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The Action/Uptight And Outasight/2004 Circle Records Ltd. CPW C105



没が60年代半ばのポーツマスをおおい隠す時、虹色のトニック・モヘアをちらちらと光らせた亡者たちが、バードケイジ・クラブに集まり始める。モッズだけがそのアンフェタミン漬けの暗がりへ大胆に挑んでいった。そこは私にとって第二の我が家みたいなものだった。その場所でアクションはモータウンを自分たち流に解釈する錬金術を使い、それは彼ら得意のギグとなった。彼らは私が着たいと夢に見ていたスーツを着てステージに現れた。

私はおそらく60年代と70年代のグレイトな(そして多くの忘れ去られた)ライヴ・バンドのほとんどを見たと思うが、自分にとってライヴ・パフォーマンスの理想形を見せてくれたのが、ジ・アクションだった。グレイトなライヴ・パフォーマンスというのは、決して真似できない独特な要素を持っていて、一般に見られる共通の特徴を持たないものだ。これがアクションが特に際立っていた紛れもない理由だ。なぜなら彼らは大きな成功をものにしなかったことを越えて、忘れられないフレーズを描きながら確立された音楽的卓越性の概念をも超えることができたからだ。

彼らによるタムラ/ソウル・クラシックのパフォーマンスは、おそらく1966年の春遅くには頂点に達していた。ノーザン・ソウルのミルウッド・レーベルの重要ナンバーによるハードにドライヴするアンフェタミン・グルーヴは、ライヴにおいてタムラ・モータウンとカーティス・メイフィールドのレパートリーをさらに強化し、それはぞくぞくさせるような精密さ、恐るべきパワー、そして絶対的技量によって演奏された。Mine Exclusively, Baby You’ve Got It, Take Me In Your Armsは、この頃の代表的ナンバーであり、シングルよりもアクションの良さをよく示している。それでもやはりBBCスタジオでの‘ビート・グループ’への標準的扱いにより、一定の加減が加えられることになった。それによってサウンドは平板化され、全体的に濃密さが失われ、キム・ウェストン(Take Me In Your Arms)のナンバーに見られるドラマチックなインパクトが奪われることになった。

アクションは歌のマジックをとらえる名人だった。彼らは歌をリアレンジし、あたかも自分たちが書いたかのようにフレッシュに響かせることができた。多くの場合、彼らのヴァージョンはオリジナルを超えていた―Needle In A Haystack, Since I Lost My Baby, In My Lonely Room, I’ll Keep Holding On―これらは彼らの卓越性を示す決定的表明となった。

ミュージシャンとして進化し、3分間ポップ・ソングの制約から自らを解放する必要性は、より進歩的で創意に富んだアレンジメントと野心的なインプロヴィゼーションを刺激した。オリジナルから遠くかけ離れ解体されたGoing To A Go-Goのヴァージョンは、ジャズ的なアプローチを増しながら、彼らの自由な解釈を完璧に描写している。66年初夏、彼らはレパートリーに一握りのロネッツ・ナンバーを加えたが、それぞれは完全なる珠玉ナンバーであり、過ぎ行くモッド第一世代にとってふさわしい哀歌となった。20世紀において最大の影響力を誇ったブリティッシュ・ユース・カルチャーは、過剰と搾取と自身の傲慢さによって失墜し、弱体化していった。しかしそのスピリットは決して死ぬことなく、何年にもわたって次世代へと受け継がれていき、青白い顔をした幽霊のように昔のままの姿となって再び現れることになった。

66年が終わりを迎える頃、ギタリストのピート・ワトソンは最後にリッケンバッカーのプラグを抜き、グループは4人編成となった。短い活動休止期間を経て彼らはロードに戻り、67年の黄金の幕開けを辿っていった結果、ジ・アクションは完全無欠なる日々の澄み切った青い空へとやすやすと登り詰めた。彼らは過去の遺物となった古いレパートリーをはるか彼方へ置き去りにした。彼らの十八番だったI’ll Keep Holding Onに代わるザ・バーズのWhyとI See Youの見事な解釈と、忘れられないPandora's Golden Heebie Jeebiesは、アメリカのウェスト・コースト・ハーモニーの真髄を具現化させていた。それは最初のラインナップのフェアポート・コンヴェンションだけが本格的に取り組んでみせたものだった。サイケデリック時代後期に荒廃していたかのように見えたUKミュージックはテクニカラーのおもちゃ屋のようなものだったが、その中でナイーヴにあてどなく佇むシーンに、フェアポートは解毒剤を提供し、活力を一新させた。

その変化に対するオーディエンスの反応は二つに分かれた。私を含む一方の者たちは、ふさのついたバックスキンの衣服とペイズリーを好んで、すでにトニック・モヘアを捨てていた。それは私たちが求めていた暖かいカリフォルニアのそよ風を思わせるものだった。他方の者たちは依然古いスタイルにしがみつきながら群がり、まごつきながら立ちすくんでいた。

ここに入っている見事なウェスト・コーストのレパートリーは、間違いなくこのCDの中で最も重要な発見だ。マルチ奏者のイアン・ホワイトマンを採用してからたったの2週間で彼らはバンドの歴史上、比較的未知の期間に、魅力的な眼識を示していた。その時に彼らは最高のライヴ・パフォーマンスを見せていた。I See You, Love Is AllそしてIndiaはただ息をのむばかりであり、他のほとんどのブリティッシュ・バンドが手を出そうともしなかったアンサンブルを見せている。アソシエイションのAlong Comes Maryの中のインストゥルメンタルを借用したI See Youは、純粋なリリシズムと、やすやすと手に入れてしまったスタイルを表明している。ジョン・コルトレーンのIndia(マイティ・ベイビーになってからも取り上げた)は、入り組んだ構成とほとんど催眠性のあるリズム・パターンを伴う素晴らしい雰囲気を持っている。そしてLove Is AllはRolled Gold(当時お蔵入りとなったアルバム)のデモ・ヴァージョンを発展させ、広大なイメージを描き出している―それはケンティッシュ・タウンではなく、トパンガ・キャニオン(ロサンゼルス)を喚起させるものだ。

私にとっては、このコレクションの中でその3曲がアクションの独特なライヴ・サウンドを最も有効にとらえたものだ。それはバンドが楽しんでプレイしたサウンドであり、チームワークのサウンドである。彼らは間違いなく理想主義者であり完全主義者だった。彼らはミュージシャンとして自分たちの誠実さに絶対に妥協しなかった―あるいはこのことが現在、1960年代の真に偉大なライヴ・バンドとしての彼らの認知につながっているのかもしれない―無比なるアクションだ!

IAN HEBDITCH, May 2004


排他的でエリート主義の派閥が、ロンドンとその隣接した郊外の中心に就任した時から、モッド・ムーヴメントは60年代初頭までにある段階まで芽を出していた。そこではブリティッシュ・グループたちが、増大する一団を楽しませるために活躍していた。モッズの元々の音楽的ルーツとして、黒人のソウルとリズム&ブルースがにじみ出ていたが、以来、当時の偏狭な気取り屋たちは自分たちのU.S.A.志向を超えて冒険を企てることはほとんどしなくなっていた。要求に応えてライヴでR&Bやソウルをプレイする地元のグループが必然的に花開くことになった。モッドの暴動、レディ・ステディ・ゴー、そして商業的に成功するタムラ・モータウンの出現は、モッドを全国的な現象へと推し進め、それはたしかに商業主義を促進させ、さらなるモッドとモッド・スタイルのグループの発生に拍車をかけた。

それでもほんの少し例を挙げれば、ジョージー・フェイム&ザ・ブルー・フレイムス、クリス・ファーロウ&ザ・サンダーバーズ、そしてロング・ジョン・ボルドリーのフーチー・クーチー・メンらが1965年には道を切り開いていた。あるいはもっと視覚的にアピールする才能あるバンドたちが名声を勝ちとりつつあった。大部分がモッドのイメージを利用したにもかかわらず、ザ・フーがムーヴメント最大の担い手となったが、とりわけ続く世代の多くにとってのブリティッシュ・モッドを決定づけ、その縮図となった2つのバンドが出現した―ザ・スモール・フェイシズとジ・アクションだ。

もちろんスモール・フェイシズは当時最も商業的に成功したグループのひとつとして活発に発展していったが、一連の素晴らしいシングルをリリースしたにもかかわらず、アクションはヒット・パレードの中へと入っていくことができなかった。しかし彼らの音楽に対する認知、評価と彼らがもたらした伝説は、過去を振り返った1枚のアルバムによって高められていった。彼らはまさに最初のブリティッシュ60sのカルト・バンドのひとつとしての名誉を授かることになった。80年前後、すでに第二次モッド世代の筆頭としての役割を担っていたと考えられていたポール・ウェラーによる熱烈なライナーノートを完備し、1981年にリリースされた‘The Ultimate Action’は、バンドの全5枚のシングル両面と、ジョージ・マーチンのA.I.R.(ロンドン)プロダクション会社に残されていた未発表曲を含んだ素晴らしいコレクションとなっていた。その後、さらにアーカイヴから珠玉の未発表曲が加えられ、曲順が変えられ再プレスされた結果、アクションのパーロフォン時代の伝説は、グループが60年代にリリースしたシングル群以上のセールスを生み出すことになった。

14年後、アクションに対するさらなる熱望は、大部分ジョージ・マーチンとの契約終了後にレコーディングされた10数曲の未発表トラックの出現によって埋め合わされることになった。それらのトラックはグループが前進し、自信に満ちあふれ、サイケデリック時代に驚くべきポップ・センスを発揮していたことを示すものだった。しかしこの注目すべきレコーディングの遺産があるにもかかわらず、依然としてアクションが人気クラブやコンサートで一貫して忙しく働き、魅力を発揮していたという証言を裏付けるものがないことは明らかだった―すなわちライヴ・レコーディングの欠乏だ。そして比較的最近まで伝えられていたアクションの存在自体さえ疑問視する声が、この‘Uptight And Outasight’の出現を促すことになったのである。これはテレビへのライヴ出演に加え、BBCラジオに現存していたレコーディングを初めてひとつにまとめたものだ。

この‘Uptight And Outasight’の現実化へ向けてのハイライトとなった出来事は、それ自体魅力的なストーリーであるが、あるいはこの時点で、詳しく述べるべき事項を最初に提示するのが賢明かもしれない。それはまず第一に、60年代のマテリアルをこの状態で見つけるのがとても困難である理由だ。このシナリオを取り囲む状況は、以前の‘Please Listen To The Picture’で詳説した。それはサークル・レコーズがカレイドスコープとフェアフィールド・パーラーのBBCセッションに完璧なオマージュを捧げたものだった。もちろんあなたはすでに購入済みだと思うが(もしまだなら現状改善するように)、ありのままの最新の注意点をここに挙げる必要がある。

60年代のBBCは、ミュージシャンズ・ユニオンのような組織を通じ、とりわけラジオ放送内で一定の割合でライヴ・ミュージックをオンエアすることを義務づけられていた。60年代の10年間を通して(さらにそれ以上も)、BBCはその責務を果たすべく何100ものアーチストたちを雇い、そのレコーディング・パフォーマンスがフルに活用されれば、そのテープを消去してしまうか再利用するか、あるいは単に破棄してしまった。それは国が巨大な社会、文化そして60年代を特徴づける音楽的大激変にさらされた中での逆説的な皮肉だ。そこには後世に伝えるべき現象の完全な視覚的、聴覚的ドキュメントを保護する能力に欠けていたことを示す姿勢、精神が表れていたが、それは一般的な傾向だった。

BBCと独立系のテレビ会社は、彼らが制作した幅広いアーカイヴを保存する義務を持たず、彼らはいったん制作したマテリアルの大部分を、さらなる実用価値として見なさず、無用なものとして考えていた。他の要素としては、その保管、特定の番組を再放送する時の契約上の障害、独立会社の場合の放送(映)権の移動、そしてもちろん経済面含めた全てが、常に増えていくアーカイヴの維持に割って入ることにより、‘廃棄’が最も効果的な解決法として実行された。このぞっとするよう手続きは、だいたい70年代後半までには取り止められたが、(おかげで)それにもかかわらず、アーカイヴはすでに荒らされ、古い時代のラジオ放送分は、より記録として残っているテレビ・アーカイヴの破壊状況よりも、さらにいっそう腐食性の高いものだった。

それでもレコーディングされた中で少ない割合ではあるが、60年代のラジオのアーカイヴが何とか持ちこたえ、不完全ではあるが生き残っているのが、BBCの現存するラジオ・レコーディングの倉庫を占めているトランスクリプション・ディスク(録音放送レコード)だ。トランスクリプション・ディスクはRound The Horneのようなコメディ・ショー、あるいはポップ・ショーのような様々な形態を含むが、通常トップ・オブ・ザ・ポップスのシリーズ(よく知られている同名テレビ番組とは別)で使用されていた。トップ・オブ・ザ・ポップスのディスクは標準の12インチLPレコードであり、それは生きいきとした実況(通常はサタデイ・クラブの司会ブライアン・マシューだ)が加えられ、サタデイ・クラブあるいはトップ・ギアのような当時のポピュラー・ラジオ・ショーから抜粋したものを記録していた。そしてその中で、海外向けとしてラジオ番組が新たにレコードに刻まれていた。

毎週生み出されるディスクは、通常5〜6組のアーチストからそれぞれ2〜3曲が収められ、必然的にアーチストたちはヒット・パレードに照らし合わせてふるいにかけられる一方で、多くのディスクはまだ(あるいは永遠に)ヒット・パレードをものにしていないバンドやソロ・シンガーをフィーチャーしていた。ラジオからの抜粋をコンパイルするこの体制のおかげで、しばしばセールス的には失敗に終わったが、興味深いグループが後世のために生き残ることになった。このアルバムで生き残ったアクションのレコーディングの約半分は、この記録媒体によるものだ。最初に述べたように、BBCはこれらディスクを完璧にライブラリー化してはこなかったが、幸運なことに、アクションをフィーチャーした2枚のトランスクリプション・アルバムが会社に存在している。

‘Uptight And Outasight’の残りは、さらにとっぴで普通は考えられない媒体から少しずつ集められた―オープンリール・テープによって家庭で録られたものだ。カセットテープ・レコーダー以来、聴覚的、視覚的娯楽をコピーすることは一般化し、オーディオ・セットとビデオ・レコーダーは平均的な60年代のティーンネイジャーの時代のあと、70年代以後に、より広まるようになった。金のかかる多くの娯楽があった60年代の10代の若者のうち、個人所得のあった層の割合は比較的小さかった。テープレコーダーは絶対的なレコード・プレーヤーあるいはラジオ付きレコード・プレーヤーに比べれば、重要な贅沢品ではなかった。このようなわけで、家庭内録音はそれほど一般的ではなく、オープンリール・レコーダーはその改善と70年代に普及した、よりコンパクトなカセット・レコーダーによって、そのテープとともに忘却の彼方へと埋もれてしまうことになった。ファン・ベースでもアクションのラジオ・セッションの家庭内オープンリール録音は珍しかったが、30年以上経ったあと、ある思慮ある者が、決して世に出ることはないであろうそれら音源を集めていった。しかし今回のリリースによって、その悲観的な展望は見事に覆されることになった。

ラジオのセッション・ワークに関するアクションとBBCの関係は、1965年のクリスマスに始まった。それはエンターテイメント・エージェンシーのマーキー・アーチスツで働いていたチェスター嬢が、3つのグループのオーディション申込用紙を申請したときだ。その3つとは、ジミー・ジェイムズ&ザ・ヴァガボンズ、Sommersets(原文まま―実際はSummer Sets)そしてもちろんアクションだった。バンド・メンバーのレグ・キング、マイク・エヴァンス、ロジャー・パウエル、アラン‘バム’キングに代わって、グループのリード・ギタリスト、ピート・ワトソンがオーディション用紙に、その時点での彼らの最も大きなキャリアを詳細に書き込んでいった(彼らの前身はザ・ボーイズ、ザ・ボーイフレンズであり、ほとんどサンドラ・バリーのバック・バンドだった)。またピートは彼らが最近行なった3つのコンサートを書いた。以下がそれだ。

65年12月18日―ハーペンデン・パブリック・ホール
65年12月19日―マンチェスター、ジグソー・クラブ
65年12月21日―ミドルズブラ、アストリア・ボールルーム

バンドのプレイする音楽についての質問にピートはこう書いている
―“アメリカのソウル・ミュージック(主にタムラ・モータウン)”

1966年1月、グループはBBCのエオリアン・ホールでのオーディションに招かれた。その結果できあがったテープは、Since I Lost My Baby, Harlem Shuffleのライヴ演奏と、レコードからのI’ll Keep Holding Onがフィーチャーされていた。最後はおそらく3週間後にリリースされたシングルのアセテート盤からの音源だろう。オーディション・テープのコピーが現存するかどうかは誰にも分からないが、BBCのオーディション審査員による貴重な評価の記録は現存し、それは控えめに言っても読んでおもしろいものだ・・・


(a) “全体にエキサイティングで一風変わったサウンドを持った良いR&Bグループ。全てが調和している。合格

(b) “歌も演奏も有能な明るい響きのあるビート・グループ。しかし決してオリジナルではない。彼らが我々にとってどのくらい有効なのかはまだ見えない。彼らをブッキングするにはためらいがあるが、放送するだけの標準にはたしかに達している。

(c) “演奏はあるいは平均以上かもしれない。バッキング・ヴォーカルは称賛に値し、少なくとも調和している。マテリアルは平凡で私にとっては3曲とも同じに聞こえた―一本調子である。これは明らかに1つのスタイルであり、それはそれとしてうまく表現されている。しかしながら彼らは彼らにふさわしいレコードを必要とするだろう。合格

(d) “黒人音楽に影響を受けたハスキーな声のリード・シンガーのいる‘ソウル’ビート・グループ。現時点ではあまり洗練されていないが、彼らはこういった様式に全身全霊を傾けているように見える。半年後にもう一度オーディションを受けることを勧める。現時点では不合格

(e) “耳に心地よいR&Bグループ―かなり風変わりなコンビネーションだ!歌も演奏も正確である。傑出したところはないが、可能性は見出せる。


全体的には慎重な評価にもかかわらず、アクションはBBCの仕事を請け負うバンドとして選ばれた。それは1966年2月にバンドのマネージャーだったリッキー・ファー(訳注:Tボーンズ、のちのSSWのゲイリー・ファーの兄)のところに届いた手紙によって知らされた。アクションの最初のラジオ出演は、1966年春に行なわれたリード・ヴォーカリストのレジー・キングへのインタビューのみだった。BBCは番組 Hit 66でのレグのインタビューに5ギニー(guinea:1ギニーは21シリング、現在の1,05ポンド。1971年廃止)を払った。その番組はBBCのドイツ支社が担当していたうちのひとつだった。しかしながら、この時のインタビューも翌年のHit 67でのレグの会話も現存は確認されていない。

1967年10月に始まるトップ・ギアまで、BBCの最も興味深く称賛に値するラジオ音楽番組は、サタデイ・クラブだった。司会はブライアン・マシューで、アクションが初めて完全なバンドとして出演したのがこの番組だった。番組のためにレコーディングした5曲のうち3曲が、レグのインタビューを加えられてトランスクリプション・ディスクとして生き残っている。ラジオ・セッションというジャンルに提供した最高のパフォーマンスとして考えられる2曲はBBCで録音されたが、ディスクに刻まれることはなかった。番組でプレイした他の多くのアーチストたちと同じように、アクションは限定的なセッションの手続きを踏むことになった。しばしば無関心さをあらわにするエンジニア/プロデューサーたちによるかなり雑な姿勢があったが、それにもかかわらず、プロフェッショナルなレコード・プロダクションでは時々失われてしまうような自発性とバンドの結合力が発揮されることがあった。

典型的なBBCセッションにおいては、ほとんどがワン・テイクによるレコーディングだった。マイクロフォンなどの機材は全く簡素なものが使われ、通常グループはプレイバックを聞く機会さえほとんどなかった。アクションのメンバーたちはショーが放送された時に自分たちのセッションを聞いていたが、それは別として、彼らが自分たちの演奏を聞くのは、実際自分たちがセッションでプレイしている時だけ(そしてある時はそれが最後)だったのは明らかだった。

1966年7月のサタデイ・クラブのために、アクションは5曲をレコーディングした―パーロフォンの最新シングル、Since I Lost My BabyとBaby You’ve Got It、そしてI Love You Yeah(インプレッションズ)に、オリンピックスのMine Exclusivelyとキム・ウェストンのTake Me In Your Armsだ。I Love You YeahとSince I Lost My Babyは、セッションがトランスクリプション・ディスクとして再利用される際にオミットされた。その2曲の盤は存在しないと考えられているが、とりわけ残りのMine ExclusivelyとTake Me In Your Armsは、バンドがレコード上に残さなかったナンバーとして特筆に値する。

先述したレジーのHit 67でのインタビューの1ヶ月後、アクションはBBCと2度目のバンドでの出演契約を結び、マンチェスター、ヒュームのプレイハウスにあるスタジオに入った。そこでふさわしいだけのオーディエンスが集められてライヴ・レコーディングが実施され、バンドはNever Ever(4枚目のシングルA面)とミラクルズのGoing To A Go-Goをプレイした。その模様は2日後(1967年3月)に、毎週木曜日の午後早い時間に放送されていたPop Northでオンエアされた。‘Uptight And Outasight’の中で、これら2曲のクオリティと他との差異は明白であるが、エキサイティングな潜在能力を持ったレパートリーとして、Never EverとGoing To A Go-Goは、間違いなく選り抜きのものだった。レパートリーに活力をもたらすために、オーディエンスに向かってプレイすること(彼らの好む環境だ)は、明らかに重要だった。さらに技術的な注意点として、ひょっとするとあなたはこの2曲でマイクのベース・プレイが特に目立っていることに気づくかもしれない。これはギタリストのピート・ワトソンが脱退し、アクションが5人から4人編成へと縮小したことによって説明できる。ザ・フーのジョン・エントウィッスル同様、ベース・ギターはより巧みに、より派手に押し出されることになった。ちなみに、Pop Northに出演したスペシャル・ゲストには、マリアンヌ・フェイスフルとデイヴ・ベリーがいた。

1967年中頃までに、アクションの音楽的枠組はジ・アラン・ボウン・セットのような似たような傾向を持った同時代のアーチストたちと同一歩調をとり、他からの影響を広く受け、吸収していた。フラワー・パワーの開花に伴い、ジャンルの壁が次第に取り払われるようになり、彼らはモッド/ソウル・バンドとしての純粋なカテゴリーを避けることに自覚的になった。アクションは自作のナンバーをステージで取り上げることでバンドの価値を高めるとともに、ジ・アソシエイションやザ・バーズのハーモニー・ポップに取り組んでいた。67年の夏にキーボード/フルート奏者のイアン・ホワイトマンが加入すると同時に、そのアイデアとフレッシュな姿勢への大きな変化が訪れた。そのことによって、バンドはレパートリーを広げ、以前には技術的にステージ上で演奏不可能だったマテリアルを取り入れることが可能になった。

1967年7月からのアクションの2度目のサタデイ・クラブ出演は、それを存分に例証したものとなり、鮮明で素晴らしく熟練した彼らの変容ぶりが見てとれる。それはそっくりそのまま現在にも生き残っているものだ。バンドは見事なフォームを実践し、BBCのラジオ・セッションによるリスナーへの伝達の欠乏に打ち勝ち、多くのグループのレコーディングが表向き安易に破壊されるような環境から逃れることになった。1990年代のDig The Fuzzレーベルによるアクションのコレクションを通じて、今では多くの人たちによく知られるようになったLove Is Allは、より活気に満ち、バーズのI See Youも同様に効果的で素晴らしくエキサイティングだ。見事ながらも、もっともなことだが、Shadows And Reflectionsは、ジョージ・マーチンによるアビー・ロードでの完全無欠なビッグ・プロデュースのほとばしりはいくらか失われている。

しかしこのセッションで最も驚くべき重大な発見が、ジョン・コルトレーンのIndiaのカヴァーだろう。アクションの大部分のメンバーは、彼らが10代の頃からアヴァンギャルド・ジャズ・ムーヴメントの高く評価されたスピリチュアル・リーダーの作品に魅了されていた。そしてイアン・ホワイトマンの加入が、彼らのレパートリーにこういったマテリアルを加えることを可能にした。アクションによるIndiaのカヴァーは、サイケデリックあるいはジャズとの融合として、そしてそれ自体が孤立したものとして二重に解釈されうるものだが、それこそがコルトレーンの実験的スタンスだった。しかし全体を通じて独特で魅惑的でとても重要性が高く、これはバンドが最終的にマイティ・ベイビーとして発展することになる先例となった。この重大事に、アクションがIndiaをプレイしたことは、かなり気味の悪い偶然の一致を含んでいる。バンドは事実を知らなかったのであるが、7月11日火曜にこのレコーディングが行なわれ、その月の22日にサタデイ・クラブで放送されたその間に、コルトレーンはニューヨークで40年という早すぎる死を迎えた。そしてメロディ・メーカー紙がふさわしく第一面でコルトレーンに対する同情的な死亡記事を載せたが、まさにその日にアクションのIndiaがオンエアされたのだ。知らず知らずのうちにバンドは少なくとも大西洋の反対側で、最初にそのミュージシャンに哀悼の意を表すことになった。

残念ながら、とにかくこのサタデイ・クラブ出演が最後の現存する彼らのセッションだ。マンデイ・マンデイと多くのデヴィッド・シモンズのショーでのさらなるレコーディングは現存が確認されていないからだ。したがって悲惨なことに、アソシエイションのPandora’s Golden Heebie Jeebiesと、例えばPassing Cloud(レグとブロッサム・トウズのジム・クリーガンとの共作)が、完全に失われてしまったと考えられている。これらはアクションがレコード上に刻まなかったナンバーだけに、特にいらだたしいことだ。

‘Uptight And Outasight’に収められた12のセレクションのうち、2つのみがBBC音源ではない。これらはラジオ・マテリアルのいくつかが生き残ってきたよりもはるかに驚きの長寿ということになる。I’ll Keep Holding On、クリス・ケナーのLand Of A Thousand Dancesとスティーヴィー・ワンダーのUptightのメドレーは、なんと驚くなかれ、オープンリール・レコーダーでテレビから録音された。私たちは確かめようがないが、これはアクションが2回出演したリディフュージョン(Rediffusion:英商標/有線方式によるラジオ・テレビ番組の中継システム)の最重要TVポップ番組レディ・ステディ・ゴー(RSG)のうちのひとつだと私たちは信じている。このもっとも伝説的なポップ番組は、160回ものシリーズで放映されたが、ショッキングなことに、現存が知られているのは10にも満たない(その中でアクションが出ているものはない)。もしこれらナンバーが確かにRSGでのものならば、特別な重要性を帯びてくることになる。確かなことは、その時の出演が1966年に収録され、したがってそれはオリジナルの5人編成のアクションをフィーチャーしていたことになる。そしてUptightはまたしてもライヴのみのナンバーだということだ。

サークル・レコーズの見方によれば、3〜4年前、アクションのBBCレコーディングのコレクションなど、マテリアルの存在しない単なる夢物語に過ぎなかった。BBCに問い合わせても、アーカイヴに現存するマテリアルはないという答えが返ってくるだけで、思いがけないようなやりとりが行なわれることはなかった。こうしてその計画は腹立たしくも捨て去られてしまった。しかし評価の高い60年代後半のサイケ-ポップ・バンド、オーパル・バタフライのリード・ギタリスト、ロビー・ミルンが、ジム・マッカウェインのサイケデリック・ウェブサイト、マーマレイド・スカイに自分の昔のバンドの歴史をサイトに載せてもらおうとコンタクトをとった時、またアクションの計画が再燃した。私がロビーに会いたがっていることを知ったジムが私にコンタクトをとり、ミーティングの用意が整えられた。ミーティングの主旨は、ロビーが述べていた、サタデイ・クラブのような番組を当時よくオープンリール・レコーダーで録音していたという話だった。

私たちがバンドの名前を挙げ、詳細に話を進めていくうちにどんどんと熱中していき、彼はそこでアクションというグループが好きで、それを録音していたといった!ロビーが録音したCDRを私に送る前に、彼がさらに調査していたところ、1曲だけ発見したが(かなりクオリティの低いShadows And Reflectionsだった)、興味深いことに、CDRには彼が誰だか思い出せないアーチストの曲がいくつか入っていた。私が受け取った2番目のCDRには、Bad TimesとGoing To A Go-Goのタイトルのとなりにクエスチョン・マークがついた完全なトラック・リストがついていた。もしかすると前者はザ・ルーレッツかもしれないと思いながら、考古学的熱意を持った私は、興奮しながらそれを聴く用意をした。重い感じではあるが、スピーカーから飛び出してきたすぐにそれと分かるNever Everのオープニング・リフを聴いた時の私の驚きを想像してみてほしい。それに続いて、紛れもないアクションによる猛烈なGoing To A Go-Goが始まった!レコーディング状態は鮮明で素晴らしいクオリティだったが、残念ながらShadows And Reflectionsのライヴ・テイクは、それとは対照的にかなりひどいものだった。

ピート・ワイルドがリリース可能なものがないか、マイク・エヴァンス(アクションのベーシスト)に連絡をとった時、アクション自身が最近、過去の音源を手に入れていたことが判明した。マイクがいうには、彼らは3曲をまさしくほかならぬ(ジェネシスの)フィル・コリンズから入手していた。こうして私たちの頭の中にあった1枚のアルバムの創始(genesis―ダジャレを容赦してくれるなら・・・)が具体的に形をとり始めた。ピート、マイクそして私は、それぞれが持っている音源を持ち寄って聴くために、ロンドンのシャフツベリー・アヴェニューにあるポーキーのリマスタリング・スタジオに集まった。再びこのシナリオを想像してみてほしい―ジョージ・ペッカムのスタジオで、巨大なスピーカーからはなばなしくとどろき、私たちが聴いていた3曲が4曲になり、それから5曲になり、それから6曲へと増えていった。そしてマイクが何気なくこういう―「ああ、僕は当時こんなことをやっていたなんて忘れてたよ」!

10代の頃、熱心なファンだったフィル・コリンズは、テレビから録音した当時のナンバー同様、1967年7月のサタデイ・クラブ・セッションをまるまる忘却の彼方から救い出していた。フィルはグループが1998年に再結成したあと彼らとコンタクトをとり始めて以来、もっとも献身的な支持者となっていた。とりわけ、ロジャー・パウエルが喜び、驚いたことに、フィルは10代の頃、ロジャーのドラミング・スタイルに影響を受けていた。アクションに対して本物の愛情を持っているフィルは、彼らのリユニオン・ギグのひとつで彼らといっしょにプレイした時の名誉のことを思い出していた。66年から67年に彼が録ったオープンリール・テープがなければ、このアルバムの内容ははるかに乏しいものとなっていただろう。

さて、8曲の音源をもってミニ・アルバムの計画が立てられた。しかし他の全く思いがけない事件によって、このコレクションは現在のサイズへと膨らむことになった。素晴らしい本―‘Anyway, Anyhow, Anywhere-The Complete Chronicle Of The Who 1958-1978’の共同著者アンディ・ニールは、ある情報に基づいてBBCと接触し、アクションをフィーチャーした2枚のトランスクリプション・ディスクが会社のライブラリーに潜んでいることを突き止めた(数年前にサークルの行った調査は、明らかにふさわしい人物への接触ではなかったことになる)。すでにフィル・コリンズ経由のテープに入っていたI See YouとShadows And Reflectionsは、1967年のディスクに最高のクオリティで残っていた。さらに重要なことに、1966年のトランスクリプション・アルバムはその年初めて出演したサタデイ・クラブでの5曲のうち2曲がほとんど完全に保存されていた。アンディはまた、オリジナルのBBC契約書とアクションがそこで行なった仕事の全体像の詳細を記した書類を発見した。その一部がこのブックレットのライナーノートのために情報を提供してくれた。

さあ、残るはアクション最後の究極の目標となったこのCDを聴くだけだ(あなたがまだ聴いてないなら)。加えてこれはサークル・レコーズが素晴らしく過去を振り返った多くのカタログ群に、さらに追加される特権を与えられることになった。あるいは他のことよりも、このコレクションがすんでのところで実現しなかった可能性もあったことを、‘Uptight And Outasight’を聴く喜びを享受した時に、しっかりと心に留めておこうではないか―これは私たちが断じて聴くことができないと考えていたアルバムだからだ。

ナイジェル・リース、2004年7月
ロジャー・パウエル、マイク・エヴァンス、アンディ・ニールに感謝する


マイク・エヴァンスからひとこと

Tufnell ParkのDomeで録音されたこのCDのライヴ・セット(ディスク2)は、1998年のアクションのリユニオンのうちの2番目のギグだ。
これは60年代に僕たちがクラブでプレイしていた代表曲の数々だ。明らかに当時の僕らというより今の僕らのありのままの演奏だけどね。
こういう選曲になった1つの理由は、‘In the Lap of the Mods’のビデオを買った多くの人たちが、そこに入っていた曲を聴いて完全コピーしていたって話を僕らにしてくれたからなんだ。
だから初めてCDとしてこのセット(初めて演奏したのが2曲ある)でリリースするのが理想的だと考えた。

マイケル・エヴァンス、The Action
2004年9月16日
(訳注:マイクは2010年1月に亡くなった:享年64)



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