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Candi Staton/Evidence : The Complete Fame Records Masters/2011 Ace Records Ltd CDKEN2 353



FAME vs Fame

FAMEはFlorence Alabama Music Enterprisesの頭字語だ。このライナーノーツで、我々はレコーディング・スタジオを示す場合に大文字のFAME、レコード・レーベルを示す場合にFameを用いて区別する。


ハイウェイ72号線からわき道へそれ、アラバマ、マッスル・ショールズのイースト・アヴァロン・アヴェニューに入ると、CVS薬局のうしろに典型的な60年代半ば風のビルが建っている。その2階にある黄色い看板が、夢の誕生地であることを伝えてくれる―それがFAMEレコーディング・スタジオ、マッスル・ショールズ・サウンドの故郷だ。その壁の内側で、あなたは創設者のリック・ホールと40年前と変わらない2つのスタジオ・ルームを発見するだろう。40年前のFAMEは、サザン・ソウル・ミュージックを供給するオリジナル・ソースの1つであり、ポップとカントリーの世界では重要な場所だった。

時は1968年。100マイルと離れていない小さな田舎町ハンスヴィルで育ったキャンディ・ステイトンは、初めてリック・ホールに会うために、将来、夫となるクラレンス・カーターに付き添われていた。彼女のそのプロデューサーとのパートナーシップは、Fame在籍の1969年から1973年の間に、3枚のアルバムと12枚のシングル、トータルで36曲を生み出した。シングルのうち7枚がR&Bトップ20に入った。

リックと彼の息子ロドニーの協力とかなりの忍耐のおかげで、私たちは彼らのテープ貯蔵庫へのアクセスを許可され、未発表だった12曲をこのカタログへ加えることができた。その中には、キャンディが1974年初めにワーナー・ブラザーズと契約する前の、Fameでの最後のセッションが含まれる。これらトラックは永遠に失われ、どれもがリリース価値のあるものとして考えられていた。つまり重大な発見だということだ。

カンツェッタ・マリア・ステイトンは、働き者ではあるがアルコール漬けの父親を持ち、貧しい家庭に育った。彼女はいう―「私たちは最小限の暮らしをしていた。私たちはとても貧乏だったけど、家族の中にはたくさんの愛があったから何とかやっていけたわ」 彼女が子供の頃、最も楽しみにしていたのはゴスペルを歌うことだった。彼女の最初のグループはフォー・ゴールデン・エコーズだった。10歳になるまでに、彼女はナッシュヴィルにあるジュウェル・クリスチャン・アカデミーに入った―全寮制の学校だった。その学校に在籍する間、彼女はジュウェル・ゴスペル・トリオの一員として、ナッシュボロ・レーベルで最初のレコードを録音し、当時の大物ゴスペル・シンガーたちとともにツアーを経験した。17歳の時、ツアー生活の苦痛から脱出を図った彼女は、当時ピルグリム・トラヴェラーズのリード・シンガーだったルー・ロウルズと駆け落ちしたが、彼女の母親によって家に戻され、学校へと戻されてしまった。

キャンディは地元のペンテコステ派の聖職者と結婚し、もまなく妊娠した。嫉妬深く、口汚い人間だった夫は、教会以外で歌うことを禁じ、続く7年間、彼女は妻として、4人の子供の母親として過ごした。ある晩、彼女の兄が、クラブで歌うようキャンディを説き伏せ、彼女を連れ出した。彼女はアレサ・フランクリンの“Do Right Woman-Do Right Man”を歌い、クラブのオーナーは即座に彼女を雇い、キャンディは週一度のギグで歌うことになった。これが彼女の結婚生活の終わりと、世俗シンガーとしてのキャリアの始まりとなった。クラブを通りかかったクラレンス・カーターは、自分のバンドとともにツアーをしないかと彼女に話を持ちかけ、彼女は正式に離婚が成立した数ヶ月後に、その申し出を受け入れた。キャンディは世俗の聴衆に向けて歌う作法を教えてくれたクラレンスのことを信頼していた。彼女はすぐに彼のバンドに欠かせない存在となった。

すでに南部でかなりの呼び物となっていたクラレンス・カーターは、Fameのレコーディング・アーチストとして、ある程度の成功を収め始めたばかりだった。リック・ホールはもともと、カルヴィン・スコットと組んだデュオとして彼と契約していたが、カルヴィンが妻に撃たれたあと(彼は命をとりとめ、スタックスに素晴らしいアルバムを残した)、クラレンスはソロ・アーチストとして契約してくれるようリックを説得していた。ウィルソン・ピケット、アレサ・フランクリン、そしてエタ・ジェイムズによるFAMEでのレコーディングによって、そのスタジオは芽吹きつつあったマッスル・ショールズ・シーンの中心地となっていた。レコード・レーベルの成功がリックの次なるテーマであり、クラレンスはそのための有効な素材だった。

「クラレンスは当時アトランタに住んでいたんだ」 リックは回想する。「私が、“でかい町だな。才能を持った連中がいそうだ”といったら、彼は、“実は君に聞いてもらいたい若い女の子をつかまえたんだ。キャンディ・ステイトンっていうんだけど。僕は自分のバンドで彼女に歌ってもらってるんだけど、彼女はまだほとんどショーを経験していないんだ”といった。私が彼女のことをおそらく気に入るだろうっていうクラレンスの考えに私は確信を持って、実際にそうだったんだ。私は彼女をとても気に入った」 そしてリックは彼女が契約していたバーミンガム拠点の小さなレーベル、ユニティから彼女を買いとった。「私は彼女を私のレーベルと契約させて、さっそくクラレンスと平行してレコーディングを始めた。2ヶ月後に彼らはバーミンガムで式を挙げたな」(ユニティでの彼女の作品は、Fameでの成功を受け、1970年にシングルとしてリリースされた)

リックはすぐれたソングライターの一団と、その業界で最高のハウス・バンドのひとつを確保していた。バンドの編成は、ベースにデヴィッド・フッド、ギターにジミー・ジョンソン、ドラムスにロジャー・ホーキンス、そしてキーボードに最近スプーナー・オールダムと交代したバリー・ベケットで、時にホーン隊と追加ミュージシャンによって補強された。FAME初期から、リックは自分のところのソングライターを養成していた。ダン・ペンはもっといい仕事へと移っていたが、リックが新しく発掘したのが、ジョージ・ジャクソンだった。メンフィス拠点のライターだったジョージは、ホールの友人であるゴールドワックス・レコーズのクイントン・クランチとともに働いていた。ジョージは曲作りを生きがいにしていた。「それが彼の仕事だったのよ」 キャンディは私にいっていた。「彼は昼も夜も曲を書いていたわ」 彼がFAMEで録ったデモ・レコーディングの膨大な数がそれを裏付けている。

FAMEでのキャンディの初セッションは、1968年9月25日に行なわれた。ベースを担当していたデヴィッド・フッドは回想する―「キャンディはとても若くてかわいくてグレイトなシンガーだったね」 彼らはクラレンス・カーター、ジョージ・ジャクソン、そして時々加わっていたレイモンド・ムーアによって書かれた、きしむようにファンキーな“I’d Rather Be An Old Man’s Sweetheart (Than A Young Man’s Fool)”をレコーディングした。デヴィッドの日記には、その初セッションで4曲が録音されたとあるが、他の3曲のタイトルは記されていない。1969年3月にリズム・セクションがFAMEを去る前に、キャンディとのセッションがまだあったのかもしれないが、彼はその記録を持ってはいない。その時、リックはそのテープとレーベルのための新しい拠点を探し回っていたが、最終的にキャピトル・レコーズと契約を交わした。

キャンディは再スタートを切ったFameの最初のアーチストだった。その時レーベルがリリースした5枚のシングルのうち、3枚が彼女のものだった。“I’d Rather Be An Old Man’s Sweetheart (Than A Young Man’s Fool)”は、レコーディングされてから約8ヶ月後にリリースされ、R&Bチャートの9位に達した。B面はしばらく寝かされていたジョージ・ジャクソンのペンによる“For You”だった。(彼が60年代初頭にプロデューサーのヒューイ・モーに送ったデモは、最近クレイジー・ケイジャン・レーベルのテープ貯蔵庫で発見された) キャピトルは次のシングル“Never In Public” b/w “You Don’t Love Me No More”を、ビルボード・マガジンの広告ページをフルに使って宣伝したが、彼女の初期Fameシングルの中では、唯一R&Bトップ20にとどかなかったシングルとなった。

1969年における彼女の最後のシングルは、現在、彼女の最高の1枚とみなされている。“I’m Just A Prisoner (Of Your Good Lovin’)”は明確にキャンディを念頭に置いて、ジョージ・ジャクソンとエドワード・ハリスが書いたナンバーだ。「もしキャンディ・ステイトンのセッションがまたあれば、私は特別に彼女のために、“Old Man’s Sweetheart”か“I’m Just A Prisoner”みたいな曲を書くだろうね」 40年以上を経て、ジョージは思い出を語っている。「ジョージは偉大な1人ね、信じられないほどだった」 キャンディはいう。「彼は苦痛をテーマにした歌を書いていた。女性解放の前の時代には、DJがプレイできるようなものを書かなきゃならなかったけど、ジョージは完璧にこなしていたわ」 オープニング・ヴァースは、リズム・セクションとホーン全体が動き出す前に、その場にやって来ていたジョー・サウスがギターをつま弾くのに対抗するかのようにキャンディは歌う。むき出しでソウルにあふれた彼女の声が全体をひっぱっていく―驚くべきレコーディングだ。

この時までに、堅実な音楽監督としてふさわしいキーボード・プレーヤーのクレイトン・アイヴィのいる新しいハウス・バンドが、FAMEに用意されていた。バンドは続く数年の間に絶えず発展し、参加した中には、ドラマーのフリーマン・ブラウン、タープ・タラント、そしてフレッド・プロウティ、ギタリストのアルバート“ジュニア”ロウとトラヴィス・ウォマック、そしてハーヴィー・トンプソン、ハリソン・キャロウェイ、ロニー・イーズからなるマッスル・ショールズ・ホーンズらがいた。リックは前のリズム・セクションの背信行為に個人的には傷ついていたのかもしれないが、彼はプロフェッショナルらしく、くよくよ考えたりはしなかった。「時々、新しいミュージシャンが入ると新鮮に感じられるのよ」 キャンディはいう。「全然平気だった。私はヒットするようなスタイルか何かのミックスに自分を合わせるから」 リックはキャンディのヴォーカルの特徴的な生のフィールを得ようと努め、彼女を何度も何度も録音した。また彼は、彼女の声を独特な、わずかにひずんだサウンドにするために、録音レベルメーターの針がレッド・ゾーンに入るように音を録っていた。「25回も歌ったあとには声がすごくかすれてしまって、私はかろうじて話せるくらいになった。それで彼はもう一度、私をレコーディングさせて、それがレコードになったのよ」 これが彼のやり方だった。

1970年4月にリリースされたキャンディの次のシングルは、リック、キャンディ、クラレンス、そしてマーカス・ダニエルによって書かれた“Sweet Feeling”(もともとはその2年前にレコーディングされたクラレンス自身の“That Old Time Feeling”)と、ムーア及びジャクソンによるファンキーな“Evidence”のカップリングだった。どちらもFAMEのエレクトリックとアコースティックのピアノがふんだんに使われ、とてつもなく特徴的なリヴァーブ効果を生み出していた。レコードはキャンディを初めてR&Bトップ5に導いた。

そのシングルの両面は、同時期にリリースされた彼女のデビュー・アルバム『I’m Just A Prisoner』に収録されていた。LPはキャンディの以前のシングルをフィーチャーし、“For You”、“Heart On A String”、そして驚くことに2枚目のシングルA面だった“Never In Public”が落とされ、5つの新曲が加えられていた。最も重要なのが、ゴージャスな“Another Man’s Woman, Another Woman’s Man”―もともとは数年前にカントリー・ソングとしてダン・ペンとマーリン・グリーンによって書かれ、ジョージ・ジャクソンによってキャンディのスタイルに合うよう再アレンジされた―と、ルーズベルト・ジャミソンのヴァージョンである“That’s How Strong My Love Is”だ。OVライトによるオリジナル・レコーディングでソウル界ではよく知られ、オーティス・レディングがヴォルト・レーベルに吹き込んだ“That’s How Strong My Love Is”は、扱いに容易ではなく失敗しやすい歌だが、キャンディはそれら以前の傑作ヴァージョンと同等に、魅力的で傑出したパフォーマンスを見せつけている。アルバムはまずまずのセールスを上げ、R&B LPチャートに10週間とどまり続け、最高37位まで達した。

キャンディはまた、次のシングルですぐれた解釈を披露した。タミー・ウィネットの“Stand By Your Man”は、1968年暮れにカントリーとポップの両分野で特大のヒットとなっていた。ひょっとすると、自分のカントリー・ルーツによって、リック・ホールはその歌をはっきりと理解し、それをR&B仕立てにする方法を知っていたのかもしれない。そのレコーディングは、カリフォルニアを拠点とするジミー・ハスケルの並はずれたストリング・アレンジメントによって盛り上げられている。リックはFameのオーケストラ・アレンジメントのほとんどを彼に任せ、心を引きつけるホーンの編曲については、ハリソン・キャロウェイと契約していた。これはキャンディのFameでの最大のヒットとなり、R&Bチャートで4位になった。B面はジャクソンとムーアによるバラッド、“How Can I Put Out The Flame (When You Keep The Fire Burning)”で、これも高いクオリティを維持している。

続く2枚のシングルでもキャンディはチャート上位をキープした。“He Called Me Baby”は再びカントリー・ソングからR&Bへの改造を図っていたが、ハーラン・ハワードの歌は構造的に著しく独特なため、キャンディのヴァージョンはそれ自体で特徴的となった。“Mr And Mrs Unture”は、完全に別のものだ―それはキャンディが今日ではいくぶん不快に感じている古典的なサザン・ソウルの不義ソングのようなものだ。彼女のパフォーマンスは、最終的に悲しい関係となることを悔いる感情がほのめかされている。物陰とホテルの部屋についての歌詞が出てくるものの、それは魅惑的ではない。聞くことがほとんど耐えられないほどの苦痛を伴うレコードだが、あるいはそれが引きつけられるところなのかもしれない。

彼女のセカンド・アルバム、『Stand By Your Man』は1970年12月にリリースされた。そこにはその時までに出ていた3枚のシングル6曲と、再び“I’m Just A Prisoner”が含まれ、そしてほとんどのプレス盤に、前のLPに入っていた“Sweet Feeling”が含まれている。我々のリサーチで判明したのは、何枚かのレコード(そして私たちがEMIから送られていた曲順の確定したオリジナル・マスター・テープ)では、“Sweet Feeling”がキャンディによるクラレンス・カーターの完全コピーである“That Old Time Feeling”に差し替えられた変則盤となっていたことだった。私たちはこの入れ替わり現象の理由はよく分からないが、単なるミスである可能性が高いだろう。残りのトラックの中には、素晴らしいオルガンとピアノによる注目すべきアレンジメントの施された、キャンディ自身のペンによる“To Hear You Say You’re Mine”がある―彼女への愛を明言するよう男へやさしく嘆願する歌だ。

LP最後が、ジョージ・ジャクソンとアール・ケイジのペンによる“Freedom Is Just Beyond The Door”だ―もはや囚われの身を望まず、自由を切望する女のストーリーを伝える素晴らしいサザン・ソウルの1曲だ。アルバムがほとんど新曲をフィーチャーしなかった理由は、リックのキャピトルとの契約が期間満了に近づいていたからかもしれない。今回ここに初めて収められたジョージ・ジャクソン作のすぐれたファンク・ナンバー、“Do Right Woman”はすでに完成品であり、アルバムに入っていたかもしれなかった。テープの記録では1971年6月のレコーディング・デイトとなっているように見えるが、“Where Were You”も同時にレコーディングされた可能性がある。これは私たちがEMIで発見した唯一の未発表トラックだ。もしかすると未来のシングルとして、ロサンゼルスに送られたのかもしれない。『Stand By Your Man』は十分に健闘し、アルバム・チャートの12位まで上がった。

リックがユナイテッド・アーチスツ(UA)と新しい契約を結ぶために交渉していた時、彼はアルバム1枚分以上のレコーディングを行ない、キャンディの次のリリース準備を進めていた。キャンディは回想する―「私たちがレコードを作った時、2〜3曲多めにレコーディングしていた。リックは次のアルバム用にしようといっていた。でも結局、彼はそれを寝かせておくことにしたのよ」 UAとの契約が成立した時に、最初にリリースされたのがキャンディ・ステイトンのシングルだった。エルヴィス・プレスリーの1969年のヒット、“In The Ghetto”のキャンディ・ヴァージョンはR&Bチャートの12位に達し、ポップ・トップ50にもチャート入りした。その歌を書いたマック・デイヴィスは、ちょうどFAMEでパフォーマー/ソングライターとして働き始めたところだった。そのことが、このカヴァーが実現した理由を説明しているかもしれない。ハーモニカをフィーチャーした巧みなアレンジメントは、キャンディのカタログの中で際立っている。B面はマーリン・グリーンとエディ・ヒントンのペンによる、耐えられないほど悲しげなナンバー、“Sure As Sin”だった。これはもともと1968年にアトコ・レーベルから、以前FAMEのデモ/セッション・シンガーで、当時グリーンの妻だったジーニーの歌としてリリースされていた。次のキャンディのシングルは、バーバラ・ウィリック作の“Lovin’ You, Lovin’ Me”とデビュー・アルバムからの“You Don’t Love Me No More”のカップリングだった。

そのシングル両面は次のLP『Candi Staton』に収録されていた。アルバムの新しい7曲は、“Do It In The Name Of Love”、“I’ll Drop Everything And Come Running”、そしてグロリア・ジョーンズとパム・ソーヤーの“Blackmail”のようなファンキー・ソウル・ナンバーから、サザン・ソウルへ焼き直したカントリー・ソングの“Darling You’re All That I Need”までの幅広さを持つ一方で、“Wanted : Lover”はジェイムズ・ゴーヴァンによってFameのシングルとしてすでにリリースされていた。しかしLPのハイライトは、“The Thanks I Get For Loving You”と“The Best Thing You Ever Had”だ。前者は“Sweet Feeling”/“That Old Time Feeling”に続く3度目のヴァリエーションだ。今回クレジットはキャンディのみで、服従的な歌詞は消え去っている―彼女は怒り、ドアを押しのけて出て行く。低く脈打つようなストリングスが、その雰囲気を盛り立てている。ジョージ・ジャクソン作の後者も同様に挑戦的な詞を持ち、ここにも効果的なストリング・アレンジメントが施されている。アルバムは全体にわたり、ファンタスティックな歌とグレイトなパフォーマンスの宝庫だが、これはチャートを騒がせることに失敗してしまった。1972年の終わりころに、LPから“Do It In The Name Of Love”と“The Thanks I Get For Loving You”がシングル・カットされた。これがキャンディのFameにおける最後のR&Bシングル・トップ20ヒットとなった。

『Candi Staton』のアルバム・セッションでの2つの未発表トラックが、今回ここで初めて日の目を見た。“Trouble, Heartache And Sadness”は、1972年初めにリリースされたアン・ピーブルズのシングルB面のカヴァーで、この2つのヴァージョンを聞き比べることができるのはグレイトなことだ。“Spread Your Love On Me”は、禁じられた愛のストーリーが裏に隠された、喜びに満ちた歌だが、アレンジメントはサザン・ソウルというよりウェスト・コーストかモータウン風だ。ここにあるマテリアルの中では型にはまらない1曲だ。

1973年はより多くの新曲のリリースがあった。最初がケニー・ロジャース(マック・デイヴィス作)のヒット、“Something’s Burning”で、B面はハンク・コクランとグレン・マーチンのタイトル(作者ということ?)で、マール・ホガードによって大きなカントリー・ヒットとなっていた“It’s Not Love (But It’s Not Bad)”だった―今やこれは真の愛から旅立ち、新しい誰かの腕の中に慰めを見つける女の前途が歌われていた。これはどこをとっても他のヴァージョンと並ぶほど素晴らしかったが、83位までしか上がらなかった。1973年8月のセッションは5つのトラックを生み出したが、今に至るまで倉庫に眠ったままだった。そのうちジョージ・ジャクソン、レイモンド・ムーア、そしてロナルド・タウンゼンドの書いた“One More Hurt”は、そのタイトルに魅了されたUKのダンスフロアたちとDJたちから注目を浴び続けている。そのゴージャスなダンス・ナンバーは、“Young Hearts Run Free”の2年前に、キャンディに対してDJ向きの改定ヴァージョンを作るよう、うながしていたのかもしれない。スウィング感あふれるグルーヴの“Are You Just Building Me Up”は、唯一のキャンディとジョージのコラボレーションであり、新しい方向性を垣間見せてくれる。

他の3曲は、キャンディが過去5年間にレコーディングしてきたサザン・ソウルと同一線上にある。“Slipping Away”と“Lovin’ The Easy Way”は、キャンディのFameカタログにおける失恋と悲嘆のストーリーの数々と同等のものだ。興味深いのは、これらの歌が全てふさわしいストリング・アレンジメントを施され、明らかに完成品となっていることだ。これらは当時、十分にリリースする価値があった。

サザン・ソウルがメインストリームへのアピール度を弱めていくにしたがって、リック・ホールのプロデューサーとしての関心は、R&Bの世界から離れていった。Fameとの契約期間に行なわれたキャンディの最後のセッションは未完に終わった。その最重要作品が、ドリー・パートンの“Jolene”の荒涼としたヴァージョンだ。それは“Stand By Your Man”の流れにある素晴らしいシングルとなったかもしれないが、1974年、すでにディスコ・ミュージックが頭角を現していた。ブラック・ラジオ・ステーションがかけてくれただろうか?“I Get A Little And Lost A Lot”も似たようなタイプだが、ドニー・フリッツの書いた“We Had It All”―もともとはその前年にウェイロン・ジェニングスによってレコーディングされていた―が、未発表トラックの中で最高だ。むき出しのアレンジメントは、この混乱した後悔のストーリーにぴったりであるし、キャンディの声は、全体をおおう教会のオルガン風なサウンドと力を合わせて生きているかのようだ。このレコーディングはなにか特別な響きがあり、彼女のFameレコーズでの最後にふさわしい。

この3月のセッションが終わると、すぐにリックはキャンディをワーナー・ブラザーズと契約させた。彼は契約の中で、もし次のアルバムが成功しなかった場合、ワーナーは新しいプロデューサーを立てることができる条項に同意した。リックはプロジェクトに没頭し、時にはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでフッド、ホーキンス、ジョンソン、そしてベケットとともにある程度流行を追いさえした。しかしキャンディは私にこういっている―「あの時点でディスコが来ていたんだけど、リックはディスコをやるつもりはなかったのよ」 ワーナーはキャンディをリックから離そうとし、彼らがアルバムのプロモートを抑えにかかると、チャート入りのチャンスは望むべくもなかった。彼女の次のLPは、プロデューサーの椅子にデイヴ・クロウフォードが座っていた。タイトル・トラックは“Young Hearts Run Free”だったが、それはR&Bチャートの1位となり、UKポップ・チャートでは2位となった。

それでもやはり、成功した彼女のディスコ時代のマテリアルなどよりもFameでのレコーディングであるし、それはコレクターやソウル・ファンによって高く評価されている。それらレコーディングの数々は、ユニークな時代と場所の産物であり、レコードをどういったサウンドで響かせるかを、真剣に考えて作った人々によるとてつもなく並はずれた作品群だ。我々が無常に愛するものを、彼らのヴィジョンと才能が創り上げたのである。あなたがここで聞くことのできる音楽は、あなたの必要とする全ての証拠(evidence)であるはずだ。

ディーン・ラドランド/2011年

出典:ティム・トゥーアー:“Candi Staton”CDライナーノーツ(Honest Jon’s/EMI, 2003)
ディーン・ラドランド:キャンディ・ステイトン・インタビュー(2006年と2011年4月)
トニー・ラウンスとディーン・ラドランドによるインタビュー:ジョージ・ジャクソン、リック・ホール、デヴィッド・フッド、ジミー・ジョンソン、クレイトン・アイヴィ(2011年1月)

以下の方々に感謝する:リック・ホール、ロドニー・ホール、G・リック・ホール、スザンヌ・ボルトン、ミッキー・バッキンズ、ジョン・ギフォード、Fameの全ての人たち
日記を調べてくれたデヴィッド・フッド、エースのトニー・ラウンスとロジャー・アームストロング、迷路に許可を与えてくれたリズ・バックリー(エース)とナターシャ・ウェルズ(EMI)


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