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Albion Country Band/Battle Of The Field/1997 BGO Records/BGOCD354



THE ALBION COUNTRY BANDは、早い時期に短い中断はあったが一つの形態にこだわらず、1971年以来常に活動してきた。そして現在1997年もツアーとレコーディングを続けている―今まで少なくとも20枚のアルバムを出してきた。いや多分もしかするとその倍かもしれない。ほとんどのアルバムはCDで手に入るが、この‘Battle Of The Field’は今日までCDが売られている国では手に入らなかったのである。

元々は1976年、アイランド・レコーズの廉価盤姉妹レーベルであったHELPから最初にリリースされた。実際にレコーディングされたのは1973年だったが、その年の夏、バンドが解散したため棚上げにされていた。最終的にリリースとなったのは、1975年暮れに他のレーベルからバンドが復活したことによるものだ。その時誰かがこのアルバムの存在を思い出し、やや主流のレーベルからはずれたHELPから出すのが相応しいと考えたのだ。そのレーベルはアルビオン・バンドの創設者アシュリー・ハッチングスが中心となって制作した‘Morris On’、‘The Compleat Dancing Master’、そして‘Rattlebone & Ploughjack’もリリースしていた。

ハッチングスは間違いなくブリティッシュ・フォーク/ロックのキーマンである;フェアポート・コンヴェンションの創設メンバーであり、グループ最初の4枚のベース・プレイヤーであった。最初にチャートインしたアイランドからの2枚、‘Unhalfbricking’と独創性に富んだ‘Liege & Lief’ではサンディ・デニーがヴォーカルをとり、創設メンバーとしての仲間、シンガー/ギタリストのリチャード・トンプソンとサイモン・二コルが含まれていた。‘Liege & Lief’は大きな称賛を受けたが、結局デニーとハッチングスがグループを抜けることになった。

アルバムはフェアポートの新しい方向性を示していた。グループは以前まで主にトンプソンとデニーによるオリジナル・ナンバーとともにアメリカのシンガー/ソングライターの曲をよく取り上げていたが、‘Liege & Lief’は新しい革新的なスタイル―トラディショナル・イングリッシュ・フォーク・ミュージックをエレクトリック楽器を使って演奏する―に大きく傾いていた。これら偉大で古い歌の貴重なコレクションに関して、以前はほとんどその存在を知らなかったハッチングスは、断固としてこれがグループの未来の方向性だと考えたが、デニーは反対にフェアポートに入る前の彼女のルーツが多くのトラディショナル・ソングにあったため、断固としてグループはオリジナル作によるコンテンポラリーなアプローチをすべきだと考え、結局二人とも1969年暮れにバンドを去ることになってしまった。

デニーの新たなキャリアと、1978年に起きた早すぎる悲劇的な死はまた別の機会の別の物語であるが、ハッチングスは最初の偉大なブリティッシュ・フォーク/ロック・バンドの一つから飛び出し、すぐにスティーライ・スパンを立ち上げた。しかしそれも3枚のアルバムに参加した後2年で抜けてしまった。その後は彼が欲していたいわゆるアイリッシュ・トラディションに限っていえば、彼は自分には見込みがないと感じ、これ以上は何もやることがなくなってしまった状態であった。次なるプロジェクト、つまりそれはアルビオン・カントリー・バンドであったが、その前にハッチングスはリチャード・トンプソン、フェアポートのドラマー、デイヴ・マタックス、アコーディオンの名手、ジョン・カークパトリックらと作り上げた先述の‘Morris On’、そして当時妻であったイングリッシュ・フォーク・シンガーとして称賛されていたシャーリー・コリンズとバンドを結成して作ったアルバム、‘No Roses’があった。

このトラディショナルとコンテンポラリー双方のミュージシャンたちの混合には、トンプソン、マタックス、ニコル、カークパトリック、そしてロイストン・ウッド(ヤング・トラディションのメンバーで当時注目されていた)、さらに多くの(20人にも及ぶ)者が参加していた。‘No Roses’はシャーリー・コリンズ&ジ・アルビオン・カントリー・バンドとしてクレジットされていて、ハッチングスは次のプロジェクトにその名を使った。そのグループは彼の他に、ロイストン・ウッド、サイモン・ニコル、デイヴ・マタックス、シンガー/ギタリストのスティーヴ・アシュリー、そしてスー・ドレイム(Draheim;ヴァイオリン)によって構成されていた。このラインナップは半年後に崩れ、デイヴ・マタックスはフェアポートに再加入、ロイストン・ウッド、スー・ドレイム、そしてスティーヴ・アシュリーは他のプロジェクトへと進み、ハッチングスとニコルは1972年の最後の3ヶ月間、大きくは契約上の理由であるが新しいバンドへ向けて動き出した。

新しいドラマーはロジャー・スワロー(元マシューズ・サザン・コンフォート)で、シャーリー・コリンズの手を借り、最終的にグループはリチャード・トンプソンと、当時トンプソンとデュオとして活動していた妻のリンダ・トンプソンによって固められた。1973年初め、バンドはハッチングス、ニコル、そしてスワローに加えジョン・カークパトリックと彼の妻スー・ハリス、そしてマーティン・カーシーによる布陣でこのアルバム、‘Battle Of The Field’を制作した。カーシーはスティーライ・スパンでハッチングスとともに働き、1960年代を通じては、フィドラーのデイヴ・スウォーブリックと名高いデュオを組んでいた。スウォーブリックは偶然にもフェアポート・コンヴェンションの‘Liege & Lief’に参加していて、彼は1985年までメンバーとして活躍した。

‘Battle Of The Field’はチェルシーのサウンド・テクニクス・スタジオでレコーディングされ、ジョン・ウッドがプロデューサーとエンジニアを務めていた。この時代は初期ブリティッシュ・フォーク/ロックの有名なアルバムが数多く制作されたが、1973年夏、バンドが(再び)問題を抱えたため、そのアルバムのリリースは棚上げにされてしまった。ハッチングスはロック評論家ピート・フレイムに語っている。“アルビオン・カントリー・バンドの終焉は僕にとって苦い経験で僕はすごく幻滅したんだ。僕は興味も目的も失って数ヶ月間途方に暮れていたよ。もう自分は終わってしまったんだってね。”

もちろん彼は全く終わってなどいなかった。1974年彼はシャーリー・コリンズとThe Etchingham Steam Bnadを結成、バンドは1975年秋まで続いた。そして彼は今度はThe Albion Dance Bandとしてジ・アルビオン・バンドを再度立ち上げた。当時間違いなく最も商業的に成功したラインナップであり、彼らはEMIのハーヴェスト・レーベルと契約することになった。そのレーベルで彼らはいくつか重要なアルバムを残している。‘Son Of Morris On’(ハッチングス他多数のクレジットがある)、‘The Prospect Before Us’、そして‘Rise Up Like The Sun’だ。

もしかすると、そのことが1976年、アイランド・レコードに再びアルビオン・バンドに興味を持たせ、‘Battle Of The Field’のリリースを促すことになった理由かもしれない。アルバムにはとりわけリチャード・トンプソンがアルビオン・カントリー・バンドのために書き下ろした重要曲‘Albion Sunrise’(トンプソン自身のアルバムではリリースされていない)と‘New St. George’が収録されていた。今回‘Battle Of The Field’の初CD化は、世界中のブリティッシュ・フォーク/ロックのファンとコレクターを狂喜させることになるであろう。

ジョン・トブラー、1997



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