あらゆる過去は、今この意識した瞬間に、陳列されていて、果たして事実であったのか?

この意識した瞬間と言うが、この瞬間になにか大いなる自然の営みが、意識に知れず

営まれているのはないか?

 

ある概念を見直し加えられた手を除いていくことには、二つの手段が用意されている。

第一に、その概念に付きまとう日常性を、取り除くことであるが、

その際なにがどこまで日常であるかは、その説明が日常性を完全に剥がれた概念によって

なされる。

第二に、手元にある材料から、概念を言わば組み立てなおすことであるが、

それが既成の概念との一致は、基本的に行われない。

手元の材料が既成性を持っていないのであれば、そこから組み立てられた概念は

日常性を脱す。

 

しかし概念「である」「これ」が、日常そのものであるので、概念が日常性を脱す、

という言い回し自体誤っているのかもしれない。

しかし非概念化が行われて、得られた産物に、名前をつけることは許されよう。

 

しかしながら、ここで、概念という言葉に捕われすぎてはいないだろうか。

概念が、その指示する内容を持つとき、内容は傾向される。

すなわち、意味性、外延性などに。

 

ここでせっかくなので、意味性と延長性についてちょっとした話をしよう。

 

^嫐とは、概念に先立ってあるものだろうか。

普通、概念は概念によって説明される。しかし、概念とは、概念の連なりとその接合子とによって、

完全に表現されたことになるだろうか。

ここで、概念とは必ずしも言葉を意味しない、とする。

その説明に、印象を喚起せられるよう要求する概念を含む概念もあるからだ。

通常、説明のための概念に対して抱く、印象が、概念間の接合子を緩め、概念は概念と溶け合い、

こうして一つの概念が説明される。

では印象とは何なのか。それは言の葉に昇り辛いものを強引に押し込めたものの総体でしかないのか。

ある概念には、印象が付きまとう。

それが十分直観だけによる使用が難しいとき、それは「難しい」と思われる。

この「難しい」は、概念のそれによって概念が説明されるところの概念の、

引き連れる概念の多寡に対応して、度を持つものと考えられえる。

しかしながら、「十分理解している」と言われる時の、「難しい」印象を取り去った先には何が残るか。

そうした概念は、ふつう概念に対応するのではなく、直接見聞きが可能なもの、感じられるものが

基となるが、直接可能、とはまたひと議論を呼ぶからして、私の考えを述べるに留める。

印象は、漂っている。

これが私の考えである。

人には複数の世界をもつ能力があって、印象が漂う世界もそのうちなのである。

しかし、青い花、というとき、その青さの印象と、また青さ形状その他もろもろの花という印象とは、

同一の「印象」という世界には存しない。というより、「印象」という世界は、ない。

しかし、また「印象」という世界は、あることもできる。

これは世界への視点に限ったことではないが、ある外延があって、そこに何々が含まれ何々が含まれない

といった規定は、様々なパースペクティブに拠る。

人は、現象ごとに異なるパースペクティブ、それに拠る世界をもつ。

人は、そのつど現象ごとに異なるパースペクティブ、またそれに拠る世界である。

そうであるから、「青い」と「花の持つ印象」とが、それぞれパースペクティブであるとき、

それは恣意的と呼ばれる。

それだから「青い」と「花の持つ印象」とが、同一のパースペクティブであるときも、同様である。

パースペクティブとは、直観によって明らかなように、無限に存する。

人がある印象であるとき、またあるパースペクティブであるとき、印象はそのようにあって、

漂う「そのよう」であって、ここで「漂う」という意味は、印象に人が溶けて、

まったく印象のあるままにある、ということである。

人を構成する現象を推し進め、時間を進めるものはなにか、これはやがて明らかにされるだろう。

 

延長性

抽象概念としての延長性、というものがある。

これは例えば「思惟の多くをなになにの感情が占める」、だとかの場合に、広く現れる。

カントやベルグソンが説くように、時間や空間が思惟において除き去ることの出来ないものだと

する説を認めるならば、延長性とは、ものを考えるとき必然に抽象概念を具体的イメージに置き換える

作業そのものだ、ということになろう。

 

さて、カントが行った作業を逆に進めてみる。すなわち、純粋形式としての空間、

そんなものが有り得ないとするならば、せめて有色の空間−から、取り去られたものを

徐々に足していく。木があってもいい。

木は空間の延長性と矛盾しなければ、いくらでもそこに置き得る。

これが、装飾である。

日常とは、十分に装飾はされていないものだ。

される必要もないわけだが、こうして事実、日常に装飾した空間を思うことが、装飾化である。

装飾は、なべて思惟のうちで行われる、とする。

日常とは、具体そのものではない。

と言ったからといって、ただちに観念論に結びつくわけでもない。

日常は、人のその都度のあり方そのものであって、それはこうしたイメージに装飾されていたり、

事象的に装飾されていたりする。

 

その都度の在り方とは、人がある印象であったり、ある感情であったりするパースペクティブである。

そしてその総体としての全人格が、実現することは不可能である。

 

人とは、その時その瞬間の世界そのものであり、記憶を携え、それはあるパースペクティブの

移ろいで「あった」と分かっている、と示されている。

その過去のパースペクティブを踏まえ、今ここに「意識」で在る。

 

意識とは、示された記憶や世界の、世界中の諸物、諸現象のある延長的位置、抽象的位置

の正当性そのものである。

つもり、これそれがここそこにあって正当だ、ということを、その位置において確認することである。

それだから必ずしも現実(さしあたりこういう通俗的概念を用いるが)と一致していなくとも、良い。

それにはいくらでも装飾が可能であり、また抽象化も可能である。

木が、地面から生えている、という認識は、まさに木が現実においてそうなっているから、

そうされているけれども、そうでなくとも良い。

延長と延長が没入し合うということは、いかにも複雑なイメージになるけれども、

それは論理に反しない限りで、あって良い。

ここで論理とは、物理学のそれや、記号論理学のそれを意味しない。

なんとならば、延長と延長が没入し合っているような絵画の存在が示されているのだ。

手元の概念の分解・結合・融合等の操作によって、無限に可能として示されている現象が、

意識において可能である。たとえそれらが、意識において姿を見せないとしても、働いている

場合がある。それは過剰装飾と呼ばれる。

 

準具体的と、純具体的とを、分けることができる。

それは、後者は唯一の現実として「示されて」いるものをそのまま受け取る実存的態度、であり、

前者は、示されている現実を、示されている過去から引用し、再構成した装飾または抽象を、

多少なりとも含むものである。

いずれにしろここで問題となるのは、準具体が論理的であることに変わりはない、ということだ。

論理的ということは消極的には、前後がなくとも良い。

しかしこう言うことは、言語以前の内容の存在を示唆する危険があるが、ここではそれを認めることとする。

言語は、諸指示からなり、その指示のうち具体を戴く一切の指示を遮断したものを、言う。

言語とは、決して唯一無二の内容からなるものではない。

むしろ言語とそれ以外、という分断が恣意的であって、言語はむしろ色々な具体の現れの仕方の

一つに過ぎない、いやそれですらない。

なんとなれば言語とは、膨大な指示群の制約化であるからだ。

 

また、「論理的」とは、「関係性」ですらない。

関係性とは、その形式は、「何々の関係」あるいは閉じた「関係する」であるが、

前者の場合、何々は複数か単数かが問われる。しかしこの問われは、変容が可能だろうか。

すなわち、一つの関係、と言うとき、その一つの主題のうちに、複数があるし、

多数の関係、と言うときには、関係自体が主題となるが、とすれば、

関係の数的変容は全く不可能ではないのか。

一つが関係してるときと、複数が関係しているときとは、その意味内容が全く違う。

しかし、現実に、そのような意味の変容は、こうして現実にイメージにおいてなされる。

すなわち、複数を戴く主題が、分断され、その分断した諸物の間に、関係という半透明の液体が広がる。

とすれば、関係の変容とは、イメージにおいてのみ可能であり、イメージにおいてのみ論理的なのだ。

 

ある論理形式によって、過去が示されている。

それは、木は一本であると示されているだけかも知れないのだ。

また、木の構造は半ば出来上がっているのに、イメージに現れない、といったことも考えられる。

逆に、イメージに現れているのに、構造上十全でない、といったこともあり得る。

装飾が足りずに、あるいは装飾が非現実的で、木が解釈できない、といった場合がそうである。

では「構造」が論理的なのか、もちろん違う。

構造が十全でないのにイメージに現れることは先に示した。

かと言って、イメージが論理的なのでもなく、それは、イメージの背後に営まれる構造があるからだ。

 

じらさずに、言おうか。論理的とは、以下のことである。

あらゆる可能な要素が、あるとする。それらは大半、背反による不可能によって淘汰される。

しかし、その背反が止揚された形で要素にもなりうる。

あるいは、逆に、背反がそれ以前の一律にまで落ち込み、それが要素になることも、またありうる。

むしろこうしてみたとき、なぜ要素の淘汰からなるものがそれぞれユニークを持つのか、が不思議である。

それは、そのあらゆる位置があらゆる位置に対して持つ関係であり、

位置とはやはりイメージ性に置き換えられるとするならば、それは「意味の位置」にまで拡大解釈できる。

さしあたり空間体として示されている「意味」から点々を剥ぎ取ることにより、一つの構造ができる。

しかしながら意味の隣りの点、とは、到底三次元で表されるものではない。

とするならば、イメージによって全ての事象を説明するのは不可能であり、「記号」が登場する。

記号とはそもそも、イメージであり、意味を持ったイメージである。

それならば、なぜイメージである記号が、イメージ以上のことを語れるのか。

 

記号はイメージに対して、自ら無責任である。

こう言うのは記号自体イメージであるからであるが、なにが記号という性格を帯びるのか、

それは、己のイメージに対し、自らイメージという責任を逃れる、これである。

そうすることで、記号とは、描かれうるあらゆるイメージ的意味を、超越する。

しかし、このような現象学的解釈によっては、これは自我の分離ではないのか、という疑問も起こってこよう。

 

 

しかしながら、完全に記号によってあるものを理解したと示されたとき、

それが理解となるのは、イメージの

 

しかしながら、木の要素とは、決して任意でもない。

多くの可能性からその形状、色彩、本数、を守っている努力が、感じられる。

なんとなれば、それらはそれら要素において変容しない理由がないし、実際変容する。

努力する理由もないわけだが、分かりやすさ(都合のよさ)、といったものもあるのだ。

なべてイメージは、都合の良い方向に、変容する。それは抽象化であったり、逆に装飾化だったりする。

 

 

示すものはなにか

多くの作用のうち、その主体者や対象者を除き去った記述が、現実に可能である。

 

多くの概念のうち、最も皮相や疑念や曖昧や誤謬に彩られた、「意識」をまず

解体する。

解体が一度成功したならば、それが哲学の出発点となって、我々を自然に導いていくはずなのだ。

 

 

意識とは、あるものが、別のものである、ただそれだけのこと、とする。

幾何学的に、2つの点があったとしても、一方が違うもの「でない」と、2つの点にはならない。

あるものが別のものである、と言うとき、あるものは他者を必要としない。

そのあるものは、他者があろうとなかろうと、完全に別のものであって、それは一つの意識である。

 

他者がない場合、あるものは、自らにおいて自らを見出す、そして自らを自らから別する−

と言うのが多くの者の考えだけれども、そしてさらに−

見出す自らを見出される自らと区別するため、見出される不動のものとしての自我と、見出す

者としての−従来の意味での−「意識」、を想定した−のである。

 

しかし従来においては、他者がない場合、あるものは自我を「意識」して他者としている、

この「意識」と自我との別離を防ぐため、「わたし」という観念を生んだ、生みざるを

得なかったのである。

 

本当を言うと、他者がない場合という恣意的な場面において、あり得る具体性をすら

援用してみると、部屋の中に佇む存在、というイメージが得られる。

部屋はその特質として、四方を囲まれ、完全に塞がれた状態にあるとする。

これこそが十分に具体性を持ちつつも、その中で哲学が繰り広げられるべき

フィールドなのである。

それはアプリオリに空間的に、とは言えず、むしろこの部屋から空間の観念が得られるような、

無規定な、それでいて恣意的ではあるが十分な具体性をもった、そしてその中で現象が

起こされるのに適している、そんな部屋なのだ。

 

恣意的でないフィールドなど存在しない、しかし哲学は最小限の恣意性のうちで営まれるべきだ。

恣意的であるのは、哲学の一般性への羨望ゆえであるが、また一般性と具体性は、

背反しあうが、その中でも、真の哲学は、一般と具体の間に存する現象らに、

自在に適応し得なければならない。

 

さて、この部屋で、あるものが、意識である、とする。すなわち、あるものは別のものである。

部屋の中において、その床や天上の区別さえない立体の中において、あるものは別のものである。

このとき、部屋は意識するしないに関わらず、特別な意味合いを与えられている。

すなわちそれは、囲む。

 

 

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