Welcome to my homepage


The Band/Northern Lights-Southern Cross/2001 Capitol Records, Inc. 72435-25394-2-0



一般大衆にとって、1970年代初頭のウッドストック(地名としての)と聞いて思い出すイメージは、ボブ・ディラン、ザ・バンドそしてヴァン・モリソン含む当時存在したクリエイティヴなロック・スターたちによって定義づけられ、過度にロマンチック化されたロック・フェスティヴァル、あるいは牧歌的な田園生活への隠遁だろう。ギタリスト/ソングライターのロビー・ロバートソンにとって、その伝説の町はもっと暗い色を帯びていた。ウッドストックの創造的なきらめきの多くは浪費され、成功といううわべだけの装飾によって取って代わられていた。ヤクの売人はミュージシャンの数よりも多くなり、ロビーはやがてそこから離れ始めた。1971年に彼はモントリオールに家を買い、二つの町を行き来するようになった。1973年の夏の間、ザ・バンドがワトキンス・グレン・フェスティヴァルでプレイして間もなく、彼は全ての絆を立ちマリブへと西へ向かうことを決めた。

“僕はウッドストック・シンドロームに本当にうんざりしていたんだ。” ロビーは溜め息をつく。“僕はもう嫌になった。あそこは本当に不健全な世界だと感じていた。僕らに何が起ころうとも何の責任も発生しなかった。でも僕はずっとそれを気がかりに感じていたね。あそこは僕らがあの世に行くことと、腐敗、邪悪な感情を持たずに済むような状況へと追いやるのに好都合なところだと思った。僕はマリブに引っ越したけど、あそこは本当に明るくて陽気だった。全く正反対の気持ちになったね。”

海の美しさにすっかり惚れ込み、より快適な天候と新鮮な空気によってロビーはバンドの仲間にその新しい環境の美点を執拗に説いた。みながマリブの魅力にとりつかれるのにそれほど時間は要しなかった。10月までにバンドの残りのメンバーとボブ・ディラン全員が移住することになった。誰もが驚いたことに、ザ・バンドはアルバム、Planet Waves(ディラン)のために初めてディランと共にスタジオに入ることになった。

アルバム完了後、ディランとザ・バンドは1974年の頭の2ヶ月間をツアーして回った。ディランにとってそれは1966年以来のライヴ・シリーズの始まりとなった。ディランのバッキングに加えて、ザ・バンドも1971年の衰退時期以来、継続して自身のライヴをやり始めた。ザ・バンドは自らロック界の第一級バンドであることを再び証明してみせた。ディラン抜きでの夏の終わりから秋の初めにかけての一連のライヴのあと、グループは円陣を組み、4年ぶりとなるアルバムのための新曲をレコーディングする時が来ていた。それが1975年のNORTHERN LIGHTS-SOUTHERN CROSSであり、セカンド・アルバム以来のザ・バンドの最高作となった。新曲が聞けることをほとんどあきらめていた多くのザ・バンド・ファンにとって、そのアルバムは奇跡のようであった。

気分よく新しい作業に取り組むために、ザ・バンドは以前、農家/売春宿だったところをスタジオに改造したことによって、彼らはそこを楽天的な理想郷(Shangri-La)として重ね合わせた。過去のグループのベスト・ワークはいつもロビーが引き合いに出していたクラブハウスの雰囲気の中から生み出されてきた。ビッグ・ピンクの地下室は、彼らの最初のクラブハウスを提供し、セカンド・アルバムThe Bandのレコーディングのために、サミー・デイヴィス・ジュニアから借りた共同住居は、アナログ効果を実現させていた。どちらのケースも、自由に時間を使い気ままにふるまい、無為に過ごしたり、彼らが気持ちよく新曲をレコーディングできる状況を作り出していた。楽園は再び彼らにクラブハウスの場を提供することになった。その結果は明白極まりなかった。

“僕らは全くスタジオ・レコーディング・バンドじゃなかったね。” ロビーは強調する。“スタジオって感じじゃなかった。最初のうちしばらく僕は、また自分たちはある意味閉じこもってしまったと感じていた。僕らは音楽をやるにしても、ただぶらつくだけにしても一緒に楽しい時間を過ごしていた。僕らはボブと共に外出したり演奏したり素晴らしい時を送っていたし、新しい環境は新鮮だった。音楽的に僕らはハングリーだったと思う。こういったこと全てが一つになって何かを創り上げるに至ったんだ。”

4年ぶりの新曲によるスタジオ・アルバムということで、グループの何人かは最初期の作品をもたらしたマジカルな精神を再燃することができるかどうか、いぶかしがっていた。しかしそういった恐れはすぐに消えてしまうことになった。いったんロビーの新曲に取りかかると、見たところグループとしてのザ・バンドはなおも優れたレコードを作る才能にいささかのくもりもないことが分かった。

“僕らがAcadian Driftwoodをやった時、みんなはお互いに顔を見合わせて、やっぱり僕らは特別なんだと確認しあったね。” ロビーは笑みを浮かべる。“Forbidden Fruitをやった時だって、僕らは本当にうまくプレイできたと思った。Opheliaをやった時、僕らは大喜びしたと思う。まさにマジックが起こったんだ。苦闘することなんてなかったね。It Makes No Differenceはみなが素晴らしく溶け合ったバターのようだった。全員が抜かりなかった。絶好調なのは明らかだったよ。”

新しい生活環境、ディランとのツアー、理想郷にいることでインスパイアされたロビーは、その何年かで初めて継続的に曲を書ける状態にあった。合計9曲の彼の曲がNORTHERN LIGHTS-SOUTHERN CROSSのためにレコーディングされたが、Twilightは時間的制約によってアルバムから外されることになった。しかし結局それはシングルとしてリリースされた(そのヴァージョンはアルバムISLANDSのリマスター盤で聞くことができる)。アルバムを構成する8曲の中で最も傑出しているのが、Forbidden Fruit, Acadian DriftwoodそしてIt Makes No Differenceであり、それらはその長さにおいて重要な意味を持っていた。“多くはある一時期に書き上げられたものだ。” ロビーは説明する。“このレコードを作る時が来て、一気に僕の中から噴き出したようなもんだね。Acadian Driftwoodのような曲は、物語を正確に伝えるための役目を持っているんだ。僕は物語の誠実さに対する自分の義務を果たすつもりで、これをやる必要があった。歌をじっと聴くと、その完成度と成果は歌の内容によってもたらされているのが分かるだろう。それはまるで誰かが君に一組のトランプのカードを手渡して、君が好きなようにそれをシャッフルする―そして僕がカードをめくったら歌が長くなっていたようなもんさ。”

いつものようにロビーは二つ以上の楽器を使って曲を書いた。Acadian Driftwood, Ophelia そしてRags & Bonesはギターによって生まれたが、残りの5曲はピアノによって書かれた。予想どおり二つの違う楽器による物理的配置によって、各曲は質的に違うタイプのコード構成を持つものとなった。ロビーが過去の作品から本質的に外れる曲作りをしたいくつかの曲について、彼はアルバムを初めて聞いた時のことを次のようにコメントしている。“このレコードには音楽的冒険があった。僕は大きな脱皮のプロセスにいたんだ。曲の構成、音楽的タイプ、間奏、展開、イントロ、コード構成―いくつかは全く普通じゃないね。現代的で大胆な飛躍だった。”

力強いForbidden Fruitがアルバムの冒頭を飾る。リヴォン・ヘルムのいつもの簡潔で鋭いドラミングのあと、リック・ダンコの滑るようなフレットレス・ベースと、ロビーのハードなトレモロ・アーム奏法が続く。リヴォンはその間で見事な技で応えてみせる。それはリヴォンの年輪を感じさせる詞の解釈としての見せ場であり、ザ・バンドのメンバーたちに向けた喚起作用として存在する。

“明らかに自身の描写に違いないね。” ロビーは思いめぐらす。“多くの魅力が詰まっているよ。70年代は多くの化学的実験が行なわれた時代だった。僕はみんなが禁断の愉しみ(forbidden fruit)に手を出していたと思う。”

信じられないことに、この歌が最初にメンバーたちの前で披露された時、メンバーの誰もそれが自分たちについての歌だと悟った者はいなかった。“僕らは全員それに完全に無邪気に取り組んだね。” ロビーは笑う。“他の誰かについての歌のように―‘自分じゃない!’ってね。みんな部屋を見回してヒューヒュー口笛を吹き始めた。”

Forbidden Fruitはその見せ場として、ロビーが取る素晴らしい二つのギター・ソロをフィーチャーしている。ザ・ホークスがロニー・ホーキンスのバックを務めていた時、彼らが1964年に自分たち自身のバンドを結成した時、彼らがボブ・ディランと共にツアーした時、ロビー・ロバートソンは毎晩血気盛んで冒険的で大胆なギター・ソロを次々と繰り出し、それは最悪な早撃ちの名手としての名声を確立させることになった。しかしグループがザ・バンドへと駒を進めたのち、彼は完全に正反対の方向へ進むことになった。彼は1960年代終わりから1970年代初めに支配的だったロックの美学に逆らって、効率性と完全なる抑制を示し始めた。King Harvest(Has Surely Come)やUnfaithful Servantのような曲でロビーがソロを取る時、それらは通常まばらで短く、曲の終わりに配置された。このアルバムでの彼は、曲の中間に素晴らしいソロを再び取り始め、そのどえらい腕前を示している。

“僕はその必要性を感じただけだよ。” ロビーはいう。“その時点で僕は‘どいてくれ、僕がプレイするんだ’って感じだった。これは全く直感的なものだ。いくつかは音楽的にすごく興味深いソロがあるね。それは適当にいかしたブルージーなやつを思い浮かべて弾いてみたっていうような定型的なものじゃないんだ。もっとそれ以上のもので歌の延長として存在するものなんだ。例えば‘よし、どんな曲だろうとお構いなしだ―何かちょっとソロを加えてやろう。どれも同じように弾きゃいいんだ’ってのじゃ全くないんだ。例えばOpheliaで僕がプレイしたのは、歌のフレーズ、曲のリズム的な要素の感じ方を大きく引き伸ばしたもので、何かちょっと時代遅れなやつだ。僕は時々プレイしないこともあるけど、それもプレイの一部であって僕らが曲をやっている時ってのは、僕は素晴らしい演奏を心がけるんじゃなくて歌の一部になるように形を整えていくようなソロを弾こうと思っていたんだ。何の曲にかかわらず、その曲にキャラクターが帯びてくるようにね。そういうのが好きだったし、そういう方向に進みたかった。”

ロビーのソロのほとんどは、ザ・バンドがベーシック・トラックをレコーディングする時に同時に“live”でプレイされた。それは特にForbidden Fruit, OpheliaそしてIt Makes No Differenceのソロに最も顕著だ。Rags & Bonesの複雑なコード進行では、彼はおそらくゆっくりと時間をかけてフレーズを作っていき、オーヴァーダブによって並外れた喚起作用あるソロへと発展させていったと思われる。

Rags & Bonesは部分的に僕のユダヤ的出自によってインスパイアされた歌だ。” ロビーは言及する。“ヨーロッパ出身の移民の人々は知識人で学問ある人たちだった。北米ではそれがトロント、モントリオール、ニューヨーク、シカゴでも同じだった。僕にはそんな人々のうちの1人だった祖父がいた。彼は知的だったけど、くず屋としてトロントに住みついたんだ。僕は小さいガキの頃、バサースト(カナダ東部)とブルアに住んでいたことを覚えているよ。家の裏には一本の細い路地があって、彼がこの歌、‘Rags and bones, old iron’と歌いながら路地を上ってきたのを覚えている。彼はこのちょっとした歌を好きなように歌っていた。僕はこの歌を歌う彼を神秘的に感じていた。ガキにとって何かちょっと恐ろしい響きがあったね。そして何年も経ってそれが僕の出自に通じるようなインスパイアを与えてくれてこの歌を書こうと思うようになったんだ。”

ガース・ハドソンはリチャード・マニュエルの胸に刻みつけられるようなリード・ヴォーカルの周りに、ゴージャスなカウンター・メロディを織り込み、曲に命を吹き込んでいる。概してガースはこのアルバムに極めて積極的な役割を果たしているように見える。24トラックの装備とRMIコンピューター・キーボード含む新しいシンセサイザーの技術、ARPとローランドによるシンセサイザー・ソロ、ミニ・モーグ、ARPシンセによる弦のアンサンブル、そして新しいLowreyシンフォナイザーによってガースは以前にはなかった色合いを加えることができた。いくつかの曲ではキーボード・パートだけで8か9トラックを使っている。ガースはまたアルバムの全てのブラスとサキソフォン・パーツをオーヴァーダブした。それでもこのレコーディングが、コンピューター・ミキシング出現以前のものであることが、どえらいアルバムとして君臨する理由である!

このアルバムのもう一つの特徴が、ほとんどのヴォーカルがオーヴァーダブされたことだ。過去において、グループはレコーディング前に徹底的にリハーサルを繰り返していた。レコーディングが始まるまでにメンバーたちは曲の全てを完璧に覚えていた。その結果として、ベーシック・トラックがレコーディングされると同時にヴォーカルは常に“live”レコーディングされることになっていた。一方このアルバムの歌入れは歌を覚えながらであった。これはそれぞれのメンバーが一斉に揃うことがなかったため、純然たる流動性の中で共に歌い演奏することができなかったことも表している。

Rags & Bonesに加えて、リチャードはHobo JungleRing Your Bellでもリード・ヴォーカルを取っている。前者は悲しさと桁外れに美しく喚起作用ある曲構成がふんだんに使われ、ロビーがアコースティック・ギターとメロディカを、リックがベースとハーモニカを、一方でガースのLowreyオルガン、アコーディオンとシンセサイザーのコンビネーションがフィーチャーされている。

Ring Your Bellはファンキーでグルーヴィーなリックのベース、リヴォンのドラムス、そして全体を埋め尽くすガースのシンセをフィーチャーした不思議な物語だ。ギターとブラスのコール・アンド・レスポンスが4小節続いた後、グループの3人の偉大なヴォーカリストたちがコーラスで入ってくる。

“そこには様々な思い出がごった煮になっているね。” ロビーは回想する。“派手にやり合っていたけど、争いはいく分意識外から出てきていた。曲作りの時の潜在意識の流れの一つで、あの時具体的に起こったこと以外は、論理的に説明するのは難しいな。当時のことについて考えられるのはこれだけさ。ガースと僕がやった仕事は素晴らしいと思うね。全員が素晴らしい仕事をしたけど、ガースと僕の調子が良かっただけだと思う。”

アルバムの革新的トラックがJupiter Hollowだ。ロックのレコーディングでドラム・マシンをフィーチャーした最も古いうちの一つで、それはアルバート・グロスマンの2番目のベアズヴィルのスタジオであるバーンで2年前から始まっていた。このアルバムのセッションの最中に、誰かがそのトラックの存在を思い出し、復活させることを提案したものだった。詞はシャングリ・ラ・スタジオで書かれ、一部はギリシア神話全集からインスパイアされていた。“突然答が出たんだ。” ロビーはクロウダディのライター、ハーヴィー・クーバーニックに語っている。“このアルバムのための曲を書き始めた頃、これは僕が気にかかっていることだった。でもそれは基本的にある人たちが忘れていることなんだ。”

ロビーは25年近く経ってから私に次のように語ってくれた。“僕の曲作りの中に、神話や古代の物語の占める割合が大きくなり始めた。僕は物語やそのキャラクターに魅了されていって、曲作りにとても効果的な役割を果たしたんだ。僕は当時ローマ神話、ギリシア神話、北欧神話なんかを読んでいて思いついた。‘ここにはとてつもない深遠さがあって、広い視野とそれぞれの神話の中に人々はみな違った自身の解釈を持っている’ってね。僕は物語を聞かせるのが好きだった。それがおとぎ話か神話だろうがそういうものなら何でも僕に強い影響を与えたね。それがこのレコードに反映されることになったんだ。”

ドラム・マシンに加えて、リヴォンとリチャードはドラムスを叩いているが、一方で最も驚くべきことに、ロビーはギターの代わりにクラヴィネットをプレイし、アルバムはザ・バンドがギターを使わずにレコーディングしたトラックを含む唯一のリリースとなった。ロビーによれば、彼は通常ギターを弾くところでクラヴィネットをプレイしているが、それは単にクラヴィネットの方が物理的に簡単に弾くことができたからだそうだ。“僕らはそれがびっくりするような逸脱だとは思わなかったね。” 彼はつけ加える。“僕らはいつもやっているような楽器のスウィッチの延長だと考えていた。そういう訓練をすることで何か違ったことが起こるからね。”

そのようなことを施されていないトラックも同様に素晴らしいが、アルバムの中で3つの傑作といえば、間違いなくIt Makes No Difference, OpheliaそしてAcadian Driftwoodだろう。前者はグループの中で異質なラヴソングであり、ソングライターとしてのロビー、グループとしてのザ・バンド両面において異例な1曲である。

“今までから外れたやり方をするのがベストな時だってあるものだ。” ロビーは説明する。“これは僕がピアノの前に座っていた時にできたケースだった。僕が適当に意味もなく弾いていたら、歌が思い浮かんできた。で、僕は考えた。‘よし、これはいい感じだぞ’ってね。でも僕はそれがまともなラヴソングかどうかは分からなかった。曲を作っていくうちに途中でいろんな試みを入れていったんだ。詞的にも音楽的にもね。この歌にはある特定の感情表現方法がある。例えば‘ギャンブラーは言った「それを読むと泣けるぜ」’っていうような。僕は考えた。‘これはちょっと一風変わってるぞ’ってね。僕は詞の中に特別な独立した一行をブリッジとして加えようと思った[‘逃げ出した牛たちは壁に向かってドカドカと走り出す’]。それから僕はこの曲にエモーショナルなギターを加えたかったんだ。典型的なラヴソングだとこんな長いソロは使わないだろうね。僕はすごくこれを気に入っているよ。とてもうまくいったと思う。”

ロビーのイントロ部分とソロ部分のギターは、おそらくKing Harvest以来のスタジオでのベスト・プレイだろう。最後のヴァースでガースは、リック・ダンコのキャリア史上最高のヴォーカルによる感情表現に呼応したこの上なく美しいグレイトなソプラノ・サキソフォンを提供した。

Opheliaはグッドタイムなニューオリンズの雰囲気を見せつけるが、オールドタイムなコード進行はロビーがギターであれこれ遊んでいた時に偶然発見したものだ(, 7, VI7, 7, 7, 機修海譴魯好灰奪函Ε献腑廛螢鵑旅柔に見られるようなティン・パン・アレイによく出てくるスタンダードなものだ)。活気あるリード・ヴォーカルはリヴォンによるものだ。リチャードはガースがブラス、シンセサイザーで見事に曲全体を補完する中、巧みにリヴォンを支えている。

“これは現代に書かれたものとしても、30年代に書かれたものとしても通用するね。” ロビーは感慨深くいう。“僕はそれがザ・バンドの真髄だと考えた。僕は完全に時代を超越した曲が書けた時に本当に喜びを感じていたよ。Opheliaは完全に僕の中から出てきた曲だった。誰もそんな曲なんて書いていなかったからね。”

Acadian Driftwoodはアルバムのかなめであり、ザ・バンドがそれまでレコーディングしてきた他の曲と同等のロビーの空前の傑作だ。歌は人々が退去を余儀なくされた物語を伝えている。アケイディア人は1750年代にノヴァ・スコシア(カナダ南東部の州)とニュー・ブランズウィック(同)から追放された(その多くは最終的に南西ルイジアナに住みつきケイジャンとして知られるようになる)。歴史小説的な物語を創造するロビーの才能によってそれは雄弁に語られ、数千の現実のアケイディア人にとって希少で貴重な贈り物となった。

彼が最初にその物語に魅せられたのは、モントリオールのTVで放映されたACADIE ACADIEというカナダ映画を通じてだった。“この物語の力強さとエモーションは、” ロビーは回想する。“人々が移住してどこか新天地を見つけなければならないことを描いたGRAPES OF WRATHと同じように、僕に深い感銘を与えたんだ。そしてそのことは同時に、僕がカナダから出て行ってディープ・サウスへと向かっていくっていう自分自身のストーリーと重なっていった。僕は打ち勝つことが出来なかった歴史の側面に焦点を当てたThe Night They Drove Old Dixie Downでやったような、敗者についての見解をもう一度取り上げたんだ。それはまた音楽的探求の機会も同時に与えてくれた。アケイディアン・サウンドをケイジャン・サウンドへ変容させるっていうね。それは僕にとってすごく肥沃な領域だったんだ。”

ガースによるアコーディオンとバイロン・バーリンによるフィドルは、ケイジャンの雰囲気を見事に創り出している。リチャード、リックそしてリヴォンがヴォーカルを共有し、それはSTAGE FRIGHT以来封印してきたザ・バンドの最強の魅力であるヴォーカリストたちの交互のスウィッチングとオーヴァーラップするものだ。リチャードはロビーがアコースティック・ギターを弾く中、クラヴィネットをプレイし、ガースはさらにピッコロを加え、バグパイプ奏者を演じている。最終部にオールドタイムなフランスの雰囲気を出すために、ロビーはケベック人の作詞家であり脚本家のMarcel LefebureとFrancois Cousineauに翻訳の手助けを相談した。ポピュラー・ミュージックの世界で、ロビー以外にここまでうまくやり遂げた他の人間を想像することは難しいだろう。音楽自体はもちろん、これは喚起作用あるマジカルな効果を約束するものだ。

このディスクに含まれる2曲のボーナス・トラックは、元々このアルバムには入っていなかった。Twilightはアルバムのためにレコーディングされていたが、結局シングルとしてリリースされることになり、1976年夏と秋のザ・バンドのファイナル・ツアーで主要な1曲となった。ここでのヴァージョンはピアノ、ベース、ギターがざっと通しでプレイされており、リリースされた最終ヴァージョンとは全く異なっている。リリース・ヴァージョンのテンポはより遅く、レゲエのグルーヴはどこにもなく、詞にも違いがある。

Christmas Must Be Tonightはアルバム・セッション後に散発的にレコーディングされ、一時期は年末までにシングルとしてリリースされる手筈になっていた。しかしどういうわけかその案は棚上げにされ、完成した曲はザ・バンドのキャピトルでのラスト・アルバム、ISLANDSに収録されることになった。上述したTwilightのヴァージョンについては、こちらは全体を通してかなりアップテンポで、ギター、ベース、ドラムスのみで成り立っている。しかしどちらのヴァージョンにおいても、グループはこの曲をどうプレイするかのヴィジョンをはっきりと理解しようとしていた。“その過程で曲を理解し発展させていることがよく分かるね。” ロビーは断言する。

このアルバム全体としての最後の考察として、これは傑作として豊穣な質感を伴ったアルバムだと断言できる。あるいはそれは4年以上を経てリリースされた、オリジナル作品で固められた最後のアルバムだったからかもしれない。1975年のクリスマス直前にレコードはリリースされ、26位で止まり、チャートから落ちたのは19週間後だった。もちろんこれはそれ以上の価値がある。

一部を除いて全てはザ・バンドのメンバーと12年以上に渡ってインタビューを行なってきたロブ・ボウマンによるものである。ロブは膨大なインタビュー全てに対し感謝の念を送る。




ホームへ