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Bread, Love And Dreams/Amarylis/2006 sunbeam records SBRCD5027



デヴィッド・マクニーヴンはグラスゴーで育ち、西スコットランドで多くのロック、R&Bバンドに参加し、長い間修行を積んだ。1967年までに彼はまだ若かった家族と共に(ロンドン、シェフィールドを経由したのち)エジンバラ郊外15マイルほどのところに引っ越した。その週のうちに彼は工場で働きだし、週末にはグラスゴーに戻ってソウル・バンドで演奏していた。バンドはPAシステムに大きな借金を抱えていたため、ハモンド・オルガンの持ち運びを伴う旅であったが、彼にとってそれは大変な重労働であった。その結果、彼はアコースティック・ギターとハーモニカに魅力を感じるようになった。同時に彼は徐々にボブ・ディラン、レナード・コーエンらシンガーソングライター、インクレディブル・ストリング・バンド(グラスゴー周辺のクラブで実際に観ていた)などに引きつけられるようになっていった。またギタリストとしては、バート・ヤンシュ、レッドベリー、ビッグ・ビル・ブルーンジーも同様であった。

“僕はトラディショナル・フォーク・シンガーだけを出すようなクラブに通い始めたんだ。お客がみんな歌を知っていて一緒になって歌うようなね。”彼は今日回想している。そういったギグに何回か通ったのち、彼はMax Cruikshankという男に話しかけられた。その男は社会福祉事業に関わっていて、自らもプレイし、セカンドあるいはリード・アコースティック・ギタリストでコーラスもとれるメンバーを探していた。“僕らは僕の居間でいくつか曲を試したんだけど、僕はギターを弾くことより歌い続けることの方が自分のギターにとっていい試みになると考えたんだ。”二人の関係は上手くいかなかったが、それは主にデヴィッドが自分自身の曲を磨き上げたいという欲求が強かったからであった。その後間もなく彼は仕事をやめ、大胆にもエジンバラで毎晩ギターを持って歌うようになった。“僕の望みはクラブでのレギュラー出演、マネージャー、バッキング・バンド、レコード契約だった。仕事をやめてしまったから次の月曜まで音楽で家族を養えるようにね。”

あるギグが終わったあと、彼が報酬としてブラック・コーヒーを受け取っていると、ある二人の若い女性―アンジー・リューとキャロリン・デイヴィス―が彼の後をついてくるのに気がついた。“彼女たちはアンジーとキャロリンだと紹介されて、自分たちの作った歌を歌っているといったんだ。黒髪のアンジーが作った‘The Least Said Between Us Is Goodbye’という曲があって、僕はすごく気に入ったんだ。彼女たちがマリー・ウェルズの‘My Guy’を陽気に歌ったことを覚えているよ。”その晩の最後にデヴィッドは、そのデュオのマネージャー、アレックス・マーシャルに話しかけられた。彼はデヴィッドに、彼女たちのデモ・セッションでギターを弾いてくれないかと提案した。“3曲プレイしたんだけど、その時点で僕らはグループとしてやっていくことは明らかになったね。”デヴィッドはいう。“アンジーとキャロリンは僕の曲に難なくコーラスをつけて歌ったし、僕は彼女たちの歌の中にブリッジを挟み込むこともできた。”アレックスはグループ名を1953年のイタリア映画からとってBread, Love and Dreamsとすることを提案した。そして彼らのロゴと写真、さらに次のスタジオの準備に取りかかった。

“僕はそれが当時の‘フラワー・パワー’精神だったのかどうかは分からない。でもみんな確かにお互い助け合うために集まったんだ。”デヴィッドは続ける。“僕が経験してきた西部地方のR&Bシーンとは対照的で、それはまるで別の惑星のもののように思えたね。音楽事務所のオーナーたちは、僕らの好きなギターを揃えてくれて、僕らが望めばリハーサルのための‘奥の部屋’を案内してくれたね。”1968年のエジンバラ・フェスティヴァル開催中、デモ・スタジオのオーナーはバンドのテープをデッカのプロデューサー、レイ・ホリックスに聞かせ、彼はすぐにレーベルとの契約に応じた。“アルバム3枚分のギャラをもらうためにロンドンへ向かったときの事を覚えているよ。いくらもらえるのか知らずに行ったんだけど、それが10ポンドだって知った時は一体彼らにとって僕らの重要性はどれほどのものだったのか考えざるを得なかったな。”

彼らの自らの名を冠したファースト・アルバムは1969年9月に好評裡に迎え入れられた。しかしセールス的不振によって、デッカは彼らとの契約破棄を望み、キャロリンはソロとして独立するためにグループを去ることを決意した。しかしホリックスはデヴィッドとアンジーの可能性をレーベルに説き、さらに2枚のアルバムのための契約続行を納得させた。スタジオに戻る前に彼らは、UKと海外で広くツアーを行なうことによって、自分たちの作品に磨きをかけた。共演したアーチストはティラノサウルス・レックス、マグナ・カルタそしてサンダークラップ・ニューマンだった((デヴィッドとアンジーの忘れられないひとつの思い出は、ロンドン経済大学(London School of Economics:LSE)でのギグで出演者たちがザ・フーの巨大なPAシステムを共有したことだ))。

あるいは彼らの成長にとってもっと重要だったのは、エジンバラでのTraverse Theatre Groupとの共演かもしれない。指揮者だったマックス・スタフォード・クラークはとりわけデヴィッドが書いた組曲‘Mother Earth’に感銘を受けていた。“世界の破滅についての曲なんだけど、その悲惨な状況の中から前向きな何かが出現するというものなんだ。”デヴィッドは説明する。“他の僕たちの曲と違ってそれは意識の流れを描いたものだったんだ。マックスはすごく気に入って、僕らにそれを劇化しないかって持ちかけたんだ。ただアメリカにMother Earthっていうバンドがいたから混同を避けるために、僕らはあとから女優をAmaryllis Garnettって改名した。その名前には別に隠された意味なんてないよ、単にいい名だったからさ。”彼らはエジンバラとロンドンのロイヤル・コートでそれを上演したのち、スカンジナヴィア、オランダ、フランスそしてスペインをツアーして回り、いずれも称賛を受けた。

1970年夏デッカのウェスト・ハムステッドにあるスタジオに5日間入るまでに、彼らはアルバム2枚分のマテリアルを用意していた。そのアルバムとはつまり、Captain Shannon and the Strange Tale of the Hunchback from Gibhaとアマリリスだったが、当初2枚組として発表するつもりであった。セッションにはペンタングルのダニー・トンプソンが加わった。“僕らが以前関わったセッション・ミュージシャンはみんな知らない人たちだったね。”デヴィッドは説明する。“レコーディングは譜面を初見で演奏してほとんど1〜2テイクでお終いだった。で、彼らは自己紹介もせずにギャラを受け取って次の仕事に行ってしまうって感じだった。でもダニーは1週間Bread, Love & Dreamsのメンバーになったんだ。彼はまず一人でダブル・ベースを使って曲を弾き始めて素晴らしいアイデアを練りだしてからレコーディングに入ったよ。”時間は限られていた。“ギター、ヴォーカル、パーカッションは一斉にライヴ・レコーディングしなきゃならなかったけど、唯一のオーヴァーダブはアマリリスので出しの僕のフェンダー・ストラトキャスターとアンジーのタブラだった。”

デッカはコスト的な問題からアルバムを2枚組にすることを却下、1枚ずつ分けてリリースすることにし、1970年11月まずはCaptain Shannonをリリースした。これは好評であったが(レコード・ミラーは熱烈に‘音楽家としても賞賛に値する安定した内容を誇っている’と評した)、デビュー・アルバムほどのセールスを記録するには至らなかった。そしてレーベルは次のアマリリスをリリースすることにほとんど無関心であった。彼らの最高作として認められるこの作品にとってそれはとても残念なことだ。“曲を2枚のアルバムに分ける時に、僕らはアマリリスの方により神秘的なナンバーを入れることにしたんだ。”デヴィッドはいう。他よりも長く複雑だったが、一貫してメロディックなタイトル・トラックのアマリリス(LPのA面全てを費やした)は、魅力的で独立した小曲から成り立っていた。

ほとんどの曲はデヴィッド作であったが、忘れられない曲、“Brother John”はリューの手によるものだ。“私の父は外交官で、私は子供の頃メキシコで過ごしていたことがあった。”彼女は説明する。“ある長い航海の旅で、世捨て人が住まいで使っていた、美しかったけど荒れ果てた残がいに遭遇したことがあるわ。小さな礼拝堂とオレンジの木とほったらかしにされた墓石があった。この忘れ去られた人がその共同生活の中で果たさなければならなかった仕事のことを考えさせられたわね。”‘Circle of the Night’含む他の曲は彼らのレーベル仲間、the Human Beast(デヴィッド、アンジーとリハーサル・スタジオを共有し彼らのアルバムもレイ・ホリックスにプロデュースされていた)のために書いたものだ。‘Time’s The Thief’はデヴィッドが10代の頃、RADA(Royal Academy of Dramatic Art)を狙って企てたものに関係している。陽気で落ち着きのない‘My Stair-Cupboard at 3 a.m.’の詞は彼らの友人で詩人のリンゼイ・レヴィによって書かれたものだ。“これは僕に孤独を喚起する言葉について考えさせることになったね。パラノイア的で浮かれ騒ぎ的だったり、陽気な曲だとしてもね。”彼は回想する。

彼らの才能と創造性にもかかわらず、デッカの態度は協力的とは程遠かった。“彼らは僕らのアルバムを英国以外でリリースすることをあっさりと拒否したよ。僕らのライヴが海外で成功したにもかかわらずね。”デヴィッドはいう。“レコードを作る機会を与えてくれたのは感謝していたけど、彼らは全く僕らをサポートしたりプロモーションすることはなかったね。ついには僕らはデッカが僕らのアルバムを大量にスリランカに輸出しているのに気づいたんだ。誰もレコード・プレーヤーを持ってないような国へね!要するに税金逃れの一環だったんだ。すごい挫折感だった。僕らはミキシング・セッションにも立ち合わせてもらえなかった。その代わりレイは僕らにアセテート盤を送ってくるんだ。で、僕らはそれに対して30ページの批評を彼に送ってお互いに満足するまで行ったり来たりのやり取りが続くわけ。”1971年7月にLPが発売された時、プレスは再び熱狂的に絶賛した(“彼らの才能とイマジネーションは確かなものだ”とDiscは書いた)。しかしアマリリスはやる気のない宣伝活動と乏しい配給によって地に堕ち全く売れず、デッカは彼らとの契約を打ち切ってしまった。

失望したデヴィッドとアンジーは結婚する前に短期間音楽活動を休止し、その後当時定評のあったバンド、Mama Flyerと組み、絆の強いスコットランドのファンたちに向けてよりエレクトリックな楽曲をプレイするようになった。以来デヴィッドは20年以上に渡ってトレイシー・ウルマン、ロビー・コルトレーン、エマ・トンプソンその他とコラボレイトしながら、グラナダとBBCのために曲を書き続けた。一方アンジーは劇場で働きながら、作曲活動、俳優活動、舞台指揮監督を続け、ついに自身の会社を設立した。彼らは今日も共に働き、子供たちと音楽を作り、レギュラーのステージ、イヴェント依頼をこなしている。

リチャード・モートン・ジャック


アマリリス・ライヴ

僕らが最初にアマリリスを公衆の面前でプレイしたのは、1970年ベルギーのアントワープにあった礼拝堂の中だった。僕らはその前年にブリュッセルのフェスティヴァルに出たり、ラジオ番組でいくつかライヴをやってベルギーのファンを掴んでいたんだ。でもデッカはヨーロッパで僕たちのレコードをリリースする気はなかった。で、僕たちはハムステッドのデッカの倉庫から、在庫や返品分の自分たちのLPを数個のダンボール分用意した。数ヶ月間の僕たちのギグで売りさばくっていう計画だったんだ。アントワープの礼拝堂はマジカルなところだったね。何100とある祭壇の大きなろうそくの中からライトがひとつだけバンドにスポットライトを当てるんだ。僕らがその会場でアマリリスをプレイしている間、アンジーと僕の間にはなにか実体のないテレパシーのようなものが存在した。僕らのプレイと歌は‘別世界’のハーモニー・サウンドを作って空中に浮かんでいるようだった。ライヴの終わりには僕たちは雲の上を飛んでいたよ。僕らが楽器を片付けていると、ツアー・マネージャーのジョン・メリスが聖具室に飛び込んできた。“200枚完売したぞ!”彼は僕らにいった。“レコードがなくなるまでみんな取っ組み合ってたよ!”ってね。

1970年に僕たちはマックス・スタフォード・クラークのトラヴァース・シアター・ワークショップに参加したんだ。僕らはそこで曲を書いたりプレイしたりした。新曲として書いたのもあったし、自分たちが演じる際の実験的な試みとして書いたのもあったね。僕たちはそのワークショップの会場で普段はBread, Love and Dreamsとしてプレイを続けていた。僕らはHuman Beastからドラムスとパーカッション担当のフルタイム・メンバーとしてジョン・ラムゼイを加えた。彼の加入はアマリリスのライヴに多大なインスピレーションを与えてくれたね。僕らはパリの南、the Bois de Dourdainで2週間過ごした。そこはユネスコが主催したもうひとつの演劇連盟のあるところだった。この協会の理念は、ヨーロッパやUSAの他の協会と仕事をしたり意見の交換をしたりするものだった。僕らはポーランドのTadeus Kantoとニューヨークのラ・ママ(実験劇場運動を先導する劇場)のパフォーマー、ロバート・ウィルソンといっしょに参加した。

マックス・スタフォード・クラークは仲間たちに午後の空いた時間に、アマリリスの中の様々なテーマに沿って即興演奏を試みてみようと提案した。ステージ・ショーは驚いたことに政治的で時事的なものに発展していった。テーマはブラック・パワーの勃興、政治腐敗そしてヴェトナム戦争などに及んでいった。アマリリスの中の“purge by fire”のセクションの前で僕たちは1969年プラハのヴェンツラス広場で焼身自殺したチェコの哲学専攻の学生、Jan Palachに捧げることにしたんだ。彼の行為は1968年8月のワルシャワ条約軍によるチェコスロヴァキア侵略に抗議するもので、Palachは英雄となって世界中の希望のシンボルとなったんだ。

アンジーと僕は俳優のトビー・サラマンを観ていた。彼は僕らの劇団にいて、エジンバラのトラヴァース・シアターでは「ドラキュラ」を演じていた。そのドラキュラの役で彼は、自分の顔、首、頭皮の筋肉に力を入れることによって驚くべきテクニックを使っていたんだ。まるで彼の顔が骸骨に見えるようなね。Jan Palachの役の中で彼は、ガソリン入りのカンを持ち、ステージ中央で足を組んで座り、カンの中身(色つきの水)をゆっくり頭の上からかぶった。それからジッポ・ライターを取り出して自分の顔の前につき出して火をつけた。すると例の筋肉の収縮によって彼の顔が骸骨に変容していくんだ。で、舞台が消灯する。僕たちは最後に空っぽのステージにライトが当たるときにアマリリスの‘Mother Earth’復活のセクションを持ってきた。これはオーディエンスにとって信じられないような効果があったね。みんなよく椅子から転げ落ちてたね。

エジンバラのトラヴァース・シアターでの上演の後、僕たちはオランダ周辺のツアーをしてアムステルダムでは2週間のショーを行なった。アムステルダムにいた時、ブリティッシュ・カウンシル(英国文化振興会)のメンバーがたまたまショーを見たんだ。彼はすごく感銘を受けてバルセロナ・ツアーの計画を持ちかけてきた。そこで僕らはその国では前人未到の劇場でのフォークロック・ミュージックの演奏をした。フランコ将軍は残りのヨーロッパでのショーを見ることになったね。スペインはその劇場が法的にライヴ・パフォーマンスの場として使用可能になったことで、文化的レベルはやっと20世紀に入ろうとしていた。僕たちはロンドンのロイヤル・コートでアマリリスを演奏する前に、オランダでいったん中断してバルセロナで2週間の公演をすることに同意した。その間はホテルの便宜を図ってくれたよ。

最初のパフォーマンスはフランコ将軍の個人的検閲官だけの前で上演されたんだ。検閲にパスしたら僕らは同時通訳付きでリハーサルしなければならなかった。僕らは自分たちが到着した翌日から検閲官の下見を受けて演奏したんだ。検閲官はオープニングのインストゥルメンタル・セクションの入る前に2分間ショーを中断させた。僕は自分のアコースティック・ギターの音が大きすぎたからに違いないと思った。あるいは自分のギター・プレイがスパニッシュ・フラメンコのレベルに遠く及ばなかったからともね。僕が最も恐れていたのは、彼が台本と歌詞の訳を読んでいたことだった。僕の名前は台本、ポスター、劇場の看板に大きく出ていた。スペインの異端審問によって、意見を異にするソングライターの顔にピストルが向けられたようなものだった。その状態でライヴをやれって?!

でも本当はそれが理由じゃなかった。アンジーはメキシコで育ったからスペイン語が流暢だった。それで検閲官から確かめたんだけど、彼がショーをストップしたのはもっと基本的な理由からだった。彼は舞台脇で一人の俳優がシャツを脱ぐのに気づいたんだ。僕らは湿度90パーセントを越えるようなものすごい暑さの中にいたから。その俳優は下に袖なしのTシャツを着ていたんだけど、検閲官はステージ上で裸になるんじゃないかと恐れていたんだ。僕たちは彼に決してそんなことなどしないと確約して、パフォーマンスを続行することを許された。当時のあの国にいた僕らは完全にファシズム体制下で拘束されていたわけだ。諜報活動機関が昼夜となく僕たちにつきまとっていた。でも誰一人として歌詞の意味やステージ上のアクションについての説明を求める者はいなかったね。全体にリハーサルは同時通訳付きで行なわれた。彼女(通訳者)はアンジーから詞のスペイン語訳を依頼されていた。ステージの仕掛けは、彼女のマイクから客席に設置されたヘッドホンに伝達されるというものだった。聴衆はカタルーニャ語(訳注:当時の反政府民族の言語)でアマリリスを聴くことを選択できるようになっていた。2回目の上演までに同時通訳者はスペイン語で僕たちと一緒に歌うはめになったよ。でもこれは結局うまくはいかなかった。お客さんは誰もヘッドホンを付けていなかったからね。

最初のライヴの前の晩、アンジー、ドラマーのジョン、そして僕はランブラス広場が見下ろせるバルコニーに座っていた。ワイン・グラスを持って瞑想なんかを兼ねてね。すると反対側のバーに、立派な口ひげを生やした見慣れた男が入って行くのが見えたんだ。僕らはホテルの受付からその男は確かにサルヴァドル・ダリで、例のバーは彼のいきつけの場所だったことを突き止めた。僕はアンジーのスペイン語を使って、僕らのニュー・アルバムのカヴァーを手がけてもらう申し出をする絶好のチャンスだとアンジーを説得したよ。僕らがしなきゃならなかったことは、広場を横切ってサルヴァドルにワイン・グラスを買っていって、バッグの中に彼のアートワークを持ち帰ってくることだった。でもアンジーは自分のメキシカン・スパニッシュはカタルーニャ語とは全く違うといって辞退したんだ。ダリとのシュールな会話では細かいニュアンスを理解するのは到底無理だってね。

2つのパフォーマンスはほとんど完璧だった。会場は美しいオペラ・ハウスで、驚くような音響効果があった。全てのショーで特別席、バルコニー、安い席は売り切れになった。聴衆はもちろん僕らのような音楽を聴いたこともなければ見たこともなかった。‘Mother Earth’セクションの最後は曲の繰り返しを含んでいるんだけど、僕らはスタンディング・オヴェイションを受けたね。僕らはお辞儀をして舞台袖に引っ込んだ。聴衆は拍手と歓声をずっと続けて‘ブラボー!ブラボー!’って叫んでいたよ。ステージ・マネージャーたちはアンコールに応えなきゃならないって指示してきた。でも何を?僕らはフラメンコ・スタイルで足を踏み鳴らす聴衆のいるステージに戻って、ファイナル・セクションをもう一度プレイした。この時僕たちは紙吹雪を浴びているのに気づいていたんだけど、それはすぐにバルコニーにいる人たちが、新鮮な赤いバラの花びらを僕たちに向かって浴びせかけているんだと分かったんだ。これはステージ全体が深紅色の海になるまで続いたんだ。通訳の彼女は言葉を失っていたよ。

デヴィッド・マクニーヴン 2006年10月


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