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The Band/The Band/2000 Capitol Records, Inc. 72435-25389-2-8



MUSIC FROM BIG PINKリリース後、ザ・バンドを包み込んでいる神秘的なヴェールについて、その流儀や謎めいたスタイルが話題となり始めた。彼らのそれぞれの歌につきまとっている音楽、特徴と、そのオーラを創り上げている実質的な役割としてのイメージはしかし、リック・ダンコが自動車事故によって重傷を負ったため、1969年の春まで彼らがギグで披露することができなかったという事実があった(“ちょっと飲みすぎてハイになってたんだ。” リックは笑いながらそういっている)。さらに火に油を注ぐことになったのが、1年間以上のインタビュー拒否だった。ザ・バンドは簡単にいえば‘謎’だらけだった。当時ロックンロールという枠の中で活動していたうちで最も興味深いアンサンブルの一つであり、逆説的にいえば、彼らはロックンロールとは何の関係もないように見えた。

単にTHE BANDと名づけられることになる彼らのセカンドLPの制作は1969年春に始まった。LPのためではない散発的なセッションは、ニューヨークにあるキャピトル・レコーズのスタジオで前年の9月から始まっていた。スタジオでのセッションでいい感触を持てなかった彼らは、再びロサンゼルスに向かうことを決めたが、彼らは今回普通のレコーディング・スタジオを使うつもりはなかった。彼らはハリウッド・ヒルズにあったサミー・デイヴィス・ジュニア所有の大きな屋敷を借り、一時的にそこをレコーディング・スタジオに改造した。彼らは煙突をテープで閉じ、暖炉を使用禁止にし、キャピトルは窓を隠すために2人の大工を送り込んだ。ドラマーのリヴォン・ヘルムによれば、ザ・バンドは次に窓の周りを毛布で覆い、振動音を出さないようにした。最後に防音版を壁の外側に固定した。それは屋内でグレイトなサウンドを出すために、外側から見れば醜悪極まりない模範的な建造物を建てる行程であった。Up On Cripple Creek, Whispering Pines, Jemima Surrenderを除いて全てがそこでレコーディングされた。その3曲は、ザ・バンドがサンフランシスコのウィンターランドとニューヨークのフィルモア・イーストのデビュー・ギグで実際にプレイしてみたのちに、6月にニューヨークに戻りHit Factoryでレコーディングされた。

ビッグ・ピンクは素晴らしい出来映えで優れたデビュー作だったが、セカンドのTHE BANDがグループの代表作だった。ロビー・ロバートソンは今やグループの最も有力なソングライターとなり(彼は1枚目では4曲を書いたのみだった)、格段の成長を遂げていた。同様にこの時点で、ダンコ、ヘルム、そしてキーボーディストのリチャード・マニュエルとガース・ハドソンも進歩し、彼らのアンサンブルは特別なレヴェルに達していた。4人の出す音は単なるそれぞれの総和以上に素晴らしく、それぞれも見事なプレイヤーとなっていた。

様々なアイデアがこのレコードに提案された。ロビーとジョン・サイモンはハワイで1週間を過ごし、セッションの計画を練っていた。全員がハリウッドで借りた家で共同生活することによって、クラブハウスのような雰囲気が作られた(ビッグ・ピンクの地下室と同じ効果だ)。機材とお互いのメンバーが接近した状況の中で、創造的なアイデアが容易に次々と生み出されていった。

日常は主に3つのパートに分けられた。そのうちの一つは、個々の曲にどの楽器を使うか?そしてどんなサウンドを出すかを突き止めることだった。プロデューサーだったジョン・サイモンは私に強調したことがある。“僕らは全ての曲にふさわしい音と、全ての曲が違ったサウンドになるように、楽器にはすごく気を使っていたね。” その感触は大きな振り幅を見せるものから、ドラムスの微妙なチューニング設定の違いによる、少数の人たちにしか分からないような変化まで様々だ。

このアルバムのドラム・サウンドはとりわけ暖かい。ガース・ハドソンは根っからの質屋マニアで、普段からザ・バンドが公演に行く先々の町で珍しい楽器や音楽書を漁っていた。彼らがロサンゼルスに着いた直後に、リヴォンはガースに付き合い、彼の御用達の質屋のうちの一つに立ち寄った。そこで彼は木製のリムのついた年代物のドラム・セットとグレイトなサウンドの出るシンバルを130ドルで購入した。このアルバムで特に傑出しているのが、このドラムスのサウンドだ。ロビーはこう言っている。“このレコードは木の音がするんだ!”

サウンドについて言えば、カーティス・メイフィールドとジ・インプレッションズもザ・バンドに大きな影響を及ぼしていた。特にロビーは幅広い音の配列を持った見事な視覚的描写をプレイする、メイフィールドの才能に感銘を受けていた。ザ・バンドの音色の種類も広範囲に及び、このセカンドLPもその豊富な例証を多く含んでいる。

日々の3番目のパートがリハーサルで、実際に曲をレコーディングするのが翌日の1番目のパートだった。Up On Cripple CreekとKing Harvest(Has Surely Come)を始めとする数曲は十分にタイトなサウンドを得るために、他よりも少し時間をかけて取り組むことになった。“これはちょっと時間をかけたね。” ロビーは認める。“これらは僕らが音楽的にグルーヴを重点に置いた曲だった。僕らはその中にグルーヴを見つけようとしていた。”

このアルバムは一般的には、ほとんどの曲に焦点が当てられ、半ば強引にある種のコンセプト・アルバムとして見なされていた。人々は古いアメリカの文化を連想させる伝統をそこに重ね合わせた。伴奏される音楽は同様に驚くほど広範な過ぎ去りし日のアメリカ伝統の土地ことばを引用し、それはラグタイムから古いゴスペル、カントリーからブルースまでに及んでいる。ロビーが曲を書き始めた頃から聞いていたジョン・サイモンによれば、コンセプトはすでに彼に備わっていたということだ。しかしロビーによれば、このコンセプトが現れたのはしばらく経ってからだ。

“僕らはレコードを作るまでコンセプトが存在していたなんて知らなかったね。” ロビーは私にそう強調したことがある。“僕が書いた歌は基本的に、‘よし、これはかなりいける歌だぞ’か、あるいは‘これはまあまあだな’っていう感覚だけで書いただけだよ。みんながそれにコンセプトをくっつけたければ、僕はそういうライターだってことになるだけさ。僕は単に曲を書くことにトライしただけだ。君が話の方向を変えればそっちの方向に行くだけさ。突然同じモードを持った3つのことが現れて、ある特別な方向に向かってうまく動き出したように見えただけだろう?”

アルバムからの最初のシングル、Up On Cripple Creekはグループの最初で最後のトップ30ヒットとなり、1969年の終わりに25位に達した。それはLPの中で驚くべき“オールドタイム”な効果を持ったうちの1曲だ。ポイントとなるサウンドはジューズハープ(ビヤボン/口琴)であり、それはハドソンによるワウワウ・ペダルを通したクラヴィネットによって補完されている。抜け目のないリスナーはまた、低音部がヘヴィに強調されているのに気づくだろう。特にそれはダンコのベースとヘルムのベース・ドラムが混ざり合って共鳴しているところに顕著だ。

今回ここにはボーナス・トラックとして、Up On Cripple Creekのアウトテイクが含まれている。わずかに詞に違いが見られ、ジューズハープ/クラヴィネットによるブレイク部は全く異なっている。最後のヨーデル部分はあまり力強くはない。最終的にはリリース・ヴァージョンほど力強くもシャープでもないが、それでも2つのテイクの違いを存分に楽しめるものとなっている。

ロビーはこのレコードのエンジニアリングの大部分を引き受けた。“ロビーはそういった知識に飢えていたね。” ジョン・サイモンは述べる。“彼は僕がレコーディング・セッションに持ち込んだ全てのことをすごく尊重してくれて、セカンド・アルバムの時に僕からいろんなことを吸い取ったよ。僕は彼にレコードの作り方、プロデューサーにどうやってなるかを教えた。ミックスの仕方やマイクのセッティングの仕方、技術的な側面から見たアルバムの作り方を教えたんだ。”

“曲を書く時は・・” ロビーは1980年代の終わりに私に語ったことがある。“歌を頭の中で鳴らして、それを聞いてみるんだ。僕は頭の中に何か木の匂いのするサウンドを持っていた。当時の世の中は全てが高級指向に向かっていたけど、僕はこのレコードでウッディな鈍いサウンドが欲しかったんだ。その方が本来音楽に適しているように思えたね。” “このセカンド・アルバムで僕は本当の僕たちを知ったよ。これは僕がみんなに向かって‘これが僕らのサウンドだ’って言って作ったアルバムだった。他のレコードを作ったり、あれやこれやとやることだってできた。服を変えてみたり帽子を変えてみたりね。でもそんなのは問題じゃなかった。これは絶対こうするんだ!ってね。”

Up On Cripple Creek同様、Rag Mama Ragはかなり奇妙で変わった女について歌った、基本的に楽しくアップテンポな歌でリヴォンがヴォーカルを取っている。ロバートソンがこの歌をグループに披露した時、全体にそのアレンジメントはまだ確定していなかった。結局ダンコがフィドルを弾き(1オクターブ高いフィドルも重ねた)、ハドソンは激しくシンコペイトするファンキーなピアノを弾いた。ヘルムはマンドリンを弾き、リチャード・マニュエルはドラムスの座につき、ジョン・サイモン(彼はこの時ほとんどザ・バンドの6人目のメンバーだった)はチューバで、ややからかい半分にベース・パートを担当した。驚くべきことに、彼は以前チューバをプレイしたことなど一度もなかったのに、レコーディングをワン・テイクで完璧にこなしてしまった!

“Rag Mama Ragでは・・” ロビーは思い出す。“僕らはみんないろんなものを持ち寄ったね。僕らはベーシック・トラックをやってみた時に考えた。‘うーん、ガースがピアノを弾いてみたらどうだろう?リックがイントロでヴァイオリンを弾いてみたらどうだろう?すると彼はベースが弾けなくなるな。これはラグタイムの曲だからチューバがベースの代わりになるかな。’ってね。そうやっていろんな楽器を加えていった。‘リチャードのあのおかしなスタイルのドラムスを入れてみたらどうかな?’とかね。このアイデアは彼のキャラクターあってこそだったね。‘おっ、それらしいサウンド(想定していたサウンド)になってきたじゃないか、僕らはうまくいき始めてるぞ’ってことになった。”

“リヴォンはリチャードのコミカルなドラミングが大好きだったね。この歌は不器用な感じの魅力を持っていたからそれがすごくうまくいったんだ。リチャードは全く自然に取り組んだだけなんけどね。”

Rag Mama Ragはアルバムの中で歓喜に満ちた1曲であり、グループのキャリアを通じてコンサートの重要なレパートリーとして生き残った。そのハイライトはピアノ・ソロのあとにやってくる全員の過熱状態だ。ヘルムのヴォーカルはマニュエルとの二重唱になり、誰かがハープのようなサウンドを加えている。そして最後のコーラスが全員を現実に引き戻す前に、ほとんど全員は実験的な領域にまで達している。興味深いことに、この曲は英国で大ヒットを記録することになった。

ラフ・ミックスの形で別テイク・ヴォーカル・ヴァージョン(バッキング・トラックは同じ)がここにボーナス・トラックとして収録されている。主な違いは、出だしのダンコとマニュエルがリヴォンと共に繰り返す部分だ。これはほとんど全てのヴォーカルが、最初の2枚のザ・バンドのアルバムでバッキングと同時に“live”レコーディングされていたことを典型的に示すものだ。こういった“live”レコーディングは1968年の初頭においては、スタックスのようなサザン・ソウルのやり方と共通する習慣だった。1960年代後半のメジャーなロック・グループでこういった手法をとっていた例は他に聞いたことがない。そういったやり方ができた理由の一つは、ザ・バンドのグループとしてのアンサンブルが高いレヴェルにまで達していたからだ。ライヴによるヴォーカルと、オーヴァーダブによるヴォーカルの違いは、概して全く明白な形となって現われる。前者の場合、バックと密着したより感情のこもった表現となり、それは全盛期のグループが持つ口では言い表せないほどの錬金術的な瞬間が垣間見えるのである。

ロビーはUp On Cripple Creekを書き終えたのち、ロサンゼルスでのレコーディング中にRag Mama Ragを最後まで書いた。そして少なくとももう1曲、The Night They Drove Old Dixie Downがその数ヶ月内に完成していた。

“僕はThe Night They Drove Old Dixie Downのメロディはすでに頭の中にあったんだ。” ロビーは2000年の夏に私に語ったことがある。“でも詞をどうすればいいか分からなかった。僕はメロディをハミングしていただけなんだけど、このコード進行が気に入っていた。いくつかのポイント[コンセプト]は衝動的に僕の中から出てきた。それで僕はいろいろと突き詰めていって歌詞を書き上げたんだ。”

“最初に南部に行った時、僕はその頃の共通認識である‘心配するな、南部は必ず再興する’って表現を覚えてるよ。ある時期の僕にとって、それはちょっと可笑しな表明に思えたんだけど、あとになって僕はそれにすごく深い感動を覚えたんだ。僕は‘ああ、ここには痛みや悲しみがあるんだ。’って思ったね。アメリカ文化の中には信じられないような悲しみがあるね。”

“一つのヴァースの中で僕はリンカーンについて言及したけど、リヴォンは‘君にはできないよ’って言った。僕は‘そうかい?僕はこの本を読んでたんだけど・・’と言った。南部についての僕の考えは、リヴォンにとってはこういうことだ。‘君は南部の人たちが奴隷を使うことなんて許されないって言おうとしてるわけだ。’で、リヴォンは僕に気づかせてくれた。‘君は南部を見てきたほうがいい。なぜなら南部ではその意見は必ずしも受け入れられてないってことなんだよ!’ってね。それで彼は僕に当時の南部の貧乏白人の事情や政治のことなんかを僕に分かるように説明してくれたんだ。‘ああ、なるほど君のいうことはよく分かるよ’って思ったね。これがこの歌に対する彼の貢献だったね。”

Night They Drove Old Dixie Downはロバートソンのベスト・ソングの1曲だ。南部の側から見た南北戦争(1861-65)を扱ったこの歌は、数千の無名の人々の物語を伝えている。グループ内唯一の南部人であるリヴォンによるヴォーカルが、歌に説得力を持たせることができたのである。またこの曲は彼の“しゃっくり”ベース・ドラム(訳注:“つっかかるような”感じ)のパターンが披露された好例だ。さらに2番に入るハーモニカによってイメージがふくらむかのようだ。ここではガースの茶目っ気ぶりが発揮されている。彼はLowreyオルガンによるアコーディオン・サウンド(彼は当時主流のハモンドB-3ではなく、ほとんどLowreyを使っていた)の上にホーナー製のメロディカをオーヴァーダブした。“ガースは自分の世界をそこに存分に持ち込んだんだ。” ジョン・サイモンは思い巡らす。“これは今のキーボード・プレイヤーのあるべき姿を呈示することになったね。ガースはその先駆者だった。彼は本当に楽しんでやってたよ。” ガースはまた曲の終わりにちょっとしたトランペットを吹いた。

ここにはボーナス・トラックとしてNight They Drove Old Dixie Downのオルタナット・テイクが収録されているが、それはロビーがテンポを外したアコースティック・ギターによって出だしがつまづいたテイクだ。リリース・ヴァージョンは感傷的な詞に、よりぴったりマッチしたくっきりとしたフィールを保持している。

MUSIC FROM BIG PINK同様、リチャード・マニュエルはこのアルバムでも曲作りに参加した。それはロビーとの共作であるWhen You Awake, Whispering PinesそしてJawboneだ。“リチャードは曲を書いていて行き詰ることがあったんだ。” ロビーは回想する。“で、僕が時々手を貸していた。ほとんどは彼が曲をつけて、最後は一緒に仕上げたよ。僕はうまく当てはまる詞を考えた。僕は詞を書いたけどリチャードは大部分それに曲をつけていったね。”

When You Awakeはガースによるゴージャスなカウンター・メロディとリチャードの柔軟なドラミング(2分20秒のところの素晴らしいドラミングに注目してほしい)をフィーチャーしている。一方でジョン・サイモンはドラムスの前の遮断版に寄りかかりながら、いつものようにリヴォンを指揮した。また一方でリチャードがドラム・キットの椅子に座る時は、完全に彼のやりたいように叩いた。“リチャード[ドラマーとしての]はずっとルーズなスタイルだったね。” サイモンはコメントする。“彼のプレイしたパートは良かったよ。素晴らしかった。”

Whispering Pinesはリチャードのキャリアの中でも優れた部類だ。これは彼の中で最も胸を打つようなファルセット・ヴォーカル・パフォーマンスであり、その感情のレヴェルはあらゆるヴォーカリストが試みようとも思わないような冒険的高みに達している。ここにボーナス・トラックとして収録されているアウトテイクはほとんど同じであるが、あるいはもっと感動的かもしれない。
Jawboneは3拍子のヴァースと、コーラス前が4拍子と6拍子に交互に変化し、コーラス自体は4拍子というかなり奇妙な構造を持った歌だ。詞の全体像は頑固な敗者の冒険談であり、そのハイライトはリチャードが情熱的に宣言する“オレは盗っ人さ、オレは宝を掘り当てるんだ!”の部分だ。

このアルバムの多くの歌は、ジョン・サイモンが述べるような“民間伝承の個人版”を含んでいる。ザ・バンドのメンバーが共鳴する様々なキャラクターと土地の名前が出てくるが、それは必ずしも誰にも理解できるようなものではない。例えばMUSIC FROM BIG PINK収録のThe Weightで言及される“Crazy Chester”は実在の人物だ。一方Jawboneの主なキャラクターはザ・バンドがロニー・ホーキンスと共に活動していた場所や、1964年と1965年にリヴォン・アンド・ザ・ホークスとしてギグを行なっていた時に知った下層社会に生きる数々のキャラクターが混ざり合ったものだ。

ロビー・ロバートソンはそれを認めるが、サイモンの述べたことに対し次のように形容する。“頭に浮かんだものを取り出してみると、それは時々個人的経験だったり、すでに知っている人々だったりするんだ。でもそういうのは特別なストーリーってわけじゃない。僕の頭の中に記憶されているものだ。全てのライターと同じように、曲を書く時はその記憶が保管されているところに向かうだけさ。僕の場合、それが北アメリカの神話だったんだ。”

リヴォン・ヘルムは挑発的なロック・ナンバー、Jemima Surrenderの不気味なリフを考えついたことで初めて共作者としてのクレジットを授かった。リリース・ヴァージョンでリヴォンはリズム・ギターを弾き、ロビーはリード・ギターを弾いている。リチャードはドラムスを担当し、ガースは全てのブギウギ・ピアノのリフを弾いている。初期のヴァージョンとしてここにボーナスとして収録されたヴァージョンでは、リヴォンがドラムスを叩き、リチャードはピアノに戻り、ガースはリリース・ヴァージョンではほとんど入っていないオルガン・フィルを披露している。“僕はこの歌に全く満足できなかった。” ロビーは説明する。“でも最後のヴァージョン[リリース・ヴァージョン]をやった時、僕は何かそこに下劣な感じの感情があるのを発見してすごくおもしろかったんだ。”

こういった音楽的ポジションがザ・バンドの真骨頂だった。ロバートソンを除く全てのメンバーはマルチ・プレイヤーであり、様々な楽器編成で曲を試すことができた。ザ・バンドの歴史はつまるところチームワークのそれであった。ジョン・サイモンは彼らのことを次のようにいっている。“素晴らしく献身的で、素晴らしく実用主義的だった。” 個々としても集合体としても、彼らはそれぞれの歌に相応しいものを持ち込み、それぞれの楽器に細心の注意を払っていた。彼らが示した楽器の多才さを持ったロックンロール・グループは後にも先にもいなかったし、個々の歌に使用される楽器にそこまで詳細に注意を払った者など、かつてほとんどいなかったのである。

ロビーはこのアルバムからよく話題となる残りの5曲を自ら書いた。Rockin’ Chairは二人の老人の素晴らしい物語だ。ここでリヴォンはドラムスではなく、マンドリンを担当している。ロビーはアコースティック・ギターをつま弾き、リックはベースでリズムを支え、ガースはアコーディオンでゼイゼイと素晴らしいサウンドを奏でている。マニュエルがリード・ヴォーカルをとり、ダンコがコーラスで入ってくる。Look Out Clevelandはリックが歌い、Across The Great Divideではリチャードがリード・ヴォーカルを引き受けている。前者は酔ったようなバックビートが施されているが、これはこのアルバムの中で最も刺激的だ。後者は見事なベース・サウンドをフィーチャーしている(ロビーはマスタリング・エンジニアがこの唸るようなサウンドを、レコード上の低音の限界レヴェルぎりぎりまで入力したことを覚えている)。マニュエルはトレードマークであるピアノによる三連符を弾き、ロビーのギターはスティーヴ・クロッパーのようなブルージーなリフを奏でている。

一方でこのセカンドLPは多くの傑作を含んでいる。B面の最後を飾る2曲、Unfaithful ServantとKing Harvest(Has Surely Come)は中でも最高のトラックだ。前者はリック・ダンコが、後者はリチャード・マニュエルがリード・ヴォーカルをとっている。Unfaithful Servantはジョン・サイモンとロビーがレコーディング・セッションに先立って一週間に渡るハワイ滞在時に書いた曲だった(サイモンのソロ・アルバムに収録され、のちにマンフレッド・マンによって英国でヒットしたDavey’s On The Roadもここで書かれた)。これはロビーの変則チューニングによるギターが入る異例のコード進行を持っている。King harvestはウッドストックで書かれた。どちらの曲もザ・バンドの中でも実りあるレコーディングであり、前者ではアコースティック・ギターによる短いソロ、後者ではロビーのトレードマークであるピッキング・ハーモニックスによるエレクトリック・ギター・ソロが展開される。どちらのソロも効率的で抑制された控え目なものだ。

“これは僕のギターに新しい道を示したね。” ロビーは私に語ったことがある。“これはすごく繊細なプレイだった。多くの音(プレイ)を省いて最後の数秒間まで待って、ぎりぎりのところでプレイしたんだ。すごく繊細なアプローチだった。昔の僕がやっていた‘でしゃばり’ギター・プレイとは全く正反対だったね。つかみどころのない感じだ。まるでかたずを呑んでギター・ソロを聞くような感じだ。息ができないような混乱したようなね。僕はギターに全く違う感情を持ち込んだんだ。”

King Harvestの最終部分はギタリストとしてのロビーの最高の瞬間だ。これは‘もの言わぬ方がより多くを語る’という生きた証拠である。この歌はまた、過去から現在に至るまでの捕らわれの身となった者の苦境を描写した、彼の最高に喚起作用あるうちの1曲だ。その背景は国であり、町であり、自然であり、社会だ。細部への配慮はいつものように印象的だ。コーラスはその詩に比べてずっと静かであり、確かにこれは今まで書かれた曲とは正反対のアプローチがなされている。

ジョン・サイモンはMUSIC FROM BIG PINKのTears Of Rageでロビーが使用したレズリー・スピーカー効果のある装置と同じものを使って、エレクトリック・ピアノを弾いている。このサウンドのニュアンスについてジョン・サイモンにためらわずに尋ねたところ、彼は応えてくれた。“ロビーはバンドの中でデューク・エリントンだったよ。ロビーのヴィジョンは大部分において満足することだったね!”

“King Harvestは僕の頭の中ではすごく実験的な曲だった。” ロビーは回想する。“僕は今までの自分とは違ったものにトライしようとしたんだ―歌の構成、詞の内容、曲調なんかのね。スティーヴィー・ワンダーにはI’m Wonderingっていう歌があった。とてもあいまいなレコードだ。それにはここで聞けるようなドラムスが入っている[そのビートはKing Harvestのドラム・パートと非常に近いラインを持っている]。僕は頭の中であのグルーヴに乗るように歌を書いていた。”

“僕はこの曲を書いた時に思った。‘ああ、これがどんなクソみたいなことだったとしても、とにかく僕は前にこんなの聞いたことがないんだ。’ってね。僕はそれが本当に素晴らしくておもしろいことだと分からずに書いていた―歌の構成、リズム、詞の内容も・・・何だこりゃ?団結ソングかこれは?ってね。”

“団結に関する本を読んで僕は考えた。‘ああ、これは革命だったんだ。自ら生計を立てて自立していると感じられるような行動を起こした人々にとって、これは静かなる革命みたいなものだったんだ。’ってね。誰もひどい扱いを受けたり、好きなように利用される必然なんてなかったんだ。北米史の中での新たな段階だった。‘このことについて僕が曲を書くのはちょっとどうかな?’とさえ思ったね。でも何か詞を書き出すと、突然そういう内容になっちゃうんだ。”

“ガキの頃、しばらくお祭りで働いていた時期があった。祭りの時期は夏の終わりと秋の初めだった。田舎の人々にとっちゃ収穫(harvest)、稼ぎ時のシーズンだ。いわば喜びの時なんだ。そこには人々が入れ替わり立ち代りやって来るようになる。僕は何かそこに本当に色彩豊かなアメリカ文化の風景を見たね―それは変わりゆく葉の色だったり、祭り自体だったり、大きな麻袋を担いだ人々の行き来だったり、革命の気配だったりね。僕はその時が本当に実り多い時期だと思った。”

“僕は歌を書く時はみんなが解釈できるように配慮するよ。King Harvestはその最もいい例だ。これは明確に僕の頭の中にあった曲だった。ドラム・パートに至るまでね。完全なヴィジョンを持っていたんだ。これだっていうね。他にやりようがないくらいさ。”

ここに収録されているKing Harvestの別テイクは、グループがアルバム完成後、少しの間取り組んだプロモーション・フィルムで使われたヴァージョンだ。フィルムはウッドストックのロビーの家近くの絵画スタジオにいたジョン・サイモンの友人、ジム・シニョレリによって撮影された。そのスタジオはいつもロビーが曲作りのために使っていたところだった。プロモの中にはまたUp On Cripple Creekも含まれていた。ドラムの遮断版はフィルムの撮影上、視覚的に相応しくなかったために取り外され、結果このトラックは音が反響してしまい、その暖かく特徴的なドラム・サウンドの魅力は半減してしまうことになった。

このアルバムのセッションがついに完了した時、アルバム収録用の曲が1曲多いと判断され、Get Up Jackがアルバムから外されることになった。“僕らはこの曲の雰囲気は十分他の曲でカヴァーできてると考えたんだ。” ロビーは説明する。“Rockin’ Chairなんかと通じるものがあったし、同じタイプだったからね。”

この曲自体は優れたものであり、今回初めてボーナス・トラックとしてオリジナルのステレオ・ミックスで収録された。Get Up Jackはグループお気に入りだったことは間違いない。それはこのレコーディングの2年半後にアルバム、ROCK OF AGESとなるニュー・イヤーズ・イヴのショーでプレイされたことからも明らかだ。4年後、再びこの曲はアルバム、MOONDOG MATINEEからのシングル、Ain’t Got No HomeのB面としてモノ・ミックスで公式にリリースされた。

元々アルバムはHARVESTと名付けられていた。“僕らは自分たちの種を植えたようなものだったからね。” ロビーはいう。“あとこれは僕らがその時点までやってきたことの成果(fruit)だったしね。” 最終的にタイトルはグループ名に混乱していた消費者に応じてTHE BANDに変更された。

リリース後そのLP、THE BANDはロック史上における独創的なアルバムの1枚として歓迎された。その年(69年)、ウッドストックとワイト島フェスティヴァル含む最初のギグでグループが姿を現し、また自身のライヴと並行してボブ・ディランのバックを務め始めてから、音楽プレスは彼らを神として称え始めた。ローリング・ストーン誌はおそらく後にも先にもこれほど一つのグループに対して、無条件に惜しみない称賛を今に至るまで送り続けたことはないだろう。いや、ちょっと待った、FMラジオと一般リスナーもその筆頭だろう。Up On Cripple Creekのシングル・ヒットにより拍車がかけられ、THE BANDはビルボードのLPチャートを駆け上り、9位にまで達した。評論家たちの称賛とセールスが見事に結びついたのだ。そう、ポピュラー・ミュージックはそう簡単にうまくいくものではないのである。

―ロブ・ボウマン、2000年7月

このライナーノーツにおける全ての引用はロブ・ボウマンが12年以上に渡ってザ・バンドのメンバー及びジョン・サイモンと個人的に対談したものである。ロブは彼らと過ごした多くの時間に謝意を表する。


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