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Brinsley Schwarz:Silver Pistol/Please Don’t Ever Change/2004 BGO Records BGOCD642



まあ、おそらくブリティッシュ・パブ・ロック集団Brinsley Schwarzを語るときに絶対に外すことができないのが、‘フィルモア・イーストのでっち上げ’で知られる彼らの苦い1年間の経験だろうと思う。英国音楽産業界の誇大妄想の中で、最もいかがわしいうちの一つである飛行機一機分のUKジャーナリストの派遣―“Angling Timesが手配したメロディ・メーカーのライターたちだ”バンドのメイン・ソングライターだったNick Loweがかつて回想したように、ライターたちは1970年ニューヨークでのVan Morrisonの前座として出るバンドを観るために大西洋を渡った。もちろん避けがたいことは計画によって全てがうまくいったのかもしれない。しかしながら、この冒険は最初から不運に見舞われた。そのプロジェクトに取り組むにあたって多くの問題が山積していた。

まず第一にニック・ロウの麻薬所持問題によって、法的にアメリカへの入国が許可されなかった((最終的にはカナダからチャーター機を飛ばすことになった。ビッグ・アップル(ニューヨーク市の愛称)への身の毛のよだつフライトだ))。もう一つのフライトの遅れは、飛行機一機分の音楽ライターがエンジン・トラブルによりアイルランドで足止めを食らったことだ。のちにニック・ロウが告白するように、旅全体に渡ってうぬぼれた認識による甘さが覆っていた。“隅から隅までみじめな冒険談だった。みんな僕たちがやったことが正しいのかどうか考えていたね。例のフィルモアの1週間前に僕たちはケントの村のホールでギグをやったんだ。悪くはなかったんだけど明らかに準備不足だった。ある意味あの実際に起こった出来事は、自分にとってためになったね。僕が抱いていた見せかけの‘ロック・スターダム’を打ち砕いてくれた。全ては必然だったんだ。”

フィルモア事件の結果、バンドは英国に戻り、いくらか理にかなった活動するようになったのである。ブリンズレィズはよりいっそうバンドとして一致団結することを選んだ―なるほど彼らのセカンド・アルバム、‘Despite It All’(全てをものともせず)は多分当時の彼らに最もふさわしいタイトルだろう。‘Despite It All’以後のブリンズレィズのラインナップは、Brinsley Schwarz(guitar, sax, piano and vocals)、Ian Gomm(guitar and vocals)、Nick Lowe(bass and vocals)、Billy Rankin(drums)、そしてBob Andrews(piano, organ, and vocals)だ。バンドは共同で小屋を借りて住んでいた。間違いなくあの忌まわしい‘でっち上げ’エピソードは、彼らの断固として働き続けるという意思を強固なものにしたのだ。

2枚のアルバム―‘Despite It All’とファースト・アルバムのリリースを経て(これらは1枚のCDに収められている)、Silver Pistolでバンドはフィルモア・イーストの痛手から立ち直るための新しい発見をした。一つがアメリカのバンド、Eggs Over Easyだ。彼らは3人編成でロンドンを拠点とし、北ロンドン、ケンティッシュ・タウンにあるタリー・ホー・パブでレギュラー・バンドとして活動していた(エッグのリーダー的存在だったAustin DeLoneはロウの長年の友人となり、時には音楽的相棒となった。それは今でも続いている)。彼らの信じられない音楽的多様性―彼らはどんなスタイルでもこなすことができ、それはまるで次から次へと名曲を繰り出してくるジューク・ボックスのようであった。実際に彼らの強みは100曲を超えるレパートリーにあった。それらの曲はブリンズレィズを思い起こさせるものがあり、ブリンズレィズがニューヨークでの大失敗から前進していくための方向性を示していた。

Eggs Over Easyが1971年11月7日、タリー・ホーでの出演をとりやめた後、はっきりいえばその後釜にはブリンズレィズがおさまったのだが、その時以降ブリンズレィズはロンドンのパブやクラブ・シーンの中で、最高のバンドとしての真の名声を勝ち取っていくようになったのだった。活動はバンドの才能を磨き上げ、古いアメリカの音楽を出発点とし挑戦的にテンポを速めることによって彼らのスタイリッシュな領域を広げることにもなったのである。二つ目の発見は、とりわけニック・ロウのアメリカのシンガー・ソングライター、Jim Fordに対する強い好奇心であった。フォードはPJ Probyの全米ヒット、‘Niki Hoeky’の作者としていくらか知られていたが、確かに時折Bobby Womackのために重要曲を提供していた(‘Harry Hippie’と‘Point Of No Return’を含む)。フォードはまた、1969年USのSundownレーベル(White Whaleレーベル傘下)から‘Harlan County’というすぐれたアルバムを出していた。ディープなソウル、カントリー、R&Bに影響を受け、それらをミクスチャーしたフォードは1971年英国にいたときに、マネージャーのSy Waronker(リバティ・レコーズの創設者)を介してニュー・アルバムのレコーディングにバック・バンドとしてブリンズレィズを起用するアイデアを思いついた。

1997年ニック・ロウは回想する。“僕らはジムと一緒に3日間オリンピック・スタジオに入ったよ。でも正直いって僕らはあまりいいプレイができなかった。彼は僕らにソウル、カントリー、ポップが消化された素晴らしい曲を披露してくれたんだけど、いざレコーディングが始まると彼は僕らとは違うリズムをとって歌い始めるんだ。僕らは若かったから彼とプレイすることがどれだけ凄いことか分かってなかったし、いい仕事をするには経験不足だったんだ。今でも曲のタイトルを思い出すことができるよ―‘36 Inches High’、‘Which Way Will The Wind Blow Tomorrow’、‘Big Mouth, USA’、そして‘Ju Ju Man’だ。”もちろん一番最後のタイトルはこのCDの曲目リストにざっと目を通してみれば気づくように、11曲目に入っているナンバーだ。この曲はのちにDave Edmundsも彼のアルバム‘Get It’で取り上げている。そして今でもこのウェールズ人のコンサートでは定番となっている。‘Ju Ju Man’はブリンズレィズの雰囲気にバッチリ合っていたため素早くカヴァーされたし、彼ら自身の‘Surrender To The Rhythm’にも応用された。またフォードの‘Niki Hoeke Speedway’もカヴァーされたが、これは前述のPJ Probyのヒットだ。

さらに最初のニック・ロウのソロ・アルバム‘Jesus Of Cool’のファンなら、そこにもフォードのカヴァー、‘36 Inches High’が入っていることに気づくだろう。そこにはこういう詞がある。“オレには争いを呼ぶ銀のピストルがある”―これはこの曲がアルバムのタイトル・トラックのヒントになった可能性を考えさせられる。またブリンズレィズは翌年のライヴ・アルバム‘Greasy Truckers Party’でもフォードの‘I’d Be Ahead If I Could While I’m Behind’をカヴァーした。ジム・フォードの影響は明らかにその後も続いていたのだ。ブリンズレィズは今ではかなりのコレクターズ・アイテムとなっている2枚組のアルバム‘Glastonbury Fayre’と、‘Live At The Paradiso’でもそれらの曲を披露している。後者はアムステルダムで録られたものだ。ブリンズレィズはUKでは不安定な人気であったが、ベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ3国による関税同盟、またはその3国の総称)3国ではいつも人気者であった。

ニック・ロウの音楽性はフォードと、ブリンズレィズに音楽的方向性を示し立ち直るきっかけを与えたEggs Over Easyとの結晶であることをほのめかしている。なるほどSilver Pistolには多様性がある。自信に満ちた楽曲、様々なスタイルのミックス、それと同時にメイン・ソングライターであるニック・ロウとイアン・ゴムの成長ぶりが示されている。アルバムはノースウッドにある彼らが共同生活をしていた家でレコーディングされた。移動式のレコーディング機材によって時間的に限られたスタジオでのプレッシャーから開放され、そのメリハリある雰囲気はレコーディングする環境として完璧であった。実際彼らはフィルモアの大失敗からめざましい方向転換をし、見事に生まれ変わっていた。

それでも最初の2枚のアルバム、‘Brinsley Schwarz’と‘Despite It All’は大部分においてはいい作品であることには違いない。ややアコースティックなスタイルでCrosby Stills & NashThe Bandの影響がはっきり前面に出ている。‘Silver Pistol’の時までにブリンズレィズは明らかに一貫した雰囲気とサウンドを完成させていたし、ところどころに強固な面が見えるのである。そのスタイルはよりレコード上に反映されるようになっていった。このことは彼ら自身の家でのジャム・セッションを通じて成し遂げられたものだ。アイデアを出し曲を磨き上げ、うまくいかないものは破棄し、たくさんのマリファナを吸い、全く違ったアプローチの断片を一つにまとめ上げていった。

当時のロック・ミュージックの主流とは反対にバンドは音量を下げていき、お互いの音、プレイを身近に聞こえるようにしていった。サウンドはメイン・ストリームとは正反対にむやみに大音量に頼ることなく無意味な誇張を省いていく傾向にあった。この‘ひそかな練習法’はレギュラー・バンドとして出ていたタリー・ホーにおいてさらに有益なものとなった。具体的にそれが表れているトラックは、‘Silver Pistol’、‘The Last Time I Was Fooled’そして‘Unknown Number’だ。これら全てはニック・ロウの手によって生きいきとした曲になっている。ゴムはアルバムのオープニング、‘Dry Land’(スウィートなカントリー・ワルツだ)とラストのインスト、‘Rockin’ Chair’(このタイトルはもしかするとザ・バンドのグレイトな同名曲にオマージュを捧げたのかもしれない)を提供した。

あるいは評論家たちの主な論評はいくらか‘平板なサウンド’であったかもしれない―ニック・ロウはのちになってコメントしている。“思うに後から考えてみれば当時の多くのレコードには2つの落とし穴があるね―ひとつはレコード会社がバンド自身にもプロデュースをさせるようになったことでレコードを冷静に判断するには自分たちの音に接近しすぎたこと、もうひとつはマルチ・トラック・レコーディング技術の発達だ―まだエンジニアの中にはそのテクノロジーについていけない人がいてそれがそういったレコードの欠点として表れたんだと思う。”このCDにフィーチャーされた2枚のアルバムのうちの‘Please Don’t Ever Change’を聴けば、初期のブリンズレィズのレコード上で聴ける欠点はある程度合理的に解釈できるだろう(この2枚のアルバムの間にバンドは高く評価されたアルバム‘Nervous On The Road’をリリースしている)。

またこのアルバムは、バンドのスタイリスティックな多様性と自信の成長ぶりが明らかに見てとれる。ヘヴィなギグ・スケジュールでこの作品はブリンズレィズのLPの中でもしかすると最も一様でなく、いくらかばらばらなスタイルでレコーディングされたのかもしれない。しかしながらそれでも一聴に値する素晴らしいトラックが十二分に入っている。定評ある彼らのカントリー・ポップに加え、バンドはスカやレゲエを取り入れた。‘Why Do We Hurt The One We Love’とラストのインスト‘The Version(Hypocrite)’だ。後者は元々変名バンド、The Hittersとしてリリースしたシングル、‘Hypocrite’のB面に入っていたもので、Leroy Sibblesのカヴァーだ(時々クレジットされるBob Marleyではない)。これは1973年4月にリリースされた。

バンドはあわよくばヒットを飛ばすという望みすらない中、変名バンドで2枚のシングルをリリースしている。うち一つがBeatlesの2曲、‘I Should Have Known Better’/‘Tell Me Why’でLimelightの名のもとで発表された(アメリカのプロデューサー、Steve Verroccaと組んだ最後のセッションからで1975年にリリースされた)。ブリンズレィ・シュウォーツ自身はのちに回想している。“‘Hypocrite’はある意味僕らのルーツに戻ったような曲だった―まだ僕らがKippington Lodgeというバンドだった頃にタンブリッジウェルズのナイトクラブで聴いていたようなスカだね。僕らの昔のマネージャーだったDave Robinsonがそのへんに通じていたな―彼はしょっちゅう僕らが住んでいたところに変なヤツを連れてきたね。ある時は若い黒人を連れてやってきた。そいつは音楽的な理論はわかっちゃいなかったがグレイトなアイデアを持っていた。で、こんな感じで声で表したんだ。‘ブリンズレィ、君はチッカ、チッカ、チッカってやるんだ’、‘ボブはカチンカ、チンカ、チンカヒック’ってね。最後には僕たちはコツをつかんでそれは大いに役に立ったな。”‘Hypocrite’のシングルにはプロデューサーのクレジットとしてShane O’Fancyとあるが、これはデイヴ・ロビンソンのあだ名である。

Gffin/KingThe Criketsのために書いたヒット曲であるタイトル・トラックはとても魅力的だ。ブリンズレィ・シュウォーツ(個人)の素晴らしいギター・ブレイクがフィーチャーされている。ザ・クリケッツは自身自ら1970年代初めにUKをツアーして回っていた。振り返ってみれば彼らの強力なレトロ/ロックンロールは当時のUKミュージック・シーンに‘リヴァイヴァル’旋風を巻き起こしたのが分かる。

また‘Please Don’t Ever Change’にはロカビリー・シンガー、Ronnie Selfの‘Home In My Hand’が‘Live At The Hope & Anchor’ヴァージョンで入っている。これは元々ブリンズレィズが前作‘Nervous On The Road’のレコーディング・セッションでプレイしていた。ブリンズレィズはこの曲をCommander Codyで聴いていたと思われる。そしておそらくEggs Over Easyもやっていたのだろう。ブリンズレィズのマネージャー、デイヴ・ロビンソンはライヴ仕立てのHope & Anchorをもってバンドから離れることになった。おそらくライヴ感を出すにはあまりに多くの技術的問題があり、うまくいかなかったためだろう。またここにはThe Cadillacsのドゥ・ワップ・クラシック、‘Speedoo’も含まれている。アルバムで唯一のイアン・ゴムのクレジットがあるのはオープニング・トラックの‘Hooked On Love’で、このソウル/R&Bシャッフルはアルバムの冒頭を飾るにふさわしい素晴らしいナンバーだ。これは少し後のGraham Parker & The Rumourに通ずるものがある。ゴムは簡潔でメロディックで伝染性あるポップ・ソングを、あらゆる音楽的スタイルで書ける才能あるライターであることを証明してみせ、ブリンズレィズ後にはソロ・アーチストとしてさらに成長していった。

バンドの優れた音楽的貢献者―キーボード・プレーヤーであるBob Andrewsはとりわけ全体に渡って存在感を示したし、ブリンズレィ・シュウォーツとイアン・ゴムは二人とも単純にスタイリッシュな感動を作り上げたが、この3人は別として、ソングライターとして最高位に位置するニック・ロウがここではやはり抜きん出ている。確かなヴォーカルと様々な対比を見せる音楽スタイルの統合力にはめざましいものがある。またその知的なイメージは、ロウの身につけた服からもプンプンと匂うものがあったし、それは今なお彼の名声のひとつである。あるいはそれは彼がバンドを越えて成長していく姿だったのかもしれない。ロウのオリジナルのうちでベストの一つが‘Play That Fast Thing(One More Time)’だ。これはブリンズレィズのライヴの18番になったのに加えて、Dave EdmundsとのRockpileのライヴでも定番となった。

そう、今ではどんな時でも‘Please Don’t Ever Change’は決まって称賛をもって迎えられるアルバムだ。しかしその疑いようのないクォリティにもかかわらず、断固として売れることを拒んできた。彼らは根本的な変化を目指し、それはデイヴ・エドマンズの確かな腕前によって次作、‘The New Favourites Of Brinsley Schwarz’となって結実することになる。

もしあなたがこの2on1コレクションの価値を楽しんでもらえたなら、BGOから出ている彼らの他の作品もさらに聴きたくなってくるだろうと思う。それが‘Brinsley Schwarz’/‘Despite It All’(BGO CD239)、‘Nervous On The Road’/‘The New Favourites Of Brinsley Schwarz’(BGO CD289)、そして‘Original Golden Greats’/‘Fifteen Thoughts Of Brinsley Schwarz’(BGO CD476)だ―素晴らしい楽曲、グレイトな演奏、そして最高の音質、それらはあなたがこの娯楽に使った硬貨以上のものをもたらしてくれるに違いない。

アラン・ロビンソン、2004年6月


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