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Blossom Toes/We Are Ever So Clean/2007 sunbeam records SBRCD2035



一体なぜ僕はあそこにいたんだろう?運命?自分の選択?誰かに仕組まれた?誰も分からないけど確かに僕は1967年にあそこにいたんだ。ロンドン、ボンド・ストリートのチャペル・レコーディング・スタジオだ。生きいきとした顔をした変人たちの一団と一緒に、素敵な‘ポップ’ミュージックの世界征服を企てながらね。ブライアン・ベルショウと僕はロックンロール・ジプシーになるために、その何年か前に‘安全な’9 to 5の仕事から脱出したんだ。実際僕らは洗濯機、セキセイインコ、凍りついた犬(?)や風船のことを歌うなんて考えたこともなかった―でもたまたまそうなってしまったんだ。

とても優れたセッション・ミュージシャンたちと(オーヴァーダブを規制するミュージシャンズ・ユニオンに真っ向から反抗して)僕らのエンジニア、ジョン・ティンパーレィの信じられない技術と忍耐のおかげで僕らはなんとかこのアルバムの楽曲をつぎはぎしてでっち上げることができた。偉大なジョージオ・ゴメルスキーのカリスマ的な導きによってね。レコードは音楽プレスからはいい反応を受けなかった―ビートルズ過ぎるとかキンクス過ぎるとか〜過ぎるとかってね。もしかすると僕らはチャック・ベリーのカヴァー・アルバムを作るべきだったのかもしれない(当時の僕らの嗜好に一番合ってたかもしれない)。

しかし40年の間、たくさんのブートレグが出回った後でも、これは僕らにとって大きな意味を持つ当時の怪物であり続けているんだ。それはリスナーにとってもそうだろう。今年の3月、eBayでこのレコードが756ポンドで売れていたんだ!過去の壮大な計画だったのかな?だとしたらどえらい企みだね!
ブライアン・ゴディング 2007年5月


ブライアン・ゴディング(以下BG) 僕は18になるまでほとんど音楽は聴いていなかったし、働き者のブライアン・ベルショウと一緒に科学機器を作る会社に弟子入りしてたんだ。まもなく僕らは変な名前のバンド、‘The Gravediggers’(墓堀人)を結成して、プロになるために会社をやめた。それからエディ・リンチがリード・ギターで加入した(ミック・フリートウッドとやっていたthe Cheynesからだ)。彼が持ち込んだ曲は、僕らが聴いたこともなかったボ・ディドリー、ハウリン・ウルフ、ジミー・リードなんかだった。僕らはバンド名をあまり知られていないチャック・ベリーの曲からThe Ingoesと改名して、ロンドン周辺のクラブでギグを始めた。その頃クラブは雑草のように次々と現れ始めていた。僕らはマネージャーが必要だってことになったんだけど、それはジョージオ・ゴメルスキーしか有り得なかったね。彼はヤードバーズのマネージャーで、リッチモンドのクロウダディ・クラブとクロイドンでクラブを経営していた。

ブライアン・ベルショウ(以下BB)  僕らはヤードバーズにマイっていて、ジョージオが彼らのマネージャーだった。それで僕らは彼に目をつけたんだ。僕らはギグをするのにエージェンシーを探しあぐねていたんだけど、ついにジョージオが僕らのことを気の毒に思ったんだ。僕らはどんなギグでもやった―ある時はダスティ・スプリングフィールドのバッキング・バンドで騒々しい兵士たちを相手に演奏した。一皿のスパゲティと交換に多くのギグをこなしたね。

BG ジョージオは僕らみんなに向かってまず出て行ってから戻ってくるようにって言ったんだ。そんなわけで1964年冬、僕らはどういうわけかドイツのドルトムントで3週間のクラブ回りをすることになった。曲がった考えが真っ直ぐになったところだね!僕らは英国に再び戻ってジョージオと会った。彼はまだ僕らに不満だったね。でも僕らの絶望ぶりを見かねて、彼は右腕だったハミッシュ・グライムズに僕らをちょっと教育する意味で、南ロンドンの薄汚いところでソニー・ボーイ・ウィリアムソンのバッキングをさせた。ウォードー・ストリートのマーキーも含まれていた。1965年のある晩、ジョージオは不意に僕らにマネジメント契約を申し出た!僕らはすぐに伝説のクロウダディ・クラブで演奏するようになったんだけど、彼はだんだん僕らに飽き飽きしてきたんだ。で、ポケットの中で銃を構えて僕らをパリに追っ払った。‘世界的に有名なあのマーキー・クラブからやってきたLes Ingoes’と宣伝されたね。マーキーは確かに有名だったんだけど、僕らは有名じゃなかった。フランスの聴衆にとっては僕らが英国人でその一部に見えりゃそれでよかったんだ。

BB 僕らはあっちこっちで小さなホテルやアパートに滞在してどこでもプレイした。僕らはローカル・イングリッシュ・バンドでパリでは公認だった。ザ・フーなんかの英国バンドの前座を務めたりしてね。毎晩演奏してミュージシャンとしてかなり腕を磨いたよ。いわば商売を覚えたようなもんだった。

BG 今でも悔やんでるのは、ロンドンに戻った時にエディ・リンチがジム・クリーガンとメンバー交代すべきだっていわれた時だ。ジムは中心メンバーになったけど、その時僕があとにも先にも一回きりの実力行使でみんなにその交代を強要したんだ。

ジム・クリーガン(以下JC) 僕はジュリアン・コヴェイ&ザ・マシンとザ・ディスサティスファイド・ブルース・バンドでロンドン中でプレイしていた。後者はマーキーでヤードバーズに取って代わられたバンドだった。そのバンドが解散した時にジョージオが僕にIngoesに加入しないかといったんだ。彼は大きな影響力を持つ人物だった。ストーンズをブレイクさせたのも彼だったし、ブルース・シーンと偉大な才能を持ち込んだのも彼だった。僕らはパリに戻って少数の支持者をつかんだよ。

BG 僕らはより小さなクラブに移って常連たちが開催するプライヴェイト・パーティーでたくさんプレイするようになった。そうするうちにナイトクラブではアメリカのソウルとR&Bのレコードばかりがほとんど独占的にかけられるようになったんだ(ロンドンよりも先に流行った)。これは僕らに大きな影響を与えたね。

JC フランスでは1966年にEPを作った(Viens Danser Le Monkiss, on Barday)。それはジョージオによる企画で、僕らにJohnny Hallidayをコピーさせて、彼の投資分を埋め合わせるものだったんだ。僕は40年間それを聴いてないし、今さら聴きたいとも思わないな。

BG 1966年終わりまでにジョージオはマーマレイドっていうレコード会社を設立して、僕らを‘beautiful people’(国際社交界の芸術家)の出現みたいな売り出し方をしたんだ。彼は‘全地域から集まって一緒に音楽を作るミュージシャンのファミリー’っていう素晴らしいコンセプトを持っていた。で、僕らはロンドンに戻ってそれに参加した。これは僕らにとってとてつもないチャンスだったけど、全てが見せかけの‘フラワー・パワー’(奇抜な服を着てマリファナの匂いをプンプンさせながら派手に遊び回るというような)は、うさ晴らし的で困惑させられたね。ジョージオはレーベルのために一日中忙しく働かないでいいように、エディ・ジェンキンスという頭のいい男を雇って、すごく賢いやり方(今でいう‘マーケティング’だと思う)を考え出した。そしてそれがブロッサム・トウズの誕生につながったんだ。‘良くも悪くもないような動機’って感じかな。ちょうどその頃、ドラマーのコリン・マーチンが抜けることになって、僕らはケヴィン・ウェストレイクがついにスタジオに現れるまで、数え切れないほどドラマーのオーディションをしたね。ケヴィンはすごくクリエイティヴで、才能あるドラマーだったよ―やれやれこれで問題は解決したぞって思った。

JC ケヴィンが加入して僕らがデモ・テープ作りに戻った時に、ジョージオが僕らにオリジナルを書くよう要請したんだ。パリでのギグで、僕らはスタックスのカヴァーをやり尽くした時に、2曲のオリジナルをそこに詰め込んでたんだ。そう、すでにいくらかアイデアは持っていた。思い出すとけっこう奇抜な方向だったように思う。その頃は完全に‘アンダーグラウンド’時代に突入する前の‘フラワー・パワー’真っ只中だった。馬鹿げた歌を大真面目にやるようなね。

BG ジョージオは僕らのために、フラム(ロンドン南西部)のHolmead Roadに家を一軒借りてくれた。で、メンバーそれぞれに週10ポンド与えて、‘さあ、完璧な傑作を書くんだ!’っていったんだ。

JC Holmead Roadは完全に無秩序状態だったけどすごく楽しかったな。ジョージオは僕らにビール、パイ、チップスそしてドラッグに必要な金を十分に出してくれたから、2年間パーティーが続いたようなもんだった。ある朝1階に下りていくと、22人もの人間が寝ていたのを覚えている。またある時は、エリック・クラプトン、キャプテン・ビーフハート、トラフィック、ファミリー、ショーン・フィリップス、メイク・スティーヴンスとか、誰でも歓迎してた。みんな当時活躍していた人たちだ。

BB あの家はひっきりなしに人がやってくるクラブみたいなものだったね。僕らはあとから来る人々のために、入れ替わりで次々とパーティーを開いていた。

BG レコーディング・プランによって僕らはしばらくライヴを控えなきゃならなくなった。新曲を書くことと世界征服のためにね(僕らの書いた楽曲群は今ビートルズと同等の財産だ)。僕らは半ば引退状態で、当時はそれを楽しんだね。でも最後には悪夢が襲ってきた。アルバムを作るまでに僕らは今まで自分たちがどういうふうにプレイしてたのか忘れてしまっていて、ライヴができない状態になっていたんだ。

BB Ingoesの頃はとにかくコマーシャル性が求められていたから、ジョージオが僕らにポップな自作を書くように指示するまではカヴァーばかりプレイしていた。でもそれはブライ(訳注:ブライアン・ゴディングのことか?)にとってはいいことじゃなかったんだ―彼の資質を曖昧にしてしまった。なにしろファースト・アルバムはTVショーにまで使われたんだからね。でも何にも起こらなかった。ありがたいことだったね!

JC 僕らは事実上、ジョージオの気まぐれに基づいて指示され服を着せられた人形だった。ある程度彼は僕らを操っていたんだ。善意ではあったと思うけど。僕らは誰かに仕組まれたんじゃない真のバンドだった。でも彼は僕らをちょっとモンキーズ的で、ビー・ジーズとビートルズの中間的なバンドとして見ていたと思う。で、ポップ・ヒットを求めていたんだ。僕らはそういったことを拒絶する固い意志を持つにはナイーヴ過ぎた。僕らはアルバムは言うまでもなく、提示された契約に全く満足していなかったよ。でも最終的にはレコードを作ることでバンドの一員になれたことを喜んだね。

‘買うに値するシングルだ!A面は4分、B面は2曲で約5分半。3曲に込められた様々なスタイル、ルーツ、アイデアを一言でいい表すのは難しい。そしてレコード全体のキーワードは‘go’という言葉だ。ブロッサム・トウズは才能あるグループであり、彼らはその能力をフルに活用している。聴いてみるがいい。このシングルには他の多くのアルバムよりも中身とオリジナルな音楽的コンセプトが詰まっていることに気づくだろう。間違いなく価値ある1枚だ。’
―NME, October 21st 1967

‘ブロッサム・トウズはその偉大な含蓄と美の音楽的書簡を届けるため、自らに課した1年半の冬眠から目覚め、今姿を現した。ブロッサム・トウズはこのアルバムによって明らかにポップ・ミュージックの前進へ貢献している。詞は美しく、音楽的プロダクションとアレンジメントはほとんど古典的な美のすさまじい深遠さをたたえている。’
―Marmalade press release, November 1967

‘確かにブロッサム・トウズは素晴らしいアイデアを持っている。このLPはあふれんばかりの才気あるレコーディング・テクニック、バッキング・トラックそしてたくさんのオリジナリティが詰まっている。楽曲は一聴するとキャッチーではない―しかし間違いなくこのLPを買えばだんだんと好きになってくるだろう。素晴らしいヴォーカル・ワークだ。’
―Record Mirror, December 1st 1967

BG 多くの人々がこのアルバムを‘60年代後半のねじれた英国の風景―芝生の上で紅茶とケーキ、セキセイインコと暖かいそよ風に浮かぶ風船’みたいに考えることを好む。でも僕は全然そんな風じゃなかったことが残念だね。僕らはマーマレイド・レーベルの親会社ポリドールから絶え間ない苦難を受け続けていたんだ。ポリドールは僕らのことをゴミかムダな存在だと考えていた。僕らは全く知らない人たち(セッション・ミュージシャン)とプレイしなきゃならなかったし、こき使われていたんだ。ライヴはノー・オーヴァーダブでしなきゃならなかったからすごく萎縮してしまった。僕らはそれに慣れなくてすごく困惑してストレスが溜まったよ。ここにはボーナス・トラックとしてアルバムから2曲がオーケストラなしのヴァージョンで収められている。オーケストラは僕らが考えて入れたよ。たまたまその曲に間奏がオーヴァーダブされる時に僕はいなかったんだけどね。バンドはたくさんのユーモアを持っててそれはアルバムによく反映されている。

BB 僕はオーヴァーダブなしの生の楽曲が好きだ。わざわざ複雑にする必要のないシンプルなナンバーだよ。

JC 僕らは最初のレコードを作っている頃マリファナをやり始めて、僕らの音楽はちょっとずつドラッグの影響が出始めていた。でもみんなが考えるような、Sgt. Pepper’sの影響は僕らのソングライティングにはなかったんだ。アルバムのセッション中、ジョージオがSgt. Pepper’sのアセテート盤を僕らに聴かせてくれて僕らはブッ飛んだ―でもその時には僕らは全ての曲を書き上げていたんだ。

BG アルバムが完成した時に受けたひどい評価に僕らは戸惑った。今では全く誇りに思ってるけど当時は憤慨したね。僕らは長い間プレイしていなかった。アレキサンドラ・パレスでの‘Love-In’、ウォーバーン・アビーでの‘Festival of the Flower Children’含む2,3の悲惨なギグと、ヨーロッパでのTV出演ではハーマンズ・ハーミッツみたいなのと一緒に出たんだよ!彼らはどう考えてもゴミバンドだったし、僕らも坂道を転げ落ちていくバンドとして出たんだ。

JC アリー・パリー(アレキサンドラ・パレスの愛称)でのギグでは僕らはすごくサイケデリックなコスチュームを着て、それに合うようにとてもハードな演奏をした。いたるところにカメラマンがいた。僕はいつも‘イメージより音楽自体がはるかに重要だけど自分たちはそういうプレイができてない!’って思ってたね。それが僕らみんなの見解だったし、僕らはファースト・アルバムの曲をほとんどプレイしたことがなかった。

BG 当時僕らはPopdownという映画にダンタリアンズ・チャリオット、ブライアン・オーガーと一緒に出た。でもその映画は事実上お蔵入りになった(ありがたい)。それからひどいフランスのアート・ムーヴィー、La Collectioneuseのバックグラウンド・ミュージックも担当したな。

BB それはEric Rohmer(ヌーヴェル・バーグ監督)が監督だった。で、僕はHaydee Politoffっていうスターを好きになった。でもセックス・シーンで一つ問題が起こった。彼女はその時の彼女と同等のスターじゃなくて、僕だけを相手にするようになったんだ。おかげで僕は彼女とベッドに入るためにフランスに飛ばなきゃならなくなった。映画の終わり2秒間にその堕落したシーンが見れるよ―今までで最もぼろい商売だった。映画はゴミの寄せ集めだったね。

‘Teenage Fairのブロッサム・トウズ:ブロッサム・トウズは初のinternational teenage fairでスウェーデン、イェーテボリに現れることになった。11月15日、グループはTVショーのMeet The Toesに出演するためスウェーデンに飛ぶ。Teenage Fairのディスコティックは11月16日と17日は“ブロッサム・デイズ”となるであろう。フェアの後ブロッサム・トウズは1週間のスカンジナヴィア・ツアーのため滞在することになっている。’
―NME, November 4th 1967

BG 僕らは2,3のアイデアで即興演奏を始め、それを固めてMerry Hassanっていうストックホルムのクラブのギグで披露した。僕らはラリってて、それなりのレパートリーもなかったしアルバムの曲もどれもプレイできなかったんだ(あるいはしなかった)。振り出しに戻ったってわけ!その時の様子はブートレグで残ってて、今ではかなり知られているね。まさに僕らにレパートリーも方向性もなかったのがよく分かる。自分たちの欲求のおもむくままにひどいノイズが繰り広げられているよ!騒がしいけど当時の悪ガキぶりが垣間見える。スウェーデン・ツアーのあと、間もなくケヴィンがバンドを去った。自身の歌と作曲に専念するためにね。でもマーマレイドとの関係は続いてて良好な状態になった。僕らはまたドラマー不在になったんだけど、すぐにPoli Palmerと名乗る男と出会ったんだ。

ポリ・パーマー(以下PP) 僕はDeep Feelingに在籍していて、そのメンバーのジム・キャパルディとデイヴ・メイソンが、トラフィック結成のためにバンドを去ってDeep Feelingは解散したんだ。1967年の終わりにジョージオ(僕らのマネージャーだった)が僕にオーディションを受けるようウスター(イングランド西部)からロンドンに来るよう提案した。で、僕は結局ウスターには戻らなかった。彼らはとても才能があると思った。ブライアン・ゴディングはすごく才気あるギタリストだったね。僕が加わるまでに彼らは少しずつ変化していたよ。特にツイン・ギター・ハーモニーがフィーチャーされるようになっていた。ジョージオはバンドを間違った方向に導いていたと思う。ある意味彼らのファースト・アルバムは全く彼らじゃなかった。彼らはいわばWe Are Ever So Cleanというよりずっとダーティーなものを持っていたんだ。

BG ここのボーナスじゃポリはいい雰囲気のプレーヤーだったし、フルート奏者でピアニストでもあった―ちきしょう!でも彼は長くバンドにはいなかった。バンドでは90%ドラマーとして在籍していたけど、短期間に僕らは共にライヴとデモ(ここにいくつかは収録)でたくさんの新曲を作り上げた。

BB ポリは巨大なマシンを持ち込んだ―モーグ、ヴィブラフォンとか―ギグではローディーが僕らを憎んでいたっけ!でも彼の加入はメンバーを増やすことなしにサウンドを分厚くすることにつながった。

BG 彼が入って間もなく僕らはジョージオの命令で、シングルI’ll Be Your Baby Tonightをリリースした。僕らはこの曲を気に入ってたんだけど全く真面目に取り組まなかったね。

‘ボブ・ディラン好きはこれを評価しないかもしれない。しかしここには静かなる説得力がある。ハーモニカと素晴らしいヴォーカル処理、力強いセンスがある。B面も素晴らしい!
―Record Mirror, March 2nd 1968

‘このレコードでまず重要なのは、ボブ・ディランのカヴァーであるということだ。しかし彼らの名誉のために言わねばならないのは、ブロッサム・トウズは全くもって公正にこれに取り組んでいるということだ。気楽で軽いビート、アコースティック・ギターの流れるようなバッキング、ハーモニカそしてピアノを伴ったカントリー・ブルースの特徴がある。’
―NME, March 2nd 1968

BB 僕らの本性はコマーシャル・ポップなものじゃなかった。ジョージオが僕らにI’ll Be Your Baby Tonightをやらせた時、僕らは全くからかい半分にカヴァーした。聴いて分かるだろう?だって当時はアシッド全盛だよ―僕らの頭はみんなイカれてたんだ。ジョージオはコマーシャルなシングルを作らなきゃならないと主張して、僕らはラリった状態で彼の言うとおりにした。彼は“ファンタスティック!ヒットするぞ!”って言った。次の日、僕らは一体なんてひどいことになったんだろう・・とは思わずに何食わぬ顔でスタジオに向かったよ。

BG 僕らは二極的存在として同時進行していたんだ。トレンディなクラブを回り、‘社交界の住人’のごとく振る舞う一方で、ひどく貧乏だった。全く何も起こらないその現実にどんどんフラストレーションが溜まっていったんだ。
ブライアン・ゴディング/ジム・クリーガン/ブライアン・ベルショウ/ポリ・パーマー、2007年5月

If Only For A Moment(SBRCD5036)につづく・・・


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