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The Adverts/Crossing The Red See With/2002 The Devils Own Jukebox SDVIL901CD



1977年1月、伝説のロキシー・クラブでの危なっかしいデビュー・ライヴを目撃したのは、ほんの少数の物好きな者たちだったが、彼らはワン・コード屋(One Chord Wonder)などではなかった。実際、3年近くパンクとそれを越えたハードな年月を通じてアドヴァーツが切り開いた道は、今でも光り輝いている。

“アドヴァーツ?はっきりいって彼らはひどかった。” 彼らの2回目のギグをレビューしたNMEはぼやいた。しかしオーディエンスはもっとよく知っていた。そしてこの猛烈な怒号を聴く者たちが増えていき、普通ならパンクの未知のバンドとして葬り去られるような薄っぺらく甲高いリフはアドヴァーツを定義づけ、注目すべき曲が現れ始めた。

アドヴァーツはしかし長い間知られずレコード契約を果たせないままでいたわけではなかった。最初のショーから数週間以内に彼らはスティッフ・レコーズと1枚限りのシングル契約を結び、それは最初のクラシックとなった“One Chord Wonders”を生んだ。初期のギグからの1曲でアンセム的な“Bored Teenagers”は、独創性あるアルバム“Live At The Roxy”のためにレコーディングされ、この時までにバンドのレパートリーは2ケタの数になり、彼らは初の全国ツアーの準備にとりかかっていた。それはダムドのオープニング・アクトとしてであり、そのために作られたポスターは今でも最高の一つとして知られている。ダムドはいっていた。“3つコードを弾ければアドヴァーツの曲がプレイできるさ。4つかな・・・”

“One Chord Wonders”は1977年4月にリリースされ、すぐに音楽誌のシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれ注目された結果、たちまちインデペンデント・チャートのトップに立った。この時点でアドヴァーツは6月にAnchoirと契約し、その時ヒットを放ったパンク・バンドの中で最高のひとつに数えられていた。

アドヴァーツの魅力は分かりやすいものだった。まず一番に女ベーシストのGayeだった。サン紙は“ポップを引き受けた生意気なガール・シンガー”の一人として、彼女が口を開く前にそう評した。多くのベッドルームの壁に貼られたポスターから彼女は見下ろし、ゲイ・アドヴァートはデビー・ハリーがプレスの注目を浴びたあともナンバー・ワン・パンク・ピンナップとして存在し続けた。パンダ目のメイキャップと、どこにでもあるレザー・ジャケットで、ゲイはその後10年間に渡って女性パンク界の顔を定義づけた。しかしもっと重要なことは、彼女がセックス・シンボルとしての名声を演ずることを拒否したことが、永遠にロック界の女性の役割を定義づけたことだ。もはやかわいらしい顔でもなく、よだれを垂らすメディアに向けた玩具でもなく、そういったことは絶対的無関心事としてクールに受け流された。ゲイは女がバンドの不可欠な構成要素となり得ることを証明してみせた。

ゲイがステージ上でほとんど動くこともなかったにもかかわらず、グループの焦点として存在し続けたのだとしても、TVスミスはオーディエンスの注意を引きつけるグループの鼓動だった。

魅惑的なステージ上の存在として、やせこけた体に新聞から切り取って作ったバッジをつけ、黒のレザーをまとい、興奮しながら踊り狂うTVスミスがその頃の挑発的な曲を書いていた。“New Church”、“Great British Mistake”、“Bombsite Boy”―グシャグシャのコーラス、ガキのようなドラムスによって、DIY精神の不満を表明したアンセムをたっぷりと装備し、ストゥージズを信仰していたゲイのベース・サウンドは君の胸に穴を開け圧倒させてしまう。

アドヴァーツのメジャー・レーベル・デビュー、“Gary Gilmore’s Eyes”が代表ナンバーだった。もちろんこれはアメリカの殺人犯ギルモア(Gary Gilmore 1940-1977:76年に2件の殺人を犯し、死刑廃止運動を冷笑し控訴せずに銃殺された。この処刑は72年に一旦廃止された死刑制度が復活された結果10年ぶりに執行されたため世界の注目を集め、小説The Executioner’s Songにも描かれている)が、自分の目を死刑執行後、医療科学に寄付することを要求したことに基づいていた。これはその1年に生まれた多くのパンク・アンセムの中でも最も忘れられないものとして称賛を受け、サウンズ誌で2度目のシングル・オブ・ザ・ウィークに選出された―まだレコード店に並ぶ前だった。いったんリリースされると大混乱が巻き起こった。NMEが、“ニュー・ウェイヴ・シーンから出てきた中で今のところ最も病的で・・・最も才気あるレコードだ”と評したこれは、1週間に3,000枚にも達するセールスとなり、8月にはトップ20に入った。その結果、アドヴァーツは二度“トップ・オブ・ザ・ポップス”に出演することになった。

どういうわけか、イギー・ポップとの英国ツアーも3度目のシングル・オブ・ザ・ウィークも、続くシングル、“Safety In Numbers”がチャート入りするはずみをつけることができなかった。その歌のテーマがニュー・ウェイヴを全国的なお遊びに変えてしまった流行の便乗者に対する痛烈な攻撃だったため、あるいは驚くことではないのかもしれないが。しかし翌年には素晴らしい“No Time To Be 21”が生まれた。とてつもないコーラスが聞けるこれもその年のアンセムとなり、もちろんまたトップ・オブ・ザ・ポップス出演となった。

しかし彼らのメインとなる魅力はまだ世に出ていなかった。“Crossing The Red Sea With The Adverts”は、あるいはあの時代、最も扱いにくいタイトルの一つだったかもしれない。そしてすでにシングルとして出ていた4曲全てが入っているわけではなかった(しかも3曲は再録音)。彼らは故意に“Gary Gilmore’s Eyes”を外し、商業的自殺を企てたのかもしれない。しかしこのアルバムはすぐにクラシックとなった。息をもつけぬようなアルバムではないが、これは圧勝であり、彼らの正体が暴かれている。

“One Chord Wonders”の開始を告げる音のハルマゲドンから、狂乱しながら引き伸ばされる“Great British Mistake”のフェイド部分まで、アルバムはしくじってはいない。

バンドは依然集中的に大きなツアーを敢行し、その激しいステージはブリテン中で喝采を受け、アイルランドやヨーロッパなど海外にも手を伸ばしていた。ロックの輝かしいTV番組“The Old Grey Whistle Test”にさえ出演した。アドヴァーツは止めることができないように思えた。

しかしもちろん彼らはそうではなかった。絶え間ないツアーは損害をもたらし、グループ内の仲たがいはメンバー交代を引き起こした。悲惨なRCAへの移籍によってバンドはさらにライヴを増やし、100万単位のレコード・セールスを求められるようになり、その結果、時代遅れなメジャー・レーベルから追放される羽目になってしまった。それでも彼らの上昇志向は衰えず、1979年には注目すべきセカンド・アルバム、“Cast Of Thousands”として結実した。しかし熱狂的な1年の中で打ち立てた勢いはゆっくりと減退して行った。

それでも彼らの1979年の解散は決して敗北を意味したわけではなかった。ジ・アドヴァーツの存命期間、パンクの時代は燃え尽きていた。疲れ果て、絶望的に白旗を振ることになってしまった。誰もが彼らを終わったものとしてやり過ごしていった。

パンク全盛時に、その時代の毒と情熱を表した“Crossing The Red Sea”は、抵抗の決意と叫び、いかなるものも軽く見ることを拒否し、それ自体が素晴らしい作品だった。しかしそれ以上にアルバムが定義づけたのは、古いロックのしきたりが崩れ落ちた中で、新しい者たちへの道を切り開いた貴重な瞬間だ。その頃の不安定な規範の中で、アドヴァーツは単に紅海(Red Sea)を渡ったのではなかった。彼らはそれを真っ二つに切り裂いていたのだ。

デイヴ・トンプソン


CROSSING THE RED SEA WITH THE ADVERTS
―THE ULTIMATE EDITION

君が手にしているのは“Red Sea”期のアドヴァーツの決定版だぜ。オレたちがセカンド・アルバムの前にやったレコーディング全てが入っているんだ。アビー・ロード・スタジオで録った“Crossing The Red Sea”の全13曲と、もともとUSヴァージョンだったGary Gilmore’s Eyes、それからNew Day DawningはNo Time To Be 21のB面用だったんだ。あとアルバムが出る前のシングルの初期ヴァージョンとそのB面全てが入っている。

レコードとしてリリースされなかったアドヴァーツのスタジオ・ヴァージョンもよくドキュメントされている。オレたちは決して単なるスタジオ・バンドじゃなかったね。ここには6曲の未発表ライヴが入っている。70年代後半のパンク・ロックを経験した奴なら、アドヴァーツがそこいら中で最もハードにライヴをこなしていたバンドの一つだったことを覚えていると思うぜ。その悪名高いギグは、オーディエンス、バンドどっちにとってもハラハラするようなものだった・・・ 時にはカオス状態に突入するか、時には何かとてつもない素晴らしいものへと昇華するかだったな。

このライヴ・テープが残ってたのはかなり奇跡的なことだと思うぜ。これは1978年初頭にロンドンのラウンドハウスでやったギグだ。そのほんの数ヵ月後に“Crossing The Red Sea”がリリースされたんだ。オレたちはハードコア・スキンヘッドのオーディエンスがストリート・アンセムにしていたシャム69のサポートをしていた。オーディエンスは奴らのヒーローに声援を送っていたな。アドヴァーツは中身もスタイルも奴らとは何100マイルも離れていたけどな。

オレたちはオリジナル・ドラマー、ローリー・ドライヴァーが抜けたばかりで、新しいドラマーのジョン・トウと2,3日リハーサルしただけだったのよ。奴は古い友人で元ジェネレーションXのドラマーだった。最初の何回かのギグはうまくいった。オレたちはまだちょっとまとまりがなくてリハーサル中だったけど、新しいエネルギーとパッションをプレイに見つけていた。ツアーの最初の2日、オレたちはマイクロバスを運転してエセックスのギグから帰ってきた。午前2時ごろ、南ロンドンでジョンを降ろしてな。オレたちは翌日にソールドアウトのラウンドハウスでのギグを控えていて、自信たっぷりに奴におやすみを言ったぜ。その2分後だ。うちへ帰ろうと車を道に戻すと、1台の車が道をそれてオレたちのヴァンにぶつかってきたんだ。

オレは自分の額を手で押さえながら道をヨロヨロと歩いていたのを覚えてるね。額は風船みたいに腫れ上がっているように感じた。オレは思った。“明日はギグだ!何のギグだっけ?!”ってな!

翌日、オレたちはラウンドハウスに到着した。まだショックが残っていてサウンドチェックに遅れたが、オレたちはプレイするつもりだった。外ではスキンヘッズの一団が会場のでっかい防火ドアに突撃して押しかけようと企てていた。

あとのことはぼんやりとしか覚えてないな。オレたちはステージに立っていた。オーディエンスは暴れまわっていて、ツバの嵐が吹き荒れていた・・・

オレは知らなかったんだが、ジョンはサウンド・ミキサーにギグを録音するように頼んでいたんだ。自分のドラミングをチェックするためにね。最近彼が引越しをした時、彼は箱の底に眠っていたテープを発見してオレに知らせてきた。23年前のテープはかなり不安定な状態だ―一度聞くだけで崩壊しちまいそうだ―そこでオレは再生した時にテープの表面が酸化してしまわないように、加減して熱して安定させた。

オレたちは腰掛けて聞いてみることにした。テープの最初の部分はリリースするにはあまりに劣化していたが、オレは別に残念だとは思わなかったな。全ての音が流れてきた。ミスだらけの精彩のないプレイだ。スキンヘッズたちはブーイングと、声をそろえて“シャム!シャム!”と叫び、ボトルがステージとマイク・スタンドに当たって割れる音が入っていた。ゲイはオーディエンスに向かって“このムカつくマスかき野郎が!”と怒鳴り散らしていた。ジョンはドラムのマイクに向かってひどいカウントを出している。“ほら、オレはまだちゃんとできてないだろ?”

しかしそれから何か驚くべきことが起こったんだ。ギグの最初の半分はオレたちのひどいプレイの中でオーディエンスの敵意むきだしの怒号が飛び交っていたんだが、突然オレたちは立て直し始めたんだ。これがアドヴァーツに起こる典型的な瞬間なんだよな。オレたちはどこからともなく再び一つのバンドとして甦り、オレたちを止めるものは何もなくなるんだわ。もう一つのミラクルが実はあるんだぜ。テープが半分くらいまでさしかかると、音質が明確に良くなってくるんだ(訳注:たまたまだと思います)。

このライヴ・レコーディング―ロキシー・クラブのアルバムは別として―は、アドヴァーツが作った唯一のミキシング・デスクからのダイレクト・カットなのさ―さて次は何が起こるか、聞いてみてくれ・・・

T. V. Smith


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