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Booker T & The MGs : The Mar-keys/Stax Instrumentals/2002 Ace Records Ltd CDSCD 117



ロック、ポップ、そしてリズム&ブルースの歴史の中には、多くの偉大な個々の器楽奏者が存在する。しかしBooker T & The MGsほど偉大なバンドはもちろん存在しない。想像できないほど気の合う4人のミュージシャンとして、彼らは半世紀に渡るポップ・ミュージックの最もグレイトなレコードのいくつかのバックボーンを提供しただけでなく、自らのレコードでも意義ある申し分のない力を発揮した。今となっては他にはない大胆さで筋骨たくましい‘Green Onions’が、1962年にどう響いていたかを突き止めることは容易なことではない。当時主流のインストゥルメンタルR&Bのリリースは、意外性に欠ける1-4-5パターンの上に不変のホーン・フレーズが乗り、時折変わったアングルを持った調子が見られる程度であった。‘Onions’は生意気で自信満々で、そして外観上その魅力は普遍的なものであった。たとえその定刻過ぎまで営業する黒人クラブの装いを全身に覆ったグルーヴが、全国チャートのトップにまでMGsを押し上げたとしてもだ。一方でそこにはまだR&Bレコードとして注目されていなかったジェイムス・ブラウン、ビル・ドゲット、ファイヴ・ロイヤルズなどの先人たちがいたが、Booker T & The MGsのデビュー・シングルのようにその効率性において強力なものであった。

しかし我々はMGsの前身がマーキーズだったことを覚えておかねばならない。そのグループの同様に永遠の‘Last Night’が南部を越えて全国に向けてスタックス・サウンドを確立させ、いかに広く普及させたかを認識することは重要な点である。彼らの作品が歴史書において言及されることはめったにないが、当時を振り返るとマーキーズは絶対的にソウルフルであり、とりわけデトロイト、サンフランシスコ周辺ベイエリア、あるいは太平洋側北西部のサーフ・ミュージックよりもヒップであった。その地域に生息していた違いの分かるティーンエイジャーのコンボたちは、誰もが知る‘Last Night’ではなく、‘Whot’s Happening’あるいは‘The Dribble’またあるいはグループ最後の作品である‘Philly Dog’をビートルズ以前のレパートリーに混ぜてプレイすることを期待されていた。マーキーズのレコードは強力で、一聴してそれと分かるサウンド、パワフルなメンフィスの深部が染み込んでいた。そしてバンドのセールスが減少するのみだったこと―それに加えて平行していたMGsの成功―これがこのコンピレーションで聞けるかなり多くのマテリアルが未発表として残されていた理由を説明することができる。

レコード上のマーキーズは全て白人のロード・バンドによる民衆を扇動するようなスタイルとはいくらか異なっていることはよく知られている。そのことは時には彼らが‘Last Night’の成功を受けて、黒人クラブにブッキングされた時に混乱を引き起こした。ギタリストでリーダーのスティーヴ・クロッパーは詳しく述べている。“マーキーズのレコードでのリズム・セクションとホーン・セクションのうちの二人は黒人で、スタジオ・ミュージシャンだった。でも僕たちはハイスクールの時からずっとバンドとしてプレイしてきたんだ。僕らがギグをするために姿を見せると、こう言われるんだ。お前らがここでやるのか?ってね。彼らはずっと僕らをいんちきバンドだと思っていた。でも僕らが最初の音を出すとたちまちお客は盛り上がるんだ。僕らは初の大きなツアーでセントルイスに行って、それからデトロイト、フリント(ミシガン州中南東部)、サギノー(フリントの北北西)、シカゴ、フィラデルフィアに行った―そこで僕らはディック・クラークの番組に出演したよ―マートルビーチ(サウスキャロライナ州東部)とヴァージニアビーチだ。アトランタに1週間いて、それからボージャーシティ(ルイジアナ州北西部)で2週間、そこのHorseshoeバーで締めくくった。そのあと僕は抜けたんだ。最初は楽しかったけど、しばらくするとうんざりしてしまった。ドラムス、アンプ、スーツケースを積んだ1台のシボレーのバスに8人の男が乗って、それは実にひどかったね。僕らはみんなお互いを嫌っていたね。” トランペッターのウェイン・ジャクソンはもう少し率直だ。“僕らはハイスクール出たてのガキの一団だった。誰かの靴をバスから放り投げたくなったら、実際にやってたよ。パッキーの母親(スタックスの共同創始者エステル・アクストン)は彼に彼がバンドのリーダーだと言っていた。でも実際はスティーヴが物事を仕切っていたね。スティーヴがバンドを代弁していたし、パッキーはワインを飲んでクールにする方を好んでたから。スティーヴはバンドのビジネスを担当していたし、実務の才があった。二人は対立していたね。”

その結果フル・ロード・バンドはマーキーズの名の下でリリースされたレコードには一切参加しなかった。通常のラインナップはジャクソンとクロッパー、そして時にはアクストンとダック・ダン、それをドラムスのアル・ジャクソン、サックスのフロイド・ニューマンとギルバート・ケイプル(1964年にアンドリュー・ラヴが加入)、ベースにルイ・スタインバーグらが補い、キーボードはブッカーTジョーンズ、マーヴェル・トーマス、そしてアイザック・ヘイズの3人が循環して担当していた。ウェイン・ジャクソンは次のように理論づける。“ミュージシャンというのは楽器ができればクラブにいられるし、できなければいられないってことだ。楽器がプレイできなかったマーキーズの何人かはもはやクラブには必要なかったんだ。いわばできる者が残ったんだ。ドン・ニックスはバリトンを持っていて、僕らがステージでやっていたホーンのラインをいくらか吹くことができた。でも彼は本当はバリトン・プレイヤーじゃなかったし、自分をそう呼んだこともなかったよ。だから彼はバリトン・プレイヤーとしてレコードは作らなかったし、気にもしていなかった。それに対してマーキーズのドラマー、テリー・ジョンソンはレコードでプレイさせてもらえないことに本当に憤慨していたね。”

にもかかわらず、初期のマーキーズ自身がよくやっていたレパートリーは、リンク・レイの騒々しいクラシック・ナンバー、‘Raw-Hide’のロック色濃いヴァージョンだった。アレンジメントは紛れもないスタックス・サウンドに仕立て上げられていたが―あの特有なホーンに特徴的なギター・コード・リフだ―あるいはかつてのRoyal Spadesの頃と共通するような目立った特徴を持っていた。当然ながらギタリストのスティーヴ・クロッパーはレイの熱狂的なファンであったし、なるほど彼の最初期のオリジナル、‘Bouncing Off The Wall’はリンク・レイ直系のものだ。

数曲を除いて、ここに収録されたマーキーズのマテリアルは、十中八九は1961〜1962年の音源だろう。ダンス・チューン時代のマーキーズは不当にも世に知られていない2枚目のLP、“Do The Pop-Eye”でそれを具体化した。ここに収録された‘Gigglin’’や‘Settle Down’のようないくつかの曲は、ぶらつくような(strolling)ポップアイ(見開いた目)・サウンドを体現している。バンドの作品はクロッパーが言及するように、直接オーディエンスの様子を反映したものだ。“僕らは毎週末になるとツアーして回っていた。様々な町にね。デトロイトのお客の踊りはワシントンやフィラデルフィアとはかなり違っていた。テネシー大学の学生は独自のダンスを持っていた。イリノイ州はちょっとした決まりごとがあったね。みんな自分たちだけのダンスを持っていたんだ。僕らは子供たちにそのダンスを何て呼んでいるのか尋ねて、うちへ帰ってからそのビートを使ったインストを書くんだ。クールなダンスを広めてやろうと思ってね。あの頃は学校のダンス・パーティーへ行くと多くはそこでしか見られない踊りをしていた連中がたくさんいたんだ。僕らはいつもcan you monkey do the dog(訳注:ルーファス・トーマスに同名曲がある)みたいにダンスと結びつけていた。ストロールが流行していたから僕らはpop eye strollを創り出したんだ。” 余談として、クロッパーは風変わりなMGsのナンバー、‘The Bo Vitch’は“ユタかどこかから出てきた”短命に終わったダンスだといっている。

正直言えばアウトテイクのいくつかは、‘Last Night’のホーンをあからさまに再利用したようなものもあるし、その頃の流行を過度に反映したものもある(‘Blue Peanut’は‘Night Train’ビートそのままだ)。またいくつかでは数ヶ所のわずかな演奏ミスもある。あの非の打ち所がないアル・ジャクソンでさえもミスをするのである。しかしそれでも隅から隅まで魅力的なパフォーマンスの数々である。ウェイン・ジャクソンは回想する。“時間の記録なんてなかったよ―僕らはタイムシートにサインなんてしてなかったんだ。僕とダックは9時にはクラブにいなきゃならなかった。それでいつもセッションは中断することになったね。僕らは長い時間シンガーを待ってぶらぶらしていた(もちろんジャクソンとラヴは1964年からスタックスのほとんどでホーンを吹いている)。僕らは何曲かインストもやった。誰だか覚えてないけど、僕らはちゃんとまとまらなきゃならないとか言ってたね。僕らはアルバムにフロイド・ニューマンも加えようとしていたり、リリースに値するような他のマーキーズ・ソングを作ろうとしたりしてた。何度僕らは‘Last Night’の焼き直しを書いたことか!僕はスタジオの中にいてラッキーだったよ。フロイドはある日から加わって、ギルバート・ケイプルとパッキーは出たり入ったりしていた。パッキーはよく酔っ払っていて、彼とジム・スチュワート(スタックスの共同創始者)は不仲だったし、彼と彼の親父がジムに腹を立てていたんだ。その噂は大きく広まった。でも僕は情報をシャットアウトされてたから何も知らなかったし、毎日が学ぶことだらけだったね。僕は凄く熱中していた。あの年頃なら一週間家に帰らなくても平気だった。”

マーキーズによるキング・カーチスの‘Soul Twist’は、驚くことにグループにぴったりのカヴァーが未発表となることはほとんどなかったにもかかわらず、お蔵入りとなった1曲だ。これはテナーにジーン・パーカー、ギターはひょっとするとチャーリー・フリーマンかもしれない。ウェイン・ジャクソンは回想する。“テナーのジーン・パーカーは白人で、天才的なサックス・プレイヤーだった。彼はたじろいでしまうようなテクニックを持っていたね。ジーンは多分僕らの中でベスト・ミュージシャンだったけど、彼はちょっと正気じゃなかったんだ。” クロッパーはつけ加える。“ジーン・パーカーは僕らと2年間しか一緒にいなかった。ギルバート・ケイプルもそれほど長くはいなかった。彼はヒューストンでドン・ロビーと一緒に仕事をするために去って行ったんだ。2年後、彼はちょっとの間戻ってきたよ。彼とフロイド・ニューマンはいくつか地元で僕らと一緒にプレイしたはずだ。でも僕らは自分たちのバンドを持っていて、彼らはただのスタジオ・ミュージシャンだった。もう1人のトランペット・プレイヤー、‘ボウレッグス’ミラーは何回かセッションでプレイした。アイデアをひねり出すために僕らは多くの時間ジャム・セッションをして、何かの時に役立てるためにテープを回していた。僕らはしばらくの間、現状を受け入れていた。実際その頃何も変わらなかったからね。フロイドは自分自身のために働いていたんだと思う。” ジャクソンとクロッパーはそうほのめかすが、スタックスのアーカイヴ・トラックの一握りの曲は実際バリトン・サキソフォニスト、フロイド・ニューマンのクレジットがある(ここに入っている中では‘Gigglin’’、‘Sassy’そして明白なタイトルの‘The Floyd’)。それは実現しなかったソロ・アルバムに備えてのものだった。

マーキーズのレコーディングにおけるジャズの影響は、まず第一にフロイド・ニューマンの参加によるものだった。ここで最も注目に値するのが‘Candy’で、これは明らかにリー・モーガンのクラシック、‘The Sidewinder’の影響下にある。ジャクソンは回想する。“僕らはみんな‘The Sidewinder’が好きだったけど、僕らグループ内のジャズ・ガイといえばフロイド・ニューマンだった。フロイドは彼が使うタームにおいて、昔も今も素晴らしいジャズ・プレイヤーだね。当時、彼は僕に‘8’をカウントすることを教えてくれた。それはバンドの中で仕事をする時すごく重要なことなんだ。” スティーヴ・クロッパーは象徴的な正確で簡潔なソロを弾くが、次のようにも言っている。“モンゴ・サンタマリアの‘Watermelon Man’の影響だ。ひょっとしたらフロイドがこれ(‘Candy’)を書いたのかもしれない。” しかし彼もジャクソンも‘Candy’のソロはアンドリュー・ラヴが取ることに同意した。

特定のスタックス奏者のジャズ気取りについての話でジャクソンはこう述べる。“大学から戻ってきたブッカーTは、フロイドよりも洗練されたスタイルでヒップだったね。” ブルー・スタックス時代のMGsのオリジナルはR&Bスタイルが大きな領域を占めていたが、1965-1966年頃のセッションのうちの何曲かは漠然とジャズ・アルバム的なものとして呼べるようなものだった。明らかに成果を生まなかったセッションもあったが、時折アルバム“And Now”収録の‘Soul Jam’のようなタイトルとしてリリースされ、それは確かにアルバムのコンセプトに合っていた。ここに収録された中には、いかにもブッカーが書いたような活気ある抑揚のついたレコーディングも見られる。彼のストレートなジャズに対する愛好は、最終的にはアルバム“Soul Limbo”の‘Willow Weep For Me’として前面に出てくるようになる。

“ブッカーはちょっと伸び伸びとプレイしたかったんだよ。”クロッパーはいう。“彼はいつも‘More’(‘Hip Hug-Her’収録)のような感傷的なやつをやりたがっていた。よりミュージカル・スタイル的な方向にトライしていたね。ダックと僕はある程度は彼に付き合っていたけど、彼を抑制するようにはしていた。僕らはもっとロックンロールとダンス・ミュージック的な方向にトライしようとしていたんだ。” MGsの明らかにメロディックな側面は、グループのカヴァーに表われる傾向にあった(グループの未発表カヴァーのうちの最良部分は我々の最初のコンピレーション“Play The Hip Hits”に収録されている)。そして彼らの未発売のオリジナルのほとんどが、より泥臭くファンキーであった。それはたしかにここに収録されたオリジナル・ナンバーの数々に当てはまるものだ。

未リリースのスタックス・レコーディングの日付を定めることは、使われなかったマスターが他のテープと一緒に巻かれ、テープ・ボックスには習慣的にスタジオの記録を載せていなかったため、そのすべは必然的に不正確なものとなる。セッションの正確な日付は、それがリリースされようとされまいと詳細な情報はほとんど残っていない。しかしながらレコーディングの年代については、そのサウンドからおよそ推測することができる。ここに収録されたマーキーズのレコーディングの全ては、確かに1965年にスタックスに4トラック・マシンが導入される以前のものだ。なぜならそれはレーベル・オーナーであり、かつてのエンジニアだったジム・スチュワートの自由放任的な楽器バランスのアプローチが反映されているからである!他の手掛かりもありうる。例えば素晴らしく抑制された肌触りの‘Slidin’’は、サム&デイヴのソウル・クラシックである1967年夏ごろの‘Soul Man’と似たようなクロッパーによるスライドとリフが聞き取れるのである。“これは凄く良く録れてるね。” そのギタリストは感激してみせる。“僕はスライド・ギターなんてほとんど弾いたことがなかったんだ。実際、僕は‘Soul Man’でタバコのライターを使った。その前にもあのリフを使っていたと思ってるけどね。” クロッパーの言うように、2年前に‘Soul Man’を先取りしたトラックが存在したようだ。

ブッカーTのマテリアルは構造的にも聴覚的にも正確な日付を限定するのは不可能であるが、実際よりかなり以前のものであった。1963年の‘Chinese Checkers’を例にとると、そのラジカルなサウンドはリリース日付よりも5年も前のものであった。MGsのカラーとしてキーとなるのは、筋骨たくましいグルーヴとあたたかいファンク・サウンドでありそれはちょっと見た目にはシンプルだが、よく調べてみるとかなり難しいことである。クロッパーは次のように推測する。“そうだね、僕らは当時ああいった曲をやる唯一のバンドだったかもしれない。僕らにライバルと呼べるようなバンドはいなかったね。ジュニア・ウォーカーが唯一例外だったかな。ラムゼイ・ルイスのようなダンス・ミュージックをやるジャズ・ミュージシャンはいたけど、みんなファンキー(泥臭い)じゃなかったし、違うスタイルだったよ。” ウォーカーとウィリー・ミッチェルは別として、このギタリストのいうことは確かに正しい。たしかに1960年代半ばの彼らの黄金時代、ブッカーT&the MGsは最も成功したR&Bインスト・グループであり、最も特異な存在として最高の地位にいた。一度だけジョーンズ、クロッパーとその仲間たちは、彼らと同時代のアーチストたちの一般的なスタイルへと注意をそらすために、ペンネームの‘Hole In the Wall’(意:ちっぽけな)を使っていたが、これはどう見てもMGsとしてみなすことはほとんどできない。

“MGsが(自分たち自身のための)レコーディングをしたわずかな時間を思えば、” クロッパーは続ける。“僕らは大量のリリース・スケジュールを抱えていた。それはいつも急な話だったんだ。ブッカーも僕もアイデアをひねり出そうとしてたし、僕らはいつもアイデアを出しては徹底的に話し合ったね。ブッカーはうちでたくさんの曲を作って、僕にどうプレイしてほしいか教えてくれるわけ。僕らはたまにMGsセッションを設けたけど、それは年に2日くらいのもんだった。レコーディングする時は半日で3〜5曲くらいだった。ほとんどがアドリブで、曲をどういう風にするかは話し合って5分くらいで決めていた。” 珍しい例外がバンドの1963年暮れのリリースである‘Tic-Tac-Toe’の明らかに違うヴァージョンで、これはミュージシャンたちが特別に時間をかけて取り組んだ1曲であることを示唆している。“ベースとオルガンが二つ重ねられているように聞こえるんだ。” この初期のいくらか試験的なテイクについてクロッパーはコメントする。“フレーズ同士がぶつかってたからリリースできなかったんだ。僕も走ってるし。でも勢いをつける以外になかった。ゆっくりではいい感じにはならない曲だったから。”

興味深いことにMGsは実際、‘Mo’ Onions’、‘MG Party’、‘Home Grown’のようなほとんど‘Onions’の焼き直しのようなナンバーをリリースしている。1963年以降はそのデビュー・ヒットを反復するようなことはめったにしなくなったが、未発表となった‘Ain’t It’のようなトラックはたしかに同じ領域にあった。こういったトラックがリリースを見送られた他の理由は、他のグループのオリジナルとの類似性と引用が見られることがあったことである。‘Consumption’のような安易なやり方は、気だるいメンフィスの午後を彷彿とさせ、‘Time Is Tight’で使われたようなキーボード・パターンももっと前に現れていた。‘Good Groove’は‘Comin’ Home Baby’からの引用と思われる。影響力ある‘Put A Label On It’(デヴィッド・ポーターのヴォーカルが挿入されている)は、‘Cool Jerk’、‘Shotgun’そして‘My Girl’からさえも安易に引用されているが、このトラックはMGs自身の珠玉の1曲であるかのような響きがある。ジャクソンのドラム・パートの“はなばなしさ”は1967年あたりに頻発するようになる。

もう一つの手掛かりは、ベースの音質とそのスタイル、オルガンのサウンドによって提示されている。‘Let’s Go’のような1965年以前のレコーディングでブッカーTジョーンズが主にプレイしていたのは、‘Green Onions’のオルガンであるハモンドM-1だ。スティーヴ・クロッパーは回想する。“小さなプラスチック・ホーム・モデルのスピネット(電子オルガン)だった。膝くらいのところに8インチのスピーカーが一つ付いていて、僕らはそこにマイクを突っ込んでレコーディングしていた。電子的にトレモロみたいな効果が出たんだ。スタックスはファーフィサもヴォックスも持っていなかった。” ジョーンズがハモンドB-3を広く使うようになった時でさえ、彼は1966年に大学を卒業するまでは、めったにレズリー・アンプ・ユニット(特徴的な“ふるえ”を音に加えるエフェクト)を使わなかった。したがってのちの彼の出す音は全く違ってくる。マーキーズの逸品である‘Saucy’のようなトラックで明らかに聞けるレズリー・オルガンは、おそらくアイザック・ヘイズによるものだ。ウェイン・ジャクソンは次のようにいう。“これはソロ以外は僕らの演奏じゃないね。このスタイルはアンドリューでもジョー(アーノルド)でもジーンでもないな。” “これは僕が書いたんだ。” スティーヴはいう。それはテープ・ボックスに‘New Cropper’として仮タイトルが記されていることによって証拠づけられる。“一つのパートはチャック・ベリーの‘Havana Moon’からだ。ベースはダックに違いないね。”

ダック・ダンは1964年の終わりにルイ・スタインバーグに代わってMGsに加入した。しかしもちろん彼はここに収録されている初期のマーキーズのトラックのいくつかで聞くことができる(例えば‘Gigglin’’で我々は彼の最初のベース、安価なKayモデルの音が聞ける)。二人のベース・プレイヤーは似ているが、究極的には違うスタイルだ。ダックはルイよりもわずかに高い音域をプレイし、少しメロディックだ。ルイ・スタインバーグは極めてしっかりしたボトムをキープする。スタインバーグはよりグルーヴを出すために‘突っ込み気味’にプレイし、ダンほどあるいは実験性には欠けるかもしれない。しかしながら両ベーシストとも絶対的に称賛に値する。それはジョーンズとクロッパーが創り出し要求するメロディックでリズミックなパートだけでなく、無比なるアル・ジャクソンJr.のドラミングに対して、より重要な存在だ。

“僕はアルが誰よりもスタックスの中で一番優れたミュージシャンだったと思う。” ウェイン・ジャクソンはいう。“確かに最も分別あるミュージシャンだったね。でも当時の僕らは、あれがドラマーの出す音なんだと思っていたよ。僕らはあの時、最高のR&Bドラマーと一緒に仕事をしていたなんて分かってなかったね。” スティーヴ・クロッパーは認める。“僕はアルがスタックス・サウンドの最高の奥義だったと思う。彼のプレイの仕方がね。彼はメトロノームのようだったけど、同時にメロディを大事にしていた。彼の表現には一つの理由があったんだ―アルは遅くまで明かさなかったけど。彼は僕が気づいたことなんだけど、曲中のそれぞれの新しいセクションの最初の小節に、いつももう一つのビート(second beat)を配置するような技を持っていた。最初の小節の2拍目がピッタリのタイミングでは聞こえてこないんだ。ちょっと遅れて聞こえてくるような感じだね。キック・ドラムはピッタリで、バック・ビートが遅れるようなね。ちょっと後ろに引っ張られるようなグルーヴだ。5回し目くらいの新しいセクションのところでいつも最初の拍がピッタリには聞こえないことに気づく。その時彼は全体を後ろへ引っ張っている。本当に面白いんだ。彼は素晴らしいテクニックを持っていたから強くは叩かなかった。彼はスネアのヘッドとリムを同時に叩くことができたんだ。そうすれば力を入れずに間単に倍の音量が出せるわけさ。”

ブルー・スタックス時代を通じて、クロッパーはその信頼できるフェンダー・エスクワイアを弾いていた。アル・ジャクソンのドラムスと彼のギターはスタックス・サウンドのトレードマークであった。“そうそう、あのギターはナチュラル・ファズがかかっていた。” 彼は回想する。“僕のサウンドはそのギターとフェンダーのHarvardアンプとのコンビネーションだった。僕は多分6くらい(ヴォリューム・コントロール)までしか使っていなかったけど、それが凄くうまくいくことが分かったんだ。ピックアップは一つだけだった。ペダルもアームもほとんど使わなかったね。あるいは時々トレモロは使ったかもしれない。僕はいつもスタジオで他のギターも試していたけど、どれも長くは続かなかった。しばらくして僕は小さなHarvardを使うのをやめて、Super Reverbを使うことにした。ルイはダックと同じフェンダー・プレシジョンを使っていて、彼もフラット弦だったね。彼は実際、以前ビル・ブラックが使っていたベースを持っていて、その弦は1956年かそれくらいからずっと張りっぱなしだったよ!ダックとルイは二人ともAmpegの搭載されたやつ(訳注:おそらくヘッド・アンプのこと)を使っていたね。僕らはスタジオ用に一つ購入して彼らが使っていたんだ。アルはラディック製とロジャース製を混ぜたドラム・キットを持っていた。それはジム・スチュワートが揃えたやつで、スタジオ用のドラム・セットだったよ。他と同様にいつもそれを使っていたね。”

この際こう言ってもいいと思われるが、スタックス・スタジオの雰囲気はハウス・ミュージシャンたちがいつもの慣れた音響効果の中で、創造的でスムーズな流れを維持する環境を提供し、スタジオで本当の意味で“遊ぶ”(“play”)ことを可能にしてくれたのである。このコンピレーションのほとんどの時期に関しては、スティーヴが説明するようにスタジオの物理的、技術的レイアウトはほとんど変化しなかった。“全てのマイクはピアノの上もドラムスの上にも立てっぱなしで、ほとんど変えなかったね。僕らは長い間8本のマイクで働いてきたよ。僕らはすごく流行っていた吊り下げ型のTelefunkenマイクを使っていて、みんなそれに向かって歌っていたんだ。全員が一ヶ所に集まってね。バンドは部屋の中央にあった大きな窓のついた遮断版の片側に固まっていて、ホーン隊はもう片方にいた。で、シンガーは真ん中だった。ヘッドフォンは使わなかったから、僕らは小さな音を聞いていかにプレイしてグルーヴを出すかを考えなきゃならなかったね。アルと僕は一緒にプレイして学んでいった。彼と僕はバッチリ合うようになった。多くは彼を見ながら身につけていったね。僕は彼の腕によって成長していって、彼のやることを待ち構えるようなこともなくなったね。僕らは全員で曲を作って、彼がそれにグルーヴを配置するんだ。”

“昔は基本的にマイクをセッティングした場所で全ては決まっていたんだ。スタジオ自体は本当に割安で粗末なものだったし、いくつかの曲は全く手を加えられていないように聞こえるかもしれない。僕らがマスタリングする時、音の大部分はレコード盤になる時に痩せてしまうから、なるべく多くの情報量をレコード盤に刻む方法をとっていたんだ。その結果ベースは全体を覆いつくして感動的なグルーヴを生み出すことになったね。もう一つには僕らは45回転シングルを重要視していたから、(LP)レコード上の大きなスペースを使い尽くさなきゃいけないっていう心配をする必要がなかった。僕らには(シングルの)広いスペースがあったから、そこに存分に大きなレヴェルで入力することができた。1967年にイングランドに行った時、僕らはディスコに行ってみたんだ。そんなところへ行ったのは初めてだった。そこでキッズたちはバンド演奏よりもディスク・ジョッキーがかけるレコードに合わせて踊っていた。彼らが自分たちのサウンド・システムで‘Green Onions’をかけた時はびっくりしたね。僕らのレコードをこんなにいい音で聞いたことなんてなかったから。僕らは一様に‘こりゃすごい。それでここではみんな僕らの音楽を気に入るわけだ!’ってね。” それらのレコーディングはマスター・テープからのダイレクト・カッティングで、最小限のプロセスしか経ておらず、人工的なエコーが加えられていないことによるものだった。

聴覚上、よりクリーンなサウンドが見て取れるのが1968年以降であり、ここでは‘Funky Folks Cha Cha’で明白である。その分離の良さと空間的なリヴァーブは、指パッチンのスタックス時代に入ってからのイースト・マクレモア・アヴェニューの技術的向上を示している。MGsはこの時期、彼らのベスト・ワークをいくつか生み出したが、一方で初期の機材にあった親密さと自発性が失われてしまったと推測せずにはいられないだろう。“そういったセッションの多くは1967年以前のものだね。” クロッパーはいう。“みんなのエネルギーによるものだよ。みんなハッピーだったし、緊迫感もなかったし、締め切りもプレッシャーもなかったね。僕らは何かを創り上げるのを確認しながら楽しんでいた。‘今夜はこれを仕上げなきゃいけない’みたいな雰囲気がなかったんだ。あとで何とかなるって感じだった。会社が僕らをアルバム・アーチストに仕立てようとした時に、彼らは全てを台無しにしてしまったんだ。”

クロッパー、ジャクソン両氏と彼らの仲間たちの次なるキャリアについては、ここで議論する必要はあるまい。それは下降することになるといっても、グループの音楽史上における最高の地位はすでに確立されている。二人共なおもアーチストとして最高の功績を残した当時の現場を謙虚に受け止めている。スティーヴ・スクロッパー―“僕らはいつも仕事場に行くのを楽しみにしていたし、教会に行くようなものだったね。みんなそう言うだろう。” ウェインはつけ加える。“大学に行く代わりに僕はスタックスに行ったんだ。あそこで学び全人生を教わった。” 目を見張るレコードのグルーヴ、なるほど確かにこのコンピレーションは、より純粋だった時代へと立ち戻らせてくれる。そのグルーヴはテネシー州、メンフィスのイースト・マクレモア・アヴェニュー926番地から発生し供給されたのである。

Alec Palao
El Cerrito, Califormia
Steve CropperとWayne Jacksonに多大な感謝を送る。Rob Bowman, Roger ArmstrongそしてColin Mackenzieのリサーチに感謝する。またNick RossiとBill Belmontに感謝する。


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