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The Band/Music From Big Pink/2000 Capitol Records, Inc. 72435-25390-2-4



1968年夏、アメリカはあるいは第2次世界大戦以来の激動の年を迎えていたのかもしれない。カウンターカルチャーと呼ばれるものが、全国各地の警官隊の反対勢力として徐々に増大しつつあった。その頃、シカゴの民主党全国大会でのデーリー市長による警官隊の虐殺行為が最高点に達していた。戦線は徐々に拡大していった。全体として、ロックンロールはよりメッセージ色を帯びていき、親、教師、警察、政府、そしてその他権威の匂いのするもの全てに対し、毒づくようになっていった。そんな中で多くのロックの歌詞はどんどんとけばけばしくなり、音楽的背景は進歩的な輝きを増していき、それはサイケデリアと名づけられるようになった。一方で微妙性、巧妙性はその新しい音楽の専門分野の一つではなかった。

こういった風潮に相反するように、地味で控え目なMUSIC FROM BIG PINKはリリースされた。いく分得体の知れない彼らは、自らを単に“ザ・バンド”と名乗っていた。ロック・マニアたちは、かろうじてこのバンドがボブ・ディランと関係していることを知っていた。しかしその彼らさえも含めて、ほとんどがビッグ・ピンクの美と奇跡を予想できる者はいなかった。

そのアルバムとザ・バンドに関する全てが、当時のロックンロールの精神に食ってかかっていた。グループの名前、服装、四世代に渡る近親者たちが全て収まった写真、そしてその歌詞と音楽は、当時の手法(あるいは当時に関する限りでは)からは遥かにかけ離れていた。当時も、そして永久にザ・バンドは全くオリジナルであり、特異なアンサンブルであった。それは最も純粋で、最も誠実で、人間が知る限り最も優美な音楽を創造していた。全盛期の彼らは、独立した5人の強力な個々の音を響かせていた。それは個々の彼らの個性よりも、そして単なるその総和よりも偉大な共同体としての絆を保っていた。

グループの5分の4―ギタリストのロビー・ロバートソン、キーボーディストのリチャード・マニュエルとガース・ハドソン、そしてベーシストのリック・ダンコ―はカナダ人だった。ドラマーのリヴォン・ヘルムだけがアーカンソー州マーヴェル出身だった。彼らはグループとしてのちにロカビリーの伝説的人物となるロニー・ホーキンスの庇護のもと、1人ずつ集まることになった。ホーキンスが地元のアーカンソーからカナダのトロントへと移住することを決める直前に、まずリヴォンが加わった。次がロバートソンで、それにダンコとマニュエルが続いた。最後が1961年のクリスマス直前に加わったハドソンだった。

続く数年間は、様々なホーン・プレイヤーが出入りしたが、1964年初頭、ザ・バンドとなる5人のメンバーたちはロニー・アンド・ザ・ホークスとして、その初期のサウンドの核となった。64年のほとんどと65年の3分の2は、リヴォン・ヘルム・セクステットあるいはリヴォン・アンド・ザ・ホークスとして自身の名声を確立すべくギグに明け暮れた。アーカンソーとテキサス周辺の黒人向けナイトクラブにあたる彼らの本拠地として、南オンタリオ(カナダ)のバーで演奏を続ける中、彼らは2枚のシングルをレコーディングした。1枚は1964年、トロントのレーベル、WareからのLeave Me Alone b/w Uh-Uh-Uhで、もう1枚が1965年夏のアトコからのThe Stones I ThrowとHe Don’t Love You(And He’ll Break Your Heart)だった(アトコのシングルは1968年にThe Stones I Throwの代わりにGo Go Liza Janeが収録され再リリースされた)。

伝説的なR&Bプロデューサーであり、ロニー・ホーキンスのプロデューサーでもあったヘンリー・グローヴァーが両セッションを指揮していた。前者はCanadian Squires名義でリリースされたが、レコード会社からのサポートは全くなく、不幸にも泣かず飛ばずに終わり、会社はすぐにグループのメンバーから反発を食らうことになった。一方の後者は、リヴォン・アンド・ザ・ホークス名義だった。Go Go Liza Jane以外は全てギタリストのロビー・ロバートソンの手によるものだった。

ザ・ホークスはアトコからのシングルの最終結果を心配していたが、彼らは夏の間ずっとニュージャージーのサマーズポイントで毎晩ブルースとR&Bを大量にプレイし、1,000人以上の熱狂的なファンを獲得し忙しく働いていた。夏の終わりまでに彼らはボブ・ディランのバック・バンドとして雇われ、ディランの初の完全なエレクトリック・ツアーに参加することになった。1965年10月から1966年5月にかけて、ディランとザ・バンドは“フォーク純粋主義者”である聴衆の前で毎晩プレイし、曲が終わるごとに儀式のようにブーイングを浴びていた。エレクトリックに向かったディランは、コアな聴衆によってフォーク・ミュージック界の裏切り者としてこき下ろされた。しかし多くの人にとっては、これはダイナミックで爆発的な音楽が聞ける可能性を阻む、近視眼的な見解であった。ディランのしたことは、ある意味暴力的な音楽であり、そのパワーと威厳からいって当時の何光年も先を行くものだった。結果的に、ブーイングをやりにコンサートに来る人々はありがたいことに金を払ってくれるのであり、それ自体かなり矛盾した状況であった。しかしリヴォンにとってそのブーイングは耐え難いものとなり、彼は1965年11月にグループを去って行った。

ツアー後、ディランはニューヨーク州北部ウッドストックの小さな町に隠遁し、ヨーロッパ・ツアーのドキュメンタリー・フィルムの制作に取りかかったが、それはのちにEAT THE DOCUMENTと名づけられた。66年の終わりまでにマネージャーのアルバート・グロスマンに勧められたザ・バンドもまたウッドストックに引っ越し、1967年の大部分をそこで曲作りやリハーサルやディランとのレコーディングなど、リラックスした時間を過ごした。そしてそれはリチャード、リック、ガースが借りていた家、ビッグ・ピンクでの“ベースメント・テープス”として知られるようになった。

時が過ぎ、ロビー・ロバートソン、ガース・ハドソン、リック・ダンコそしてリチャード・マニュエルらが作った音楽は大きな変化を見せていた。彼らはもはやホーキンスとディランのバッキング、あるいは彼ら自身でもあったリヴォン・アンド・ザ・ホークスのようなサウンドからも大きくかけ離れていた。ロバートソンはその時の変容を今でもはっきりと覚えている。

“僕はロニー・ホーキンスとボブ・ディランを自分のボスとしてギターを弾いていた。” 彼は昔私に語ったことがある。“僕は怒り狂ったようなギター・ソロを弾いていたね。ロニーとバンドを始めた時は、誰もあんな風に弾く奴なんていなかった。ロイ・ブキャナンと僕だけだった。僕は嬉々としてギターに打ち込んでいた。すごく荒々しく弾いていたよ。怒りを込めた野心のようなものがあったね。そうやって精神的に爆発した状態が毎晩続くんだ。僕は地球上の誰よりも練習した―若者らしくね。初期の頃の僕のギター・プレイはまるで早漏みたいなもんだったよ。僕は20代前半にディランとつるむようになったんだ。毎晩100回ものギター・ソロを飽きるほど繰り返していた。”

“[ザ・バンドとして]歌がモノになるようになって、そのムードもモノになり始めた。その時点で僕はボブ・ディランやみんなにサウンドについてくどくどと説教し始めていた。見せかけの電子的な意味でのサウンドじゃなくてね。モータウンでもサン・レコードでもフィル・スペクターのレコードでもみんなそれぞれが役割を持ってプレイしていて、そういうレコードはある特定の雰囲気を持っていた。”

“僕はザ・バンドのサウンドを見つけたかった。それで僕は考えた。‘このレコードで一切ギター・ソロを弾くのをやめよう。リフだけプレイしよう、カーティス・メイフィールドみたいなやつだ。’ってね。ドラムスはその曲のキャラクターに合ったやつが欲しかった。ピアノはヤマハのでっかいグランド・ピアノみたいな音じゃないのが欲しかったね。アップライト・ピアノ(縦型ピアノ)みたいなやつだ。こういうのを頭に描いたんだ。そういう雰囲気を出したかった。”

“僕は派手でがなりたてるようなヴォーカルは嫌だった。もっと繊細で息づかいが聞こえるようなヴォーカルがよかった。全てのヴォーカルが聞き分けられるような―みんなが一緒に歌ってもね。レコードでみんなは全員の声が完全に中和するまで一緒に歌ったよ。僕は声が全く一つになって聞こえるのが好きなんだ。ステイプル・シンガーズみたいな連鎖反応が起こるようなね。でも僕らはみんな男だからちょっと違った効果が出たけどね。”

“こういったアイデアが全て浮上したわけだけど、その明確なヴィジョンは巧妙なものじゃなかった。それは感情的で、物語の話術だったんだ。寓話に見えると思う。それが僕が作りたかったレコードだよ。”

あるいはロバートソンが他のメンバーよりもこういったことを全て明晰に発言できるのかもしれないが、ザ・バンドのマジックはみなそれぞれが同等の集合体として発揮されるものだった。全員が重要な役割をプレイし、一つの要素が違えばそのサウンドは全く肌触りの異なるものになってしまう。このパズルが然るべきところに収まるための最終的なパーツがリヴォンのドラムスだった。“僕がリヴォンに電話をかけたんだ。” 1980年代の終わりにダンコは私に語ったことがある。“それで言ったよ。‘リヴォン、僕らはレコードを作る準備をしているところだ。レコード会社は僕らに20万ドル払うから僕らはそれを分けるつもりだよ。’ってね。すると彼は‘すぐ飛行機に乗るよ。’っていったよ。”

1967年9月、リックがリヴォンに電話をする前に、グループは2曲のデモ・セッションのためにニューヨーク・シティに向かっていた。前もってこのセッションがミッキー・スティーヴンソン(訳注:モータウン・レーベルのライター、プロデューサー)によってプロデュースされる手筈になっていたことは、ロビー・ロバートソンの記憶とは異なっている。ザ・バンドのメンバーは何年も前からスティーヴンソンのことを知っていたが(事実バンドはディランのツアーでデトロイトでプレイした時、彼と共にモータウンに訪れていた)、彼はザ・バンドをプロデュースしたことはなかった。

“このセッションはアルバート・グロスマンが担当したよ。” ロビーは回想する。“でも全くうまくいかなかったんだ。そこに行ってセッションしてみて僕は‘これは頭の中にあるサウンドじゃない’って思った。僕らはその曲を本当に急いで録らなきゃならなかった。僕らはダダッとそれを片づけて、アルバートがそれにちょこちょこっとエンジニアらしき仕事を加えただけだった。その結果、僕はすごく不審に思うようになったね。ちっともいいサウンドじゃなかった。僕がレコードにしたかったような音はこれっぽっちも聞こえてこなかったんだ。”

これに関する最終的な結末は、キャピトルのファイルあるいはテープ・ボックスにも存在せず、みなの記憶も今に至るまで少々曖昧なままだ。今回のリイシューに含まれているボーナス・トラックのうちの1曲、Ferdinand The Imposterがグロスマンによってプロデュースされたというデモ・セッションからの可能性が最も高いだろう。

ロビーは全曲がビッグ・ピンクの地下室で書かれたことを覚えている。“全てが地下室でテープに録った曲だよ。” 彼は説明する。“いくつかはマヌケだけど、いくつかは真剣だ。前者に当たるのはRuben Remusで後者がCaledonian Missionだ。この中には二つのタイプがあるね。何曲かはYea! Heavy And A Bottle Of Breadカテゴリーで、何曲かはI Shall Be Releasedカテゴリーに収まった。Tears Of Rageはおふざけの部類じゃなかった。美しい歌だったね。同じ時に僕らがやった可笑しなやつが、Orange Juice Blues, Ferdinand, Ruben RemusあるいはLong Distance Operatorだった。アウトテイクのうちのいくつかはもっとふざけた感じだ。Even If It’s A Pigは完全にイカレたマヌケな曲だったね。その時思ってたのはこういうことだ。‘ああ、僕たちは本当に楽しんでやってる。何の苦痛もなくうまくいってる。’ 僕らは気ままにふるまいながら本当に曲作りを楽しんでいた。ザ・バンドにとって最も喜びにあふれた時期だったね。僕は楽しんだことにすごく意味があると思うね。この数々のレコーディングは、当時起こっていたことを反映しているんだ。”

先述のOrange Juice Blues(Blues For Breakfast)も今回のリイシューでボーナス・トラックとしてデモ・ヴァージョンが収録された。これは作者のリチャード・マニュエルが自身で弾く愉快で粗野なジャズ・ピアノがフィーチャーされている。この歌のバンド・ヴァージョンは、今は廃盤であるACROSS THE GREAT DIVIDEのボックス・セットに収録されていた。

ザ・バンドがグロスマンのセッションで明らかに芳しくなかったことによって、次回グループがスタジオに戻る時には真に相応しいプロデューサーが必要であることははっきりしていた。その仕事を担当することになったラッキーな男がジョン・サイモンだった。

“最初にザ・バンドと会った時は、” サイモンは回想する。“僕はハワード・アルクと一緒にたくさんのムービオラ(映画フィルムの編集用の映写装置)と共にこの家で働いていたんだ。このイカレた映画を何とか理解しようとしてね[ピーター、ポール・アンド・マリーのピーター・ヤロウのYou Are What You Eat]。すると突然、外で不可解な音がした。僕らが窓を開けて外を見ると、そこにはザ・バンドの連中がいた(リヴォンだけはまだルイジアナの海外石油掘削の仕事に就いていたため不在だった)。彼らはクレイジーな服装でクレイジーな楽器を弾いていたんだけど、それはハワードの誕生日のお祝いのためのセレナードだったんだ!”

アルクは、ザ・バンドとサイモンが同じようなシュールな趣味を持っていると考え(それはザ・バンドが最初にレコーディングした変てこなEven If It’s A Pig Part兇函当時サイモンがプロデュースしたマーシャル・マクルーハン((1911-1980:カナダのコミュニケーション理論家))のTHE MEDIUM IS THE MESSAGEが頭に浮かんだからだ)、ロビーに対しサイモンがプロデューサーとしてぴったりに違いないと提案したのだった。何度かミーティングを行なったのち(2回目にはリヴォンも戻ってきていた)、サイモンがプロデューサーとして一員に加わった。

1月10日、彼らは全員A&Rの7Fのスタジオで二つのセッションを行なうためニューヨークに向かった。そこで彼らは4トラックでTears Of Rage, Chest Fever, We Can Talk, This Wheel’s On FireそしてThe Weightをレコーディングした。サイモンはスタジオが素晴らしくアコースティックな“納屋の形をした部屋”だったと述べている。これらのセッションではヴォーカル含む全てのパーツは4トラックのうちの2つのトラックに“live”でレコーディングされた。3つ目のトラックはホーンのために確保され、最後の4つ目はコーラスとタンバリンのために空けられた。

ドラムスはとりわけ興味深いサウンドを聞かせていた。ロビーはリヴォンに対し、2つのタムタムのピッチに落差をつけるよう提案し、片方はヘッドのナットをきつく、もう片方はかなり緩めにした。

“僕らは普通のやり方とは違った自分たち独自のやり方でグレイトなレコードを作ろうと考えたんだ。” ロビーは笑う。“ドシンドシンと鈍くて汚い音の出るドラムスは、ちょっとコントロールが効かない状態だった。でもそれはつまりこういうことだ。‘この限られた環境の中で何か違うことをやってみよう。ワウワウ・ペダルを使うんじゃなくてドラムスのヘッドでワウワウ効果を出してみよう!’ってね。”

その結果うなるようなタムタムは、そのピッチの変化によってまるでティンパニ・ドラムのような効果を生じさせることになった。その著しく独特な音質は、ポピュラー・ミュージックの中で決して忘れることのできないMUSIC FROM BIG PINKの特徴的なサウンドとなった。

A&Rセッションの時までに、ロバートソンはグロスマンがすでにキャピトルと契約を交わしていたことを確信している。彼らの記憶では、ジョン・サイモンはキャピトルとの契約はA&Rセッションに基づいて交わされたと考えていたということだ。とにかくみなその結果に高揚し、すでに5曲が完成していた。キャピトルの重役たちは、アルバムを完成させるためにサイモンとグループをロサンゼルスにある、より最新の会社の8トラック・スタジオへと送り込むことに同意した。ザ・バンドにとっては、ロサンゼルスに行くことは二つの利点があった。(1)ロスの1月はウッドストックよりも確実に暖かかったこと、そして(2)A&Rのセッションは有料だったが、キャピトルのスタジオは無料だったことだ。

1月20日、ニューヨークでのウディ・ガスリー・メモリアル・コンサートにボブ・ディランが戻ってきた後、グループはロサンゼルスに出発した。サイモンによれば、1日レコーディングしたあとグループは少し時間をとり、レコーディングを素早く終わらせ雪で覆われたウッドストックに戻って行く前に、ロサンゼルスの暖かさを満喫することに決めたらしい。そして彼らがレコーディングに戻った時、ロビーはフィル・スペクター、ザ・ビーチ・ボーイズ、バッファロー・スプリングフィールドらが過ごしてきた伝説のゴールド・スター・スタジオをじっくり見てみようと提案した。グループはキャピトルに戻る前にゴールド・スターで1日だけのセッションを行なった。

ボーナス・トラックの1曲としてここに収録されているディランのLong Distance Operatorは、1968年2月21日にゴールド・スターのスタジオBでレコーディングされたうちの1曲だった。この曲は長い間ほったらかしにされていた。ディランは1965年12月にバークレー・コミュニティー・センターのショーでザ・バンドと共にこの曲をプレイし、ウッドストックの“ベースメント・テープス”の中ではディランが歌いレコーディングされていた。ストレートなブルースだが、ザ・バンドがファンク色を加えている。どっしりとしたロバートソンのギター・ソロ、ブルージーなオルガン、ギター、ピアノはヴォーカルの周りを埋め尽くし、マニュエルによると思われるハーモニカと、喚起作用ある風変わりなユーモアにあふれたヴォーカルもマニュエルによるものだ。そのパフォーマンスはリヴォン・アンド・ザ・ホークスとしてグループが聞かせていた60年代半ばのR&Bを思い出させるものだ。

ビッグ・ピンクでレコーディングされたザ・バンドのどの曲もそれ自身のフィーリングと温度を保持している。リチャード・マニュエル-ボブ・ディラン共作のスローなバラッド、Tears Of Rageは故意にサイド1の1曲目に配置された。当時アルバムの冒頭にスローな歌を持ってくる者など誰もいなかった。これはロビーの考えで、そうすることによってTears Of Rageは世界中に向かって特別な響きを持って印象づけることに成功した。確かにこれは新しい試みだった。

まず聞こえてくる音は、ガースが組み立てたブラックボックス(エフェクター)を通して出てくるロバートソンのギターで、ハドソンのオルガンと並行して渦巻くようなレズリー・スピーカー効果が施されている。続いてヘルムのひどく鈍いタムタムが入る(ジョン・サイモンはいみじくもヘルムのことを“バイユー((米南部の入江地帯))・フォーク・ドラマーと呼んだ”)。この曲はその1年前の“ベースメント・テープス”時代にマニュエルがディランと共に書いたものだ。リリース・ヴァージョンで彼は究極的に感情のこもったヴォーカルを聞かせている。両親の悲しみを極めて苦悩に満ちた表現で歌う。ロビー・ロバートソンの見解によればこうだ。“これはリチャードの歌う中で最も悲しみに沈んだパフォーマンスだね。”

ダンコがコーラスでマニュエルに加わる一方で、ハドソンとジョン・サイモンは最初のヴァースの終わりで手際よくサックスとバリトン・ホーンを加えている。ヘルムは拍を均等に刻んでいるが、スローな歌における彼の才能あふれる風格あるリズム・キープは、あたかも空中に浮かんでいるような気分にさせる。まるで今にも止まりそうなほどのテンポだ。ここに収録されているTears Of Rageのアウトテイクはほとんどリリース・ヴァージョンと同じだ。明らかな違いはマニュエルの繊細な節回し部分とホーンがオーヴァーダブされていない点だ。

ザ・バンドによってレコーディングされた最も風変わりな混成曲のうちのひとつがTears Of Rageに続く。To Kingdom Comeはロバートソンによって書かれ歌われ(1976年のKnockin’ Lost Johnまでの間で唯一彼がリード・ヴォーカルをとった曲だ―ダンコはいつも彼にもっと歌ってほしがっていた)、ダンコとマニュエルのヴォーカルが彼をサポートしている。この歌は罪、義務、意義へのいくらか不可解な賛歌である。ロバートソン作の多くは信仰的なイメージがあるが、それは全て暗示的な力を持ち、明確な宗教心を感じさせるものではない。

ロビーのソングライティング能力は、その数年前のカナディアン・スクワイヤーズとリヴォン・アンド・ザ・ホークスから大きく進歩していた。ディランと共に過ごした期間が、テーマ、構造、イメージの型において明らかに彼の書く詞に影響を及ぼしていた。しかしそれは直接的ではなく、より不可解で不完全な部分が残されていた。

“彼がドアを開いたんだ。” ロビーは同意する。“でも僕は同時にルイス・ブニュエル(スペインの映画監督)、ジョン・フォード、[日本の映画監督の]クロサワに影響を受けていた。僕は16の時以来、学校に行ってなかったから知識と教養に飢えていたんだ。僕はたくさんの本を読み始めたり、さっき言ったような映画をたくさん観始めた。僕はヨーロッパ、北欧なんかのあらゆる種類の神話にハマっていって、物語を書く僕のスタイルに影響を与えたね。何かを発見しようとする僕の姿勢に影響を与えた。”

簡単にいえば、ロビーは彼の世代の中で最もオリジナルで、喚起作用あるライターのうちの一人となったということだ。彼のソングライティング能力にもかかわらず、ザ・バンドはそのキャリアにおいてステージで多くのカヴァーをプレイし、他の彼らのレコードでは見られないカヴァー集LP、MOONDOG MATINEEを制作した。

Long Black VeilはMUSIC FROM BIG PINKの中では例外に当たるカヴァーの1曲だった(3曲のディラン・ソングスは、彼がザ・バンドと共有した“ベースメント・テープス”時代に生まれた曲であり、私はカヴァーとしてカウントしない。しかもこれら3曲はビッグ・ピンクで初めて世に出た曲だ―ディランのヴァージョンはずっと後になって出た―そして結果的に多くのリスナーにとってザ・バンドにハマるきっかけとなる曲となった)。当時ロバートソンはLong Black Veilについてこう考えていた。“僕が最初に書きたいと思っていた伝統的な詞の形態を持ったグレイトな曲だったね。”

ザ・バンドが最高の音楽を奏でていた時、それは永遠であるかのように思えてしまう。この曲は元々1913年に書かれたはずだが、1959年にダニー・ディルとマリジョン・ウィルキンが書いたものだ。ザ・バンドは59年夏のカントリー・チャート6位になったレフティ・フリーゼルのヴァージョンを手本にした。ダンコがリード・ヴォーカルをとり、ヘルムが2番で加わり、マニュエルはコーラスをとっている。

そのヴォーカルのブレンドは並外れて魅力的だ。ジョン・サイモンは同意する。“これは国の悲しみや嘆きを多く湛えた歌だ。ザ・フォー・トップス(モータウンの男性コーラス・グループ)はそれをもっと滑らかにスウィートにしてストリートに当てはめていたけど、これはもっと心や本能から来る悲しさを持っているね。”

サイモンはセカンド・ヴァースでバリトン・ホーンをプレイした(ザ・バンドはセカンド・アルバムで“ハイスクール・ホーン”とクレジットしている)。ヘルムはドラム・セットに据え付けられたタンバリンをスティックで叩き、マニュエルはエレクトリック・ワーリッツァー・ピアノをプレイしている。

他のカヴァー群も彼らの初期において企てられていた。今回のリリースでボーナス・トラックとして収録された中には、ブルーグラスの神童スタンリー・ブラザーズのIf I Loseとビッグ・ビル・ブルーンジーのKey To The Highwayがある。前者はヘルムの意気揚々としたヴォーカルと彼のマンドリン、田舎臭いダンコのハーモニー・コーラス、ハドソンのホンキー・トンク・ピアノ、そしてリチャード・マニュエルの2ビート・ドラミングがフィーチャーされている。

“これはベースメントのじゃないんだ。” ロビーは断言する。“これはうちのリヴィング・ルームで作ったやつだね。僕らは居間に集まってちょっとした曲作りをしたんだ。ロニー・ホーキンスと一緒にプレイした後、僕らはしばらくカントリー・ミュージックにほとんど拒否反応を示した時期があった。でも僕らがウッドストックに行った時何かが起こったんだ。山岳地帯に行ったらマウンテン・ミュージックが僕らにしっくり来るようになった。突然僕らのリヴィング・ルームではブルーグラスやマウンテン・ミュージックが演奏され始めた。僕らはギター、マンドリン、リックは時々アコースティック・ベースを弾くようになった。いい試みだったね。リチャードは歌うだけだったり、タンバリンを叩いたり、ガースは時々アコーディオンをプレイした。そういった楽器編成でやっていくうちにマウンテン・ミュージックでさえないような何か違う種類の音楽に変わっていったよ。”

ロビーの考えるところでは、If I Loseはちょっとした楽しみのための曲で、アルバム用の曲ではなかったということだ。ブルーンジーのKey To The Highwayもリリースするつもりではなかった。この独特で少しぎこちないヴァージョンは、ブレイクの中に少々ヘヴィなアレンジメントが施されている。レコーディングは1968年9月10日、キャピトルのニューヨークにあったスタジオで行なわれた独立したセッションだった。このセッションの目的は、ビッグ・ピンクに続くアルバムのためのレコーディング場所として試したものだった。

ビッグ・ピンクの2曲、Chest FeverとThe Weightはザ・バンドのキャリアを通じて常に焦点となる曲だ。両者はお互いほとんど対極に位置している。The Weightは当時の道標となった。映画イージー・ライダーでフィーチャーされたが(契約上の規制からサウンドトラック・アルバムからは外された)、これはスペインの映画監督であるルイス・ブニュエルの作品から部分的に触発されていた。

“彼は聖人であることの不可能性についての多くの映画を撮っていた。” ロバートソンは説明する。“ヴィリディアナとナザリンっていう映画の中で、人々は良い行いをしようとするんだけど、それは不可能なんだ(『Viridiana』1961年:人間の欲望をカトリックの戒律と原罪の意義の奥から引きずり出し、罪の意識と救済という観念が空虚なものであることを告発し、「人間の中にこそ神を探さなければならない」というブニュエルの主張が貫かれている)。The Weightの内容も同じなんだ。誰かがいう。‘僕の願いを聞いてくれるかい?そこに着いたら誰かに「ハロー」っていって僕のために一つもらってきてくれるかい?’これは現代風にいえばこうだ。‘おー、君はナザレに行くのか。あそこはマーチンのギター工場があるところだ。そこに行ったらお願いがあるんだけど。’それで男は行くことになるんだけど彼はどんどんそれを頼まれてしまう。‘何てこった、一体どうしてこんなことになってしまったんだ?俺は誰かに「ハロー」って言いに来ただけなのに、とんでもない窮地に陥っているじゃないか。’ってね。これは当時の僕にとってすごくブニュエル的だったんだ。”

ロビーのアコースティック・ギターによるイントロのフレーズは、カーティス・メイフィールド風でもありカントリー風でもある。絶対的な威厳の漂う曲だ。ハドソンはピアノを弾き、ヘルムは最初の3ヴァースでリード・ヴォーカルを取っている。一方でダンコは4ヴァース目を受け持つ。マニュエルは輪唱コーラス部の最後で息を呑むようなファルセットの嘆きを聞かせる。(マニュエルはIn A StationとCaledonia Missionでも同様に歌詞を伴わないバッキング・パートを担当している。) ヘルムとマニュエルは5番目と最後のヴァースで見事に感動させるような連携をとっている。

Chest FeverはThe Weightの反作用的な曲として書かれた。ロビーがいうところではそれは“雰囲気”の歌だった。“当時僕が考えたのは、” 彼は笑う。“‘ちょっと待った、僕らがブニュエルと全ての理想と抽象と神話と共にやって来たここは一体どこなんだ?’ってことだった。この音楽は僕らにとってとにかく気持ちよくてグッドなサウンドなんだから、誰がかまうものかって気持ちで作ったんだ。Chest Feverは特にそうだ。これにはそういうグルーヴがあって少しレイドバックしている。僕らは全体が後ろへ引っ張られるようなレイドバックした感じでやろうとした。曲が始まった時に少しのグルーヴが感じられるようなね。もし君がChest Feverが好きなら、その理由は神のみぞ知るってとこだな―これはどこかクセのある曲だ。詞的にも音楽的にもアレンジ的にも何も特別なことはしていないのにね!”

初期においては常にガース・ハドソンの特徴が耳に残る。彼はオープニングをバッハのToccataとFugue in D Minorをモチーフとして始めている。“その後は・・・” ガースは笑う。“どんどんと無制限に、よりエスニックになっていった。” 多くのライヴ・パフォーマンスにおけるハドソンのイントロはついには“遺伝学的奏法”と呼ばれるまでに至った。

中期において全体的に個々の編成は解体して行き、調子はずれなSalvation Army Band(サックスにハドソン、バリトン・ヴォーカルにジョン・サイモン、フィドルにダンコ)を聞くことになる。前述のロバートソンのコメントを思い出すこの雰囲気は特に何の意味も持ってはいないが、はるか昔のアメリカの風物を呼び起こす作用がある。またこれは彼らがきちんとした演奏に戻るための意図的な気晴らしであった。ヘルムが“どんどんと長くなっていった”と不平を言うように、そのグルーヴはよりパワフルになっていった。詞は最初から“でたらめ”であったが、“僕らはそれに慣れていったよ。” とロバートソンは回想している―“それ以上でもそれ以下でもないよ。”

ザ・バンドのキャリアのごく初期においては、ロビー・ロバートソンだけがソングライターではなかった。リック・ダンコはボブ・ディランとThis Wheel’s On Fireを共作し、加えてリチャード・マニュエルはTears Of Rageをディランと共に書き、彼単独でIn A Station, We Can TalkそしてLonesome Suzieを書いた。中でもWe Can Talkは風変わりな雰囲気を持ち、リヴォンによる的確な描写はザ・バンドのメンバーが持つ象徴的な相互作用が見て取れる。In A StationとLonesome Suzieは切なく哀愁漂うナンバーだ。後者はとりわけマニュエルのもろさのある歌唱が感動的だ。いくらか抑制された声で孤独な独身女性の悲しい運命を歌う。

今回のリイシューのためにキャピトルのテープ倉庫から発掘された中で、最も興味深いアウトテイクのうちの一つがLonesome Suzieだ。リズムはシャッフルでスウィング感あるグルーヴを持ち、完全に異なる曲となっている。

この過激な再アレンジはジョン・サイモンによる手柄だ。“アレンジし直したのは僕だよ。” サイモンは私に語ったことがある。“ザ・バンドのレコーディングに関する限り、僕がいいまとめ役としてミックスに加わったね。ホーン・アレンジメントに関しては僕が適任だった。典型的なビッグ・バンドのホーン・アレンジに精通していたから、ビッグ・バンドやスウィングの手法について提案することができたんだ。僕はこの曲にはそれは合わないから、うまくいくとは全く思わなかった。それがアウトテイクになった理由だ。全然良くなかったからね!”

まだ触れていない2曲のボーナス・トラックがKatie’s Been GoneとYazoo Street Scandalだ。前者は長く離ればなれになったケイティーに思い焦がれるリチャード・マニュエルの絶美なヴォーカルを含んでいる。ロビーによれば、グループとしてこれはLonesome Suzieにあまりに似ていると感じたため棚上げにされたそうだ。Yazoo Street Scandalに関してロビーは次のように回想する。“ごたまぜの混成ソングだった。これはアーカンソーにあるヤズー・ストリートのことだ。僕は考えた。‘ワオ、カナダにはこんなストリートなんかないじゃないか。あそこにはヤズーなんていう通りなんかない!’ってね。こんな感じだ。‘ああ、どうか僕に赤線地区のことを描いたショート・ストーリーを書く能力を授けてくれ’ この歌は僕にとって全てが赤色に照らされているんだ。まあ楽しんで書いた曲だね。”

ビッグ・ピンク・セッションの間、ロビーはアルバムの収録曲について考えていた時は、それほど普通からかけ離れたものではないと確信していた。彼とジョン・サイモンは、元々ビッグ・ピンクのプロモーション盤のカヴァーに記載されていた1曲が絶対的に相応しくないという噂について明言している。そこに入っていたロビーがリード・ヴォーカルをとったYazoo Street Scandalの初期ヴァージョンは南部で録られたものであったが、リヴォンがバンドに戻って来た時に彼がこの曲の全てのヴォーカルを担当するのがごく自然なことのように思われた(訳注:リヴォンのみ米中南部アーカンソー出身のため)。

ボブ・ディランのI Shall Be ReleasedがMUSIC FROM BIG PINKの最後を締めくくる。ここではリチャード・マニュエルが最初から最後までファルセット・ヴォーカルを披露する。コーラス・ハーモニーは独特のザ・バンドのヴォーカル・ブレンドを完璧に示した好例だ―マニュエルが一番上、ダンコが真ん中、ヘルムが下だ。背景のキーボード・サウンドはワウワウ・ペダルを通したRoxochordによるものだ。そのサウンドは和声の中を非常にゆっくりと進んで行き、再び消えてゆく。スネア・サウンドはジョン・サイモンのアイデアだった。ヘルムは自分のスネア・ドラムをひっくり返し、スナッピー(訳注:スネアの裏側に付いている細い針金の束)を指ではじいてさざ波のような音を出している。

MUSIC FROM BIG PINKはすぐには成功しなかった。理解されるのに時間がかかったのである。グループの名前は人々を混乱させ、ジャケット前面にメンバーの写真が載っていなかったこともさらにいっそう神秘さを醸し出していた。その代わりにアルバムのフロント・カヴァーはディランによる素晴らしく陽気な絵画で飾られていた。一方裏ジャケットにはビッグ・ピンクの家の写真が載せられ、それはその音楽とLPのタイトルの由来を暗示させていた。

見開きジャケットを開くと3枚の写真が現れる。一つはビッグ・ピンク自体のカラー写真で、そこにはロビーの妻ドミニクが書いた詩的な散文体による説明文が載っていた。それはこの素晴らしい音楽はまさにこの家の中から生み出されたことを伝えるものだった。もう一つは白黒のメンバー全員の写真で、それは“古き良き”アメリカをすぐに連想させるものだった。ザ・バンドの5人のメンバーは田舎風な装いで立ち、まるで19世紀の写真であるかのようだが、それは時代を超え、彼らの個々の名前さえもその写真には記されていなかった。

その写真の経緯についてはおもしろい逸話がある。“僕らがMUSIC FROM BIG PINKを録った後・・・” ロビーは回想する。“僕らがジャケットの制作に取りかかろうとしたら、スタッフたちみんながこう言った。‘オーケー、君たちはこの写真家を使えばいい。彼はニューヨークで一番、この国で一番のフォトグラファーだ’ってね―とにかく彼がベストだっていうんだ。でも僕はこう思った。‘ああ、何てこった、僕たちはこんな気取った写真で登場するのか’ってね。僕が見た写真は僕にとって何の意味もなかった。でも鉱山で働く人々のすごく古い写真を見つけた時、僕は思った。‘おお、この古い写真に写っている人たちはすごくソウルフルじゃないか’ってね。”

“それで僕は言ったんだ。‘よし、じゃあニューヨークで最悪のフォトグラファーは誰だい?’ってね。彼らはこう言った。‘う〜ん、それは難しいな。’ 僕は言った。‘君たちは誰が最高かを知ってるんだから誰が最悪か見つけることくらいできるだろう?’ってね。すると誰かがこう言った。‘RATマガジン[当時のアンダーグラウンド誌]に一人そういう写真家がいるよ。僕は彼がニューヨークで一番ひどいかどうかは分からないけど、その雑誌での彼の仕事は間違いなく最悪だよ。’”

“そして僕は言った。‘よし、彼に頼んでみよう。’ それがエリオット・ランディだったんだ。僕らは彼と会って彼に僕が気に入っていた3枚の写真を見せた。彼は‘僕はこういう写真が大好きだよ。’と言った。僕は‘それはいい、もしかしたらうまくいくかもしれないぞ。’って言ったね。あれ[写真]がその写真さ。彼はその後何年にも渡って引っ張りだこのアルバム・フォトグラファーになったよ。”

アルバム・ジャケット内側の3番目の写真には、“近親者”と名づけられていた(訳注:左方に書いてあるNEXT OF KIN)。カラーで撮影されたその写真には、愛情のこもった四世代に渡るザ・バンドの親類たちが集まっている。その写真は親に憎悪を抱く当時のロックの精神それ自体に故意に対抗した彼らのスタイルを表していた。それは彼らが伝統、歴史、家族を深く重んじていることをきっぱりと示していた。1968年の後半において、それは全く時代の性分に反していた。

ロバートソンは私に断固としてこう語ったことがある。“僕らは反抗に対して反抗していたんだ。何が起ころうともね。みんなが東へ行けば僕らは西へ行こうとしたし、僕らはそういうことを話し合ったことさえないね。それは僕らの中に深く染みついたものだった。僕らは絶対的な動機を持った反逆者みたいなものだった。群れをなそうとすることを自ら避けようとする本能があったね。”

当時のロック・プレスはその本能に夢中になった。MUSIC FROM BIG PINKは全方面から熱心なレヴューを受け始め、エリック・クラプトンやジョージ・ハリスンらのような大物たちがメディアでアルバムの価値を称賛した。しかし一方で最初にリリースされた時は、ビルボードのアルバム・チャートでわずか30位までしか上がらなかった。時を経てのち、ロックの歴史の中で最も重要かつ傑作アルバムの1枚として認知されるようになったのである。

―ロブ・ボウマン、2000年7月

全ての引用はロブ・ボウマンがザ・バンドのメンバー及びジョン・サイモンと12年以上に渡って個人的にインタビューしたものである。ロブは彼らと共に過ごした多くの時間に対し謝意を表する。


リチャード・マニュエルとリック・ダンコを追悼して・・・


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