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Ann Peebles/The Complete Ann Peebles on Hi Records Volume 1 : 1969-1973 / 2003 Cream/Hi Records Inc. HEXD 55



ハイ・レコーズは60〜70年代を通じて、メンフィス・ソウルの主要レーベルであった。シル・ジョンソン、O.V.ライト、オーティス・クレイなどが拠点としていたが、アン・ピーブルズとアル・グリーンの2人がレーベルのスターであった。アンは当時最も表現豊かな声を持ったシンガーのうちの一人で、‘I Feel Like Breaking Up Somebody's Home’‘I Can't Stand The Rain’などの名曲を残している。このCDとVol.2(HEXD56)はアンの黄金時代であり、サザン・ソウルの古典であると同時に、ハイ・サウンドの全てをフィーチャーした楽曲群が収められている。

アン・ピーブルズは1947年4月27日、セントルイス近くのKinloch Countyに生まれた。11人の7番目だった。数年前彼女に会ったとき、彼女は笑いながらこう言っていた。“母は私に7番目の子は賢くなるかバカになるかのどっちかだと聖書にあるって言ったわ。で私は一生懸命勉強した!”彼女は高い音楽教育を受けた。“5歳で‘Will The Circle Be Unbroken’を歌ったのを覚えてるわ。で幼い頃にピーブルズ聖歌隊に入った。父はセントルイスにある教会の牧師で、ピーブルズ・クワイアは家族の一大イヴェントだったわ。兄弟、親戚みんな集まってね。マヘリア・ジャクソンのためにコンサートもしたし、自分の成長過程で、サム・クックとソウル・スターラーズにも会ったしね。”母親が早くして亡くなり、アンは父の勧めでサム・クックやアレサ・フランクリン同様、R&Bを歌うことを決意した。“自分の部屋で、ほうきをマイクに見立てて歌の練習をしたわ。”父親は1966/7年頃彼女をセントルイスのクラブのオーディションへ連れて行った。そこで町の有名な興行主オリヴァー・セインと出会う。彼はリトル・ミルトン、フォンテラ・バス、ボビー・マクルーアなどを手がけ、アンにプロになるよう助言した。そして4月のメンフィスへの旅が全てを変える機会となった。

“軍にいる私の兄が休暇だったの。ガールフレンドがメンフィスに住んでいて、私も彼女の家へついていった。で、ある晩クラブ・ローズウッドに行ったらボウレッグス・ミラーのバンドが演奏してて、私が座って‘Steal Away’を歌っていたら、彼はレーベルと契約すべきだと言ってくれた。もちろん嬉しかったけど、私はバンドじゃなくてソロでやりたかった。”セイン同様ジーン“ボウレッグス”ミラーも全ての商売を仕切きり、トランペッター、アレンジャー、バンドリーダー、タレントスカウトもやっていた。彼はメンフィスの誰もが知っていたが、その時はハイでレコーディング中だった。アンをウィリー・ミッチェルに紹介するのは当然の行動であった。ミッチェルはA&Rマンのボスだったが、すぐに副社長となり、ハイのソウルを確立させた。

“私のオーディション?緊張したわ。ウィリーはピアノで‘Steal Away’を弾いて私が歌ったわ。彼は気に入ってくれたけど私はまだ21にもなってなかったから、父がメンフィスに来て同意書にサインしなければならなかったわ。私がレーベル初のビッグR&Bシンガーだったわ。まだアル・グリーンが来る前よ。ウィリー・ミッチェルは父親代わりだった。すぐ家族のようになった。私は一番若くて唯一の女だったからみんなすごく面倒を見てくれた。”ウィリー・ミッチェルは彼女にソウルの世界での作法やステージの務めかたやショービジネスのことを教え、レコード会社の人たちやDJたちに紹介した。そしてついにレコーディングとなった。

最初のリリースはオリヴァー・セイン作でチェスのミッティ・コリアのための曲‘Walk Away’だった。ミッチェルのバンドは見事なサザン・ソウル・バラッドに仕立てた。最初のレコードにもかかわらずアンのヴォーカルは生々しいパワーに溢れ、荒涼とした詞を見事に歌い上げている。1969年春、R&Bチャートトップ30に入った。続く‘Give Me Some Credit’は前回をやや下回った。この2曲は年末にリリースされた1stアルバム‘This Is Ann Peebles’の目玉だった。

当時の流行も反映して、アンのオリジナルだけでなく他人のカヴァーも同様に収められた。アイズレー‘It's Your Thing’、フォンテラ・バス‘Rescue Me’、リトル・ウォルター‘Crazy About You’などだ。オリヴァー・セインのチェス・コネクションがこの選曲となって表れている。しかしアンの持ち味は、ポップなベティ・スワンの‘Make Me Yours’よりハードな‘Chain Of Fools’で発揮されている。そして‘Steal Away’は特に興味深い―彼女が最初にウィリー・ミッチェルに会った時に歌ったこの曲は、どういう風に演奏を終えたのだろう?今やこのアルバムはコレクターズ・アイテムとなって多くのファンの注目の的となっている。

1970年のアンは、初のトップ10に入るビッグヒットを出した。リトル・ジョジー・テイラーの‘Part Time Love’だ。“ブルースはいつも好きだったわ。”彼女は言う。“50年代のマディ・ウォーターズ、ジミー・リードなんかの大物はみんな聴いたわ。”確かにアンの唱法にはこれらブルース・マスターたちの影響が見える。例えば多くの彼女のベストレコーディングにおいて、彼女はチクチクするようなブルージーな肌触りのある抑揚をつけている。そのエタ・ジェイムスのようなスタイルは、ビッグ・メイベルとビッグ・ママ・ソーントンの攻撃的なアプローチスタイルといった原点に立ち戻っている。そしてもう一人のアンの指導者だったのが、ハイの専属ライター/シンガーのドン・ブライアントだった。“ドンはよくこう言ったわ。ここはこういう風に歌うんだ、この部分はこういう感じでってね。特に自分の書いた曲についてはうるさかったわね。”その時にリリースされたのが、セカンドシングルB面の‘Solid Foundation’である。

アンの2ndアルバムはシングルヒットから名づけられたが、残念なことに1stアルバムと6曲がダブっている。しかし初の自作も収められた。‘You Get Along’とミッチェルの傑作‘I Still Love You’では、彼女の心からの歌唱が今でも感動を呼び起こさせる。次のシングルは、ミッチェル選曲でボビー・ブランドの古いレパートリー、‘I Pity The Fool’で、これもよく売れた。続いて1972年秋、ヒットはしなかったが、‘Slipped Tripped And Fell In Love’がリリースされた。この曲はミッチェルのサウンドプロダクションと、ハイのミュージシャンが見事に結合し、曲を完璧に盛り立て、彼女の古典となった最初のリリースだろう。LPは少しの間ソウルチャートに顔を出し、40位まで上がった。

荒涼な‘Breaking Up Somebody's Home’は芸術的勝利だった。ソウルチャート13位にまで上がるに充分な出来映えだ。ダッダッというバックビートと16ビートに刻まれるハイハット、詞においてはアンの怒りと不満がはっきりと表れている。この大傑作に続いて、不穏な予兆的ナンバー‘Somebody's On Your Case’が、素晴らしいブルースバラッド‘I've Been There Before’とのカップリングでリリースされた。これら全てのトラックは3rdアルバム、‘Straight From The Heart’に収められた。このアルバムは強力な歌唱で占められている。彼女の歌唱は成熟しきり、ざらざらした持ち味と、優れたダイナミクスと熟練した歌いまわしはこのアルバムを宝石に変えている。‘Trouble Heartaches And Sadness’と‘How Strong Is A Woman’は、アルバムをより深みのあるものにしている。このアルバムは短期間チャートにとどまった。しかしこれほどの芸術性を持っているにしては、商業的成功にはつながらなかった。

2曲がその後の夫となるドン・ブライアントとの共作だ。“私は普段詞を書いてた。ピアノはざっと形をつける程度弾ければよかったわ。カントリー&ウェスタンの物語が好きだった。そういった音楽から影響を受けたわ。私の曲全てが悲しい歌なわけじゃないわよ。ただ他よりもそういうのが簡単にひらめいたように思う。悲しい歌を歌うシンガーとして私は知られていたと思う。”しかし‘99 lbs’はブライアントが単独で書き上げた曲だ。“ドンが私のために書いてくれた。最初は自分のことのように歌うことに困惑したわ。それで全ての女に向けて関連付けるようにして歌うことにしたわ。”

1973年初頭に、もう1曲、争い事を歌った‘I'm Gonna Tear Your Playhouse Down’がリリースされた。ストリングスアレンジは、アンの素晴らしいヴォーカルを邪魔することなく添えられていた。そしてその年の暮れ、アンにとって忘れられない‘I Can't Stand The Rain’がリリースされる。詩的で表情豊かなヴォーカルには、孤独と傷心が巧みに引き出され、洗練されていて、その後2年もの間彼女を時の人とした。しかしここには初めてポップミュージック界を驚かせたあるアレンジが含まれている。“私たちはエレクトリック・ティンバレスを持ってて、試してみることにしたの。私たちはその楽器をバラバラに聴いてみて、それから再びいっせいに鳴らしてみたの。その音を聞いて私たちはワォ!って思った。でウィリー・ミッチェルがこの曲の頭に持ってきてみない?どうなるかな?って言ったわ。”よく聞けばハワード・グライムスのシンバルが遠くの方で鳴っているのが分かるはずだ。ラジオからは、この新しいサウンドが流れた。ジョン・レノンのようなスターも絶賛したのである。ほとんどのリスナーにとって斬新なレコードであった事実にもかかわらず、その時はこのシングルはそれほど売れなかった。もちろん今では彼女のベスト・ソウル・レコードとして存在し続けている。ミディアム・テンポのサザンソウルで、巧みなオーケストラが配された‘Rain’はハイ・サウンドの代名詞といえるものだ。

巧みにプロデュースされた‘(You Keep Me)Hanging On’は、少し奇妙な選曲だ。より明るい曲調で、彼女には一見似つかわしくない。しかしこれはヒットしたのである。そして彼女の4枚目のアルバムによくフィットしていた。これはアンとドン夫婦共作で、アルバムの中では素晴らしいサンプル的作品となっている。‘Straight From The Heart’同様強力なアルバムだ。この4枚目の作品は、よりヴァラエティに富んでいる。しかし激しさは影を潜めることとなった。そこには一級品の‘Do I Need You’、‘You've Got To Feed The Fire’があり、そして心を打つ‘Until You Came Into My Life’はリスナーを歓喜させるだろう。これはアンの最もよく売れたアルバムとなり、彼女の人気を不動のもとした。ソウルチャートに11週間、春には25位になった。LPからのシングルは、比較的乏しいセールスに終わったが、ブルース・バラッドの‘Do I Need You’と、優しい‘Love Vibration’のカップリングはそれでもR&Bチャート60位以内だった。 1974年までに彼女は、ハイに5年間在籍しレコードをリリースし続けた。全部で13枚のシングルを発表したが、続く5年間もハイに在籍し、情熱的な音楽を作り続けた。このCDはその前半部にあたりそれら全てをカヴァーしている。

ジョン・リッドリー、2003年3月
アンの発言は1996年、筆者とのインタビューによる



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