Welcome to my homepage


Blondie/Atomic : The Best Of/1998 EMI Records Ltd. TOCP-50598



70年代後半によくいわれたガール・パワーといえば、間違いなくデビー・ハリーが最も当てはまるだろう。ファンたちは、彼女はブロンディーの一員に過ぎないと主張するかもしれないが、最も忠実な崇拝者であるバンドのメンバー(クリス・スタイン、ジミー・デストリ、フランク・インファント、ナイジェル・ハリソン、クレム・バーク)でさえ、彼女はグループの声以上の存在であったことを認めるだろう。彼女はグループの顔であり、焦点であり、ファンタジー的存在だった。

他の似たような、男ばかりのメンバーの中にいた多くの魅惑的な女たちと違って、デビー・ハリーは男にも女にもアピールしたピンナップ・ガールだった。70年代後半の血気盛んな若い男たちの一団は、デビー・ハリーといっしょになることを思いこがれていたし、同様に多くのやり手の女たちはデビーのようになりたいと思っていた―セクシーだが食い物にはされない、女らしいがもろくはない女だ。“私は使い古されたロック的なポーズや動作を避けようとしたわ。” かつて彼女はいっていた。“ほとんどのガール・シンガーたちが使っていた「私を利用して-私を罵倒して」的な態度もね。”

1979年、ブロンディーは世界的成功を収めたグループとして迎えられ、性本能と健全さを兼ねそろえたデビーは、ポップに鞍替えしたパンク一団に並はずれた信頼感を与え、彼らの大きな追従を受けた。そして大胆不敵にも、敵であったディスコの縄張りへと進んでいった(ディスコ旋風を覚えてる?)。

このジャンルの不鮮明さが、ブロンディーが一流のバンド、あるいはデビー・ハリーがいったかもしれないが原型的なバンドとなるのに一役買っていた。同様に、彼らがリリースした1977年の“X Offender”から1982年の“War Child”までの16枚のシングルは、ポップ史の中で最も輝かしい時期に当たる。彼らの魅力は永遠のものではあるが、統計上、印象的なのは10枚のトップ10ヒットであり、そのうちの5枚はNo. 1になった―すなわち“Heart of Glass”、“Sunday Girl”、“Atomic”、“Call Me”そして“The Tide Is High”だ。

彼らの初期のシングルはエネルギーあふれる熱狂的なものであったにもかかわらず、ブロンディーが数々のゴールド・ディスクを獲得するまでには長い時間がかかった。バンドの成功はデビー・ハリーの創造的ヴィジョンに負うところが大きく、また同様に彼女の負けん気の強さにも負っていた。“歌うことは常に私の最大の関心事だったわ。私は毎朝目が覚めるたびに新しいアイデアを自分に課していった。自分がそれをサボることは絶対に許せなかったわね。”

パンクが反抗的な若さを売り物にしていたことに困惑しながらも、“Denis”が1978年に初のUKヒットを放った時、デビーは33歳だった。バンドはニューヨークでその4年前に結成されていたが、デビー自身の音楽的キャリアは1960年代中頃にスタートして以来つまづきっぱなしであった。

彼女の最初期の音楽的記憶は、50年代終わりのフランキー・ライモンのドゥ・ワップ・バラッドだった―この時期、彼女は“次に来る音符が前もって分かる”ことに気づいた。“いつも自分はシンガーだと思っていた”というデビーだが、彼女は1966年に21歳になって初めて最初のグループ、Tri-Angelsに加わった。1年後、彼女は“かなりひどいけばけばしいフォークロック・バンド”、Wind In The Willowsに参加し、キャピトル・レコーズから1枚のアルバムをリリースしたが、ほとんど成功しなかった。

パンクのヴィジュアル的側面を早くから先取りするかのように、十代の頃は様々な色に髪を染めていた―“試さなかった色なんてなかったわ。グリーンも含めてね。”―デビーは60年代前半にはブロンドになっていた。養女となっていた彼女は思春期まで、自分はマリリン・モンローの隠し子だという幻想にとりつかれていた。ニュージャージーからニューヨークに移ったデビーは、プレイボーイ誌でバニーガールとして働き、アンディ・ウォーホールのファクトリーにいたアンダーグラウンドの名士たちのウェイトレスとしても働いていた。この時のことを彼女は次のように回想している。“関心を引くための半分ストリップショーみたいなものだったわ。でも私は自分が何者か分かってなかったし、時々しゃべれなくなることもあったわね。”

60年代終わりに向けて、デビーはほとんど常にうつ状態と動揺状態にある自分に気づいた。問題の根源は麻薬中毒にあった。“私は若い頃、世の中の重荷全てを背負っていたわ。” 彼女はいう。“とても不安定だった。自分が何なのかよく分からなかった。” 音楽が常にインスピレーション源だった―“私はジャニス(・ジョプリン)とビリー・ホリデイとブルースのことばかり考えていた。その全ての悲しみと悲劇が私の頭の中をいつも駈け巡っていたわね。” ブルースを聴くことはセラピーの役目を果たしていたのかもしれない。しかしそういったものを歌うことは彼女の使命ではなかった。のちのブロンディーのデビュー・アルバムでは、暴力と破壊といったパンクの負のテーマが取り上げられることになったが―例えば“X Offender”や“Rip Her To Shreds”―、それらは全体の半分にも満たなかった。デビー・ハリーにとっては楽天的なエンターテイメントが常に最優先すべき動機だった。“楽しむことよ。” これが彼女のモットーだった。“そしてハッピーになること。”

1972年、Wind In The Willowsに続いて数年間音楽から遠ざかったのち、デビーはStilettosを結成した。そのバンドのリヴァイヴァル的な振り付けは、その音楽と同じくらい重要な要素だった。“私は押しの強いシャングリラズのロックとR&Bガール・グループのソリッドなヴォーカルをミックスさせたかった。” 彼女はいう。“第一の目的は楽しませることとダンサブルであることだったわ。”

この時期、デビーは来たるべきパートナー、クリス・スタインと出会った。クリスは60sグループのMorticians(のちにレフト・バンクになった)でギターをプレイしていたが、初期のスティレットウズでのデビーのステージを見たあと、そのグループに参加した。ザ・スティレットウズは彼らの振るまいが“派手で悪趣味”となっていった時にプレスの注意を引くだけであったが、1974年までに二人は別のグループを始めるためにグループを脱退していた。皮肉にも新しい名前は最終的にデビー・ハリーと同義語となった―それは一時的にブロンドのジェリーとジャッキーがヴォーカルで加入したことによって名付けられたものだった。

ブロンディーはニューヨークのクラブ、CBGBsに集まっていたアメリカのバンドの第一波のうちのひとつだった。彼らはパンクの大旋風の中で、ビラの一番下から活動をスタートさせた。この伝説的な会場は、トーキング・ヘッズ、テレヴィジョン、ハートブレイカーズ、そしてラモーンズの拠点でもあった。豊富な才能を生み出す場所としての名声は、同時に汚物と害虫も豊富に生み出すところとしての名声に匹敵していた。“キッチンは油とネズミとハエとウジでいっぱいだったわ―ウンコもね。” デビーは回想する。

ラモーンズよりもメロディックで、トーキング・ヘッズほど芸術的でもなく、テレヴィジョンよりも明るい雰囲気を持ったブロンディーは、他のグループのようにハードに速くポップ・ミュージックと戯れるといった大きな看板は持っていなかった。スティレットウズの支柱となっていた俗っぽい精神が彼らの初期のショーを決定づけていた。“私は喪服を一着持っていたわ。” デビーは回想する。“あと金のラメのドレス、おかしなカツラをいくつかと緑の安っぽい十字架、ウェディング・ドレス、ミスター・ジョーズって名付けた金魚が入った金魚鉢ね。私はブロンディーのキャラクターとして発展途上にあった。ひとところにとどまってはいなかったわね。過渡期だった。”

ブロンディーは“毎日午後と晩、毎月、一年中”リハーサルしていた。CBGBsで少しのショーをやっただけで、彼らは疲れ知らずのレギュラー・バンドとなり、メジャー・レコード・レーベルと契約した最後のクラブのバンドのひとつとなった。デビュー・シングル“X Offender”が出るまでに、ブロンディーは肩まで伸びた長髪とジーンズというCBGBsのユニフォームから、60sモッド・ルックに接近したアメリカの‘パワーポップ’へと転向していた―モップ・ヘアー、細身のズボン、狭いえりの3つボタン・ジャケット、そして細いネクタイだ。デビーはウェディング・ドレスを捨て、ミニ・スカートと膝上までの黒のレザー・ブーツに着替えていた。

ブロンディーの世界的ブレイクは1978年にセカンドLP、Plastic Lettersをリリースした時にやって来た。そのアルバムは初期のベーシスト、ゲイリー・ヴァレンタイン作の“(I’m Always Touched By Your)Presence Dear”、ランディー・アンド・ザ・レインボウズの1963年の“Denise”のカヴァーである“Denis”といったシングルに見られるように、考え抜かれたコマーシャリズムが反映されていた。“Denis”はブロンディー初のUKナンバー・ワンになっただけでなく、英国中のサッカー場で好んで歌われるようになった。

ブロンディーはレコード契約を果たしたCBGBsの最後のバンドだったが、彼らは今やヒットを飛ばし、ラジオ放送を原点に立ち戻らせた最初のバンドとなっていた―それはデビーがソフト・ロック(訳注:AORのこと)にとりつかれたアメリカの放送局に、パンク/ニュー・ウェイヴ・シーンのいらいらとしたスリルを弁明するために引き受けたプロモーション・ツアーのあとのことだった。“この10年間、ラジオは存在しなかったも同然だったわ。” 彼女はいう。“私たちは人々にアティチュードや哲学を伝えるよりも、グッド・ミュージックで楽しませたかったのよ。”

1979年にリリースされたParallel Linesは、ブロンディーのピークを示していた。それはパンクがポップなアプローチを避けてきた最後の時期にあたっていた。アルバムからは4枚のUKシングルがカットされた。グループのソングライティング・トリオであったデビー、クリス、ジミー・デストリ共作による“Picture This”、元々はニュー・ウェイヴ・バンドのナーヴスの曲だった“Hanging On The Telephone”、CBGBs時代の1975年にクリスとデビーが書いた“Heart Of Glass”、クリス・スタインが行方不明になったデビー・ハリーと彼らの猫、サンディ・マンについて書いた“Sunday Girl”だ。

1979年には“Eat To The Beat”もリリースされ、さらなるヒット、“Dreaming”、“Union City Blue”そして“Atomic”が生み出された。最後の曲は1980年に1位になったが、これは元々デビー・ハリーとジミー・デストリがやっつけ仕事として放棄していたナンバーだった。これはブロンディーがディスコの死にオマージュを捧げたものであり、皮肉っぽい締めくくりのジミーのギターは、マカロニ・ウェスタンを想起させるかのようだった。純粋なディスコ・ソングとして“Heart Of Glass”を録音したのち、彼は語っている。“僕たちは自分自身をパロッただけなんだ。”

ブロンディーはさらに1980年に2つのNo. 1ヒットを放った。シンセの巨匠ジョージオ・モロダーとともにレコーディングしたサウンドトラック・アルバム、American Gigoloからの“Call Me”、パラゴンズの古いレゲエ・ソング、“The Tide Is High”のカヴァーだ。後者はブロンディーのプラチナ・アルバム、“Autoamerican”からのカットだった。そのことについてデビーは説明している。“私たちがやってきたことの狭さや制限にうんざりしてしまったのよ。今までのライヴ・パフォーマンスから期待されるような押しつけに対してもね。”

“The Tide Is High”に加えられたオーケストレーション、多くのパーカッション、マリアッチ・ホーンズ、そして“Rapture”の原始ヒップホップ・スタイルでさえ、デビーによれば“ブロンディーは全く昔から趣味嗜好は変わってなかったわよ。”

1982年のアルバム、“The Hunter”がバンド最後の作品となった。アルバムからのファースト・シングル“War Child”はかなりのヒットになったが、“The Island Of Lost Souls”は11位どまりだった。“僕にとってそれが終わりの始まりだったね。” ベーシストのナイジェル・ハリソンは回想する。“終わりの終わりさ。” ギタリストのフランク・インファントはつけ加える。

音楽的拡張への渇望にもかかわらず、デビー・ハリーはより伝統的なバンド・サウンドが、より受け入れられやすいものだと結論づける。“音楽を作るっていう行為は人々の頭の中にすでに備わっているものよ。” 1982年に彼女はいっている。“私たちは人々みんなの無意識に接触しようとしていたわ。私は最高のグループたちはいつも音楽の原型として存在してきたと思う。ザ・ビートルズはそこに踏み込んだのよ。なぜなら音楽はあらゆる人々にアピールするものだから。クラシック音楽と同じね。”

アンディ・デイヴィス、1998年



ホームへ