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Candy Staton/Best Of.../2004 Capitol Records Inc. TOCP-66294



時折、あるレコードは長きに渡って入手不可能であったことにより、伝説的ステイタスを獲得することがある。そしてそれを聴くために、あなたは埃っぽいヴィニール盤に週給をつぎ込むことになる。そのステイタスは内容の質と同様に、その希少性に由来する。いくつかのレコードはめったに見ることのできない高価なものとなる。キャンディ・ステイトンはその適例だ。高く評価された古いソウルのレコードはそう多くはないが、キャンディがアラバマ、マッスル・ショールズのフェイム・レコーズに残したシングルとアルバムはいっそう入手しにくいものだ。しかし彼女が録音した曲を聞けば、その価値はもっと称賛されて然るべきことを悟るだろう。

キャンディが6年間にフェイムに残した作品のような力と美にふさわしいソウルの正典は、他にほとんど見当たらない。ここにある楽曲の数々はそのジャンルの傑作であり、才能は驚くべきものがあり、その作品は完璧に仕上げられている。キャンディのヴォーカルに調和した優雅さと、官能性を合わせ持った卓越した演奏は、穏やかな力強さと申し分のない威厳を持って、歌の中を縫うように進む。キャンディのヴォーカルは自らの経験を伴って甘く綴られる。その経験とは、愛と生活、愛とその喪失だ。その鮮明な愛の歌を歌うことができるのは、確かに誠実さとあわれみを持つ類まれな才能によるものである。

カンツェッタ・マリア・ステイトンは1943年、小さなアラバマの町、人口800に満たないハンスヴィルに生まれた。想像できるような田舎の教育が一般的な町だ。綿を摘むのを手伝ったり、教会の聖歌隊で歌ったり・・・。キャンディの父は夏の間は農夫として、冬の間は炭鉱労働者として働いていた。一家は貧しかったがキャンディは幸せだった。‘私たちは必要最低限の暮らしをしていたわ。’ キャンディは回想する。‘私たちはすごく貧しい家庭だったけど、たくさんの愛情にあふれていたから何とかやっていけたのよ。’

8歳になるまでにキャンディはゴスペル・グループ、フォー・ゴールデン・エコーズですでに歌っていた。‘私が一番年下だった。私たちはみんなで歌い、その地区の小さなグループのうちで一番うわさされる中のひとつになったわ・・・私たちは一日中、教会で歌ってそこで夕食をとっていた。歌うことはもちろん好きだったけど、その場でとる食事が私にとって大事だったわね。それは生き延びていくための私にとって、人生最高の時間だったわ!とてもおいしかった!’

キャンディが10歳の時、彼女の母親はアルコール中毒の夫から逃れるために、子供たちを連れてクリーヴランドへ移住した。もっともキャンディはナッシュヴィルのジュエル・クリスチャン・アカデミーという学校の寄宿舎に送られたのであるが。そこで彼女はジュエル・ゴスペル・トリオに参加し、ナッシュボロ・レコーズで1枚のシングルを録音した。そしてマヘリア・ジャクソン、ザ・ステイプル・シンガーズ、ザ・ソウル・スターラーズ、若き日のアレサ・フランクリンといった当時の大物たちといっしょにツアーを経験した。‘私たちは1年中ロードに出て、ツアー先で先生から勉強を教わったわ。すごく大変だったけどエキサイティングだった。私たちはゴスペルの世界のジャクソン・ファイヴみたいなものだったわね。最高のグループだったから人々は私たちを見にどこからでもやってきた。’

17歳の時、キャンディはピルグリム・トラヴェラーズのシンガー、ルー・ロウルズと駆け落ちし、ロサンゼルスに向かったが、ルーの母親から結婚を反対された。‘私たちはほとんど結婚したようなものだったけど、彼の母親が私を呼び戻して学校に戻るように言ったのよ。’

まもなく彼女は学校とゴスペルのキャリア両方に背を向けた。彼女はツアー生活の苦難に次第に不満を感じるようになっていた。アラバマに戻った彼女はまもなく妊娠した。相手はペンテコステ派の牧師の息子で、彼女は彼と結婚しなければならなくなった。彼女の夫は嫉妬深く口汚い男だった。彼女はあらゆる音楽的キャリアの望みを忘れなければならなくなったが、決して歌うことをやめなかった。‘私はまだ教会で歌っていたわ。私はツアーなんかで公衆の前で歌うことはなかった。子供を育てていたから。’ キャンディは夫との間に4人の子供があり、7年間を妻、母として過ごしていた。ある晩、彼女の兄が訪ねてくるまでは・・・。

‘兄は私のうちにやって来てこういった。“どこかへ行ったらどうだ?だんなが君と子供たちをうちに閉じ込めているんだろう?今夜僕と一緒にうちを出よう。だんなと子供はうちに残しておくんだ。”ってね。そして彼は私を外に連れ出した。私の元夫は兄を恐れていたから大丈夫だった。兄は私に再び歌うよう背中を押してくれた。それで彼はクラブのオーナーに、私がシンガーだったことを話したんだけど、オーナーはそれを信じてくれなかった。そこでクラブは私をステージに上げてみたの。私はアレサのDo Right Woman, Do Right Manを歌ったわ。すると彼らはすごく気に入ってくれて、毎週私をレギュラーに使ってくれることになった!それがリズム&ブルースを歌うきっかけになった。’

キャンディの生活は彼女自身と子供たち4人だけとなり、彼女は毎日看護病院で働きながら、週末になると歌っていた。一方で彼女の母親が、子供たちの面倒を見ていた。再びレギュラーで歌うようになった彼女は、ある晩クラブでFAMEのレコーディング・アーチストだったクラレンス・カーターと共演した。カーターはその時、南部では大スターだった。クラレンスは彼女の歌を気に入り、キャンディに彼のバンドのツアーに参加しないかと申し出た。キャンディは夫がいるためにクラレンスのオファーを受け入れることができないと思ったが、クラレンスは状況が変われば参加してほしいと彼女に告げた。

そのオファーがキャンディの将来の励みとなり、半年後、夫がキャンディとローカル・ラジオDJとの関係を不審に思い、彼女を殴りつけた後、ついに彼女は夫のもとを去ることになった。今やクラレンスのオファーを受け入れられる状況になったキャンディは、彼女の姉(妹)とともにナッシュヴィルで歌っているクラレンスに会いに行った。クラレンスは約束通りキャンディを雇い、彼のバンドに招き入れた。最終的にクラレンスとの関係はプロフェッショナル・アーチスト同士以上のものとなり、やがて二人は結婚した。

クラレンスはキャンディにクラブで歌う時の振る舞い方を教え込んでいった。それは教会で歌うのとは大きな違いがあった。‘私はリズム&ブルースの世界に飛び込んだから、多くのことを身につけなきゃならなかったわ。つまりエンターテイメントの作法ね。教会の中では牧師、でもクラブの中では娯楽を提供しなければいけないから・・・私はジェリー・バトラー(訳注:カーティス・メイフィールドとともにジ・インプレッションズに在籍したシンガー)に会えたことを感謝している。始めた頃の私は自分の両手を前で組んで、ただ立って上を向いて歌っていただけだった。教会でそうするようにね。ジェリーは私のショーを見ていて、一方でお客は何の反応もなかったわ。ジェリーは私を呼んでこういった。“君は教会にいるんじゃないんだ。お客さんたちをまっすぐ見て、彼らと一緒に歌うように前に出ないとだめだ。”ってね。彼は私が一生忘れないような事を教えてくれた。’

フェイム・レコーズのオーナー、リック・ホールは当時、女性ブルース・シンガーを探していた。彼が手がけたI’d Rather Go Blind, Tell Mamaのようなヒットを出したエタ・ジェイムスの成功を再現できるようなシンガーだ。サザン・ソウルの世界でマッスル・ショールズはメンフィスと同じくらい重要な存在となっていた。メンフィスにはスタックスがあったが、マッスル・ショールズにはFAME(Florence Alabama Music Enterprisesの略称)があった。レコード会社としては、フェイムはスタックスほどではなかったが、レコーディング・スタジオに関しては少なくとも同等のものを持っていた。他のどこにもひけをとらないミュージシャンとソングライターたちがそろっていた。アレサ・フランクリンはそこで自身の生涯最高のレコーディングを行なったし、ウィルソン・ピケットはそのスタジオでHey JudeやI’m In Loveのような名演、名曲を録音した。キャンディにとってはそれ以上望むべくもないようなところだった。

‘クラレンスは私のことをリックに話して、私はマッスル・ショールズのスタジオで彼に会った。最初に私は彼に向かってDo Right Womanを歌ったんだけど、彼はよくないって言ったわ。彼はすでにアレサ・フランクリンでその歌を録音していたから。そこで私は自作のTo Hear You Say You’re Mineっていうちょっとした歌を歌ったら、彼は“イェー!”っていって気に入ってくれた。そこにはジョージ・ジャクソン(フェイム専属ソングライターの一人で、のちにキャンディの曲のほとんどを手がけることになる)がいて、リックは彼とバリー・ベケット、デヴィッド・フッド(訳注:二人ともフェイムのミュージシャン、それぞれキーボーディスト、ベーシスト)それに他の人たちを呼んだ。そして私たちはうまく行くようになったってわけ。’

キャンディはホールが即座に彼女をスタジオに連れて行ったことを覚えている。彼はマイクロフォンを通じて、彼女の声がスタジオの中でどう響くか聞いてみたかったからだ。‘彼は私に、多くの女の子たちは目の前で聞いているとうまく歌えることができるけど、マイクを通じて聞いてみると何かが壊れてしまうってことをいってたわ。つまりレコードを売るための声じゃないってことだったわ。’ ホールがスタジオの中でキャンディの歌を聞いた時、彼は彼女の声がレコードを売ることができるのを見抜いていた。

その晩、彼らは4曲を録音した。その中にはキャンディの初のヒット、知ったかぶりで生意気なI’d Rather Be An Old Man’s Sweetheart(Than A Young Man’s Fool)が含まれていた。リック・ホールは半年間を費やして配給会社を探し回り、ついにキャピトル・レコーズと契約を結んだ。その半年の間にクラレンスは彼女が契約していたアラバマ、バーミンガムの小さなレーベルから彼女を買い戻すために1400ドルを払わねばならなかった。

キャンディがフェイムで制作したレコードは、今日サザン・ソウルとして知られる最良の作品である。タフで、ファンキーで、ダーティーで、そして堂々としたその楽曲群は今日でもすばらしく響いてくる。サウンドはそれまでスタックスのような南部のスタジオから出現したものよりも複雑だ。リック・ホールのプロデュース・ワークは力強くドライヴ感に満ち、バンドは光沢があり、ぎらぎらとしている。それはとりわけジャンプ・ナンバーに顕著だ。バンドがバラッドにくつろいだ雰囲気で取り組む時、そのプレイは精密でインテリジェンスにあふれている。そこには一音の無駄も場違いな音も存在しない。バンドとシンガーの間に相互理解を聞き取ることができる。彼らが仕事に喜びを感じているのが分かるのである。‘私たちは本当に楽しんでいたわ。家族の集まりみたいなものだった。私たちはそこいら中に座ってピザを食べたり、何人かはビールを飲んだり、タバコを吸ったりね。みんないろんなことをしてたけど、音楽にはシリアスだった。私たちは仕事と遊びの間にちゃんとけじめをつけていたのよ。’

リック・ホールはプロデューサーとして、とてつもない名声を確立していたが、キャンディはいう。‘リックと一緒に働くのはまんざら悪くなかったわね。私たちは一緒にすごく楽しんでいたし。彼は私たちがやるショーにはよく顔を出していた。私たちがニューヨークのボトム・ラインでプレイした時もリックはやって来た。彼はいつも私がいいツアー・バンドを使っているかどうかを確かめていた。彼はよくサポートしてくれたし、自分のやり方を持っていた。私たちと同じようにね。私たちはみな自分たちのやり方を持っていて一つになっていた。リックの考えも違わなかったわ。’

リックがキャンディをレコーディングする時、彼はいつも彼女の声がガラガラになるまで何度も何度も歌わせていた。‘リックは自分のところのシンガーたちをいつも理解していたわけじゃなかった。彼はみんながしゃがれ声であるべきだと考えていた。ソウルフルに歌うためにはしゃがれ声じゃないといけないっていうようなね。だから彼は自分の欲しい声が出るまで、私ののどが完全に炎症を起こすまで何度も歌わせたわ。’

That’s How Strong My Love Isのような名曲を歌う時のキャンディは、その曲の名唱で有名なO.V.ライトやオーティス・レディングと同等の存在であり、どんなほめ言葉も陳腐なものになってしまうほどだ。彼女の声は力強さと脆弱性を同時に持ち合わせることに成功している。とてつもなく荒涼たる雰囲気、あるいは力強さの中にも、そこには彼女を特徴づける優しさが常に存在している。キャンディはいつも我々に話しかけるかのようであり、我々に秘密を打ち明けるかのようである。彼女はまるで我々の友人であるかのようだ。

南部の音楽的な境界線は、人が想像するほど強固なものであったことなどない。キャンディはクラン(Klan:Ku Klux Klanの支部)のある田舎で育ったが、今でもラジオでアーネスト・タブのような白人カントリー・シンガーたちを聞いている。カントリー・ミュージックはゴスペルと同様に彼女の歌に影響を与えた。一方で、ダン・ペンやスプーナー・オールダムのような南部白人のソングライターたちは、レイ・チャールズやハンク・ウィリアムズを聴きながら育ち、キャンディのような黒人アーチストも同様に聴いてきた。ラジオのチャンネルを分離したような憎しみも偏見も何一つなかったのである。いい音楽だと感じられれば万事オーケーだ。‘私はアラバマ出身。私たちはカントリー・ミュージックとともに育った。それは私の遺産の一部だし、私は今でもカントリー・ミュージックを歌っている。’ たしかにキャンディ最大のヒットのいくつかは、カントリー・ソングを出自にもっている。彼女が歌ったIn The Ghettoはエルヴィスが彼女に称賛の手紙を送るほど彼を感動させたのである。

キャンディはキャピトルでリック・ホールとともに2枚のアルバムを制作し、もう1枚をユナイテッド・アーチスツに残した。マッスル・ショールズ時代の彼女は、リズム&ブルース・チャートで連続12枚のヒットを記録し、同様にいくつかのマイナー・ポップ・ヒットも放った。彼女はまた当時の多くのメジャーなR&Bスターとともにステージを務め、南部のサーキットで引っ張りだこの存在になった。

フェイムで3枚のアルバムを制作した後、リック・ホールはキャンディのためにワーナー・ブラザーズと交渉した。その契約のもとアルバムが録音され1974年にリリースされたがセールス的に失敗に終わり、時代の音楽的流行の変化によりワーナーはアラバマで打ち立てたキャンディの音楽性を見直し、彼女をカリフォルニアのデイヴ・クロウフォードのもとへ送りこんだ。そこで彼女は不朽のディスコ・クラシック、Young Hearts Run Freeの大ヒットを放った。

人生は常に道理にかなうものではない。それは常に容易く理解できるものでもない。感情は人を屈服させてしまうことができる。時折、人は自分のいる場所を正しく伝える言葉を見失うものだ。しかしそれを教えてくれるレコードが存在する。そのレコードは声、言葉、音楽の錬金術を通じて、我々を、全てが意味を成し、全てが明瞭な正しい場所へと導いてくれる。そういったレコードは暗闇の中に光をともしてくれる。今日、録音されて30年以上を経た歌の数々がこのコンピレーションに収録され、かつてと同じように輝きを見せてくれるのである。

Tim Tooher


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