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Andwell's Dream/Love And Poetry/2009 Sunbeam Records SBRCD5063



僕は音楽に囲まれてベルファストで育った。僕にはずっと年上の兄がいて、彼は僕が8歳になるまでうちにいたんだけど、すばらしいピアニストだったんだ。彼は晩に家に帰ってくると、母親がやめなさい!と叫ぶまでピアノでロックンロールを弾いていた。だから僕は幼少の頃から兄貴の弾くロックンロールが頭にこびりついてしまった。

僕の親父ははウェールズ人で、すばらしいテナー・シンガーだった。よく周りに楽器が置いてあったから、僕は手にとって弾いてみたりしていた。6歳になった僕は、ピアノのレッスンに行かされたけど大嫌いだったね。僕はギターの方が好きだったし、特にそれでロイ・オービソンとジーン・ピットニーの曲を弾くのが好きだった。高いキーの声が僕に合っていた。

10代になるまでに、僕はブルース・ギターのとりこになった。エリック・クラプトンをフィーチャーしたジョン・メイオールのブルースブレイカーズのLPを聞いてからだ。15歳になった僕は楽器店でパートタイムの仕事について、それでその周辺にいた地元のバンド全てを知るようになった。そのうちのひとつが“メソッド”(Method)というR&B/ソウルの5人組のバンドで、ギタリストが抜けるところだった。僕はまだ学生だったんだけど、彼らのマネージャーだったジョージ・メカン(Mechan)が僕にオーディションをオファーして、僕はバンドに入ることになった。これが1967年の初めだった。

ベルファストには当時活発な音楽シーンがあった。ヴァン・モリソンのゼムはそれまでの2年間、シーンの主役だったけど、その周りにはインターンズ、ジャスト・ファイヴ、チョーズン・フューみたいなグレイトなバンドがいたし、それからフリートウッド・マックみたいなトップ・クラスのブリティッシュ・アーチストたちもいた。ジョン・メイオールは町のメイン会場だったマリタイム(Maritime)・クラブにやって来てプレイした。フィル・ライノットもいたし、まだ若かったゲイリー・ムーアはすでにプレイしていた(彼は僕が車の事故であごを骨折して入院した時に、短期間メソッドで僕の代役を務めた)。それからロリー・ギャラガーは時々、コーク(アイルランド南西部)からギグをしにやって来ていた。

数ヵ月後、メソッドは再編された。なぜかというと、僕はオリジナル曲を書いていて、僕らがプレイしていたようなものから離れたかったからだ。そうして1967年に僕たちは、僕とナイジェル・スミス(ベース)とウィルガー・キャンベル(ドラムス)のトリオになった。ウィルガーは僕と同じベルファスト出身だったが、ナイジェルはノッティンガム(イングランド中北部)出身だった。彼はギグを求めてやって来ていたが、本当はできるだけ早くイングランドに戻りたがっていた。

僕たちはメイオール、クリーム、ヘンドリクスその他のカヴァーをプレイし続けたけど、僕は自作の曲も入れ始めていた。僕たちの評判が広がり始めて、僕たちはフェリーに乗ってストランラー(スコットランド南西端)に行って、自分たちのヴァンでロンドンに行くようになった。僕たちはマーキー・クラブでわずかなギグをやった。“ナイス”のようなバンドの前座だった(ナイスとは仲間ぼめのような関係だった)。その時のロンドンは絶対的にすばらしかった―衣服、音楽、人々全てだ。僕たちは自分たちがアイルランドに戻りたくないと思っていることにすぐに気がついたね。

1968年夏の初めのある日、僕たちがシャフツベリー・アヴェニューにある楽器店のウィンドウをのぞいていると、僕たちより何歳か年上のパキスタン人の男が近づいてきて、僕たちにバンドをやっているのかと尋ねた。そうだと答えると、なんと彼はサマー・シーズンの間、彼のバッキングをしてほしいといって、翌日にジャージー(イギリス海峡にあるチャネル諸島の島)に招待するといった。彼はロッキー・シャハンというシンガーで、若き日のデヴィッド・ボウイといっしょに、かつてコンラッズというバンドにいたことが分かった。

彼はバンドとけんか別れして、緊急に代わりのバンドを必要としていた。僕たちはオファーを受け入れたが、本当には信じてはいなかった。しかし次の日、彼は飛行機のチケットをもって僕らのホテルに現われたから、僕たちは出発したんだ。僕たちはその時のローディーにヒースロー空港まで送ってくれるよう頼んで、空港で彼は僕たちを降ろして機材をジャージー行きの飛行機に積み込んだ。それから僕たちはミュージシャンも楽器も積んでいない空のヴァンといっしょに彼をさっさとベルファストまで送り返した!

ロッキーは僕たちの名前を変えたがっていて、“Love & Poetry”に決めたんだけど、僕の夢の中に“Andwella's Dream”という名が出てきて、僕はそれを主張した。彼が出ていたクラブは“ディープ”といって、彼のレパートリーはカヴァーで成り立っていた。彼の持ち歌が尽きた時に、残りの時間を僕らの歌で埋めることができた。しかし僕たちはたちまちレパートリーとそのスタイルがふさわしくない、音も大きすぎるといわれて、早々と出演は取りやめにされてしまった。ロッキーは彼が僕らのマネージャーになって、そのシーズンだけ続けることを提案した。僕たちはそれを受け入れて、彼は僕たちが好きなようにプレイできる”ウェスト・パーク・パヴィリオン”を見つけた。

その島の人たちは僕たちのような人間を見たことがなかった―僕たちは長いローブとビーズを身につけてぶらぶらしていたから、人々はもの珍しそうに店から飛び出してきて僕らを見ていたね。僕たちは地元のプレスを独占するほどひきつけて、子供たちはパヴィリオンに押しかけるようになった。バンドにとってはめざましい飛躍の時期だったし、その時までに僕たちはほとんど僕のオリジナル・ソングをプレイしていた。1〜2曲ではオリジナル・アレンジメントを施したカヴァーをやっていた―“A Day In The Life”やサイモン&ガーファンクルの“America”なんかだ。

その合間に、ロッキーは僕たちのレコード契約を見つけるために、ライヴ・テープをもってロンドンへ行っていた。その夏の終わりに、僕たちはアンドリュー・カメロン・ミラーという男が経営していたプロダクション会社のリフレクションと契約を交わした。僕はまだ16歳だったから、アンドリューは契約書にサインするために僕の父親を訪ねてベルファストに飛んでこなければならなかった。僕たちは全くビジネスに関心がなかった。アンドリューは印象的だった―彼はメイフェア地区にオフィスを構えていて、他にもいくつかのアーチストが契約していた(その中で最も有名なのが、ブルースロック・バンドのスティームハマーだった)。だから僕たちには申し分なかったね。

リフレクションはレコーディングを行なってそれを他のレコード会社にリースすることを専門にしていて、彼らは僕らのレコーディングを企てた。夏が終わって僕たちはロンドンに戻り、アンドリューは僕たちに1人の運転手と、フラムのノース・エンド・ロードに一軒のフラットを与えた。僕は喜んで朝から晩まで歌を書いて、ほとんど夢を見ているようだったが、僕らはどのエージェンシーの名簿にも載っていなかったから、ギグはがっかりするほど少なかった。それでナイジェルとウィルガーは落ち着かなくなり始めた。僕たちはマーキーやスピークイージーみたいなクラブで時々プレイしたが、ウィルガーはロンドンにうんざりしてベルファストに戻る決心をした(彼はベルファストに子供が2人いた)。彼は“Felix”でドラムを叩いたけど、そのあとロリー・ギャラガーのバンドに加わった。

そんなわけで僕たちは1枚のアルバムを作る用意はできていたが、ドラマーがいなかった。すぐにメロディ・メーカーの募集欄でゴードン・バートンという男を見つけた。彼はア・ワイルド・サーテンティというバンドでプレイしていた。僕たちはすぐに彼に“フラッシュ・ゴードン”というニックネームをつけた。なぜかっていうと、ウィルガーのスタイルとは対照的に、彼のスタイルはキース・ムーンと同じ路線のとても派手な(flashy)ものだったから。僕たちはマーシャルのアンプのつまみを最大にして、フラットでリハーサルした。下の階には歯科外科があって、2度警察が呼ばれたが、たいてい僕たちはなんとかうまくやっていた―どうやってだかは誰にも分からないけど!

アルバムは1969年の夏にロンドンの3つのスタジオでレコーディングされた―Pan、Recorded Sound、そしてCBSだ。メインのセッションは4日間だけで、僕たちはだいたいをライヴ録りした。ロッキーはプロデューサーとして信頼できたし、様々なエンジニアが手を貸してくれたが、基本的には4トラック・マシンを使ってストレートに録音した。ジャズ・ミュージシャンのボブ・ダウンズが“Lost A Number, Found A King”で手を貸してくれた―僕たちはフラット近くのアールズ・コートで彼がすばらしいプレイをしたあとに彼に会っていたんだ。それで彼は親友になった。彼はちょくちょく訪ねてきては僕たちとジャムっていたから、彼をスタジオに呼ぶことにした。彼はそのトラックで驚くべきプレイをしたがバンドのメンバーじゃなかったから、ライヴでいっしょにプレイしたことはなかったね。実際ギグはほんのわずかしかなかったから、それが僕たちの大きなフラストレーションの種だった。

アルバムは安上がりだったし、振り返ってみれば僕たちは船長のいない船みたいなものだった。本当のヴィジョンをもったプロデューサーをつけてできたかもしれない。それでもここにはもっと金と時間をかけたスタジオでもたぶん再現することのできないマジックがある。僕のお気に入りトラックは、“The Days Grew Longer For Love”、“Midday Sun”、そして“Felix”で、ジャージーにいる時にハモンド・オルガンを使って書いた。“Felix”は当時僕たちに影響を与えた親友についての歌で、Ashtarというニックネームがついていた。彼はピンク・フロイドのローディーをやっていて、フロイドのためにサイケデリック・リキッド・ライト・ショーを担当していた。アルバムのアートワークはアンドリュー・カメロン・ミラーに委任されて、僕たちはゴー・サインを出した―僕はまだ何に対しても強い反対を表明するほどの十分な経験を積んでいなかったんだ。裏ジャケットに使われていた、メリーゴーラウンドに乗る自分たちの写真は気に入らなかったんだけど・・・。

アルバム・リリースに先立って、6月の終わりにシングルが1枚リリースされた―“Sunday”と“Midday Sun”のカップリングだった。8月にLPが出るまでに、僕たちはチェルシーのチェイニー・ウォークにあるフラットに引っ越した―アンドリューの高級アパートの下だった。僕はできあがったLPにゾクゾクしたけど(とりわけ僕は自分のベルファスト仲間のグループで最初にアルバムをリリースしたから)、ほとんどレビューされなかったし、レコード店でも誰かのフラットでも一度も見かけたことはなかった。それは同時に出たシングル―“Mrs. Man”/“Felix”についても同様だった。

何の宣伝も手配されていなかったことにロッキーがショックを受けて、激怒したことを覚えている。僕たちはテレビはいうまでもなく、何のインタビューも受けなかったし、アルバムの広告も一切見たことがなかった。当然ながら、アルバムは跡形もなく消えてしまった。しかしながら、その時までに僕は次のアルバム『World's End』(近くのチェルシーの一地区から名付けた)の曲を書くことに没頭していた。そのアルバムもあまり反響はなかったけど。

『かなりグッドなアンダーグラウンドLP―多才さとすばらしいサウンドが聞ける。とりわけ、ほとんどヴォーカルの入らないアシッド臭漂う“Lost A Number, Found A King”が見事。LPはすばらしい連続性を保持し、入念に聞く価値がある。彼らはありとあらゆる現在のポップに取り組んでいる―才気あふれるフォーク、フリーキーなギター・サウンド、ネオ・ジャズへの試みなどだ。ヴォーカルがあまりにブリティッシュ―これが唯一の難点だ―レコード・ミラー、69年8月23日

『かなり時代遅れなサウンド。これはよくないグループであることを意味してはいない。しかし音はよく、デイヴ・ルイスのリード・ヴォーカルも力強いが、グループとしての基本的なサウンドとアイデアが少し時代遅れだ。しかしながら、とりわけよく練られたデイヴのオリジナル、“The Days Grew Longer For Love”を聴いてみよう。彼はたしかに興味深いソングライターだ。もし彼が慣習的なグループ編成の呪縛を打ち破ることができれば―ディスク&ミュージック・エコー、69年9月6日

『デイヴ・ルイスはギター、ピアノとオルガン、そしてヴォーカルを担当しただけでなく、全てのマテリアルを書き下ろした。うまくいっているとはいえない見栄を張った瞬間があるものの、結果的に大いに楽しめる作品となっている―メロディ・メーカー、69年9月6日

僕たちはアルバム・リリース当時、マーキー・クラブでテイスト(ロリー・ギャラガーのバンド)の前座をしたが、ほとんど効果はなかった。次のシングル―“Mr. Sunshine”/“Shades Of Grey”―は11月にリリースされた。A面のタイトルはもともと“Junkie Woman Blues”で、僕はレーベルにそのタイトルの入ったアセテート盤を今でももっている。CBSはどうみてもほとんどプロモートしなかったから、アンドリューは自身のレーベル、リフレクション(プロダクション会社と同名)を立ち上げる決心をした。僕たちのその後のリリースは全てリフレクションからだ。そこからの最初のシングルが、“Every Little Minute”/“Michael FitzHenry”で、『Love & Poetry』でのトリオでレコーディングされ、4月にリリースされた(しかしプレス広告には、新加入のキーボード・プレーヤー、デイヴ・マクドゥーガルを含めたカルテットとあった)。

B面は当時僕らといっしょに働いていたエンジニアから名付けられた自発的なインストゥルメンタルだった。これら全てのトラックは今回初めてここにまとめられた。

さらに今回加えられたのが、1970年夏にレコーディングされた『Songs Of David Lewis』という奇妙なLPに、違うミックスで収録された2つの『Love & Poetry』ナンバーだ。その奇妙なLPは、僕たちがセカンドLP(World's End)を完了した時にスタジオの時間が余っていて、アンドリューが僕の歌を複数の出版社に送ってカヴァー・ヴァージョンを引き出そうと目論んだものだ。僕はその場でたくさんのトラックをレコーディングして、そのアルバムは“Man Without A Name”と“Take My Road”の既存のレコーディングをリミックスしたヴァージョンによって肉付けされた(このCDのボーナス・トラックに含まれている)。僕はアルバム・プロジェクトとして全くそれに取り組んではいなかったから、そのあとにアンドリューがジャケット付きの完成品を僕に見せた時は驚いてしまったね。僕は500枚プレスされたと確信しているけど、それは配布用であって、マーケットで売られはしなかったんだ。

僕たちはグループ名をアンドウェラに縮めて、さらに2枚のLP―『World's End』(1970年8月)と『People's People』(1971年2月)―をリリースして解散した。僕はソロ・キャリアに乗り出して、自身のアルバムを何枚かリリースしたり、他の人に曲を書いたりして過ごした。デミス・ルーソス(Demis Roussos:ギリシアの歌手)に書いた“Happy To Be On An Island In The Sun”は大ヒットした。最近の僕の歌は2曲がこのCDの最後に入っている。

バンドが終わってから30年の間、僕にとっての『Love & Poetry』はとうの昔にけりがついてしまったアルバムとして、再び見たり聞いたりすることはないはずだった。バンドの成功がもう少しのところだったのに、失敗に終わったっていうあの時のフラストレーションがよみがえるから、僕はあの頃の感情を覆い隠してきたんだ。

しかしインターネットの出現によって人々はやり取りを始めて、アルバムのオリジナル盤はeBayオークションで当たり前のように500ポンドで売られ始めた。僕たちの昔のロード・マネージャーは、僕が定期的に出演していたロンドンのストランドにあるスモールンスカイズ(レストラン)に現れさえして、僕に24枚のレコードが入った箱をまだもっているかどうかを尋ねた。彼はかつて僕たちがそれをもっていたことを思い出させてくれた!

時間をかけて客観的になって、アルバムを作った人間が今の自分じゃないことを理解した僕はとても光栄に思うし、あとになって僕たちの音楽が世界中から称賛されたことをうれしく思う。

3年前に僕は日本でギグをやるために招待されて、僕はあの国で僕の古い歌を完璧に覚えたバッキング・バンドに迎えられた!オーディエンスは全ての歌詞を知っていて、そのあと僕のサインをもらうために列になって並んだんだ。シュールなできごとだった。

僕のもっていた『Love & Poetry』のオリジナル・レコードについては、僕はそれをずっと昔に失くしてしまっていたが、最近アイルランドに戻ってジョン・ウィルソン(テイストのドラマーだ)と僕がジャムっていた時に、突然彼が自分の母親のところの屋根裏に、完璧な状態でオリジナル盤が保管してあるといった。彼は気前よくそれを僕にくれたから、今僕は1枚持っている―いや、だめだ、NOT FOR SALE!

デヴィッド・ルイス
スペイン、アリカンテにて
2009年2月



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