてきた。僕は‘あれは僕が歌ってる’と答えた。ブラックウェルはインストゥルメンタル・バンドとしてレコードを出さないかと提案した。ザ・ナイスは当時すごく人気があったから、彼は僕らも同じ方向で上手くいくと考えていたんだ。でも僕はそういうことには全く興味がなかったから、結局彼にテープを返してもらったね。” 

デモ・テープを取り戻したヘイスティングスはそれをトニー・コックスに渡した。30数年経てパイが回想するところによれば、キャラヴァンがレコード契約を獲得することができたのは全くの偶然によるものだったそうだ。“アイランド・レコーズとトニー・コックスの間に一悶着あったけど、それは僕らには関係なかった。突然僕らは一夜にして引っ張りだこになったけどそれは全くの偶然だったんだ。”

トニー・コックスはロビンズ・ミュージックのイアン・ラルフィニとマーチン・ワイアットに、カンタベリーに行ってビーハイブ・クラブに出演している彼らを見るよう説き伏せた。彼らを見たワイアットとラルフィニは、とりわけパイの作った“Place of My Own”に感銘を受けた。契約はイアン・ラルフィニの車の後部座席で交わされた。そしてロビンズ・ミュージックのレコーディング契約を通じて、MGM傘下のヴァーヴ・レコーズに白羽の矢が立つことになった。ヴァーヴは当時新しくロンドンにオフィスを構えたばかりで、そこにはフランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、そしてジャニス・イアンらが所属していた。

キャラヴァンはロンドンに新しく設立されたヴァーヴのA&Rオフィスと最初に契約したアーチストの一つだった。しかし出版/レコーディング契約は、さえないヘイスティングス、コフラン、シンクレア、そしてもう一人のシンクレアにいっこうに富をもたらさなかった。パイはいう。“僕らはロビンズ・ミュージックから被雇用者としてリハーサル・スタジオ代と週7ポンドをもらっていた。当時僕らは住む家を探していたんだけど、どこにも見つからなかったんだ。僕らは生活とリハーサルのためのWhistableの家を引き払ったばかりだった。でも長髪ミュージシャンに部屋を貸してくれる人なんて誰もいなかった。で、僕らはリハーサルするためにケント州のグレーヴニーってところの村のホールを見つけた。デイヴとリチャード・シンクレアは二人ともしきりにキャンプを張りたがって、彼らは2つのテントを持ってきて村のホールの外側にそれを設置したんだ。僕らも何とかもう2つのテントを手に入れて、みんなでそこに住んだよ!だんだん寒い季節になってきたら僕らはホールの中にテントを張った。そりゃ暖かくなったね!僕らはそこに3ヶ月間住んだけど、最後は死ぬほど寒くなってた!”

キャラヴァンは1968年の夏の終わりにトニー・コックスをプロデューサーに迎え、デビュー・アルバムをレコーディングするためにボンド・ストリートのアドヴィジョン・スタジオに入った。パイは当時のセッションのことを懐かしく振り返る。“ほとんどのマテリアルは以前ライヴでプレイしたことがあったし、スタジオに入る前に全てリハーサル済みだった。それらの曲は特にアルバム用に書かれたってわけじゃなかった。でも‘Ride’だけは例外だった。僕らはスタジオに入って何か違うことを試してみようと考えた結果、浮上したのが‘Ride’だったんだ。僕はその曲を当時ライヴでやったかどうかは覚えてないな。”

ヘイスティングスはまた、当時の一般的な習慣を覚えている。バンドはアルバムがミックスの段階になった時に立ち会うことを許されていなかった。“トニー・コックスはコントロール・ルームに5人の人間(メンバー4人とトニー)が入ると、ミックスするのに5倍の時間がかかるからといって僕らを入れなかったんだ。でもつまりは彼が全てのコントロールを自分ひとりで好きにしたかったんだと思うね。”

1968年の10月にヴァーヴ・フォーキャスト・レーベルからリリースされた“Caravan”(Verve VLP/SVLP 6011)は、当時を強く思わせるサウンドを持つ印象的なデビュー作だった。それはピンク・フロイドの“Piper At The Gates Of Dawn”、プリティ・シングスの“S.F. Sorrow”、トラフィックの“Mr. Fantasy”、そしてファミリーの“Music In A Doll’s House”と同等の価値があり、初期のブリティッシュ・サイケデリック/プログレッシヴ・ミュージックとして歴史的名盤の1枚となった。

アルバムにはゲストとして、以降恒例となるパイの兄弟のジミーがフルートで参加していた。“ジミーは‘Love Song with Flute’をそれまで聞いたことがなかったのに、ファースト・テイクでどこからともなくソロのフレーズを思いついたんだ。” パイは回想する。リチャード・シンクレアは自ら書いた“Grandma’s Lawn”と“Policeman”でリード・ヴォーカルをとり、それらのトラックではパイ・ヘイスティングスがベース・ギターに回り、リチャードはリード・ギターを担当している。サイケデリック色強いのは“Magic Man”、“Grandma’s Lawn”、“Cecil Rons”だ。一方“Place of My Own”はパイ・ヘイスティングスが書いた初期の曲で、その後のバンドの風変わりな音楽的方向性を表していた。

“Where but for Caravan Would I?”はキャラヴァンが最初に試みた長尺で複雑な構成を持つ曲で、これは元ワイルド・フラワーズの仲間、ブライアン・ホッパーとの共作だった。“僕はワイルド・フラワーズ時代にブライアン・ホッパーが書いていた曲にメロディを加えたんだ。” パイはいう。“僕らはその曲を長くして改作したけど、元々はブライアンの曲だった。だからアルバムに彼のクレジットを載せた。” そのトラックは印象深いアルバムの印象深いクライマックスとなった。当時の一般的なスタジオの習慣としては、ステレオ・ミックスよりモノ・ミックスが重視され、よりモノ・ミックスに時間がかけられていた。このことは時折、同じアルバムのモノ・ヴァージョンとステレオ・ヴァージョンの間に大きな差異を引き起こすことになった。そのため、このCDではステレオ、モノ両ヴァージョンが収録されることになった。

“アルバムは本当に特徴的なサウンドを持っているね。” ヘイスティングスはいう。“でもこれが当時のキャラヴァンの典型的なサウンドではなかった。なぜならトニー・コックスはアルバムに深いエコーをかけてサウンドをくもらせていたから。僕らは最初レコードを聞いた時、‘うーん、これは僕らのサウンドじゃない!’って思った。”

印象的なアルバム・ジャケットは、リチャード・ゼフがノッティンヒル・ゲイトにあった彼のスタジオで撮影したものだ。その写真のアートワークは、最後にゼフによって合成されたものだ。キャラヴァンはスリーヴノートを載せるにあたって、アンダーグラウンド紙の“インターナショナル・タイムズ”の記者、マイルズを採用した。当時のプログレッシヴな“アンダーグラウンド”シーンを強く喚起させるイメージによって、アルバム“Caravan”は彼らのファンとなった影響力あるDJ、ジョン・ピールによってオンエアされ始めた。その結果、彼らはロンドンで多くのコンサートを行なうようになっていった。

1968年暮れにキャラヴァンがマーキー・クラブで、“Race With The Devil”をシングル・チャート上位に送り込んでいたThe Gunの前座として出演した時、一つの事件が起こった。パイ・ヘイスティングスはその翌日になって、タブロイド紙で自分のニュースを知ることになった。それは彼の音楽的武勇伝などではなかったのだが・・。彼は回想する。“僕らはその日の早いうちから自分たちの機材をセッティングしていたんだけど、僕はアンプがひどいハム(ブーンという音)を起こしていたことに気づいた。実はある一人のローディーが一つを除いて全てのアース線を引き抜いていたんだ。ライヴの時になって、僕はマーキーのステージ上を歩いていったんだけど、アース線の1本が電線コードに触れていたのに気づかなかった。で、その結果全ての機材に電気が通っていたんだ。僕がプラグを差し込むと、パッと火花が散ってバンと大きな音がして僕はフロアに吹き飛ばされた。そして電気の通ったプラグ線の上に倒れてしまった!僕はオーディエンスが悲鳴を上げたのを覚えているよ。僕はまだ感電していたから誰も近づいて来なかった。でも幸いデイヴ・シンクレアが、メインのコンセントからプラグを引き抜いて電源を切って僕を助けてくれたんだ。”

救急車が呼ばれ、パイは病院に担ぎ込まれ、すぐに検査を受けた。彼は思い出す。“気絶をしていた以外は僕は大丈夫だった。医者はマーキーに戻ってウィスキーを1本飲んで、予定通りライヴをやっていいと言ったね。僕がクラブに戻ると、僕らの広報をやっていた人間がプレスに対して会見の場を設けていた。そして話を台無しにしないように僕にプレイすることを禁じたんだ!でもどっちにしろ演奏できないことが分かった。僕が自分の12弦ギターを持ってみると、全ての弦が溶けてしまってたんだ!”

幸運にもヘイスティングスもキャラヴァンもこのトラウマ的な事件を克服し、ファースト・シングルのリリースにこぎつけた。1969年1月、“Place Of My Own”と“Ride”がそれぞれA面とB面で、バンド初のUKシングルとなった(Verve VS 1518)。一方、ヨーロッパでは“Ride”に代わって“Magic Man”がB面となり、様々な型番のもとリリースされた。“Place of My Own”はUK、ヨーロッパ両方で話題となり、彼らは1969年初頭にドイツのTVショー、“ビート・クラブ”に出演することになった。ヨーロッパでのシングル両面がプレイされたが、それはバンドにとって初のテレビ出演だった。

“よく覚えているよ。マーシャ・ハントが僕らの前に出演した。彼女も同じ頃シングルをヒットさせていたんだ。” パイは回想する。“僕らにとって本当に素晴らしい旅だったね。ブレーメンのショーで僕らは初めてポップ・スターのようにもてなされた。僕は思った。‘もっとがんばろうサンキュー!’ってね。それが初のテレビ出演で、とてつもない体験だったな。”

続いて1969年5月にバンドはBBC2の番組“カラー・ミー・ポップ”に出演し、初の英国でのテレビ出演を果たした。しかし残念なことに、アルバム“Caravan”はMGM/ヴァーヴがUKからの撤退を決めたため、数ヶ月間しか店頭に並ばなかった。バンドは幸先のよいスタートを切ったにもかかわらず、突然レコード会社を失ってしまった。

しかしこの時までにキャラヴァンはフルタイムのマネージャー、テリー・キングと共に働き、彼はその年(69年)の終わりにデッカ・レコーズとレコーディング契約を結ぶことに成功した。その最初の成果が1970年8月7日にシングルとなって現われた。“Hello, Hello” b/w “If I Could Do It All Over Again I’d Do It All Over You”(Decca F13063)は、いくつかの英国の音楽紙のトップ20の下位につけた。その結果、何とBBCのTVショー、“トップ・オブ・ザ・ポップス”に出演することになり、彼らは“If I Could Do It All Over Again…”を熱狂的にプレイした。この時までにキャラヴァンのデッカからの初のLP(“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”-Decca SKL-R 5052)がリリースされていた。その中には“Hello, Hello”の別ヴァージョンが収録されていた。デッカ・レコーズからの最初のシングルとアルバムは、ファースト・アルバムで受けた称賛の上に新たな土台を築くことになり、それは彼らの高い創造性を予兆させるものであり、6年間のデッカとの実りある協力体制を導いた。彼らは灰色とピンクの地(In The Land Of Grey And Pink)を生み出し、ウォータルー・リリーを生み出し、夜毎太る女(For Girls Who Grow Plump In The Night)を生み出し、ニュー・シンフォニアとの共演を生み出し、ずる賢い妙技(Cunning Stunts)でもって最高点へと達することになった。

マーク・パウエル

付記;“Hello, Hello”シングル・ヴァージョンのオリジナル・マスター・テープは、アルバム“If I Could Do It All Over Again, I’d Do It All Over You”のリイシュー時にはデッカのアーカイヴでは確認できなかったが、今回このリイシューにおいてそれが発見され、初めてここにボーナス・トラックとして収録された。


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