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Buzzcocks/Singles Going Steady/2001 EMI Records Ltd. 72435 34442 2 8



ジュリアン・テンプルによるセックス・ピストルズのドキュメンタリー、The Filth And The Furyを観た者なら誰しも、確かにパンク・ロックはこの世に存在したが実に時代遅れであるかを確信するであろう。当時の映画フィルムのイントロに使われた‘1976年頃の社会状況’は、今見ると戦後のパテ(フランス映画企業家)の粒子の粗いニュース映像と実際見分けがつかない。

そう、陰鬱で灰色の時代であった。景気後退が始動していた。‘寛容なる社会’は長髪野郎、ゲイ、女を恐れる反動主義者によってまたたく間にぼこぼこにされてしまった。そしてザ・ビートルズ―60年代に築き上げた社会的絆―はとっくに仕事を終えていた。その60年代の10年間と違って70年代は、あらゆること全てが激しく渦巻く中、伝説的存在がどこにも見当たらなかった。誰もがくしゃくしゃの使い古された残骸の中で産卵期を夢見た美しい風船、それは人を引きつける新種の文化でっち上げ人が、過去の遺物を使って再興する運命にあったということだ。

Tレックスの中心人物であるマーク・ボランが最初にその残骸の一部を取り上げ、ビートルズ亡き後の最初のスーパースターとして自らを変容させ、すぐにそれをデヴィッド・ボウイ、ゲイリー・グリッター、その他それより劣る一群らが真似ることになった。グラム・アイドルたちの仮面と再発明に対する渇望は、発生期のパンク・ロッカーたちに肥沃な養成場を供給することになった―それはボラン・ファンであったピーター・マクニーシュ、別名は未来のバズコック、ピート・シェリーにも、彼の仲間ハワード・トラフォード、別名ハワード・デヴォートにも効力を与えた。音楽的にはグラムのあまりに大げさなイントロ、初歩的で粗野なリフ、合唱スタイルが中枢にあり、初期ロックンロールの感情発散に目を向けパンクの生な叫びを誘発させた。

多くの初期パンク・ロック・グループ同様、バズコックスもグラム・ロックに多大な影響を受けていたが、当時はそのことはほとんど認識されていなかった。ニュー・ウェイヴの衣装戦争、安全ピンとごわごわの頭髪の遂行でさえ、今ではグラムの派手な適応性とは正反対のものとして見なされている。しかし絶望と腐敗が全く自明の理となり、不満を抱いていたパンクス予備軍たちはそのインスピレーション源としてザ・ストゥージズとザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのようなUSロックの底辺にも目を向けていた。1975年のある日、ボルトン技術専門学校の掲示板に1枚の募集広告が載った。“求む:‘Sister Ray’をやるバンドのメンバー”―1967年にレコーディングされたこの曲は、2つの粗暴にかき鳴らされるコードを使った冗長なインプロビゼーションであり、ヴェルヴェッツの逸脱指向のミニマリズムとして最高作に当たるものだった。

グラムの分かりやすさとヴェルヴェット・アンダーグラウンドの粗く刻まれたリズムは、単にある影響を与えた双頭に過ぎなかった。もっと奥深くには他の音楽的振幅が横たわっていた。それはカンのようなクラウトロック・バンドに始まって、初期のロキシー・ミュージック、伝統的なハード・ロックさえも含まれ、若き日のシェリーが聴いていた音楽であった。しかし本当にシェリーとデヴォートにエネルギーを与えたのがセックス・ピストルズだった。1976年初めのロック・ウィークリーのうちの一つであるライヴ・レビューに触発された二人は、ロンドン南の諸州(Home Counties:ロンドンを取り巻く諸州、特にEssex, Kent, Surrey, Hertfordshire)に出かけ、ほとんど知られていなかった因習打破主義者たちによる2つのショーを目撃した。そこでのんびりと過ごした彼らはまた、新しいTVシリーズ、Rock Folliesの好意的なレビューに出くわした。その称賛の中には“It’s a buzz, cock”というコメントが含まれていた。数週間以内にデヴォートはセックス・ピストルズの初のマンチェスター公演を企画していた。1976年7月20日、ピストルズの2度目のマンチェスター公演でバズコックス―ギタリストのシェリー、ギタリスト/ヴォーカリストのデヴォートにスティーヴ・ディグル(ベース)とジョン・メイハー(ドラムス)が加わった―はサポート・アクトを務めた。

パンク・ロックは70年代中期に吹き荒れていた不安と自信喪失の鏡を頭上に掲げた。やがて彼らは自らを偽名の下に潜ませ始めた。Johnny Rotten(腐敗)、Poly Styrene(発砲スチロール:ポリスチレン)、そしてSiouxsie Sioux(アウトロー:スー族)ら、この無骨な新世代は薄ら笑いを浮かべながら冷笑的な態度をとるようになっていった。絶望と孤立は彼らを現実の世界における時計仕掛けのオレンジのキッズたちに変えていった。しかしパンクは単に病んだ国家の症状を示しているわけではなかった―それは治療薬でもあった。文字通り注意を喚起する叫びであった。バズコックスほど体制外の民衆の心をつかむことに成功したバンドはほとんどいなかった。彼らの素晴らしい才能が完全に封じ込められたパンク・ポップのシングル盤は、ボラン、ザ・ビーチ・ボーイズ、そしてザ・ビートルズと同等に評価できるものだった(これらは彼らが最も引き合いに出されたアーチストたちだ)。それはこのコレクションでたっぷりと例証されている。この初のシングル・ディスク・セットはバンドのユナイテッド・アーチスツ・レーベルにおけるシングルのA面とB面全てが含まれている。

バズコックスはパンクと切っても切れない関係であるが、彼らの姿勢とそのスタイル普及の役割という点において、彼らの作品の多くは70年代後半のほとんどの作品に驚くほど欠けている新鮮味を今も保持している。その頃の彼らは驚くべきワン・コードのブランク・ジェネレーションのようなものではなく、バズコックスのグレイトなポップ・メロディ、ほろ苦いラヴ・ソング、抑えられないエネルギーは彼らの天性であり、それはマーチン・ラシェントの巧妙で活気あるプロデュース・ワークによって引き出され、彼らの作品は時代を越えた外観を見せることになったのである。

このコレクションのうち7枚のシングルがブリティッシュ・トップ40に食い込んだ。唯一にして最も巧妙なタイトル、“Ever Fallen In Love(With Someone You Shouldn’t’ve)?”が本当に人々の意識に入り込んだのは驚異的なことだった。1978年9月にリリースされ、数週間後には12位まで上がるヒットとなり、これはバズコックスの最高の瞬間をマークした。それ以前のバンドの全てのシングルも前兆を示していたが、“Ever Fallen In Love”の成功はバズコックスが結局ザ・ダムドやセックス・ピストルズとは違うバンドであることを暗示しているようであった。実はその成功は昔の‘老いぼれ野郎’バンドたちを悩ませたような問題を確かに引き起こすきっかけとなった―音楽的意見の相違、果てしなく続くいやになるほど単調なツアーをひたすら続行し、必然的にドラッグとアルコールに頼り始めることだ。

もちろんこれら全ての緊迫状態はスタート時点においては(今にして思えば)好ましいことだった。ハワード・デヴォートは1977年の2月に入るやいなやグループを去って行った。それは自費出版のデビューEP“Spiral Scratch”を彼ら自身のNew Hormonesレーベルからリリースした直後のことだった。その年に最も売れ行きの良かったそのインデペンデント・シングルは、グループの名声を打ち立てた―しかし彼らのフロントマンが去ってしまったことにより、バズコックスはほとんど死に体となっていた(ハワードはそのレコードのリリースが彼の志を限定させてしまったと主張していた)。代わりにシェリーがリード・ヴォーカルを引き継ぎ、スティーヴ・ディグルがギターへ持ち替えた。そして本当とは思えないが、Garth(誰?)がベースを担当することになった(しかし彼はすぐにスティーヴ・ガーヴィと交代した)。

一方パンクはまだ人々の関心を引き続けていた。バズコックスはプロデューサーのラシェントと共に自らのアートを完成させ始めた。1977年8月16日、ユナイテッド・アーチスツと契約を交わし、彼らがビルを出た時にエルヴィス・プレスリーが死んだことを知らされた。一ヵ月後の9月16日、ピート・シェリーはバンド初のUAからのシングル、“Orgasm Addict”に歌入れを行なったが、ちょうどその時ほんの数100ヤード離れたところにあるバーンズで彼のかつてのアイドル、マーク・ボランが交通事故によって死亡したという知らせを受けた。しかしラジオ・ワンが“Orgasm Addict”の放送禁止を決定したことはさて置いて、結果については何ら悲劇的な状況ではなかった。その制止できない貨物列車のようなリズムを伴った“Orgasm Addict”は、バズコックスの高揚するような最大の関心事を示していた。“恋愛関係において人間性が奪われることを強調したアンチ・セックス・ソングだ。” シェリーは当時語っている。

つい前まで栄光の日々を送っていた60年代初頭のガール・グループたちが、愛の残酷な移り変わりを経験することを徹底的に考察したのが、“What Do I Get”、“Love You More”、“I Don’t Mind”、“Ever Fallen In Love”、そして“Promises”だった。これら優れた一連のシングルは、1978年の2月から11月にかけてリリースされた。全てが恋に悩む歌だ。

シェリーは1979年3月にリリースされた“Everybody’s Happy Nowadays”で変化を見せた。脅威を与えるようなウォール・オブ・サウンドのギター、時折入るマイナー・コード、そして特徴のないあまりに長すぎる最後部は、タイトルに込められたヘヴィな皮肉を強めていた。しかしこれがバズコックスの最後のトップ30ヒットとなった。一方それに続いたスティーヴ・ディグルの“Harmony In My Head”はがっしりとした印象的なナンバーであり、バンド初期のきびきびしたアレンジメントからの脱皮を予兆させていた。

最後の3枚のシングル、“Why She’s A Girl From The Chainstore”、“Strange Thing”、そして“Running Free”は全て1980年にレコーディングされリリースされた。冬の契約解除後は彼らのキャリアの最終章のようであった。グループの息もつけないほどのギターに支配されたプロダクション・スタイルは歴史に託されることになった。バズコックスは同時期のバンドたちよりもひときわ騒音を立てて張り合うことを諦めてしまったかのようなサウンドを奏で始めた。パンク・ロックはすでに死んでいた。おまけに猛烈に批判的なオーディエンスからの期待の重圧があった。バズコックスは自分たち自身のためにプレイし始め、少数の人々が彼らを支持することになった。1981年初旬、彼らはきちんとけじめをつけてから解散した。傑出した5年間は終わり、最後はやせ細ってしまったが、真に重要な遺産が残った。彼らの3枚のアルバム、まずデビュー作のAnother Music In A Different Kitchen(1978年3月)は、称賛に値する一握りのパンク・アルバムの1枚であり、欠くことのできない1枚として今も認知されている。次のLove Bites(1978年7月)は、少しだけゴールポストへ向かって手を広げ、純粋なポップと実験的要素が同居していた。一方遺作となったA Different Kind Of Tension(1979年7月)は、その当時は良く聞こえたが、いくらかピート・シェリーの行き詰まりが刻まれていた。

どこから聴くのがベストであるか、また究極のバズコックス・コレクションはどれかといえば、このSingles Going Steadyである。元々はバンド初のアメリカン・マーケットへのメジャー・ツアーに合わせて計画されたアルバムであった。しかし英本国に大量に逆輸入される結果となり、彼らは本国での人気が高いことを裏付けることになった。そして結局1981年に国内リリースとなった。ザ・キンクスやザ・ビーチ・ボーイズのそれと肩を並べるヒット・コレクションであるSingles Going Steadyは、単なるパンク時代をドキュメントした決定的な1枚のレコードではなく、ポップそれ自体が決定的な基礎となるコレクションである。

マーク・ペイトレス、MOJOマガジン、2001年6月


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