☆Edina Pop



 「エディナの刺激的な人生」


 化学の技術者になりたかった。高校の教師になりたかった。コンサートピアニストになりたかった。そして私は何になった? そこそこの成功を収めた歌手、そして今や全盛期のグループにいる「ちょっと年かさの」歌手ね。率直なところを打ち明けなきゃ、このグループに加入するのに、ちょっと不安だったってこと。私にとっては新しい世界だったの、だってこの10年ほどはずっと一人で出演していたから。私の歌と共に、私自身もまさしく忘れ去られた人気者ですらなかったわ。でも今は、ジンギスカンのメンバーといると元気がでるわ。この賑やかな仲間たちといると本当に楽しいし、もうそんなにもの思いに耽ることもなくなったの。
 では、頭の中にいっぱいプランが詰まってた、高校生のエディナに戻りましょうか。私はハンガリー人で、ブダペスト生まれ。父の職業は洋服屋でした。父は、私が勉強に励んで、よりよい職業につくように望んでいました。ほとんどの学生がいつも数学や化学のような科目に腹を立てたりしているなか、私はこういう科目に本当に夢中になっていました。私が住んでいたブダペストでは、白衣を着た女性化学者が、大きな仕事を指導しているのをよく知っていたから。
 その後、そういった科目か、音楽かの、高校教師もいいなと迷っていました。長い休みがあるから。
 コンサートピアニストが、その次の私の将来の職業の夢ね。6歳の時からピアノを弾いていたから。うまい具合に音楽学校へ進んだの。
 とうとう歌手への道を勝ち取ったの。私はきちんと、当然のように学校の合唱団に入ったわ。そして卒業試験に合格するまで(ついでにいうと、学校では一度も落第点を取らなかったことを本当に誇りにしてる)自分に言い聞かせてたの:このまま学生を続けていたら、相変わらず何の生活のすべもないことになってしまう。だから、歌手としてやってみることにしたの。
 声楽のレッスンを受けて、試験に合格しなければならなかった。卒業証明書と共に、実質的なデビューへの鍵を手に入れるために。私の故国ハンガリーでは、それはすべて国立のコンサート斡旋所が管理していました。私は歌手としてだけでは生活していけなくて、(最初の頃だけじゃなく)昼間は事務所の秘書として働いていたわ。舞台では主に国内での歌謡曲を、ハンガリー語か、時々は英語で歌ってました。
 1969年の初めに、友人の勧めで一度ドイツでやってみることにしたの。すぐに初めてのテレビ出演「Talentschuppen」のチャンスが来ました。当時はMichael SchanzeとJoy Flemingが出てたわ。見た目ではうまくいったわ、すぐにレコード会社と5年の契約ができたから。
 その年は、休みなくハンガリーとドイツの間を行ったり来たりしてた。そうしている間に私の故国でもスターとしてたくさんの出演があったの。ドイツにはレコードの録音のために。
 全部で15枚のシングルと、LPを一枚出したわ。ドイツでは「Starparade」や「Hitparade」のような、多くの番組に出演したのよ。私のよく知られた曲は「Carneval Brasil」、「Komm, komm zu mir」そして「Tomatenrote Lippen」。大きなヒットはなかったけど、嘆くしかなかったわね。レコードの契約が終わるまでに何とかしてヒットを出したかった。ポップ‐ミュージックをやりたかったから、死に物狂いで歌ったわ。この方面で2・3曲試してみた、だけどあわれなエディナ・ポップは何も得られなかったわ。
 あまりに悲しかったからもうそれ以上はできなかった。私は1971年に有名な俳優ギュンター・シュトールと結婚して、故国に長く帰らないという申請がいよいよ認められていたの。音楽はもう私にとってそんなに重要なものとは思わなくなっていたわ。私は幸せな妻になったから。
 だけど残念ながら、私の幸せは長くはなかった。1977年の初め、全く予期もしなかった心不全で、ギュンターが亡くなったの。私には世界が粉々に砕け散るようなものだった。気を取り直すまでには本当に、本当に長くかかったわ。
 今、ジンギスカンは私に同じレコード会社で働く、実際的な女友達をもたらしてくれた。それと、言っておかなくちゃね、私と、ジンギスカン発案者のラルフ・ジーゲルは以前一緒に仕事をしたことがあるの。彼は、私がいまや再び「カタツムリの殻」から抜け出したことを喜んでくれたわ。
 ひょっとしたら、BRAVO読者のご両親の中には、私のことを「めがねをかけた歌手」として思い出す人もいるかもしれないわね。近視だからめがねをかけていたのよ。ジンギスカンではもちろんめがねは禁止よ。でも心配はいらないわ、舞台から落ちたりしない。だって、周りにいる人たちが気をつけてくれるから。


(雑誌BRAVO 1979年36号掲載)