「てるてる坊主」 作詞 浅原 鏡村   作曲 中山 晋平

この歌は中山晋平が初めて作曲した童謡といわれていますが、それだけにさまざまな変遷を経て
現在知られている形になったようです。

もともとは
「赤い靴」と同年、大正10年(1921年)6月に作詞者の浅原 鏡村が編集を担当していた
雑誌『少女の友』に「てるてる坊主の歌」として発表されました。 当時は四番まであり、
もともとの一番のには、「もしも曇って泣いてたら 空をながめて みんな なかう(泣こう)」
などという、悲しいというか、気がめいるような歌詞があったので、大正12年の『童謡小曲第二集』では、
これを削除して二番以降が繰り上がる形で現在の歌詞が定着したとのことです。
浅原 鏡村(本名は六朗)は、長野県池田町にある造り酒屋に生まれましたが、父親が事業に失敗し、
叔母に預けられたため、ある意味で辛い幼年時代を過ごしたのだそうですが、そこに、この歌詞、
特に削除されたもともとの一番の歌詞の由来があるのかもしれません。

三番の歌詞に「そなたの首をちょんと切るぞ」とありますが、この歌詞をめぐっては
最近でも童謡としての是非が問われることがあります。
子供に歌わせるには残酷で教育上もよろしくないと言われる一方で、
子供にはそのような残酷なところもあるのだから素直に受け入れるべきだ、
という意見もあります。この意見で思い出されるのは、ゲーテの
「野ばら」です。
野中に咲くばらの願いとは裏腹に残酷にも摘み取ってしまう男の子の中には、
確かに素朴な残酷さが秘められている;人間の本性の中にはそのような残酷な一面がある、
ということを、ゲーテは言いたかったのか?ドイツ文学の世界でもいろいろと研究されています。
みなさんはどうお考えですか?

さらに、作曲的な観点から見ますと、冒頭の「明日天気にしておくれ」までの部分は、
わらべ歌風のメロディになっており、西洋風のドレミ音階として解釈することはできません。
それで、伴奏の先生方もこれにどのような和声をつけたらよいか、迷うことになるのです。
「いつかの夢の…」以降は西洋風の短調ですが、わらべ歌の部分とかけ離れた調性になっていて、
わらべ歌の部分に和声をつけてしまうとその後の部分とどうつなげたらよいか難しいところです。
しかし、実際にはこれこそがこの歌を名曲にしている理由だと思います。
和風のわらべ歌に、西洋風の感情豊かな音楽を組み合わせた「和洋折衷」の成功した例といえるでしょう。

ところで、てるてる坊主の風習は、雨の多い日本らしい風習ですが、
古くは、江戸時代の文政年間(1818-1831)に書かれた風俗辞典『嬉遊笑覧』の記述に、
《顔のない坊主頭の「てるてる法師」をつるして、もし雨がやんだら目鼻口をつけておまつりした》とあるそうです。
皆さんのご家庭では今でもお子さん達とてるてる坊主をつるしたりしますか?

大正10年(1921年)6月雑誌『少女の友』、その後改訂

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