☆Wolfgang Heichel



 「ヴォルフガングは『研削禁止』」

 今、僕はつらいんだ。いや、ジンギスカンの仕事仲間や、僕たちの過密スケジュールのせいじゃないんだよ。僕の苦しみは自分の歯科学の勉強のことなんだ。何人かの教授たちは本当によくしてくれたと思ってる。
 それというのはね、僕は4学期間(約2年)歯科学を学んだ。ついこの間、試験があったんだ。勉学を続ける権利を得る為には合格しなければならない試験が。正直に言って、僕はもう、勉強・勉強・猛勉強したんだ。僕は歯科医と契約して何日もかけて専門書を通読し、万全に備えた。
 そして試験の日が来た。言っておくと、この試験は僕の為に延期されていたんだ。その試験は、本当はエルサレムでのグランプリ出演の日に行われる筈だった。延期してくれるようにお願いして、しぶしぶながらだけど、認めてもらった。
 試験について、僕の印象では、どうも教授先生たちに「しっぺ返し」されたようだ。(試験を受ける)学生は三人いた。他の二人の仲間から問題を聞かされていたので、浮かれていたんだ。寝てたって答えはわかるさ。だけどその裏をかかれた。難しい問題だったんだ。そのためにカッとなってしまって、即座に不合格。それとともに僕は歯科学にアデューを言わなきゃならない。僕はもう決して歯科用ボーラー(研削機)を手にすることはできなくなった…。
 ひょっとすると君たちは、それで僕が悲しんでると思うかもしれない。僕は本当に、名誉欲が強いといわなければならないから。僕は、やるからにはすべてを完璧にやり遂げたいんだよ。学校の頃からそうだったね。僕は本当にガリ勉野郎だった。その上にギムナジウム(大学進学を目指す9年間の高等学校)では一番のスポーツ選手だった。学校も、大学入学資格試験も楽々だったよ。
 僕はドイツ民主共和国のマイセンで生まれた。だけど3歳の時に両親(僕の父は機械工学技術者だ)と僕は西ベルリンに移った。そこには16歳の誕生日ころまでいた。それからカッセルの近くのメルザンゲンに移った。
 もうその頃から歌が大好きだったね。母が今でも時々言うんだけど、僕が4歳のチビの頃、テーブルのまわりを走り回りながらVico Torrianiの歌を歌ってたんだって。8歳から13歳までピアノのレッスンを受けてた。
 そして、僕は「ビートルズ熱」にとりつかれた。本当にひょんなことからだったんだ。父がある日、ロングヘアの4人の変なヤツが載った新聞を僕に見せて言ったんだ「お前が、いつかこんな髪で走り回ったりするのは、見たくもないね」後で僕はその写真をもう一度見て、その4人がどんな音楽をやっているのかすぐに知りたくなった。そしてすごいビートルズファンになった。彼らの殆どの曲を、今でも暗記して歌えるよ。
 実際には、ティーンエイジャーの間は、一度もロングヘアにはしなかった。父に気がねしてね。父はすぐに床屋に行かせるんだよ。相当古いギターを手に入れて、自分で弾いていた。学園祭出演の為のオーディションがいい思い出だね。僕たちの学生バンドは皆17から18の奴らだった。僕は、自分の事を歌手じゃなくてミュージシャンだと言っていた。笑われるかもしれないけど、それを一度試してみたいと思ってた。で、僕はマイクをひっつかんで歌ったんだ。少年たちは唖然として僕に一目おくようになった。僕はその頃14歳だったから、当然すごく得意になったさ。
 ベルリンではその後「Black Birds」と「Inaction」というバンドで、学生集会所でやったりしてた。メルザンゲンにいた頃、ふと思った、ひょっとして音楽は天職ではないんじゃないかと。大学入学資格試験に向けて、第9学期に僕は美術教育法を学んだ。美術教育学部の学生になろうと思った。2学期(1年間)の終わりに、やめる事にした。無能な教師で終わるのじゃないかと、突然不安になったんだ。
 再び音楽に戻って、ベーシスト兼歌手として、グループ「Blue Heaven」でやることにした。僕たちは主にオールディーズを演奏した。スイスでの契約のためにすぐにそこに移った。たくさんの出演があった。

 スイスでのショック

 そのバンドが解散した時、自分自身のグループを作ろうと決めた。僕は自腹を切って途方もない設備を買って(倹約したり、化粧品写真のアルバイトをしたりして貯めた)、メンバーを揃えた。出演を決めようとして、大ショックを受けたんだ。僕たちはスイス国内では就労許可証を受けていなかったんだ。そう、僕たちは外国人だったからね。高価な設備やミュージシャンたちがいても演奏する事ができないんだ。損害をこうむりながら設備を売り払って、残ったなけなしのお金でミュージシャンたちを元へ帰したのさ。ついでに言うと、そのときのサックス奏者は今Udo Lindenbergのところにいるし、ベーシストは5000 Voltsでやってる。
 その頃、ヘンリエッテと初めて知り合ったんだ(僕たちのラブストーリーは2週間前のBRAVOを読めばわかる)。彼女は歯科医の娘だった、だから急にこの分野に興味が出てきたのさ。僕はミュンヘンで歯科学を学ぶ事に決めた。
 それと並んで、Christian Andersのバックバンドのギタリストとして契約した。僕たちはツアーに出たいと望んでた。ミュンヘンに来た時、驚いた事に、ツアーは取りやめになったことを聞いたんだ。だから、とりあえず僕は勉強に打ち込んで、その傍ら、Saragossa-Bandのようなグループで、スタジオシンガーとしてやる事にしたんだ。
 それに加えて、自分自身で曲を作ったりしてた。そのうちの一曲(僕がバンドでも歌ってた)がラルフ・ジーゲルの目に留まったのさ。彼とは個人的には面識がなかった。彼はすぐにジンギスカンの契約を持ってきた。
 今、やっぱり僕は音楽とともにいることになった。もう勉強はうんざりさ…。



(雑誌BRAVO 1979年39号掲載)