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The Albion Dance Band/The Prospect Before Us/2000 BGO Records BGOCD486



アルビオン・バンドの長く輝かしい歴史は1971年に始まる。アルビオン・カントリー・バンドがシャーリー・コリンズとともに‘No Roses’を作り上げた時、それはブリティッシュ・フォーク/ロック・ミュージックの基準点となった。70年代半ばまでにバンドはたくさんのメンバーチェンジを繰り返し、アルビオン・ダンス・バンドとしては英国の大学サーキットをツアーする大人気バンドとなっていた。‘The Prospect Before Us’(元々は1977年ハーヴェスト・レコーズからリリース)は、彼らの創造的高みのひとつであるアルビオン・バンド―エレクトリック楽器と中世の楽器の奇妙なミックスによってトラディショナル・ナンバーを演奏し布教活動を行う―をとらえている。

アルビオン・ダンス・バンドの発展を海図に記すには、我々は1974年にまでさかのぼらねばならない。ツアー中、大所帯の集団を維持する問題に直面していたアルビオン・カントリー・バンドであったが、レコード会社は彼らのすでに完成していたレコードのリリースをためらっていた。これが最初にバンドの活気に影響を与えることとなり、アシュリー・ハッチングスは音楽シーンからの引退を本気で考えていた。しかし休みなく動く触媒として、また一連の偉大なバンド―フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパン、そして様々な形態のアルビオン・バンドを影で支え、メンバーを集めてきた起草者として長く認められてきた彼が、長期間にわたって活動を休止することなどありそうになかった。

かつてのスティーライ仲間、マーティン・カーシーの提案によって、シャーリー・コリンズ(当時アシュリーの妻)は南イングランドのフォーク・クラブ周辺を活動の場に、イングリッシュ・トラッドをレパートリーとする小さなアコースティック・グループをサセックスを拠点に結成した。そのジ・エッチンガム・スティーム・バンドは間もなくシャーリー・コリンズ、テリー・ポッター、イアン・ホルダー、そしてアシュリー・ハッチングスからなる4人編成となった。続く2年以上の間、バンドはより多くのダンス・ナンバーをやり始めるようになった。

解散するまでエッチンガム・スティーム・バンドは度々ケイリ(ceilidhs:歌と踊りの夕べ)をプレイするよう求められていた。その時は地方のメロディオン・プレイヤーが参加し、サイモン・ニコルとデイヴ・マタックス―アシュリーのフェアポート仲間だ―も参加していた。そしてエディ・アップトンによってダンスの‘合図(?:call)’が行われるようになったのである。エディは最近のインタビューで回想している。“僕は当時カントリー・ダンスのことなんて何にも知らなかったよ。でもアシュリーが僕をどうしてもdance-caller(?)にしたがったんだ。アシュリーはいつもプロジェクトのために自分の志を持って他の人を感化させる才能を持っていたね。”

1970年代初頭はイングリッシュ・カントリー・ダンス・チューンを起源とする音楽が発展した時代であり、モリス・ダンスに対する関心が高まり大リヴァイヴァルとなった頃だ。ハッチングスは早くからこういった素材とロックのリズムを融合させることに可能性を見出していた―1972年彼はすでに‘Morris On’のレコーディングを指揮していた。とてつもない影響力を持ったエレクトリック・モリス・アルバムだ。

一方エッチンガム・スティーム・バンドはアルビオン・ダンス・バンドへ移行する過程にあり、参加したミュージシャンの多くが2つの新しいレコーディング計画に関わっていた。ハーヴェストは1969年に制作されたシャーリーとドリー・コリンズの‘Anthems In Eden’の再リリースを決定した。このアルバムには第1次大戦以前のイングランドを描いた素晴らしい組曲が入っていた。シャーリー・コリンズは新しい素材をレコーディングする提案をレーベルに持ちかけた。ハーヴェストの重役、マーク・ライとマルコム・ヒルはアシュリーにもう1枚のモリス・レコードを制作する権限を与えていた。

‘Amaranth’と‘Son Of Morris On’ のレコーディングでは、初期のアルビオン・ダンス・バンドに参加していたミュージシャンの多くが雇われていた。最近のインタビューでアシュリー・ハッチングスは回想している。“エッチンガム・スティーム・バンドがより大きな会場でプレイするようになるにつれて、僕らはアンプの必要性を感じ始めていたんだ。僕らは自然により大きなダンス・バンドへと変容し始めていた。で、お金よりも楽しみのためにダンス曲をプレイする一時的なグループとしてアルビオン・ダンス・バンドを結成したんだ。”1975年の秋までにアルビオン・ダンス・バンドは柔軟できわめて正統ではないラインナップを揃えていた。専門家と2人のドラマー―“切り札である”リズム・セクションの合体はたしかに普通ではなかった。ジョン・タムズはダービーシア(イングランド中北部の州)出身のトリオ、Muckram Wakesからヴォーカルとメロディオン奏者として招き入れられた。エディ・アップトンはソロ・シンガーとして、そしてサセックスのThe Pump & Pluckというバンドのメンバーとしても活動していた。これにシャーリー・コリンズが加わり、3人のシンガーを擁することになった彼らは明らかに単なるダンス・バンドなどではなかった。

故意にダンス・チューンを追求していたが、彼らはdance-caller付の普通のインストゥルメンタル・グループにしようとは考えていなかった。インストゥルメンタル部分のアンサンブルは十分に恵まれていた。古楽の著名な学者であり、New London Consortのリーダーでもあったフィル・ピケットは、古楽器の演奏において多大な力となり、もう一人の中世音楽のエキスパートでSt. George’s Canzonaのメンバーだったジョン・ソスコットは、ヴィエール(12〜13世紀の五弦琴;後のハーディ・ガーディ)の卓越したプレイを持ち込んだ。中世ロック・バンドのグリフォンにいたグレイム・テイラーはサイモン・ニコルと共にエレクトリック・ギターを担当した。そしてプログレッシヴ・ロックのFushiaからはマイケル・グレゴリーがデイヴ・マタックスと共に参加し、強力なリズム・セクションが出来上がった。

ハッチングスは回想する。“バンドは十字軍的な熱意を持ってたけど難解じゃなかった。ポピュラーなイングリッシュ・ケイリ(ダンス)・バンドを目指してた。”‘The Prospect Before Us’のジャケットはバンドの志向を大胆に表わしていた。そこにはブリタニア像(Great Britainを象徴する盾と三叉のほこを持った女人像)がエレクトリック・ギターを握り原野にしゃがみ、彼女の前には刈り取り機が、後ろには馬の一団が畑を耕している。裏ジャケットは複雑な牧草地のラインが描かれ、ハンターのアルフレッド・ワトキンスが実はそのラインがバンドの名前を表わしているのを発見して驚いている図だ。

‘The Prospect Before Us’のレコーディングで最も革命的な側面のひとつが、スタジオ内でダンサーであるオーディエンスと共にライヴ・レコーディングを決行したことだ。アルビオン・ダンス・バンドはほとんどのギグをアルビオン・モリス・メンを加えた形で行い、そのライヴ・ショーをレコードに収めることを念頭においていた。よってステージはバーンズのオリンピック・スタジオの一番大きな部屋に組み立てられ、ミュージシャン間の仕切りは最小限に抑えられた。二つのあわただしいダンス・セッションがアルビオン・モリス・メンの踊りによって行われた。少しの修正を除けばオーヴァーダビングはほとんどなされなかった。

今回初のデジタル・リマスターによるリリースの機会が与えられたことで、‘Merry Sherwood Rangers’のテイク違いを収めることができた―シングルB面としてリリースされたヴァージョンで、本編のヴァージョンと聞き比べることができる。‘The Prospect Before Us’のレコーディングに参加した全てのミュージシャンは、とりわけダンス・セッションを特別な思い出として回想する。グレイム・テイラーも楽しい思い出として残っているようだが、ある懸念もあったと回想する。“その時のライヴ・セッションはすごく神経を使うものだったね。2人のギタリストと2人のドラマーが同じスタジオにいてリズムを合わせなきゃならなかったから。ラッキーなことにお互いが見えたんだけど。”エディ・アップトンも覚えている。“とても熱狂的でエキサイティングなセッションだった。‘Huntsman’s Chorus’は今ではほとんどのカントリー・ダンス・バンドのスタンダードなレパートリーになっているようだけど、僕はいつもミュージシャン同士のセッションで聴いていた。”

‘The Prospect Before Us’は、強力で自信を持ったバンドがトラディショナル・ダンス・ナンバーを現代のリスナーに見事に送り届けた好例となった。ハッチングスが結成した全てのグループのうちアルビオン・ダンス・バンドがフォーク・ミュージックの真髄に最も近い存在となった。English Folk Dance and Song Society(EFDSS)によって組織された公式のダンスとはまた別の、リラックスした手法によって音楽を創り出したのである。フォーク・ダンス・ミュージシャン、古楽器奏者、そしてロック・ミュージシャンの大胆な融合によってひとつの豊かなアンサンブルを企てようとしたグループなど他にほとんどいなかったのである。

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このアルバム・リリース時、アシュリー・ハッチングス、シャーリー・コリンズ、フィル・ピケット、ジョン・タムズによるオリジナルのスリーヴノーツは、およそ以下のとおりである。今回のリリースにあたり内容を更新した。マークのついたトラックは1976年9月にオリンピック・スタジオでレコーディングされたダンス・セッションのライヴである。

UNCLE BERNARD’S/JENNY LIND

ジョン・タムズによる2曲のポルカ・メドレーで、2人の素晴らしいカントリー・ダンス・プレイヤーに捧げられている。County Clareのバーナード・オサリヴァンとサセックスのスカン・テスターだ。彼らの文化的背景は全く違うのに2人のコンサルティーナのプレイ・スタイルは驚くほどよく似ている。スカン・テスターの‘Jenny Lind’は初期のスーパースター・シンガー、ジェニー・リンドに捧げられた多くの曲のうちのひとつで、そのシンガーは1847年に英国中を巡り“Swedish Nightingale”として知られている。

THE HUNT IS UP*

16世紀前半の初期のダンス曲として知られている。ここで歌われるヴァースは、ヘンリー8世時代のものだ。“Hunt’s up”というネーミングは朝目覚めることを意味するあらゆる曲につけられている。古いカンバーランド(イングランド北西部の旧州)、ウェストモアランド、マン島で知られていて、その音楽は明らかに不調和と孤独の訪れの時に帰せられる。

VARSOVIANNA

このダンスの起源については様々な論争が起こっている。片や舞踏(ボールルーム)・ダンスの専門家は一般にスペインの教師、デジレ(Desire)が1853年頃パリに広めたと解釈している。片やフォーク・ダンス・ライターたちはスカンジナビアン・フォークが起源だと決め込んでいる。ここでは2つのヴァージョンがアシュリー・ハッチングスによってつなげられた。一つはヨークシア、アスクリッグのハリー・コッカリル、もう一つはヘレフォード(イングランド西部)のフィドラー、スティーヴン・ボールドウィンだ。

MASQUE TUNE

ジョン・アドソンの‘Courtly Masquing Ayres’(1621)のうちの一つで、元々幅広い楽器に対応できる35編からなる刊行物―“for violons(ヴァイオリン), consorts(古楽合奏団) and cornets(コルネット:トランペットに似た金管楽器)”であった。アドソンはLondon Waits(1614-1640)のメンバーで、著名な舞台ミュージシャンだった。キャヴェンディッシュ(英国の一門)での‘The Country Captain’(1631)の演奏で、酔った指揮者(領主?)が曲を求めるとミュージシャンは尋ねている。“マスター・アドソンの新しいエア(Ayres:歌曲)のことでございましょうか?”

HUNTSMAN’S CHORUS*

これはスティーヴン・ボールドウィンの演奏から。ダンスはヨークシア・デイルズでヴァースはアシュリー・ハッチングスが集めてきた19世紀半ばの‘The New Hunting Song’というタイトルのブロードサイドから。エディ・アップトンのヴォーカルはライヴ・レコーディングの後、オーヴァーダビングされた。

MINUET

ヘンリー・パーセル(1659-1695)作。フィル・ピケットによるアレンジは、‘Musick’s Hand-maid’のセカンド・パートから。このキーボードのフレーズは、多くは1689年に出版されたパーセルとジョン・ブロウによるものだ。

WASSAILSONG

古くからの冬至の慣習である祝いに関連した多くの歌のうちの一つ。これは様々なヴァージョンを取り込んだ―よくある、酒を持って家から家への幸運を祈る訪問から、変てこな風習―リンゴの木に銃を撃ったり、多産の歌を歌ったりするものまで。

PICKING OF STICKS/THE OLD MOLE*

ジョン・プレイフォードの1650年に出版された有名な‘The Dancing Master’の初回版からの短い2曲。ダンスは以来有名になった‘Circassian Circle’だ。

MERRY SHERWOOD RANGERS*

‘False Knight On The Road’系統群から。ダンスは‘Jack’s The Lad’で、これは50年代のロックンロール・ムーヴメントの曲も含まれている―‘Hand Jive’だ(ジョニー・オーティス‘Willie & The Hand Jive’)。この曲はジョン・ソスコットがアルビオン・ダンス・バンドに持ち込んだ。

LA SEXTE ESTAMPIE REAL

‘Le Manuscript du Roi’の8つのエスタンピー(12-15世紀の足を踏み鳴らすゆっくりした円舞)―13世紀の吟遊詩人たちのメロディの大コレクションのうちの一つ。歴史上エスタンピーというのは、抒情詩人が宮廷向けの恋愛物を編み出し、カップル・ダンスにした最初のものだ。そのダンス・チューン―聖職者がいうには民衆がみだらな考えを起こさぬような―はいくつかの異なる長さのセクションから成り立っていて、それぞれのパートは違うエンディングによって繰り返された(すなわちAx Bx By Cx Cyなど)。

I WISH I WAS SINGLE AGAIN

1930年代、急速に発達したレコード産業は、多くのカントリー・シンガーとミュージシャンたちのレパートリーに大きな影響を及ぼした。このヴァージョンは最初リーガル・ゾノフォン(レーベル)の78回転で録音された。アイリッシュ・シンガーでメロディオン・プレイヤーのフランク・クインはアメリカに移住し、ハイウェイ・パトロールマン(白バイ)・フランク・クインとなった人だ。後に素晴らしい映画音楽のレコードで見ることができるが、そこではユニフォームを着てハーレー・ダヴィッドソンにまたがる彼を見ることができる。今回のヴァージョンは詞はクインからだが、リズムはワルツではなくパトロール・クインのものとは似ていない。レスターシアのパブ・ピアニスト、ハズバンズ・ボスウォースとのセッションを通じてできあがったものだ。

THE WHIM

1695年版のプレイフォードの“The Dancing Master”からの曲とダンス。これはアシュリーがバンドに持ち込んだ。彼らが用いたコードは、セシル・シャープが書いたもの。

HOPPING DOWN IN THE KENT

ケント・ビールは通常イーストエンドの人たち、地方の人々、そしてジプシーによって収穫された。驚くほどのことではないが、この歌はその3つの文化的要素が含まれている。ジプシー・シンガーのマリー・アン・ヘインズによって収集された。

HORSE’S BRAWL*

最初に詳しく紹介されたダンスのための‘Orchesographie’(1589)からで、これはThoinot Arbeauによるもの(ほとんどこの著者名はJehan Tabourotの綴り替え)。

そして今回のリイシューでボーナス・トラックが追加された。

ON CHRISTMAS NIGHT ALL CHRISTIANS SING

今世紀(20世紀)初頭、ラルフ・ヴォーン・ウィリアムスによって収集されたサセックスの伝統的祝歌。‘The Prospect Before Us’セッションのアウトテイク。

MERRY SHERWOOD RANGERS

シングルでリリースされた別ヴァージョン(HAR 5113)。

スリーヴノーツ:デヴィッド・サフ&ジョン・トブラー、1993年1月
協力:シャーリー・コリンズ、アシュリー・ハッチングス、フィル・ピケット、ジョン・タムズ



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