Profile

              
          


自称「イーハトーブ生まれの日系ハワイアン」

                       台湾日本人会イベント(於太平洋SOGO文化会館)にて


 高校在学中に、文化祭で先輩が奏でるスティールギターの甘い音色に魅せられて、いつか自分もプレイヤーになろうと心に誓う。


 学業はチャランポランで団体行動が嫌いな、きわめて単純で身勝手な音楽好きの少年時代を過ごす。高校では選択科目で音楽を選択するが、動機は男女共学のクラスに入って女生徒と仲良くなりたいということだけだった。その結果、合唱曲「流浪の民」などの名曲を歌う羽目になり、人並み以上に?努力する。残念なことに三年間男子だけのクラスに編入されて女子の友人は出来なかったうえに、大嫌いな数学の教師が担任という悲惨な高校時代を過ごした。

 オルガンをはじめ楽器演奏はすべて自己流。メロディーを覚えては即興で演奏。レパートリーが増えるたびにコードとリズムの重要性を意識するようになる。アメリカのポピュラー音楽が好きだった。レコードを買うだけの財力もなく、ラジオに耳をくつけるようにして「S盤アワー」、「L盤アワー」などの音楽番組を聴いていた。


 ピアノでまともに楽譜どおりに弾けたのは「エリーゼのために」ただ一曲。「乙女の祈り」は途中で断念する。バイエルさえも途中で断念する。
 コルネットのレパートリーは、当時ヒットした
「オー・マイ・パパ」「皆殺しの歌(映画リオブラボーの挿入曲)」
 ギターのレパートリーは不思議なことに、
「湯の町エレジー」「影を慕いて」の二曲。



 1960年代 早稲田大学ナレオ・ハワイアンズのジュニアバンドでリーダーだったという平田茂雄氏に師事。ウクレレとスティールギターをマスターする。平田氏は「楽譜どおりに弾ければよいということではない。心で弾きなさい。まだまだ」と常々言っていた。華麗なテクニックの持ち主だった。


 銀座の
タクトにしばしば出現し、二階の最前列の席で大橋節夫やバッキー白片、大塚竜男等の演奏を覗き込んではアドリブ奏法やアレンジを研究する。その頃、大橋節夫の「倖せはここに」「グッバイ・ホノルル」にしびれる。
 タクトのステージは、ハワイアンのファンにとってはあこがれの場であった。

 勤務先の日活撮影所(東京都調布市)で
Tropical Hawaiians を結成して二束のわらじを履く。ダンスパーティー、ファッションショウなどに出演。レパートリーはハワイアンのスタンダードナンバーのほかに、当時流行したラテンを得意とする。共演したバンドに今は亡き往年の日活スター和田浩治(ドラマー)、青春映画に欠かせなかった名バイプレイヤー杉山俊夫杉山元山内賢、木下雅弘等の日活ヤング&フレッシュがあるステージを交代するときのワルツの選曲について彼らと打合せをしたことなど、忘れられない思い出である。田代みどりがゲストのステージもあった。その後TBSに移り、それをきっかけにバンドを解散する。



1980年代 台湾に渡り、台湾映画、TV-CMの特撮(合成)を担当する。




1990年代 台湾歌謡曲のカラオケLD製作(パイオニアLDC:現ジェネオン エンターテイメントのプロジェクト)でプロデューサー。仕事を通して眠っていた音楽の夢が目を覚ます。 



 歌手志望の少女
Michelle Tsai (蔡宜蓁)を十三歳から指導。十七歳の時にCD「草原之歌」を製作し発表。その後、琉球王朝高官の末裔で台湾在住の琉川いずみを指導。CDアルバム「島伝説」を製作し発表。



 音楽作成ソフトを駆使して、ゲームソフト、テレビCMの音楽制作を手がける。

 2000年代 台北にてハワイアンバンド Ricky Miya & Palm Hawaiians を結成。バンド活動とハワイアン教室を通じてハワイアンの普及に努める。



 子供の頃から好きだった1950年代から1960年代の欧米の映画音楽のハワイアン・スタイルによる再現を企画。自身の演奏によるウクレレ、ギター、ハワイアン・スティール・ギター、キー・ボードの音とコンピュータ・ソフトによるベースやパーカッションなどを多重録音する方法で、たった一人による制作である。
 この企画は
HAWAIIAN STEEL GUITAR MAGICというシリーズで進行中であり、Vol.1〜Vol.3まで完成している。

 

 2010年代 黄石楽器(台北市大安區和平東路二段96巷17弄1号1F)の音楽教室にウクレレ班を加えて、ウクレレとハワイアンの普及に努める。現在、教室は二ヶ所にあり、生徒数は常時20名〜25名。

 2011年8月には5名の学生によるウクレレ・アンサンブルの演奏を披露する。

 311東日本大震災被災者の為の心のケアの歌、人は時の旅人Mission Of Soul を創作して、南川 香と共に各種のイベントで歌と演奏を続けている。

 



友人たちの言葉

岩大附属中学校、盛岡一高同期の杉江恒人氏(東京銀座、杉江歯科医院院長)の言葉。「お前は昔から何をやらせても専門家顔負けにこなす器用な奴だったが、何でも飛びぬけたレベルまで達しなかったな。要するにほどほどだな。音楽でもそうなんだろう」

同じく同級生で日立市で内科医院を営む田村譲氏のエッセイから。「彼は教室のオルガンで猫踏んじゃったの曲の弾き方を休み時間に教えてくれた。僕が彼の音楽の一番初めの弟子になるのではないかと思う」

電通OBのプロデューサー野口裕喜忠氏の言葉。「私は音楽大学の声楽科出身だ。いくら器用でも君はヴォイストレーニングまでは分からないでしょう? 下手をすれば弟子の声帯を壊すことにもなりかねない。生兵法は怪我の元。すぐに止めなさい」


台北で知り合った林憲一氏(サイトyoyoimateの管理者)の言葉。「ただのご隠居さんかと思ったら大変なことをやっている人だったんですねェ」(しみじみと・・・)。


台湾における二番弟子山口隆氏(精神科医)の言葉。「神田川を教えてもらっているときにはこの先どうなるかと思った。何と言っても私が先生の一番弟子ですよねッ」 




尊敬するミュージシャン

  @ 大橋節夫・・・日本を代表するハワイアン・ミュージシャン。あの感性にはしびれた。残念なことに、2006年6月に81歳であの世に旅立った。タクトのステージでスティールギターを弾く姿が忘れられない。「赤いレイ」、「倖せはここに」、「グッバイ・ホノルル」などの名曲を残した。

  A バッキー白片・・・ハワイ大学医学部卒業後、音楽を諦めきれずにスティールギター一本をぶら下げて、日本に来たという。後に日本国籍を取得して、日本のハワイアンの発展に尽くした。1994年に82歳で亡くなった。さりげなくフラを軽快に弾く様子は今も目の前に浮かぶ。

  B イズラエル・カマカヴィヴォーレ・・・ハワイの歌手。彼の歌は世界平和を願い、ハワイの独立を願う美しくも悲しい世界と思うのは、私の感傷だろうか。1997年、わずか38歳の若さであの世へ旅立ったが、CDは売れ続けている。

  C ソル・フーピイ・・・ハワイアンの勉強を始めた頃に購入した古いハワイアンの音源を集めたLP全集でその名前を知った。彼の演奏するハワイアン・ギターはアコースティックで、アンプを使わないスティールギターの魅力に私はしびれた。この演奏こそがハワイアン!と思った。彼は1902年にホノルルで生れて、1953年に51歳でこの世を去った。

  D リリウオカラニ女王(1838〜1917)・・・ハワイ王国最後の女王。併合を意図するUSAに抵抗するが、幽閉されて廃位宣言にむりやり署名させられた。。音楽の才能に恵まれて多くの楽曲を作った。有名なALOHA OE は彼女の作品。1917年、79歳で波乱の一生を終えた。
 



ESSAY


                                                                                               

台湾を代表する映画監督・何基明と私   http://web1.kcn.jp/toyo/



 
 戦後の台湾映画の復興期、初めて民間の撮影所を創設し、劇場用35ミリ映画を監督・製作した何基明との日々の交流を記した。
 私が台湾に渡った経緯や当時の仕事にも触れた巻頭20ページのエッセイ。
 台湾映画ファンに伝説の巨匠・何基明の生き様を伝える貴重な文献になってほしいという願いをこめて書いた。この機会を与えてくれた東洋思想研究所の川瀬健一先生に心より感謝したい。



文中で紹介した映画「離魂」(但漢章監督作品)の特殊撮影現場・中央電影撮影所にて。





ライフワーク


ハワイアンによる草の根国際文化交流






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