こうだからこう

このことは、永遠に連なっている、あるいは、連なる可能性をもっている、のか-

ここで、ある「こうだからこう」を援用しながらこの文を読んでいるのに注意しよう。

こうだからこう、は援用されるが、なぜ「こうだからこう」はこうして記述されているのか?

なぜ「『こうだからこう』は援用される」と記述されるのか?

こうした問いが生まれるのはなぜか?

こうした問いが一まとめに考えられるのはなぜか?

 

それは抽象の力によるもの、と大衆は答えるだろう。

しかし抽象とは、彩られたものからその彩りを取り除く作業、と言われるが、

この作業はなかなか円滑にいくものではない。

ここからは、抽象的なことを述べるのに、援用したものをいちいち記述していくことにする。

 

彩りが、取り去られる、といったものか。

彩りから無色までに、度があるとすれば、十分に具体性を持った援用先はどう解釈されるか。

彩りが無色になる瞬間、といったものがあったりするのか?

ここで彩りとは、修飾を意味するが、この言い回しだと、線と点からなる最小限のイメージ

に修飾を重ねていく、という事態を喚起しかねない。

そうではなくて、彩りは度を持たない

 

ある彩りが状況している場合、それは体系である、とは限らない。

体系とは、流れるものが流れていく(場合によっては表現する)可能であり、

その可能は、流れる点々が、互いを受け入れている(場合によっては

表現する)ということである。

 

彩りは、ある彩りとに分けられることもあるし、そうでないこともある。

それは、彩りは修飾に関して度を持つからであり、

修飾がある彩りを浮き立たせるのであり、

と言うのも修飾は彩りに関して一様に行われるはずもなく、

主題化する営みによって、ある彩りは修飾を増すのである。

 

分けられた彩りは体系であり、元の彩りはそれ自体体系でありながら、

ある彩りの体系を包摂することになる。

 

 

 

 

創造

 

 

 

 

流れることによって、体系は変容するが、それが可能性として体系

 

彩りという言葉によって、色彩の宴を想像してはいけない。

具体性をもった援用は、体系性に固められ、動かすことが難しい。

この場合、記憶と呼ばれるもの一般において考えた。

ここでの第二の課題として、概念と呼ばれるものを、それが自然的に現れるまでは

自明のものとしないこととする。

 

ある彩りが、彩られる限りにおいては、そこでは十全な具体性?に満ちている。

彩り、具体性とはなにか。

 

援用されるのは、イメージであって、空間ではない。

空間は、抽象的である。

 

 

こうだからこう、の後のこうは、前のこうよりも上であるのか。

 

 

すると、前の「こう」はユニーク性を持っているが、あとの「こう」にまでその

連関が及ぶのだろうか。