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Big Star / #1Record/Radio City/1992 Fantasy, Inc. 0025218302524



ビッグ・スターは真に欠くことのできないグループとしてあり続けてきた。元ボックス・トップスのシンガー、アレックス・チルトンが率い、クリス・ベル(ヴォーカル、ギター)、アンディ・フンメル(ベース)、そしてジョディ・スティーヴンス(ドラムス)から成る彼らの60sポップとパワフルな掛け合い、そして抗しがたいメロディ・センスのミックスは、エキサイティングで特別なものだった。

長らく廃盤だったバンド存命中にリリースされた2枚のアルバム―『No.1 Record』と『Radio City』―のリイシューは、単に彼らの卓越性を再確認し、ビッグ・スターを正しく焦点に合わせるだけの行為に過ぎない。

「彼の才能を完全に暴いた者などめったにいない」

グレイル・マーカスはかつてロッド・スチュワートを論じた中でこの表現を使った。同じことがアレックス・チルトンにも当てはまるだろう。それでもせいぜい“気まぐれ”だとか“いらだたしい”といったフレーズが多用されるキャリアの中で、ビッグ・スターの彼の作品は常に革新的であり続けるだろう。

アレックス・チルトンは60年代半ばのメンフィス周辺でもがきながらプレイしていたグループの中からのし上がってきた。彼は地元のハイ・スクール・バンドを渡り歩いていたが、次第に1つのバンドへとどまるようになった。そのバンドは異なった時期に、クリス・ベル、リチャード・ローズブローという2人の前途有望な若者を擁していた。アレックスは彼らに加わったようなものだったが、まだ本気で歌う気持ちはなく、大学に進むことを決心した。あるいは彼がベルのブリティッシュ・ビート熱にあまり賛同していなかったのかもしれない。チルトンはソウルを好み、最終的に音楽の道に進む選択をした時、彼はRonnie & the Devillesに加入し、スタックス・スタイルのR&Bを歌った。

アレックスをフロントマンとして、デヴィルズは自信と名声を打ち立てていった。そして1967年までに、彼らはより新しい集合体―ザ・ボックス・トップスへと進展した。メンフィスで堅実な名声を打ち立てたボックス・トップスは、チップス・モーマンのアメリカン・レコーディング・スタジオで自分たちを売り込んだ。続いて彼らはそこの一員だったダン・ペンとスプーナー・オールダムの手に委ねられた。未経験のライターだったウェイン・カーソン・トンプソンのマテリアルから収集されたデモ・テープを手にいれ、最も強力なトラックを選び出し、グループに“The Letter”の大ヒットをもたらしたのがペンだった。ブルー・アイド・サザン・ソウルのエッセンスを豊富に含んだその曲は、USとUK両方で正当に勝利を手にし、チルトンの砂利のようなしわがれ声によって、そのわかりやすいコマーシャル性はより特別なものを作り出していた。その声は10代の坊やではなく、意志の強いブルース・シンガーのようだった。

“The Letter”に続くすばらしい“Neon Rainbow”は、前者にあった即時性に欠けるとしても、それでもなお強力だった。しかしながら、チャート的にはいくらか不安定なものとなり、ボックス・トップスのキャリアは早々と四苦八苦し始めたかのようだった。オリジナル・ラインナップ―チルトン(ヴォーカル)、ゲイリー・タリー(リード・ギター)、ジョン・エヴァンス(オルガン)、ビル・カニンガム(ベース)、そしてダニー・スマイス(ドラムス)―はばらばらになり始めた。スマイスとエヴァンスが去っていった代わりに、ジェントリーズからリック・アレンが、フラッシュ&ザ・ボード・オブ・ディレクターズからトム・ボグズが加入した。実際のところ、少なくともレコード上では彼らのサウンドにほとんど変わりはなく、その交代はおそらく大規模なツアーによるものだった。スタジオでのボックス・トップスは、しばしばアメリカン・スタジオの専属ミュージシャンたちによって補われ、最終段階においてメンバーのうちでチルトンだけがレコードに刻まれることもあった。何枚かの寄せ集め的アルバムだけでなく、“Soul Deep”、“Cry Like A Baby”含む数枚のすばらしいシングルが続いたが、グループのキャリアはポップとソウルの間のぎこちない妥協の中であがき苦しんでいた。チルトンの荒々しい声を欠いたマテリアルがあまりに増え、ギグの途中で荒れ狂った舞台裏を展開し、永遠にグループを去り、1969年暮れにボックス・トップスを終わらせたのがチルトンだった。

その間、クリス・ベルは1966年にジョン・フライがメンフィスに設立したスタジオ、アーデントで時間をつぶした。フライはベルの初期のバンドに参加していたテリー・マニングとともにスタジオを経営していた。クリスは時折エンジニアとして、またリチャード・ローズブロー同様、セッション・ミュージシャンとして二役をこなしていた。2人はエンタープライズ・レーベルからリリースされたマニングのソロ・アルバム『Home Sweet Home』で働き、同時にクリスは自身の最新のグループ、アイスウォーターで地元のサーキットを回っていた。そのトリオのバンドはクリス以外に、彼の学友だったアンディ・フンメル(ベース)とジョディ・スティーヴンスから成っていた。彼らは様々なイングリッシュ/アメリカン・パブ・ロックをプレイした。またクリスは自身のオリジナル・ソングをたくわえ、うち彼がアーデントでデモ録音した何曲かは、1971年にチルトンがメンフィスに戻ってきた時に、最初の興味の対象となった。

アレックスはボックス・トップスが崩壊した時に、アコースティック・ギターとオリジナル・ソングによるフォーキー・タイプの路線を試みようと、ニューヨークに移り住んでいた。彼はデュオを組もうとクリス・ベルを誘い込もうとさえしたが、クリスは故郷にとどまる方を好み、アレックスはソロ・ギグを展開したがほとんど効果はなかった。アレックスはメンフィスに戻る決心をした。彼もまたアーデント・スタジオでセッションを重ね、実を結ばなかったソロ・アルバムを作っていた。そのアルバムは、ローズブローとマニングが手を貸していた。いくつかのトラックは(ずっとあとになって)海外盤の『Lost Decade』で日の目を見たが、そのプロジェクトは放棄され、チルトンはアイスウォーターと手を組んだ。しかしながら、その新しいコンビネーションはライヴ・ワークを続ける代わりに、スタジオにこもり、厳格なスタジオ・セッションに乗り出す決心をした。セッションのあとにグループはスタジオを出ては通りにくりだし、そこにあった“ビッグ・スター・フードマーケット”というスーパーマーケットを心に留めるようになった。こうしてアイスウォーターは“ビッグ・スター”となった。

ビッグ・スターのデビュー・アルバムとなるリハーサルとレコーディングが数ヶ月にわたって実施された。その間にフライとマニングはアーデント・レーベルを設立し、スタックス・レーベルと配給契約を結ぼうとしていた。オクラホマのタルサ出身のグループ、Cargoeがレーベル発のリリースで、そのすぐあとに続いたのが『No.1 Record』だった。このアルバムを論じる時、ただ単純に最上級の賛辞を思い浮かべないことは難しい。これはブリティッシュ・ポップ、ロサンゼルス・スタイルのハーモニー、無駄のない鋭利さ、そしてスタジオの熟練の技が見事に調和している。チルトンの型にはまらない嗜好とベルの間で美しくバランスがとられた驚くべきコレクションとなったこれは、ビートルズ、バーズ、バッドフィンガー、そしてキンクスの痕跡が脈打っている。“The Ballad of El Goodo”あるいは“Thirteen”のような歌は、ゴージャスな旋律を保持し、失われた純真さを思い出させる一方で、どなりつけるような“Don't Lie To Me”はグループのもう1つの側面である妥協のなさを示している。プロダクションはすばらしく、ハード・ワークと規律はディープで成熟した響きとなって結実し、それは楽曲間の完璧な好対照を浮き立たせている。マヌケな過剰さがもてはやされた時代の真っ只中、1972年にリリースされた『No.1 Record』は、きわめて重要かつ新鮮な空気を提供した。

2つのシングル―“When My Baby's Beside Me”と“Don't Lie To Me”がアルバムからカットされたが、ほとんど不成功に終わった。実際アルバム自体も同様だった。計画性のないスタックスの配給体制は単純に不十分であり、CBSを通した新しい契約を結んだものの、アーデントはかなり二の次にされてしまった。ビッグ・スター内の緊張は高まっていった。クリス・ベルはリーダーとしての自分の役割がチルトンの支配的なパーソナリティによって侵食されてしまったと感じていた。そしてそこにはポリシーにかかわる根本的な食い違いが存在していた。ベルはスタジオ・グループを好んでいたが、チルトンはライヴ・アクトになることを望んでいた。これも同様に問題を引き起こした。分裂は必然だった。1972年のクリスマス頃、クリス・ベルは自分自身のバンドを去った。

彼の脱退のあと、ビッグ・スターはトリオとしてどうにか活動を続けた。いくぶんまれとなったギグはしばしば無計画なものとなり、グループは徐々に機能しなくなっていった。チルトンはアーデントに戻り、“Bomp!”(ロサンゼルスのレーベル)の回顧録によれば、ダニー・ジョーンズとリチャード・ローズブローとともに、再びソロ・キャリアをスタートさせたらしい。しかしながら、このコンビネーションはすぐに崩壊し、アレックスはその時、地元のロック・ライターの集会でプレイするために、スティーヴンスとフンメルにもう一度加わるよう求められた。このギグは以来伝説となり、ビッグ・スターへの反応は彼らが再結成を決心するほどポジティヴなものだった。クリス・ベルもまた、一時的に参加するよう要請されていたが、すぐに昔の憎悪の念が現われ、彼は作品に関するクレジットを一切断わり、身を引いた。彼が自ら作ったのかもしれないのにもかかわらずクレジットを拒否した何曲かは、ビッグ・スターのセカンド・アルバム『Radio City』に収録された。

『No.1 Record』は確かにすばらしかったが、『Radio City』は実際のところ、それを凌駕していた。過去のポップ・ミュージックの歴史と遺産への造詣が同様に息づいてはいるが、クリス・ベルの存在による滑らかな感触の代わりに、このコレクションはよりラフで、ザラザラした印象をを与えている。それは彼らの完全に生な緊張感、もろさ、そして活気によるものだ。アルバムの幕を開ける“O My Soul”はたしかにその内容を設定している。ミックスは一貫性がなく、洗練されていないヴォーカルと差し迫ったバンド崩壊への思いは、そのパフォーマンスにパワーを加えている。そのことは『No.1 Record』収録の“Don't Lie To Me”に当たる“She's A Mover”で聞きとれる。そこでは見たところ、ジョディ・スティーヴンスの揺るぎない決意が、そのとどろくような猛烈なドラミングによって全てを結合させている。このワイルドな自発性漂う雰囲気はアルバム全体に行き渡り、何か特別なクォリティを与えている。

しかしオリジナル・グループのヴィジョンは依然損なわれてはいなかった。うっとりするようなコーラス・ワークを伴う“September Gurls”は、ポップ・クラシックの1つであり続けているし、ザ・バーズのように鳴り響くチルトンのギターは、初期キンクスの毒も保持している。“Back Of A Car”と“Mod Lang”は同タイプといえるし、(むこうみずな安酒場風ピアノの入る)“Life Is White”と“Way Out West”は、バンドのスロー・サイドを示している(私はこれを‘バラッド'と呼ぶにはためらいがある)。実際、緊張感が途切れる瞬間がいくつかあり、見事な楽曲に常に伴うオーラはしだいに取り乱してしまっているものの、どうにか注目すべきアルバムとして調和しているし、そのオーラはロック史上最も独創的なアルバムの1枚として、『Radio City』を特徴づけている。

残念ながら、『No.1 Record』の希望をくじいた協力体制のぎこちなさが再びここでも浮上した。コロムビアとスタックスが仲たがいを起こし、配給は最小規模となり、2番目のすばらしいコレクションは事実上無視され、しぼんでいった。再び失望感がグループ内に持ち上がり、アンディ・フンメルが抜けた。アレックスとジョディは共に残り、ジョン・ライトマンをベーシストとして短いイースト・コースト・ツアーに乗り出した。それが終わると彼らは『Big Star 3』となるアルバム制作のためにスタジオに戻った。

『The Third Album』、『Femme Fatale』、あるいは『Sister Lovers』と、様々に名づけられたこのいくらか困惑交じりのコレクションは、グループを囲む神話が巨大なものとなるまで、数年間お蔵入りとなった。これは時折バンドが制御されているように聞こえ、他方では『Radio City』の行き当たりばったり感が崩壊ぎりぎりにまで推し進められ、その結果、パフォーマンスは良くいえば神経むき出し、悪くいえば悲惨なものであった。

チルトンの楽曲構成のコントロールは失われてしまったかのようだった。切れ目、途切れ、そして不気味な静けさがいくつかの曲で強調され、他の曲ではぎこちない結果として現われ、結果、このコレクションは奇妙で病的な作品となった。国によって異なるレコード契約によって起きた混乱は、全セッションから異なるトラックが選択されるという事態を招いたが、様々なレコード会社による習慣的なリミックスは、それでももう1つの次元を加えていた。

その間にビッグ・スターはついに力尽き、最後のセッションが終わると同時に活動は停止した。そのセッションにはスティーヴ・クロッパー、タップ・タラント、ジム・ディッキンソンらのヴェテランたち、そして崩壊する夢を支えるためにやってきた不動のメンバー、リチャード・ローズブローが含まれていた。チルトンはしばらくの間なりをひそめた後、再びニューヨークに向かい、よたつくようなとっ散らかったソロ・キャリアに乗り出した。多くのサイドビジネスの中で、彼はクリス・ステイミーのソロ・シングル、“The Summer Sun”"をプロデュースし、それに自らのギターを加え、その後、ぞんざいに作った自身のEP、“The Singer Not The Song”をリリースした。どちらもOrkレコードからの発売だった。それに続いたのがザ・シーズの名曲“Can't Seem To Make You Mine”のカヴァーで、『Like Flies On Sherbert』含む不完全なアルバム群がさらに続いた。それらは熱狂的というよりも、のぞき趣味的な反応を引き起こし、彼の才能が壊れてしまったことを示していた。タヴ・ファルコのパンサー・バーンズのような今にも崩れそうなユニットとの彼の作品も同様に、ぼろぼろの不完全さを露呈させていた。それでもクランプスによる初期のシングル群とデビュー・アルバムでのプロデュース・ワークは、彼の最高の‘アウトサイド’プロジェクトとして魅力的なコンビネーションを見せていた。アーデント・スタジオでミックスされた、70年代と80年代の独創的なこれら組み合わせは、いくらかすばらしいパフォーマンスを生み出していた。

彼の全課外活動のうちで最も感動的な瞬間が、1978年にCarレーベルからリリースされたクリス・ベルのソロ・シングルB面の“You And Your Sister”だった。アーデントで録音され、うしろにアレックスのコーラスを配したこれは、『No.1 Record』のアコースティックな側面の美しさを想起させていた。A面の“I Am the Cosmos”も同様にすばらしかった。心に残る深みを伝えるそれは、事実上ビッグ・スター・ミュージックそのものだった。スターを去って以来、ベルはずっとソロ・アルバムに取り組み、英国で契約を見つけようとロンドンへ旅立ってさえいた。残念ながら誰も関心を示さず、そのコレクションは未発表のままだ(シングルの両面2曲以外)。悲劇的なことには、これがクリス・ベル最後のレコードとなってしまった。彼は1979年12月、メンフィス郊外で交通事故により死んだ。その頃、彼は落胆し音楽から身を引き、父親の経営するレストランで働いていた。アレックス・チルトンの存在によって影に隠れがちではあるが、ビッグ・スターの偉大さへの彼の貢献は過小評価されてはならないし、見過ごしてはならない。

無限の才能を提供したグループにとってはひどい終わり方のように見える。しかしそのキャリアが不意に終止符を打たれようと、少なくとも今、ビッグ・スターの楽天主義、熱意、そして発明の才を再び楽しむことは可能だ。
BRIAN HOGG
1986年8月


アーチストが去ってから長い歳月が過ぎるか、あるいはその方向性が変わっても、その芸術性は生き続けるという主張には多くの真実がある。これはたしかにビッグ・スターにも当てはまる。屈強なヴィジョンから創り上げられたこのメンフィス出身のバンドは、その短い存在期間にもかかわらず、80年代と90年代のポスト・パンク/オルタナティヴのパワー・ポップ派の先頭に立つアーチストたちの成功に大いに作用した。

R.E.M.、リプレイスメンツ、ゲーム・セオリー、ポウジーズ、ティーンエイジ・ファンクラブ、プライマル・スクリーム、ビル・ロイド、ディス・モータル・コイル、バングルズ、スティーヴ・ウィン、そしてdBs(ピーター・ホルサップルとクリス・ステイミー)らは、ビッグ・スターからの大きな影響を認めるほんの一握りのアーチストたちに過ぎない。

70年代初頭、ロックは大仰でシンフォニックなスタイルとセンセーショナルな過剰さの混乱状態の中で模索していた。精巧なアングロ・パワー・ポップを創造するという考えは、おそらくおもしろいアイデアとして知覚され、ノンプログレッシヴなノスタルジア愛好者たちによって実践されたのだろう。ほとんどのロック・ラジオ・リスナーたちにとって、ビッグ・スターは絶望的に時代遅れだった。

ブルース、ロカビリー、そしてソウルを生んだ彼らの故郷メンフィスの中で、ビッグ・スターはいっそう異端だった。

「僕たちはみな英国びいきだった。イングランド産なら間違いなくオーケーだった。それが僕たちの見解だったんだ」 ビッグ・スターのプロデューサー/エンジニアで、“アーデント・レコーディング”のオーナーだったジョン・フライは笑う。「僕たちはあらゆる純粋なイングランド産の輸入レコードを注文した。イングランド以外で僕たちが唯一すばらしいと感じていたのはR&Bのレコードだった。そのうちの半分はメンフィス産だったね」

「そこがビッグ・スターのおもしろいところだと思う。R&Bとその周辺に影響を受けて大人になって、それからイングランドびいきになった連中だったんだ」 フライはこう続ける。「それらの影響がおもしろいコンビネーションを生み出すんだ」

中期のビートルズ、キンクス、バーズ(アメリカン・バンドだが)らから影響を受けた一方で、ビッグ・スターのアーシーなルーツは、そのジャンルに独特な新生面を与えた。ヴォーカルとそれぞれの楽器は、繊細さと鋭さを同時に表している。彼らはうんざりするほど多くのシンガー/ソングライターたちが達することができなかった流儀の中に、純真さと信用できるもろさを表現する才能を持っていた。彼らは流行に背を向け、むこうみずな確信をもってロックする。ジョディ・スティーヴンスの簡潔で派手なドラミングと、アンディ・フンメルによるメロディックで基本重視のベース・ワークは小さくはないパートを担っている。

慎重に重ねられた鳴り響くギターと、ちらちらと光るハーモニーの下に、ビッグ・スターの音楽は常に今にも粉々になりそうな、あるいは消えてなくなりそうなもろさを伝えていた。それは彼らのサウンドに、心を乱す美を加えるような緊張感だった。

ある意味、彼らのアートは真に彼らの世界を映し出していた。1972年のデビュー・アルバム(『#1 Record』)がリリースされた時までに、ビッグ・スターは団結するのに苦心していた。アレックス・チルトンといっしょに多くの歌を書いたクリス・ベルは、『Radio City』のレコーディングの前に立ち去り、残っていた共作曲から身を引いた。にもかかわらず、ベルの影響力はアルバム全体に浸透している。

「クリスは『Radio City』の音とヴィジョンに、とてつもなくかかわっていたんだ」 フライはいう。「『Radio City』の2〜4曲をクリスが書いた。彼はこういった―‘僕は自分の権利を放棄するよ’ってね。“Back of a Car”は間違いなくそのうちの1つだ。残りも聴けば判別できるかもしれないね」

アートは時間の止まる感覚を創り出すものだといわれる。ビッグ・スターは音楽を創ることによって、一般的な現実逃避主義のポップ因習を超越してしまった。その音楽はどういうわけか、スリルと身震いするようなすばらしさと、さらに疲れ切った奇妙さを同時に感じさせていた。それはすでにほころびを見せ始めた若き日の夢にしがみつく光景だった。

なぜかビッグ・スターはくじかれた希望と衰えに直面しているにもかかわらず、あなたを心地よくさせてしまう。バンドの歌詞と切迫した明るいサウンドの中で、その現実こそが短命に終わったことを超えて、ビッグ・スターのヴィジョンが持ちこたえてきたことの理由だ。真に永遠な何かが、ここで達成されているのは疑いようがなく、ビッグ・スターはこれからも多くの者たちに感動を与え続けていくだろう。

―Rick Clark
1992年メンフィスにて


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