☆Steve Bender



 「スティーブとスキンヘッド――その秘密」

 やれやれ、いやもうね、歌手としての成功を手にするために僕が試してみたことといったら!僕はひっきりなしに名前を変えてきた。髪を肩まで伸ばしたり、パーマを当てたりした。果てはスキンヘッドにもした。だけどどうにもならなかったよ。僕は全部で17枚のシングルレコードと4枚のLPを売り出した。そこそこ売れたシングルもある。1977年に3ヶ月間アメリカのディスコチャートに入った「The final Thing」さ。まあそこそこに自慢に思ってる。
 今、僕はジンギスカンのスキンヘッドとして舞台に立っている。夢にまで見たソロ歌手としてのヒットではないけれど、今はヒット曲を出せた。だけどその一方、以前とは違った歌――ドイツ語で歌う曲――を歌うことになった。ドイツ語の歌を――正直に言って――今まで僕はバカにしていた。「ZDF-Hitparade」なんて今まで出たいとも思わなかった。今や僕たちはこの番組の常連なんだけど。だけどジンギスカンにいる僕はうまく行ってるって言わなくちゃね。以前は、レコードも売れなかったしステージもなかったから、妻と僕は切り詰めた生活をしなくちゃいけなかったんだから。
 さて、最初から話を始めよう。僕はマインツで生まれた。学校を終えた後は、塗装屋の見習いになった。そこには見習いが5人、職人が1人、そして親方(マイスター)がいた。僕たち見習いは何もかもをさせられた。その上しょっちゅう平手打ちされるんだ。6ヶ月間の見習いの契約だったけど、もう我慢できなかった。もうあんな仕事は二度としたくないね。
 その頃僕は熱狂的なエルヴィス‐ファンだった。彼に関するあらゆるものを集めていた。僕の母が(父は僕がほんの幼い頃に死んでしまってた)やっとこさ僕にギターと教則本を買ってくれた。僕は悪魔に取り憑かれたように練習に励んだ。
 僕は仲間とアマチュアバンドを作ることにした。僕が最初に演奏したのは「Black Panthers」というバンド。僕たちは黒づくめでステージに立った。服も何もかも黒さ。
 そういうステージによって、僕はレコード会社のカメラテストに呼ばれた。1965年の「薔薇の月曜日」(謝肉祭の前日)に、僕の初めてのレコードが出た。「Hey, Angelina」と「Afrika」さ。本名のKarl-Heinz Benderで歌った。全然売れなかった。バンドを変えて「The poor Things」で演奏した。22歳の時に運試しに、アメリカに渡ってみた。むこうに行ってすぐ、「The Soul Five」というバンドで演奏した。しゃれたバンドでね、メンバーで白人は僕一人だった。ほとんどが有色人種のお客の前で演奏してた。
 一年ほどアメリカにいて戻ってきた僕は、「Jeremy B.」という名前にした。僕は思ったさ「これはいいぞ!これだと外国風の名前に見えるだろう!やったぜ!」僕は2枚のシングルと一枚のLPを、殆ど自分自身の作曲と作詞で録音したけれど、今回もヒットを飛ばすことはできなかった。
 それから僕は仲間と二人でデュオを組んでみた。このときは歌が「Vater und Sohn」(ドイツ語で『父と息子』)だったから、名前も美しいドイツ語の響きをもつ「Karl Bender」にした。
 それでもうまくいかなかったから、またすぐにもう一度名前を変えた。今度は「Steve Bender」と名のった。レコードジャケットの撮影の時、冗談でスキンヘッドにしてみたんだ。その頃僕はアフロヘアだったから、その上にスキンヘッドのかつらをかぶったのさ。
 そして出演依頼が来た時、僕がスキンヘッドじゃなくてロングヘアだったから、ディスコの経営者を失望させてしまった。だから、僕は床屋へ行った。妻のエルフリーデ(ついでに言うと彼女はブロンドだ)も一緒に付いてきてくれた。髪の毛が落ちていく間、僕は殆ど泣きそうになった。ひどく恐ろしい風に見えたから。自分の車にたどり着くまでの100mも歩きたくなかった。だからすぐに茶色の髪のかつらを買った。
 4週間の間、僕は街に出る勇気がなかった。家にいる間に、だんだんと自分の新しい外見に慣れていくしかなかった。その上、いつだって首筋が恐ろしいほどスースーするし。このスキンヘッドのおかげで――いつも綺麗にすべすべにしておくために僕は一日に2回剃っているんだけど――僕のジンギスカン‐キャリアはこのスキンヘッドのおかげなんだ。スキンヘッド姿のレコードジャケットが、僕のプロデューサーのWerner Schuelerの事務所に掛けられていた。ジンギスカン発案者のラルフ・ジーゲルがある日突然事務所に現れてそのジャケットを見てこう言った。「こいつだよ!僕が捜していたのは」で、僕はジンギスカンに入ることになった。
 今、過去を振り返ってみて、僕はこう言いたい:それでもやっぱり、楽しい時代だったよ。毎日暮らしていくために多少のお金は必要ではあるけれど、暇な時間も必要だね。そう、今は忙しい。音楽は、とりもなおさず僕の人生そのものなのさ、昔も今も。それ以外に僕のできることはないんだよ。



(雑誌BRAVO 1979年38号掲載)