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V/A / The Bird In The Bush(Traditional erotic songs)/1966 Topic Records Limited 12T135



このレコードは性的な事柄を扱ったフォーク・ソングを集めたものだ。私はこれをわいせつな(bawdy)歌と呼ぶつもりはない。なぜなら‘bawdy’とは、これらの歌にはないような粗雑さを意味することばだからだ。ここにある歌は愛することと喜びを率直に表した中に、繊細さが含まれている。たしかにそれらは好色(あるいは‘エロ歌’ということばを使ったほうがよいか?)なものではない。なぜならわいせつな性的描写を伴った率直な好色ソングは、フォーク・トラディションの固有文化の中ではきわめて稀であり、そういったものは兵士、船乗り、囚人といった男だけの世界に引き離された者たち、未熟な学生たち、また、ニタニタと笑うようなPills to Purge Melancholy, The Merry Muses of Caledoniaを作った中流クラスの‘アウトサイダー’たちの世界の中に主に存在するものだからだ。

ここにある歌は、男と女が自然に触れ合う中で作られてきたものだ。それは季節の変遷、作物の成長、収穫の増大、その本質において成果となるものが、代わるがわる訪れるものである。共感をはき違えた現代の作家たちは、フォーク・ソングの中の少女たちが、‘ドキドキするような安らぎ’によって妊娠することを強調するが、彼らは健全な子供が生まれることは社会にとって重要で喜びに値することを忘れている。なぜなら、とりわけ子供の誕生は新しい仕事の担い手となることを意味するからだ。少女の豊穣を意味する事象が、多くの性愛フォーク・ソングの中に存在するのは驚くことではない。唯一、妊娠が歓迎されないのは、少女が見捨てられた存在か何かの場合だ。

ここにある歌の数々は、主に欲望と実現、愛と成果の崇高で明確な真理に関連している。愛情が求められることを彼女たちはいつも望んでいるのである(愛のないわいせつな歌からいかにかけ離れていることか!)。彼女たちの性への関心は全てが誠実さであり、ある時は高貴でもある。今まで出版されてきたフォーク・ソング集の中からこういったマテリアルがほとんど全て削除されてきたのは愚かなことではないだろうか?

SIDE ONE
The Two Magicians

この歌に出てくる空想が、男とそして間違いなく女の両方の性夢に何世紀、何千年にも渡って出没してきたのは確かなことだ。ヒンドゥー書には、最初の男が最初の女を求めた時、彼女は雌牛に変身して身を隠してしまおうと考えたが、男は雄牛に変身し、そして子牛が生まれた。彼女が雌馬に変われば男は雄馬に変わり、彼女が雌ロバなら彼は雄ロバ、雌羊なら雄羊、こうやって蟻に至るまで世界は創造されていった。そのいくらかあとには、ペーレウス(ギリシア神話:アキレウスの父)がテティス(海の精)を犯そうとした時、彼女は彼の断固とした性交渉に屈服する前に、火、水、ライオン、大蛇、スミを吐くイカに変身する。ラテン諸国では、この変身ファンタジーはかわいらしく無味乾燥なバラッドになった。しかしブリテンでは非情で機知に富んだものになった。最終的にこのバラッドは衰退していくことになったが、未使用のまま残しておくにはもったいので、私が曲をつけて磨き上げた。その結果、これは新しい生命が吹き込まれたように思う。ヴォーン・ウィリアムズ博士はかつてこういった:‘フォーク・ソングを書き改める習慣は忌まわしきことである。私は改定する者が誰であろうと、そういう者は信用しない。私を除いては。’

The Old Man from Over the Sea
伝統的に、結婚適齢期の娘をもつ親は、それを物理的利点として考えるが、一方で少女の心は(例えば)神聖なものにとらわれているものだ。こういった状況から、一般の人々が決して飽きることのない一連の歌が生まれてくる。この歌はすでにシェイクスピアの時代にバッラド・シートに印刷されていたし、間違いなくそのとき新しいものではなかった。これは下品なユーモアを交え変容しながら、ブリテンとUSA全域で知られている。もしかすると、冷笑的なユーモアと激しい憤慨のミックスが、この歌の魅力を形作っているのかもしれない。ここで質問:この歌をもともと作ったのは男か女か?同じテーマをもつ歌で、‘メイドよ、あなたが若いのならば年老いた者と結婚するでない’といったリフレインをもつものはこの歌とは別物であり、それは後に作られたものである。

The Wanton Seed
いくつかのエロティック・フォーク・ソングは上品なコレクターたちによって、古代の儀式的な愛の概念を体現するものとして、ありのままを伝えていると考えられた。例えば原始社会における種まき時には、農民たちはすき跡(畑)の中で性交することが、作物の収穫のための好ましい行為であるとされた。そして全ての自然現象が相互依存であるという魔術的な考えを伝える多くの歌が誕生した。その最も身近な調和が、種子の発芽と男と女の恋の出会いの間に存在するということだ。ドーセット(イングランド南部)のパブで今世紀初めに聞かれたこの愛想のいい歌は、時折The Chiefest Grainと呼ばれた。

Gathering Rushes in the Month of May
何世紀にも渡ってどれほど多くの女性たちが、この歌の心地よい崇高さに励まされてきただろうか?一人の少女が私生児を産む。彼女は父親の怒りを恐れる。しかし彼女の子供に対する誇りと行ないによって、彼女は恐怖に打ち勝つ。この歌はとても有名だが(現在の形態は1937年にサフォーク((イングランド東部))で収集されたもの)、これを出版するに値する歌だと考えたコレクターはいなかった。それは大いに奇妙な話だ。これはイングリッシュ・ラヴ・ソングの傑作のひとつだ。イグサ集め―主にじゅうたんとして使うかバスケットを作るときに使われる―は、伝統的に恋人との出会いを呼ぶ幸運のしるしとして考えられている。間違いなくその理由は、イグサが成長することによって一つの囲いが作られ、それは男女の戯れを覆い隠すのに好都合だからだ。

The Bonny Black Hare
精神科医はカウボーイの持つ拳銃は‘性的能力の誇示’であるという。ああ、あるいはそうかもしれない。たしかに武器を使って表わす性行為は昔からのジョークだ。弓と矢を持つキューピッドは、大砲を撃ち、女の真ん中に穴を開け、空っぽのロッカー(俗:女性性器)の横で寝入るといったわいせつな歌を歌った船乗りたちの先祖に過ぎない。ここにある中心的なイメージはそれに十分ふさわしく、黒ウサギを標的とした遊戯的な射撃だ。物事をそれほど繊細に扱ったエロティック・ソングは多くはなく、ここに見られるような陽気で開放的な絵画的描写が用いられる。その悪ふざけ的なユーモアは曲のとらえどころのないリズムによって、いっそう強調される。この歌はアイルランド産だろうか?これはWalberswick近くの一人のジャガイモ泥棒によって収集されたが、彼はこれをイングランドで教わっていた。ヴァンス・ランドルフはオザークの山地住民の中から見つけたが、出版するにはあまりに下品すぎた。

The Whirly Whorl
年老いた男と少女の性的対立を表わした不変のモチーフに基づいた歌。世界中の隅から隅まで、このテーマは無尽蔵にコメディの要素として提供されている。中国、エスキモー、アラブに至るまで、誰もが面白おかしくこれについて歌を作ってきた。一般的には老紳士は財産を持ち、少女は性的魅力のみを持っているという要因からこの状況は生じる。我々の笑いは、あるいは‘安定’と‘喜び’の間にある大きな隔たりへのどうしようもない認識にあるのかもしれない。‘らせん’(whorl)は大げさな作り話に使われる‘落下’のことだが、ここでは単に‘あそこ’(thingamagig, thingumbob)を意味している。アバディーン(スコットランド北東部の市・港町)では19世紀初頭、ピーター・バカンがこの歌を収集したが(もっと長いものだった)、おそらく盲目の旅歌人ジェイミー・ランキンからのものだろう。バカンはこの歌はMary Hayが書いたものだと信じていた。メアリー・ヘイはこう書いている。‘Earls of Erollの娘はスコット将軍と結婚したが、のちに彼から逃れるように彼女は駆け落ちをした・・・’あるいはバカンはあてずっぽうだったのかもしれない。

Pretty Polly
これは風味のある祝歌だ。ほとんど感傷的なところはなく、しかし十分に満足するものだ。快楽がもたらされ、娘は自分の赤ん坊に喜びを感じる。この歌は兵舎で作られたわびしく実りのない歌、ラグビー選手の更衣室で歌われる歌、スポーツマンのような男性上位の気質を持つ船乗りまがいの者たちによってわめきたてられる歌とは全く対照的である。種々の形態がある中で、これはイースト・アングリア(イングランド東部地方)によく定着した(ハリー・コックスがよいヴァージョンを歌っている)。セシル・シャープはブリッジウォーター(イングランド南西部)、サマセット(同)でわずかにごちゃまぜになった例証があると指摘した(‘あるいは性的不能のコメディなのかもしれない’とジェイムス・リーヴスはおもしろいことをいっている)。

SIDE TWO
The Old Bachelor

バースの妻とジュリエットの乳母はこの愚かなおいぼれの物語を楽しんだことだろう。彼は若い花嫁と結婚し、義母に教わるまでどうすればよいのか分からなかった(しかし全てが叩き込まれ、赤ん坊がとびはねる)。この出来事はイングランド北部とスコットランドで物語と歌両方の形で報告されている。ガヴィン・グレイグの写本集にはフルセットが含まれている。ここで使われている曲は彼のものだ。

The Stonecutter Boy
見たところ、この歌はイングランド南部の田舎起源と思われる。描写にはむだなことばがなく、石切り工が服に石のほこりをくっつけ、よろよろと家にたどり着いた時に、素晴らしい夏の夜の夢のような風景をイメージさせてくれる。セシル・シャープはこの歌は一つも印刷されたことがないと指摘する。あるいはその理由は、当時の上品な人々にとって、娘が性交渉を実際に楽しむといった内容が不快なものだったからかもしれない。しかしワーキング・クラスにとっては素晴らし過ぎるだろう?

The Mower
シーザーとクレオパトラについて、シェイクスピアいうところの‘彼は彼女を耕し、彼女は収穫した’である。民俗的暗喩:性的資質と農業の一致である。耕すこと、種まき、刈り入れ、草刈り、それらはシンプルだが歌の主題の中での鮮明な婉曲語句である。地表は女性の体に置き換えられる。この歌は特に道徳的な資質を保持している。‘教養ある’詩情の中で、ほとんど公にされない問題を注意深く扱っている。娘は誘うが、問題を抱えている。その若い男は彼女を思いやり、気持ちよく、決意をもって接する。我々にとって全てが教訓である。この歌の様々なブロードサイド・ヴァージョンは、魅力的な口頭によるものの前では全てが劣ってしまう。‘taring’という大がまは、ソラマメを切るために使うものだ。

The Bird in the Bush
詩の中では、夢の中と同じように鳥はペニスのマイルドなシンボルなのかもしれない。同様にバラ、バラの茂み、あるいは単なる茂みは女性の陰部のシンボルだ。例えばレズビアンのスズメ、ボッカッチョ(イタリアの作家)のナイチンゲール(鳥)、さらにいえば、受胎告知のハトまである。現代の歌の中で共通して詳しく報告されているものはめったにない。顔を覆い隠した若い男が3人の快活な娘たちと出会い、彼女たちと葉が最も生い茂った森の中へ入っていく。次に続く社会的行動は分かりやすく密かなものであるが、シンボリックなことばと神秘的な曲調が、極度に官能的なシーンを創り上げる。

The Pegging Awl
エロティックな民間伝承の豊富なカテゴリーは、商人たちと彼らの道具に関連している。粉屋の研磨石、鋳掛け屋が容器の穴を埋める作業、移動職工の前後に動く紡錘型編具、靴屋の千枚通しなどだ。あるいはあなたがこれらの仕事のそういった側面を望むなら、ご婦人の顧客と特別な会話の機会が訪れるかもしれない。このヴァージョンは素晴らしいノーフォーク(イングランド東部)のシンガー、ハリー・コックスによって知られるようになった。

Martinmas Time
庶民はいつも誘惑の歌を愛したが、このことは公平で正しいことであるし、彼らは娘たちが好ましくない厄介な状況からすばしっこく脱出する物語も楽しんできたのだ。エニシダの生い茂る丘にいる娘と愛らしいジョーン、そして海岸のメイド、彼女たちはみな、その見事なウィットによって犯される前に脱出した。彼女たちは民衆のヒロインとして称賛されている。この歌の若い娘に相当するゲイの一団の歌は、現在ほとんど聞かれない。しかしFolk-Song of the North-Eastの中でテキストを印刷(この歌より多い内容)したガヴィン・グレイグは、今世紀初頭では‘階級関係なしに人気があった’と報告している。

The Widow of Westmorland’s Daughter
この威勢のいいバラッドのヴァージョンはフランシス・チャイルド博士に送られた。もちろん彼のバラッド集(チャイルド・バラッド)に加えるためだった。しかし不可解なことに彼はこれを破棄してしまった。どうやら不快に思ったらしい(彼は冷酷な暴力を伴った血にまみれた話を受け入れないことは決してなかったのだが・・)。

A. L. ロイド



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