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Brinsley Schwarz:Nervous On The Road/The New Favourites Of…/1995 BGO Records BGOCD289



タブロイド紙であればそれはまさしくどこにでもある話のように思える。しかしBRINSLEY SCHWARZはたしかに、あらゆる古臭いロックでっち上げによって度が過ぎてしまったバンドとして記憶されている。その誇大広告、それはいわば実際、彼らが全くうまくやり遂げられなかったことによるものだ。1970年4月のフィルモア・イーストでの彼らの伝説的に軽率なパッケージ・ギグに続いて起こったはね返りは、彼らが最後まで打ち勝つことができなかった批判的な評価でもって最後まで彼らにじゃまをしたのだった。しかしそれでも彼らはその染みついた悪臭を振り落とそうと5年間抵抗し続けた。その悪臭はまるでパンケーキに染みついた化学肥料のようであった。名声を取り戻せなくとも屈しなかった彼らは、ついにパブ・ロック・コースに飛び乗り、評論家たちの称賛を受け、相当な草の根の一団の支持を受けるまでになった。一方、商業的成功は依然達成されないままであった。永遠に続く皮肉な言葉は、グループが消滅し個々のメンバーたちが成功を収めたあとに、グループの伝説的ステイタスとして昇格することになったのだ。アルバムが一級品の傑作であれば、もしかすると相応しくない時と場所に存在してしまった名グループ!ということになるのだろうが。

仰々しい名前のKippington Lodgeから発展したブリンズレイズは、元々1969年10月に契約を交わした。Kippington LodgeはEMIのパーロフォン・レーベルから不発に終わった一握りのシングルをリリースしていた。Lodgeは65年、タンブリッジ・ウェルズを拠点に次々とメンバーが集まってきて結成されたバンドだった。ギタリスト/シンガー/サックス・プレーヤーのブリンズレィ・シュウォーツとベーシスト/シンガー/ソングライター(そしてスクール仲間)のニック・ロウは、オルガニストのバリー・ランダーマンとドラマーのピート・ホエールと共にバンドを組んだ。地元のパブ、クラブ、ダンスホールで2年間活動したあと、彼らはついにEMIのプロデューサー、マーク“Teenage Operaの仕掛人”ワーツに発掘され、彼はただちにバンドをスターダムへと押し上げるべく仕事にとりかかった。しかしのちにロウは回想している。“全てがポップ集団によるバッキング・トラックの仕事だったんだ。ブリンズレィは僕らのためにデモを受け取って、僕らはそれを練習して完璧に準備した。で、スタジオに出向いていってこう尋ねた。‘オレたちはどこでプレイすりゃいい?’すると彼らはブリンズレィしか必要ないって言ったんだ。ブリンズレィは当時リード・ヴォーカルを担当していた。彼らはすでに立派なバッキング・トラックをレコーディング済みだったんだ。アイヴィ・リーグがコーラス・ハーモニーをつけていた。それにビッグ・ジム・サリヴァンと一流のセッション・マンを備えていた。その時ブリンズレィはヴォーカル・パートを52テイク無駄にしていた。そういうわけさ。‘OK, みんなどうもありがとう、じゃあな’ってわけ。”

それは彼らのセカンド・シングル“Rumours”のためのセッションであった―彼らがパーロフォンからリリースした5枚のシングルのうち、最初の“Shy Boy”はもう少しでチャート入りするところだった。オルガンのランダーマンは“Rumours”リリース後すぐに脱退した―彼は“I Live For The Sun”をきっかりトップ20に送り込んでいたVanity Fareに加入し、彼の代わりに他で活動していた仲間ボブ・アンドリュースが加入した。しかしながら巧みなレコード・プロダクションにもかかわらず、成功は訪れなかった―これは彼らの自信の欠如でも向上心の欠如によるものでもなかった。ロウは回想する。“彼(ワーツ)は僕たちが本当に有名になると信じていたし、最大限に力を注いでいたよ。ワーツは素晴らしいポップ職人だったし、グレイトなサウンドを作り出していた。彼はその頃、絶頂期にあったんだ。”

しかし1969年までにKippington Lodgeは完全に破局を迎えてしまった。彼らはEMIから契約を切られ、振り出しに戻り一文無しになってしまった。多額のローンも抱えていた。危険なLSDに手を出し、自分が神になったと妄想したドラマーに責任が負わされたが、その幻覚を起こしたドラマーに代わってアメリカ人ドラマーのビリー・ランキンが加入することによってその問題は簡単に解決された。一方彼らは全ての問題を解決するにはバンド名の変更と全体的な音楽的方向性の徹底的な見直しにあると考えた。のちにロウは次のように回想している。“僕らはどんどんギグが減っていくにつれて、どんどんと小うるさいバンドになっていった。‘じゃあこれから始めるからみんな床に座ってくれるかい?’っていうようなね。当時の多くのグループのように僕らもローンで最高の機材を揃えた―これから大金が転がりこんでくるから大丈夫だって具合にね。”イエス(訳注:デビュー時ポップ・ロック時代)、CSNそしてバッファロー・スプリングフィールドらを手本に彼らは新曲を書き始めた―多弁なロウがソングライティングの一番おいしいところを受け持つのが妥当と考えられた―続いて彼らは有名無実を思わせるバンド・リーダーの名のもとにギグを始めた(これについては全員が賛成した。響きがヒップだったからだ)。

ブリンズレィ・シュウォーツという名はグループの入口みたいなものだったが、ステージにおいてはニック・ロウがバンドの本当のエースとして頭角を現し始めた。リード・ヴォーカルを担当し、ヒットを狙う彼の特異な曲作りが始まっていた。そして運命はいかがわしい格好をした陽気なアイルランド人、あぶなくておべっか使いの商人、フェイムプッシャー出版のデイヴ・ロビンソンに委ねられることになった。Famepushers Ltd.―映画業界のマネジメント/プロモーション会社であり、常にビッグチャンスに目を光らせながら事実上は計画倒産を繰り返す詐欺集団である。ロビンソンはフェイムプッシャーズに対し、ロック・バンドを使って富を得ることを説き伏せた。そして同時に彼はロウがそのカメレオン的な変わり身の速さでもって富を産むソングライターに進化すると確信していたし、ロウはあらゆるスタイルをたちまちにして模倣、吸収し大量に作品を作り上げることができ、ビッグチャンスは具体化すると信じていた。この時点でロボ(ロビンソン)は野望にあふれ壮大な計画を持っていた―洞察力あるものとは到底いい難かったが、競走馬を所有する興行主はそれから10年後にその眼識でスティッフ・レコーズとアイランド・レコーズを経営することになる。彼のブリンズレィズに対する計画はシンプルそのものだった。無名で未契約のグループに1枚のアルバムをレコーディングさせ、バンドに仰々しくニューヨークの威信あるフィルモア・イーストでのギグを決行することをブチ上げるだけだ。この重要なイヴェントの最大限のプレスの宣伝を保証する目的で、飛行機一機分のロック・ライターをギグに飛ばす。一番いいレコード契約を獲得するためにあちこちにアルバムを売り込む。レコード会社から受け取った契約金はコンサート、パーティーやらで華々しく使いまくる。そして悪名高きトニー・パーマーに、この計画の一部始終をドキュメンタリー・フィルムに収めさせる。

確かに多くのページがプレス報道記事で埋められることになった―メロディ・メーカーでさえギグのフリー・チケット5枚を抽選で当てようと応募したほどだ―コンセプトとしてはブリンズレィズが本命であるかのように思われた。ロウは後にこう回想する。“…心理学的にはいい狙いだった。なぜなら当時誰もスピークイージーに出演する新しいバンドなんかに感銘なんて受けなかったし、彼らは週末をアメリカで過ごすなんてできなかったから。”しかしそれは華々しく裏目に出てしまった。飛行機が遅れてしまい、ジャーナリストの多くは18時間の足止めを喰らい、到着した時はヘトヘトか二日酔い状態であった。“何人かは僕らを理解できなかったし、完全にギグを見逃してしまったんだ。”ロウは付け加える。“ショー自体はグレイトだったし、聴衆は喜んでいた・・・でもプレスは戻ってきて全くクソだったと書いたんだ。いく人かは客観的に音楽について書いていたよ。でもほとんどは悲惨な旅だったと書いた。(注:この顛末のより充実した詳細については、ジョン・トブラーがBGOCD 239‘Brinsley Schwarz/Despite It All’のスリーヴノートで記している)

なるほど全てが大失敗とされたのは、おおよそ音楽プレスから糾弾されたものだったし、その連鎖反応が結局回復することのなかったブリンズレィズの信用をこてんぱんに叩いたのである。そのどんちゃん騒ぎはもっぱら彼らのマネジメント・サイドのしたことであったが、バンドは自らも悪者の一部として烙印を押されたことを感じていた。さらに悪いことに、ロビンソンはレコード契約を獲得するには、ひどい仕事をしていたことになる(彼らは結局ユナイテッド・アーチスツと契約を交わすことになったが、のちに彼らは後悔している)。彼らはその計略で大金を失うことになってしまった。そしてますます事態を悪化させたのは、彼らの自らの名を付したデビュー・アルバム―数週間後にリリースされた―が一般的に酷評されただちにカットアウト盤へと送り込まれてしまったことだ。ただし。はっきり言えることだが、アルバム自体がヒップであろうとする確固たる追求の中で、重々しく見栄を張った何か偽物の臭いがしていた。そのヒップさとは:重々しさを暗示させること、優美なリード・ギターがところどころキラリと光っていること、偽ディランのような不明瞭な言葉を羅列させること、それら全てはCSN風ハーモニーの層の下に埋没してしまっている(オーヴァーダブを繰り返すことによって完成している)。プレスのこきおろしに続いてリリースするアルバムとしては完全に間違っていた。

全てのでっち上げから発生した副産物は、バンドに対して壊滅的な作用を内包していた。それはロック・ミュージックの残酷なビジネスの現実を彼らに教え、メディアに見放されることの危険性を教訓として呈示した。しかしはっきりいって、それがなければ後の彼らの仕事は成し遂げられなかった。徹底的に幻滅を味わったことによって続く彼らのキャリア―5年間―は、事実上フィルモア・イースト病への抵抗を試みた期間であった。自己分析と見直しに続き(事実彼らは解散も考えていた)、彼らはペンを取ることから始めることにし、ノースウッドで共同生活をスタートさせた。こうやって彼らは復讐の念を持ちつつ、落ち着いて創作活動とリハーサルを始めた。“僕らはいつも練習していたし、いつもラリっていた。”ロウは回想する。“僕らはザ・バンドとヴァン・モリソンを聴いていた。つまりカントリー・ミュージックだった。僕らはそれが自分たちのやりたいことで唯一自分たちができることだと考えた。かわいこちゃんやなんかの世界じゃなくて、プログレッシヴ(進歩的)な世界に身を置くって事でね。”

彼らはヴォーカル・サウンドをステージで生かすために(全てがオーヴァーダブによるせいで、彼らはアルバムからの多くのナンバーをステージで再現できないでいた)、メンバーを増やすことを決めた。そしてお決まりであったメロディ・メーカーへのメンバー募集広告を出すことになった。シンガー/ギタリスト、ロンドン出身、当時EMIのデッサン画家として働いていたイアン・ゴムの加入だ。“僕の‘オーディション’は2時間彼らとジャムることだった・・・彼らはハイになってたね。ほとんど僕がいることを意識してなかった―僕も同様だったけど。彼らは僕を歓迎してくれていて、しかもラリってると思ったね。彼らはすぐに僕をギグに引っ張り出そうとした・・・その時彼らのマネージャー―ロボ―が感づいて、翌日改めてオーディションに僕を呼んだんだよ!”ゴムの加入はまさしく最後のコマが揃ったことを意味していた。ソウルフルなシンガーで非常に優れたギタリスト―彼の音楽的ルーツは50s/60sのロックンロールとリズム&ブルースだった―彼はまたソングライターとしての芽を出し始めていたし、バンドにロウ以外にたくさんの曲を作れる者がいなかった中で、彼の曲はバンドのレパートリーを増やすことに大きく貢献した。

あわただしくレコーディングされたセカンド・アルバム―皮肉っぽく付けられたタイトル“Despite It All”(全てものともせず)はただちに70年11月にリリースされた(イアン・ゴムが参加した多少のセッションは完成されていた。“独特なスタイルを持つブリンズレィはこの世に存在するあらゆるギターをプレイしたがっていた―僕のギターは2曲で聞けるよ。でも僕の名は載ってない!”)。彼らは喜んでイエス/CSNスタイルを放り出し、なるほど今度はザ・バンドとザ・バーズの影響が見られた。ファースト・アルバムよりはるかにコマーシャルで親しみやすくなっていた。振り返ってみれば、あるいはまさに初のイングリッシュ・カントリー・ロック・アルバムだったのかもしれない。楽曲群はデビュー作より強力になり、アレンジはタイトに、詞ははるかにストレートになった。素晴らしい出来の“Country Girl”はシングルとしてリリースされたが、(予想どおり)実際ラジオでは流してもらえず鳴かず飛ばずであった。

それでも事態は大きく上向きになっていった―ロウは後に回想する。“僕らはすごくまとまっていった。ある意味強固な規律みたいなものがあった。僕らはこのまがい物をみんなに見せてやろうと思って実践したんだ。”そして彼らのしたことを実際彼らは目の当たりにすることになる。長期間の沈黙―一握りの地味なギグと二つのラジオ・ワン・セッションを除いて―に続いて彼らはついに威厳ある“Silver Pistol”を引っさげて再び姿を現した。それは全て彼らのノースウッドの家で移動式機材を使ってレコーディングされ、72年2月にリリースされた。そして実際にいくつかの好意的なレビューを受けた。スタイル的には前作と似通っていたが、本当に見事な出来ばえであった。いくらかファンキーになり、ぼんやりと内向的な肌触りがしていた。それはいくらか酔ったようなうつ的雰囲気によるものだ。特にアルバムの中では正真正銘のロック・ナンバー“Ju-Ju man”によって浮き彫りになっている。この曲は好んで取り上げられ、彼らのステージで重要な1曲となった。しかし今回彼らは自ら流行遅れになることを決め、それを推し進めていった。そうこうするうちに思いがけなく彼らは理想的な位置に収まることになる。

素晴らしく充実したリハーサル期間を過ごした数ヶ月間によって彼らはさらに団結していき、ロードに戻った彼らはどえらいライヴ・バンドへと進化していった。しかしよりしっくりいったのは、ブリンズレィズの浮上にとって彼らの能力を相応しく発揮できるような新しい活気あるライヴ・シーンがロンドン中心に生まれていたことだ。すなわちパブ・ロックだ。バンドたちがパブで演奏することは決して新しいことではなかった。60年代初頭のビート・ブームの頃から多くのグループがロックンロールやリズム&ブルースをプレイしてきたし、ストーンズとヤードバーズはもちろんパブで初期の名声をうちたてていた。しかしながら60年代終わりまでにロックはより大きな会場へと移動し、パブの大部分はジャズとカントリー&ウェスタンへと戻っていった。ロックがますます見栄を張り、好き放題にふるまうようになった結果、リスナーたちはそういったはったりに反抗し始め、他のもっと誠実で落ち着いた音楽を求め始めていた。そしてまもなく彼らはベーシックなものをプレイするバンドたちに目を向けた。そういったバンドたちは誰でも入れるようなパブであるTally Ho, the Kensington, the Hope & Anchor, the Lord Nelsonそしてthe Brecknockで、カントリー、ブルース、スキッフルなど偏見なく取り入れた真っ当なR&RとR&Bをプレイしていた―Eggs Over Easy, Bees Make Honey, Ducks Deluxe, Kilburn & the High Roadsら素晴らしいバンドたちが活動し、その先頭にいたのがブリンズレィ・シュウォーツであった。

ブリンズレィズはきわめてすんなりとパブ・ロックになじんでいった。あるいは比較的小さなホールがフィルモア・イースト大失策の亡霊をついに葬ってくれたのかもしれない。続く2年以上に渡って、彼らはシーンの中で最もタイトでファンキーで楽しめるバンドとしての名声を獲得した。Tally HoとKensingtonでのレギュラー出演によって、彼らはパブ・ロックをより広いオーディエンスに向けて発信することができたのである。彼らは確かにこのジャンルを普及させ、メディアの注目を集める事に大きな力を発揮した。

新しい発見となった彼らの信頼性と名声はすぐにレコード上に反映された。半信半疑なタイトルにもかかわらず“NERVOUS ON THE ROAD”―72年9月リリース―は、急速に増える彼らの感動的なレパートリーを象徴しスタンダードとなった“Happy Doing What We’re Doing”“Surrender To The Rhythm”そして“Don’t Lose Your Grip On Love”加えてロニー・セルフのカヴァー“Home In My Hand”(ロウはのちにロックパイルで再録した)が収録され、当時の熟練した彼らを最高に示していた。Charles Shaar Murrayも同じようにNMEの中で無条件に親指を立てた。“A面の2曲目‘Happy Doing What You’re Doing’を聴いてみてくれ。これはジョン・セバスチャンが堕落してしまって以来、聴けなくなってしまったようなタイプで、このアルバム全体のキーとなる曲だ。そしてバンドにとってもキーとなっている。わざとらしさも重いコンセプトもない、ただ素晴らしい音楽であり、ただそれだけである。B. シュウォーツは自分たちのやっていることを楽しんでいるし(訳注:タイトルにひっかけている―are happy doing what they’re doing:)、我々も自分たちの感じたことを信じるべきだ。多くの人々がこのアルバムを聴けば、ブリンズレィは二度とあれやこれやにNervousになる必要はなくなるのだ。”チャートには入らなかったが、“Nervous…”はかなり長期間に渡って売れ続けた―考えてみれば多分彼らのうち最も売れたアルバムだろう。

彼らの名声がどんどんと上昇するにつれ、彼らのギグはどんどんとよくなり、高校、大学サーキットでは大きな呼び物としての地位を確立した。悲観的に見れば、ウィングスのサポート・ツアーはかなりの見込みが予測されたが、二つのヨーロッパ・ツアーによって彼らは赤字を出してしまった―しかしその時代最高に名誉ある3枚のライヴ/コンピレーション・アルバム“Greasy Trucker’s Party”、“Glastonbury Fayre”そして“Live At The Paradiso”にフィーチャーされたことで、彼らへの評価は広く改善されることになった。彼らはどこでプレイしようとソールドアウトになり、忠実で熱狂的なファンを獲得していた。しかし彼らはそのライヴでの人気をレコード・セールスに結びつけることができないでいた。ヒットを狙い、彼らはThe Hitters名義でレゲエ・シングル“Hypocrite”さえリリースしたが、それも同様に問題を解決できなかった。ライヴ活動が増えるにつれ、それは彼らのレコーディング・スケジュールを圧迫していった。1枚の“当座の”アルバム、“Please Don’t Ever Change”―このタイトルはクリケッツ往年のヒット曲―は73年10月にリリースされた。ロックフィールドであわただしくレコーディングされたこのアルバムは、一握りの新曲が含まれていた(“Play That Fast Thing One More Time”はニック・ロウがロックパイルで再録した)。2曲のアルバム未収シングルと“Home In My Hand”の再演が収録されたが、かなりの称賛を受けたにもかかわらず、これもまた十分なセールスを上げられなかった。

セッションでは意外な‘ゲスト’、デイヴ・エドマンズが2曲をミックスし、次作をプロデュースする目的で自らもレコーディングに参加することになった。結果できあがったのがNEW FAVOURITESだ(これもロックフィールド録音で、イアン・ゴムによれば彼らのベスト・サウンド・アルバムだそうだ。“僕らが初めて真のプロデューサーを迎えて作ったアルバムだった。僕らはすごく共同体ぽかったから。デイヴがやってきて決定を下して、ちゃんとしたレコードに仕上げたんだ。多分これは僕らの中で一流のレコードだ。”)傑出したナンバー、“(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love And Understanding”をシングルとしてリリースする一月ほど前、74年7月にアルバムはリリースされた。数年後エルヴィス・コステロが取り上げた素晴らしくコマーシャルな“Peace, Love…”によって、彼らは“Top Of The Pops”への出演に招待されたが、技術的にライヴでプレイできないことが判明しそれを断ってしまった。そしてアルバムは前作よりもクールなレビューを受けることになった―長年のブリンズレィズ・ファンであったC. S. MurrayでさえNMEで複雑な心境を語っている。“・・・彼らは穏やかでファンキーで都会的なR&Bアプローチを選び、抑制された流行のスペクター・サウンドの中で、一時的に自分たちのネオ・カントリー・スタイルを棚上げにしてしまったようだ。一方でニック・ロウはどんなジャンルにおいても楽しめるオーセンティックな曲を書くうらやましいほどの才能を持っていることは確かだ。しかしこのアルバムは‘ブリンズレィズ最良のレコーディング期間’から生み出された‘Nervous On The Road’に取って代わるものとは思えないのである・・・”

エドマンズ・コネクションによって短期間デヴィッド・エセックスの映画、“Stardust”に出演することになった(そこで彼らはThe Electriciansとして宣伝された)。一方で2曲の“巧妙な”ブリンズレィズのシングルがリリースされた―The Knees名義でのビートルズのカヴァー“Day Tripper”と、The Limelight名義でのビートルズの“I Should Have Known Better”だ―どちらも少し売れた程度だった。そうこうするうちに、彼らはまたしてもTOTP(Top Of The Pops)出演を断ることになった。今度はTommy Roeのリヴァイヴァル・ナンバー“Everybody”を口パクで演奏することを拒否したためだ。そして“New Favourites”が商業的に失敗したことは、真の損失をもたらすことになってしまった。75年に入り、いよいよ辛苦のあとの光明を見いだすことが難しくなってきた。ゴムは次のように回想する。“僕らは3年か4年、同じサーキットで活動してきたけど、そこから脱け出すことができないように思えた。僕らは何度もUKツアーをしたけど、どうにもならなかった―つまり、何度スカーバラをプレイしなきゃいけないんだ?ってことだ(訳注:サイモン&ガーファンクルのスカーバラ・フェアのことか?)。僕らは他の英国のバンドがアメリカへ行ってうまくいくのをずっと見てたから、僕らもいっちょやってみるかって思ったんだけどね・・・”

なるほど結局彼らは、英国ではメインストリームに躍り出ることができそうもないと悟った結果、アメリカに専念することにし、然るべきレコード契約を獲得しようと交渉を始めた。しかしそれも全て失敗に終わってしまった。彼らは実際好ましい契約をエージェンシーを通じて結び、アメリカでの活動を手に入れたはずであった。しかしその時ユナイテッド・アーチスツが契約により、ブリンズレィズを手放すことを拒否した―そこでこの状態をキープし続け、過去のステップへ逆戻りするよりも、彼らは終わりにする方を選んだ。

彼らはマーキーで素晴らしいフェアウェル・ギグを行なった後、75年3月に解散した。その後の彼らのキャリアは他の色々なところで記されている通りだが、少し触れておこう。ロウは散発的なソロ活動に乗り出し、時折ヒットを出した―特に“I Love The Sound Of Breaking Glass”と“Cruel To Be Kind”(これはゴムと共作した古いブリンズレィズ・ナンバーだ)。彼の挑戦はうまくいき、Curtis Stigersがサウンドトラック・アルバム“The Bodyguard”でカヴァーしたひどい“Peace, Love And Understanding”によってロウにキャリア最高の印税が転がり込んできた。イアン・ゴムも同様にソロ・キャリアに取り組み、彼は本国よりもアメリカでかなりの商業的成功を収めた―“Hold On”はUSトップ20を記録した。その頃彼は北ウェールズのレコーディング・スタジオの共同経営者であり、自営でピアノ調律師として働いていた。ブリンズレィズ消滅後、シュウォーツとランキンはダックス・デラックスに加入した後(その時バンドは断末魔状態であったが)、ブリンズレィはアンドリュースと共にグレアム・パーカーのルーモアを結成した。以前の仲間に追従する前にブリンズレィは、セントラル・ロンドンでギター/楽器店を経営していた。一方アンドリュースはニューオリンズに住み、そこで様々なバー・バンドで活動した。ダックス・デラックス解散後、ランキンはTerraplaneとBig Jim Sullivan’s Tigerに加入した後、音楽業界から足を洗った―現在彼はタンブリッジ・ウェルズで塗装工、装飾職人をしている(皮肉にもそこはキッピントン・ロッジが活動を始めたところだ)。

つまるところブリンズレィズが、そのカルト的人気を打ち破ることがついにできなかった本当の理由は、あるいはイアン・ゴムが次に回想するようなところにあるのかもしれない。“・・・僕らが結局成功できなかったのは、僕らがいつも自分自身でなく他の何かになりたがっていたからだ・・・僕らは延々とザ・バンドのようなサウンドを出そうとしていたし、ザ・バンドのような曲を書こうとしていた。ブリンズレィはロビー・ロバートソンに心酔して、いつも新しい機材に運を使っていたんだ。死に物狂いになって彼のようなサウンドを出そうとね。ある日、ザ・バンドの連中がツアーでこっちに来ていた時、リハーサルのために僕らがいたところにやって来たんだ。信じられない光景だった・・・彼らは僕らがリハーサル・スタジオとして使っていた納屋に入っていった―僕らは当時ベコンズフィールドの農場に住んでいたんだ―そしてロビーはブリンズレィのアンプにプラグを差し込み、ギターを弾き始めた。当たり前なんだけどそれはまさしくロビー・ロバートソンのサウンドだったんだ!僕らは全員立ちすくんでお互いに顔を見合わせた・・・そこに彼らがいて僕らの機材を使ってる・・・しかもそれは僕らがいつも欲しい欲しいと思っていたサウンドだった。ボブ・アンドリュースはボブのキーボードの前に座っているガース・ハドソンのところに行った・・・ボブはこらえ切れなくなって泣いてしまった・・・彼はガースに向かってこう言った。‘君は世界一のオルガン奏者だ。’ハドソンは立ち上がって周りのみんなを見回して、‘いや、僕は違うよ’って言って立ち去っていった。そりゃそういうさ・・・僕らは再び彼らに会うことはなかった。僕らのあまりの英雄崇拝的な態度に彼らはぎょっとしてしまったんだ!”これがあるいは全てを語っているのかもしれない。

Roger Dopson


以下の方々に感謝する:Ian Gomm;Ian Hoare(Let It Rockマガジン、74年4月);メロディ・メーカー;Charles Shaar Murray/NME;Pete Frame

白黒写真:イアン・ゴム提供


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