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Brinsley Schwarz:Brinsley Schwarz/Despite It All/1994 BGO Records BGOCD239



タンブリッジウェルズ(イングランド南東部)出身のブリンズレィ・シュウォーツ―4人組(元々はそうであったがのちに5人組になる)―は、一夜にしてスターダムになることを約束されていたが、不幸にも策略の犠牲となったか、あるいはほとんど活動しなかったバンドとして当時の人々の間では記憶されている。この平均的な郊外のビート・グループがマルチ・プラチナ・アルバム・バンドへの仲間入りに失敗したあと、グループは肩をすくめながらも活動を続け、最終的には忠実ではあるが限られた信奉者とともに5年以上に渡って素晴らしいグループとして存在した。そのファンたちにとって興行主がグループのキャリアのスタートに課した野心過剰なハンディキャップは決して忘れられないものであった。1970年4月から1974年7月までの間にリリースした一貫して印象的な6枚のオリジナルLPに誰もが注意を向けるまでは、時には彼らはほとんど“Famepushers Musicによってでっち上げられたグループ”として考えられていた。今回初めてブリンズレィ・シュウォーツの1枚目と2枚目のLPが素晴らしい1枚のCDに特価で収められたこと、これはBGOが誇りを持って実現したものだ。

1965年頃結成されたKippington Lodgeという名のタンブリッジウェルズのコンボは徐々に変容していくことになった。バンドを率いていた主要人物は、ヴォーカル/ベース/ソングライターのニック・ロウと、ヴォーカル/ギターのブリンズレィ・シュウォーツで、彼らはサフォーク州(イングランド東部北海側)ウッドブリッジで、Sound 4+1というスクール・バンドをやっていたらしい。もっとも真相ははっきりしないが―これも“Famepushersのでっち上げ”かもしれない。だがそうだとしても、その正確な役割はわかりにくいが・・・ これくらいにしよう―ロウとシュウォーツは、ヴォーカル/オルガンのバリー・ランダーマンとドラムスのピート・ホエールズと共にKippington Lodgeの創立メンバーであった。この軽量級ポップ・バンド(これは不名誉なことではない―当時は多く彼らのようなバンドが存在していた)は、EMIとレコード契約を結び、ヒットが出れば間違いなくアルバムを作るという約束で5枚のシングルを発表した。しかし彼らはチャート入りを逃し、「ヒットを生まないレコーディング契約」という、バンドのキャリアにつきまとう亡霊が姿を現し始めた。

最初にランダーマンがポップ/サーフ・バンドのVanity Fareに加入するためにグループを離脱したのはもっともなことだった。なぜならそのバンドは当時、抜け目のないことで有名であったし、少なくとも3枚のUKトップ20を放ち、1枚はトップ10に入っていたからだ。そして彼の旅立ちはボブ・アンドリュースの出現を意味していた。ヴォーカリスト/キーボード・プレイヤーでもあった彼は、バンド名の変更と新しいスタートを切るまでにKippington Lodgeのメンバーになった。実際のところ、Kippington LodgeからBrinsley Schwarzになったのはたった一度のメンバー・チェンジによるものだった。前任のドラマー、ピート・ホエールはスターダムそして/あるいはチャート上の成功を画策することに価値を見出せず、音楽界から身を引く決心をした。彼の後継者がビリー・ランキンというアメリカ人だった。しかしグループは依然あてもなく事実上飢えに苦しんでいた。彼らが新しく採用した計画(多分いくらかカントリー/ロック的なアプローチをするための相応しいスタートを画策したのだろう)は、ほとんど分け前のなかった彼らが、うまく名声を勝ち取るためにオーディションを受けたマネジメント会社による宣伝工作であった。その会社を経営していたのがのちにスティッフ・レコーズとパブ・ロック・ムーヴメントの立役者となった伝説的な人物、デイヴ・ロビンソンであった。

ロビンソンはジミ・ヘンドリクスと働いていたが、ジミくらいの知られざるブリティッシュ・バンドを見つけ出そうという大胆な考えを抱いていた。そしてブリンズレィを、デビュー・アルバム制作後レコード会社によって観客をかき集め、ニューヨークの世界的に有名なフィルモア・イーストに送り出すという考えを持っていた。レーベルはニューヨークでグループを見せるために、飛行機一機分のロック・ライターの輸送費を出し、アメリカへの只旅行と引き換えにグループのアルバムを好意的に評価するようそそのかし担保としたのだ。昔のライターたちにとってアメリカへの只旅行など、ほとんどあり得ないものだった―今日ではほとんど誰もが望めば大西洋を渡ることができるが、1970年当時の平均的な英国人にとってアメリカは月ほどにも遠いかなたであったのだ。

あるいは彼のアルバムに対する代価だったのかもしれないが、ロビンソンは彼がアプローチしたレコード会社からかなりの抵抗にあった。少し前には予定されていたフィルモアのギグには、買い手が全くつかなかったのである。もし接待旅行がキャンセルされていたら、Famepushersの顔は丸つぶれになっていただろうが、最後には元々の価格よりいくらか安く設定されたのだろう。グループはもう一人の英国音楽産業界の伝説的人物、アンドリュー・ローダー(彼は1990年代もきわめて多忙だ)と契約を交わした。1970年当時、ローダーはユナイテッド・アーチスツで働いていた。彼が契約したのはブリンズレィ・シュウォーツを始め、他にも多くの有名なバンドがいた。例えばザ・グラウンドホッグス、ドクター・フィールグッド、ザ・バズコックスその他多くの地元のグループなどだ。また彼はクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の世界的なヒット曲のライセンスを、英国で最初に取得しようとしていた。他のほとんどのレコード会社と違って、ロビンソンが接触したローダーがA&Rのボスの座にいたユナイテッド・アーチスツは、有益でもある先進的な音楽に着目していたレコード会社であり、ローダーはブリンズレィ・シュウォーツの音楽性を好んでいたのかもしれない。一方彼は間違いなくフィルモアのビジネスがグループにとって功を奏し、高いステージへと踏み出すことを願っていた。彼はグループが大きくなる可能性を信じ、彼らがのし上がることを見込みそれを熱望していた。とりわけニック・ロウに関しては、特異ではあったが素晴らしいソングライターとして成長することに疑いを持っていなかった。

アルバムは確かにドジを踏んでしまった。あるいは誰かが英国の音楽プレスの寛大さを過大評価してしまったのかもしれない。音楽ライターの大部分は大西洋横断を快く受け入れたが、彼らはその自信過剰なプランが様々な要因から不発に終わった無謀な戦略として評価し、感謝の念を表明する気にはならなかったのである。記憶が正しければグループはオープニング・アクトだった。ビラではヴァン・モリソンとクイックシルヴァー・メッセンジャーズが先頭に書かれていた。この二つの一流アーチストの中にあって、タンブリッジウェルズ出身のグループのカリスマ性の欠如は、‘NME’や‘Melody Maker’の目にとまるはずもなかった。いかにライターたちがグループの音楽に好意的で、Famepushersの考えを絶賛したとしてもだ。それはまた直感的にプレスたちがグループのことを、あまりに素晴らしすぎて信じられないほどだと思ったとしてもだ。旅の手はずも失敗だった。伝えられるところによると、いく人かのジャーナリストたちはブリンズレィズがギグを終えるまでにフィルモアに到着しなかったようだ。そして全てのエピソードの中で最悪なのが、グループがそれ以来ほとんどまともに扱われなくなったことだ。一連の素敵なアルバムを制作したにもかかわらず、“フィルモアのでっち上げ”のイメージによって誰もアルバムを買わなかったのだ。

1970年暮れ、グループは大きな影響力を持つローダーのもとで、多くの人々が彼らの最高作と見なすアルバムをものにした。この時までに彼らはFamepushersを離れ、デイヴ・ロビンソンが彼らのマネジメントを行ない、彼らはステージングを改良、洗練させ、ついにはEggs Over EasyとBees Make Honey含むパブ・ロック・バンド第一波の中で、大きな魅力を発揮するようになった。後者二つのバンドはブリンズレィ・シュウォーツほどのパワーを維持することはできなかった。アルバム‘Brinsley Schwarz’は明らかにある種自信なさげな自意識が見てとれる。例えば10分以上の‘Ballad Of A Has Been Beauty Queen’だ。素晴らしいタイトルが付けられたセカンド・アルバム、‘Despite It All’(‘全てをものともせず’)は、挑戦的に信じる道を突き進むバンドの姿であり、これは傑作として生き続けることになった。再びニック・ロウが8曲中7曲を書いた。そこには陽気なオープニングの‘Country Girl’と、新自叙伝的な‘Ebury Down’が含まれている。いく人かの重要な友人たち(エリック・バードン・アンド・ジ・アニマルズからジョン・ウェイダー、ヴァイオリンにFamily、ヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイターのサックス・プレイヤー、デイヴ・ジャクソン、英国一のペダルスチール・プレイヤー、B. J. コールらがあちこちで手を貸している)が参加したグレイトなレコードだったが、チャート入りは逃してしまった。それは明らかにアルバムが良くなかったからではなく(何曲かはファースト・アルバムのレベルにあるという意見もあるが)、全く素晴らしいアルバムであったからだ。当時も(そして今も)名作に違いないが、1970年、それはほとんど音楽とは関係のないところで失敗を運命づけられていたのだ・・・

‘Despite It All’がリリースされる直前、グループはセカンド・シンガー/ギタリストとしてイアン・ゴムを加入させた。それ以降このバンドの顔ぶれは4年以上に渡って(あと4枚のアルバムでも)同じであった。この時グループは、成功はしなくとも立派な価値ある地位を獲得し、趣味のいい評論家たちから高く評価されていた。しかし依然としてレコードはチャート上の成功を果たせないでいた。バンド解散後、ブリンズレィ・シュウォーツとビリー・ランキンはダックス・デラックスの最後のラインナップに加わった。このバンドはハードなロックをやるパブ・ロック・グループで、フロントマンはシンガー/ギタリストのSean TaylorとギタリストのMartin Belmont(皮肉にも彼は以前ブリンズレィズのロード・マネージャーとして働いていた)だった。1975年半ば、ダックス・デラックスが解散した時、シュウォーツはデイヴ・ロビンソンから彼が当時発見したシンガー/ソングライター、グレアム・パーカーのバックとして結成したバンドに加入しないかと話を持ちかけられた。これがグレアム・パーカー・アンド・ザ・ルーモアで、ルーモアはパーカー抜きでもレコードを出せる境遇にあった。それは好ましいレコード契約であったが、バンドのメンバーたちがパブ・ロック・シーンにおいて多かれ少なかれかなり高名であったからだろう。リズム・セクションはリード・ギターにマーティン・ベルモント、キーボードにブリンズレィズからボブ・アンドリュース、それにBon Tems Roulezが加わって成り立っていた。

ビリー・ランキンはTerraplaneというグループで活動を続けていたようだ。しかしその後彼のうわさはほとんど聞かない。一方ブリンズレィ自身とボブ・アンドリュースは、ザ・ルーモアとして数年間成功を収めた後もバンドやレコードで姿を見せている。

イアン・ゴムとニック・ロウはソロ・アーチストとして乗り出し、ロウはスティッフ・レコーズ初のアーチストとしてその個性を発揮することとなった。スティッフはロビンソンと元チリ・ウィリのマネージャー、ジェイク・リヴィエラがスタートさせたレーベルだった。ロウはエルヴィス・コステロのプロデューサーとなり、必然的にグレアム・パーカー・アンドザ・ルーモアもプロデュースした。時にはロックパイルでデイヴ・エドマンズと共に活動し、ソロ・キャリアを追及し、ジョニー・キャッシュの継子の一人、カーレン・カーターと結婚、離婚をし、ファースト・パンク・シングルをプロデュースした。そのシングルはパンク・ロックの火付け役となった(ザ・ダムドの‘New Rose’だ)。リトル・ヴィレッジでジョニー・ハイアット、ジム・ケルトナー、そしてライ・クーダーとともに働き、ケンブリッジ・フォーク・フェスティヴァルでソロ・アーチストとしてプレイした。時にヒットを放ち、感動的なアルバムをいくつも作りながら、彼はそれ以来その町の顔役であり続けている。イアン・ゴムは、ソロ・アーチストとしてはやや不運であったものの、USトップ20ヒット・シングル‘Hold On’を放った。一方ロウもまた‘Cruel To Be Kind’で同様のヒットを出したが、この成功はブリティッシュ・シンガー/ソングライターとしては数少ないうちの1曲であった。

ブリンズレィ・シュウォーツというグループが、多くの才能の集まりであったことはもう述べる必要はあるまい。だからこそ彼らの作った素晴らしいアルバム群が、過去のカルト・アイテムにとどまっていることが非常にじれったいのである。ポール・マッカートニー・アンド・ウィングスのサポート・アクトとしてツアーをしたにもかかわらず、そのバンド存命中ついに成功を成し遂げられなかった彼らではあったが、今回のCDリリース(それも特価)が作品の素晴らしさと認知を広げるきっかけになればそれほどうれしいことはない。今回誤解を正そうではないか。そうだろう?

ジョン・トブラー、1994


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