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Bridget St. John/Ask Me No Questions/2005 Cherry Red Records Ltd. CDM RED 282



BBCのニュー・ステーションであるラジオ・ワンに加わってから1年以内に(今は亡き)DJジョン・ピールは名声を勝ち取り、60年代後半のロック・シーンで最も才能ある重要人物の一人となった。1969年夏の初め、ピールとビジネス・パートナーのクライヴ・セルウッド(後にエレクトラ・レコーズUK支部のマネージャーとなった)が自身のレーベル、ダンデライオンの設立を発表したことは驚くほどのことではなかった。最初に契約したアーチストは、Principle Edwards Magic Theatre, Beau, そしてBridget St Johnだった。

ブリジットはロンドン南西郊外のEast Sheen出身の若いシンガーだった。第2次大戦後1年経った1946年に生まれた彼女は3人姉妹の真ん中だった。彼女は姉と妹のことを語っている。‘二人ともピアノがちゃんと弾けるクラシック音楽家だった。’彼女の父親は眼科医であり、厳格で信心深い人間だった。一方彼女の母親についてはブリジットは、‘穏やかな心を持った人で、彼女の野心なんて感じたことは一度もなかったわ。何となく悲しみを誘うような静かなところがあった。母は料理がとても上手だったし、ピアノも素晴らしい腕前で趣味でよく弾いていたわ。私がギターを手に入れて曲作りを始めた時、母はいい聞き手になってくれた。あれこれ指摘するんじゃなくてね。’

ブリジットの両親は娘たちに楽器を習得してほしいと強く望んでいた。11歳になるまでピアノのレッスンを受けていたブリジットは、次にヴィオラを手に取った。しかしそれから2年後、ブリジットによると、‘両親と私は話し合って、私はギターに持ち替えたいといったわ。選択の岐路に立っている時、母は祖父からバンジョーをもらってくれた!でも私はその頃、映画GenevieveのクールなKay Kendalを観てトランペットを吹きたいと思うようになったの。でもそれは見た目ほど簡単じゃなくて、先生も好きになれなかった。その結果2年後、私は平凡なプレーヤーになってたってわけ。’

彼女の音楽は確かに幼い頃の体験に基づいている。‘クラシック音楽は時々流れていたわ。78回転のレコード・コレクションがあってよく聴いていた―一番私の記憶に残っているのはMills Brosの“Joe the Window Washer Man”ね!あとDanny Kayeの“Tubby the Tuba”。’彼女の家には本があふれ、庭が彼女の遊び場となっていた。‘私が16歳になるまで家にテレビはなかったと思う。私たちはほとんどの時間を庭で過ごしていた。庭はとても広くて2本の大きな杉の木があってよく登って遊んだわ。両親は熱心な園芸愛好家だったから、庭には無数の花と野菜と果物があった。私たちは本当に小さな天国を持っていたと思う。10代の時には犬と猫もいたわ。’

牧歌的な子供時代をずっと過ごしていたかのように見えるが、ブリジットは時々父親とケンカをした。‘私は父のやり方じゃなくて自分のやり方で物事を決めたかった。私は教会には行きたくなかったし、中等学校にも行きたくなかったんだけど行かなきゃならなかったわ。10歳か11歳の頃、私はギターが欲しかったんだけど、違う楽器を習いなさいっていわれていた。’一方で彼女はモンテッソリ初等学校を気に入っていたが、これはまた別のストーリーだ。セント・ポール女子校での彼女の主な興味はスポーツと演技だった。結局彼女はシェフィールド大学でフランス語とイタリア語を専攻することになった。それから彼女は北部へ移り住んだ。彼女は母方のおばあさんから20ポンドをもらい、それでナイロン弦の初めてのギターを買った。

60年代半ば、ブリジットはComstock Lodeマガジン社に入ることになる。彼女は2番目の音楽的探求に手を出した。‘私は3年間をギター習得に費やした。5人の女の子と共同生活をしていて、そのうちの一人がギターを弾けた。で、その子にBuffy St Morieの歌を教わったのよ。私はギターを買って以来自作の曲を書いていたし、詩も書いていた。私はレビューを上演していた大学の劇団に参加して2曲歌ったわ。’

アメリカ人の知人であったロビン・フレデリックを通じて、ブリジットは1967年フランスへのヒッチハイクの途中、ジョン・マーチンに出会った。ロビンはこの伝説的なグラスゴー出身のシンガーにロンドン・フォークの根城、Bunjiesで出会っていた。気分の滅入っていたブリジットは彼と会ったことによって元気を取り戻し、ジョンがギグをやる時にはいつもついて回るようになった―この時の友人関係が現在まで続くことになる。ジョンはブリジットが最初のスチールギターを買う時に手助けをし、ロビンはのちに彼女の歌‘Sandy Grey’をジョンのデビューLP、London Conversationに提供した。ジョンを通じてブリジットは最初のデモをRevox(テープレコーダー)で作った。このテープレコーダーの所有者が当時頭角を現しつつあったシンガー/ソングライターのアル・スチュワートだった。

彼女は自分の詩とギタリストのピート・ローチと共に、ローチが参加していたNight Rideに出た。これはジョン・ピールがBBCで持っていた水曜晩の多面的な番組で、the Occasional Word Ensembleとして知られる詩人とミュージシャンのグループものちに、メンバーが大学を出てからダンデライオンと契約することになった。こうしてブリジットは初のラジオ番組でのレコーディングを行なった。この彼女のBBCのデビュー・セッションは、1968年8月28日に行なわれ、これが今は亡きDJとの最初の重要な出会いであった。‘私は6曲を吹き込んだ。番組のプロデューサーは、ジョンはいつでも彼のためのセッションをしてくれる人たちと会うのは大歓迎しているので番組に来てほしいといってくれた。素晴らしかったわ。私がNight Rideに出演したらジョンは本当に気に入ってくれて、次の日電話をかけてきてテレビ番組(How It Is)を私のために押さえたといったわ。何とかして彼は私にギグをさせたかったようだった。どういう風に行なわれたかよく覚えてないけど、私たちはディスコテックに行って30分のステージをすることになった。ジョンはオーディエンスに向かって座るように言った。“なぜなら彼女はとてもシャイで大人しいんだけど、これからみんなのために歌おうと思ってるんだよ!”っていってたわ。’

ブリジットは定期的に国中を回るギグを始めた。そして続く4月、彼女はピールのTop Gearショーでデビューを飾った。それは彼女がダンデライオンと契約する最初のアーチストの一人となる必然的なステップだった。69年7月にPrinciple Edward’sと共にリリースされた魅力的なデビュー・シングルが、‘To B Without A Hitch’b/w‘Autumn Lullaby’だ。たしかに感情を抑えてはいるが、切迫していてメロディックだ。当時チャートには上がらなかったが、シンガーとしてもソングライターとしてもブリジットの誠実な側面がよく表れていた。このA面について彼女は説明する。‘夏の間に(66年だと思う)イタリアを友人とヒッチハイクして回っていた時、その友人の家族と過ごしたことがあって、その時のことを歌ったものね。覚えてる限り、その家族には二人の小さい女の子がいて、私はベアトリクス・ポッター(商標、絵本作家)の物語を話したか読んだかしたの。そのうちの一つが確かにTale of Jeremy Fisherで・・・バターカップ・サンドイッチの引喩よ。BはBeatrixとBridgetのBで、もちろん“be”も意味しているわ!’

B面の‘Autumn Lullaby’はあたたかく、より親近感を与えてくれる。ブリジットは回想する。‘私はリッチモンド・パーク近くで育った。大きな庭で多くの時間を過ごし、さっきいったように16歳になるまでテレビがなかったから、自然環境が自分の中に染みついていると思うし、どこか静かな戸外が今でも自分にとって快適な気分になれるところだと思う。’全く愛らしい曲で季節のムードをよく捉えている。葉は落ち、日は短くなっていき、生け垣にはイチゴが見える。

彼女のファーストLP、Ask Me No Questionsは9月のあたまにリリースされた―この見開きジャケットを一瞥するだけでそのトーンを感じ取ることができるだろう。セピア色の写真、散文の引用、ブリジットの詩の掲載など。フロント・カヴァーには赤ん坊のブリジットがおばあちゃんに抱かれている。‘これは父方のおばあちゃんよ―彼女は救世軍の長で私は成長するごとに彼女に怯えていたわ!おばあちゃんは私の父が生まれる前に未亡人になった。おじいちゃんは36歳で亡くなったのよ―胃癌だったと思う―彼女は第1次大戦が始まろうって時に私の父と父の姉の3人だけになってしまった。詳しくは知らないけれど。彼女は私が10歳くらいの時に亡くなったけど、私に残っているおばあちゃんの記憶はいくらか厳格な女性だったってことね。それでもこの写真の彼女と私は大好きね!’

詰まっている音楽は宝石のコレクションだ―親しみやすく、詩的で、自然で、少しばかり弱々しい。あるいは全ては正当な動機から演奏され歌われているのかもしれない。ブリジットはコメントする。‘ほとんどはシェフィールド大学にいた最後の年に書いたもので、私の最初の曲だった(その前に2曲書いてたけどそれは結局レコーディングせずじまいだったわ!)。レコーディングについては私はどの曲をアルバムに収録するか全く分からなかったわ。BBCスタジオを別にすればこの時が自分にとっての初めてのレコーディング・スタジオ体験だった。’穏やかで楽観的な雰囲気はそのセッションで彼女を取り巻いた人々によるものだ。‘家族のような感じだった―ジョン・ピールがプロデューサーでガイド役だった。それから何人かの友人が色をつけてくれた。サイモン・ステイブル(ドミニク)はノッティンヒルで素晴らしいレコード店を経営していて、何度かギグにも来てくれた。シェフィールドのリック・サンダースはお互いの友人や詩人を訪ねた時に会って以来友人同士になった。そしてジョン・マーチン。彼はジョン・ピールと共に私のかけ出しの頃にすごく助けてくれた。アルバムはボンド・ストリートのCBSスタジオで2回のセッションに分けて10時間でレコーディングされた。すごく気楽にレコーディングを進めていったことを覚えているわ。’

アルバムはデビュー・シングル両面の2曲で幕を開ける。どちらも彼女のライヴ・レパートリーとして重要なナンバーだった。‘Curl Your Toes’は彼女のトレードマークであった明るく低い声域がフィーチャーされている。‘野外でのコンサートも数多く経験したわ。そこでは私が座っている前で人が集まってきたり出て行ったりのオープンな雰囲気だった・・・私はここでのジョン・マーチンの控えめな伴奏が好きね。’‘Like Never Before’はブリジットが説明するように幼少時代の楽しい思い出を強く喚起させる。‘私は10代の子供時代の多くを海岸で過ごした―ほとんどコーンウォールとドーセットね。’ブリジットは常に巧みに自然のエッセンスと美をとらえてきた。‘The Curious Crystals of Unusual Purity’は何年にも渡って彼女にとって重要なナンバーとして存在している。‘この曲のタイトルは去年ニューヨークのクィーンズにあるMOMA(Museum of Modern Art)の展覧会で掲げられたわ。私はそのオープニングでこれを歌ったのよ。’

オリジナル・アルバムのA面は‘Barefeet and Hot Parements’で幕を閉じる。ドミニクの気まぐれなボンゴがくすんだ夏のようなテイストを与えている。ブリジットはいう。‘私は1967年に3ヶ月間エクサン・プロヴァンス(フランス南東部)で過ごした。本当は大学のフランス語課程に出席するためだったんだけど―私はシャイで怯えてしまって1回しか出席しなかった。その代わり私はその町に住んで人生を楽しんだわ。’

‘I Like To Be With You In The Sun’はブリジットが結婚することになった人へのラヴソングだ。一方‘Lizard-Long-Tongue’はブリジットによると、‘一部は本当で、一部は希望、一部は夢そして愛の言葉ね。’これはOccasional Word Ensembleのメンバーとしても見事なギターをプレイしていたリック・サンダースによる2曲のうちの最初の1曲だ。‘Hello Again(of course)’はアルバム中で筆者がお気に入りの1曲だ―愛する人が去っていった悲しみと、彼らが元通りになった喜びについての歌だ。これはブリジットがシェフィールドを去ったあとに書かれた。その後彼女は北ロンドンのプリムローズ・ヒルのWells Riseに住んでいた。次の‘Many Happy Returns’で見事にピリッとしたペース・チェンジを見せている。サンダースによる器用なボトルネックのプレイが聴ける。‘Broken Faith’は前述のピート・ローチのために彼女が書いた曲だ。

アルバムのタイトル・トラックは傑作だ―イングランドの田園風景を描き出すサウンド・エフェクトはピンク・フロイドの‘Grantchester Meadow’に並ぶものだ―ヴォーカル・ハーモニーとジョン・マーチンによるセカンド・ギターが光る驚くべきナンバーである。ギターが二度目に入ってくる前の田園を思わせるサウンド・エフェクトで埋められたミドル・セクションが素晴らしい。ブリジットはいう。‘ジョン・ピールが鳥の声と鐘の音を聞かせたのよ。この歌は情況が目に浮かんですごくエキサイティングだった。彼がこの曲に施したことは今でも素晴らしいと思っているわ。’このトラックは筆者にとって無人島へ持っていく1枚だ―アルバム中最高の瞬間である。ブリジットは2005年に述べている。‘私にとってもフェイヴァリットの1曲ね。ジョンが去ってしまった今、いっそう思い出として永遠に残る曲になった。’ジョン・マーチンにとっても最も忘れられない1曲だそうだ。ピールによる鳥の鳴き声のサンプルは、彼がBBCのサウンド・アーカイヴから取り寄せたものである!

当時アルバムに収められなかった2曲がこのCDでボーナス・トラックとして追加された。アコースティックなムードで完璧にこのアルバムを補完するものだ。元々は1972年にリリースされた‘Fly High’のマキシ・シングルのB面であった‘Suzanne’はレナード・コーエンの代表曲のうちの1曲であり、ブリジットがいつもライヴでカヴァーしていた曲だ。‘The Road Was Lonely’はその1年後にMCAレコーズからリリースされた唯一のシングル、‘Passing Thru’のB面としてレコーディングされたナンバーで、人生における天の恵みへの賛歌だ。

ピールは1969年秋にリリースされたコンピレーションLP、Top Gearのライナーノーツで、シンガーの魅力を正確に要約しているが、そこで彼は書いている。‘ブリジット・セント・ジョンについて客観的に書くのは簡単なことではない。彼女の声と曲には木と生け垣の香りにあふれている。シカとハリネズミがハッとびっくりするような・・・ブリジットはロンドンに住んでいるが、彼女を聴いたり、彼女と話したりしていると、海岸のコテッジにいるような気分になるんだ。世界中で僕のお気に入り女性シンガーだ(フェアポート・コンヴェンションのサンディ・デニー同様にね)。

残念ながらAsk Me No Questionsは大きなセールスを上げられなかったが、小さくとも続く彼女の70年代のアルバム群に貢献し、その土台を築いた。そのナイーヴで最小のサウンド・プロダクション、繊細なプレイと心からの歌唱は、私が60年代後半のあの雰囲気を呼び戻したいと思った時に聴く特別な1枚である。

ナイジェル・クロス ブリジットに多大な感謝を送る


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