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Al Green/The Hi Singles A's & B's(The Willie Mitchell Productions) / 2000 Cream/Hi Records Inc. HEXD 52



ソウル天国として知られたメンフィスの多くのコンビ―アイザック・ヘイズとデヴィッド・ポーター、サム・ムーアとデイヴ・プレイター、アル・ジャクソンとダック・ダン、ジェイムス・カーとクイントン・クランチ、そしてウェイン・ジャクソンとアンドリュー・ラヴ―おそらくこれに続く崇拝される神秘的な錬金術師のコンビといえば、プロデューサーのウィリー・ミッチェルと、彼の発掘した最高のシンガー、アル・グリーンだろう。このコンビはグリーンが他のソウルの大スター、マーヴィン・ゲイやカーティス・メイフィールドと肩を並べる程大きくなった時まで、つまり1969年〜1976年まで続いた。

その間ミッチェルとグリーンは、今なお新鮮でエキサイティングで魅力的な多くの作品を作り上げた。10枚のアルバムと22枚のシングルを制作し、うち18枚がR&Bチャートでヒットとなり、13枚が全米ポップチャート40位以内に入り、英国ではトップ30位以内に入った。それらシングルは全てハイ・レーベル作品でありここに収められている。ジョー・クオーギ創立のハイはイコール、ウィリー・ミッチェル・サウンドと言えるものだ―脈打つビート、ダッダッとうねるリズムはホッジス兄弟―ティーニー(G)、リロイ(B)、チャールズ(Org)そしてドラマーはアル・ジャクソンとハワード・グライムスらによって成立している。彼らによってグリーンのエモーショナルなヴォーカルはさらにひきたてられている。

多くのゴスペルルーツを持つシンガーと違って、アル・グリーンは声量をうまくコントロールすることができ、とても洗練されたセンスを持っていた。全力で歌うことはめったになく、メロディを尊重し、取り出し、慈愛の情を持ち、偉大なゴスペルシャウターの唱法である、心をわしづかみにするような、体を揺らせたりロックンロールするというより、自分の意のままに曲を誘惑させるのである。伝えられるところによると、アルはジャッキー・ウィルソンのレコードを聴いていたため、父からグリーン・ブラザースというゴスペルグループから追い出されたそうだ。しかしアルはザ・ソウルメイツというバンドで、1967年に最初の成功を収めた。ホットラインから出た‘Back Up Train’はR&Bチャートで5位、ポップチャートで41位となった。1年後グリーンはウィリー・ミッチェルのグループのテキサス、オデッサでのクラブでのギグの前座として抜擢された。アルの歌に非凡さを感じたバンドリーダーはクオーギに圧力をかけ、シンガーを解雇しグリーンを入れることにしたが、なかなか才能は開花しなかった。クオーギはしぶしぶ1968年いっぱいまでウィリーとアルがメンフィスのスタジオに入ることを認めた。

彼のファーストシングルは1969年にリリースされたビートルズのカヴァー、‘抱きしめたい’の白熱ヴァージョンと、‘What Am I Going To Do With Myself’であった。‘What Am I…’はファーストアルバム‘Green Is Blues’収録のバラードである。どちらかといえばそれがミッチェル/グリーンコンビの典型ナンバーだ。次に出た2枚のシングルが‘Green Is Blues’からバラードの‘One Woman’―これはチャールズ・チャルマー作でバッキングヴォーカルはローズ・チャルマー&ローズだ。‘Tomorrow’s Dream’はグリーン/ミッチェルの初期の作品で、1971年の‘Let’s Stay Together’のB面に使われた。アルとウィリーでの3度目のシングル‘You Say It’は、伝染性のある力強いうねりのあるファンクナンバーで、1970年R&Bチャート28位まで上がった。B面の‘Gotta Find A New World’も1stアルバム収録だが、これは全くヒットしなかった。ちなみにこれはアルをカーティス・メイフィールド流の社会コメンテイターとして見立てたものだった。

4ヵ月後の‘Right Now, Right Now’はグリーン作で‘You Say It’よりややファンク度が下がるが、R&Bチャート23位のヒットとなった。B面の‘All Because’はミディアムテンポで両A面のようなものだろう。間もなくセカンドアルバム‘Al Green Gets Next To You’がリリースされた。その年が終わる直前もう1枚先の2曲を模したように、テンプテーションズの‘I Can’t Get Next To You’をカヴァーしヒットさせている。テンプスのオリジナルと同等、うまくアレンジされたうねるようなファンクナンバーでこれは大成功した。これはハイでの初のホット100位以内に入り、60位まで上がった。B面のグリーンのオリジナル‘Ride Sally Ride’も、よりメロディよりもリズムを強調したファンク色濃い作品である。

‘Gets Next To You’からもう1曲1971年にリリースされ、マイナーR&Bヒットになった曲がある。ブルース調の‘Driving Wheel’で、タイトルそのままの生きのいいナンバーだったが、46位止まりだった。B面の‘True Love’が後のアルを彷彿とさせる優しいメロディを持ったよりイマジネイション溢れるナンバーだ。‘Gets Next…’からは、当時最大のヒットが生まれた。‘Tired Of Being Alone’はグリーン作でUSポップチャート11位、R&Bチャート7位、そして11月には英国で3位になった。これは間違いなくアルのハイでの特徴を決定付けたスタイルで、世界的スターとしての彼を位置づける曲だ。彼は持ち味を最大限に発揮した。

ささやくように歌い、そして叫びバンドは繊細な演奏でそれに完全に応えている。魅力的なこれも自作のファンクナンバー‘Get Back Baby’(Green Is Blues収録)がB面であった。続く5枚のシングルのA面は全てグリーン、ミッチェル、そしてブッカーT & MG’sのドラマー、アル・ジャクソンの手によるナンバーだ。全てポップチャート10位以内に入り、彼の名声を揺ぎ無いものにした。‘Let’s Stay Together’(R&B, Pop共1位、英6位)、‘Look What You Done For Me’(R&B2位、Pop4位)、‘I’m Still In Love With You’(同1位、3位)‘You Ought To Be With Me’(同1位、3位)、‘Call Me(Come Back Home)’(同2位、10位)である。誰もが知っているようにグリーンは最初‘Let’s Stay Together’を気に入ってなかった。彼は新しいヴォーカルスタイルを身に付けるというよりは、むしろここでのヴォーカルは弱すぎると考えていた。

しかしミッチェルによると、レコードはヒットしたし、ファンの素早い反応によって数年のうちにこの意見の不一致は解消され、より深みのあるスタイルとして認知されるようになったという。これらシングルB面はグリーンのより優しいヴォーカルを定義づけソウル・ラヴ・メン(サム・クックとマーヴィン・ゲイとルーサ・ヴァンドロスに至る)の連なりに位置するヴォーカリストとして樹立させた。‘Green Is Blues’からの‘Tomorrow’s Dream’と‘La La For You’までの路線からうって変わって、自作の素晴らしい‘Old Time Lovin’’は切なくセクシーで、官能的かつドリーミーなバラード‘What A Wonderful Thing Love Is’は特に傑出している。5枚目のアルバム‘Call Me’からのティーニー・ホッジス作‘Here I Am(Come And Take Me)’は全米トップ10(R&B2位)となった。このタイトルの魅力は素晴らしく華やかなホーンセクションに彩られている。B面の‘I’m Glad You’re Mine’は、オルガンのチャールズ・ホッジスの卓越したプレイをフィーチャーさせた珍しい側面を持っている。

ディスク2は、ミッチェルによると1時間で書かれたという‘Livin’ For You’という6枚目のアルバムのタイトルトラックで幕を開ける。最初のグリーンのR&Bチャート1位で、共作者としてアル・ジャクソンはクレジットされていない。陽気で楽観的な雰囲気は、ラヴ・マン、アル・グリーンをあらわしているが、その詞はゴスペル的解釈であり、その特色は次のアルバムを引き続き予測させるものとなっている。ソウルファンにとっては、B面の‘Ain’t No Fun For Me’の、より暗い部分がそう思わせるところだ。‘Let’s Get Married’の明るい肌触りはソウルシンガー、ローラ・リーへのメッセージだと言われる。

‘So Good To Be Here’はチャート上ではわずかに成功には及ばなかった。‘Sha La La(Make Me Happy)’の陽気な雰囲気と、素晴らしく思慮深い、羽を広げたような‘School Days’は、7枚目のアルバム‘Explores Your Mind’からで、よりいっそう強力なナンバーだ。アップテンポの‘L-O-V-E(Love)’は、ミッチェル/グリーンに続く3番目のライター、アル・ジャクソンに代わってティーニー・ホッジスが書き、再びグリーンをR&Bチャートのトップに復活させた。B面の‘Wish You Were Here’は続いて温かみと静観的な性質を持っている。

‘Oh Me, Oh My(Dream In My Arms)’はおそらくソウル・マーケット(7位止まり)よりもポップフィールドへ大きくシフトしたナンバーだろう。B面の‘Strong As Death(Sweet As Love)’も実際に方向修正している。アルの次のシングル‘Full Of Fire’は、彼をチャートのトップへの欲求からゴスペルと神のルーツへの再確認をしたようなナンバーだ。B面の‘Could I Be The One’でさえ、精神的、肉体的な愛の二重の意味が強く示されている。次のA面‘Let It Shine’は明らかに同種の観念的な枠組で、R&Bチャート16位という5年間での最も低い順位となった。‘There’s No Way’はウィリー・ミッチェルとアール・ランドルの手によるB面で、はるかによい出来だ。最高のコンビによる繊細なサザンソウルである。

当時70年代半ばは、グリーンのディスコへの接近についてはっきり意見が分かれていた。ダンスナンバーの‘Keep Me Crying’がある一方で、B面の抑制された‘There Is Love’は、強いスピリチュアルな通低音が流れていた。アルの1976年の2枚目のシングル‘I Tried To Tell Myself’は情熱的なバラード‘Something’とのカップリングで、後者はミッチェル最後のプロデュースだ。この2曲はとても興味深い。今では両曲共ゴスペル回帰として捉えられているが、A面のアルが歌う‘that I do want you back’は、神に対してか女の子に対してかどちらを対象としているのだろうか?

今ではグリーンは完全に教会へと戻っている。1976年彼は、メンフィスのFirst Church of Full Gospel Tabernacleを買い、牧師となった。1年後ミッチェルと袖を分かち、自らのプロデュースで‘The Belle Album’をリリースした。これは素晴らしく揺ぎ無い正当性を持つが高圧的でもなく、繊細なメロディを持つ詞と彼の今までの最良の歌唱が見事に結合している。しかしヒットシングルとは無縁となったのは事実だった。1979年オハイオ、シンシナティでステージから落下し、ソウルミュージックを捨て、神に仕えることを選択し、彼は自分の教会とゴスペルミュージクに専念することになった。親愛なるアルは1993年に至るまでソウルアルバムは作らなかったのである。

ジェフ・ブラウン、MOJO、2000年5月



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