音楽史を紐解いてみれば、彼はいつも絵画や文芸のイズムを追いかける形で、

その衣装を次々と取り替えてきた。

そんな彼らにも20世紀初頭に決別が起こる。

それはシュールレアリスム運動であり、音楽はシュールするだけの

レアルを持たなかったので、自ずと抽象芸術への共通の大きな流れのなか独自の動きを

見せるようになる。

 

フロイトの掲げた夢の2大定義、「非論理性」「象徴性」、

後者は数多の実験により疑うものは少なくなったが、その批判的吟味及び、

前者に関しては、この現在我々が参加している世界の論理を絶対とみる立場に立っている

ことに由来する誤謬への批判、これをこの発表の第一段階とする。

 

果たして、人間を取り去ったところにはなにが残るのか。

カント以来、哲学者は観念論から解脱することに腐心してきた。

しかし世界ー感覚ー心という構図を先入していれば、観念論に至るのはむしろ

当然であって、これを回避するには、この構図の破壊を第一にしなければいけない。

「最初のものは更新される」メルロ=ポンティ

フッサールはエポケーをもって「最初」に至ったと信じた、だが我々はもっと多くのものを

疑っていって、すると行き着く「最初」は、意味の網である。

メルロ=ポンティの科学哲学における積極的な意義は、我々が物に与える「意味」

及び物相互の「意味」を説いたことであった。

与えるべき意味がまずもってなければ、我々はどうして物に意味を与え得るのか、

と前者に対してはこう言おう、すると後者の物ー物という構図においても、彼の説いた

延長的な意味だけでなく、質的な意味が必然する、ということになってくる。

 

ところで、物ー物の構図には二通りあって、それは、お互いがスペクトルできるもの、

そうでないもの、の二つであるが、これは何よりも先に論じられねばならない。

ここでいうスペクトルとは、その物理的意味から漸次変化という部分だけを抽象した

ものをいう。すると、物と物には、スペクトル関係、つまり、隔たりがない関係、と、

そうでない関係、がまず区別される。

物が二つある状態、これはすでにお互いに表現であり、お互いが表現であり続けるには

一種の緊張がなければならない訳だが、ここでもその緊張が、スペクトルから導かれる

場合と、隔たりから導かれる場合とが区別される。

ここで区別という言葉はそれが論じられる前にどうしても使わなければならないのであって、

さらに物と物とは、互いに意味が異なるのでなければそもそも存しないのであって、

ここで従来の哲学に、我々は絶望しなければならない。

 

しばしの絶望のうち冷静に帰って、これら3つの論を同時的に進められないかと思案してみて、

ここで我々は喜びの絶頂に達する。

その可能は、時間軸を取ってみれば確かに我々の悟性では得られないけれども、

得られたテーゼの同時性を吟味してみれば、音楽における対位法のごとくテーゼが

絡み合い、時に離れ、時に寄り添いつつ進行するイメージがそれを導く。

 

物表現以前の意味がスペクトルするにしても隔たるにしても、

この両方法自体は隔たりとスペクトルとの両方法による。

それは、スペクトルという方法が、徐々に近接という意味をスペクトル的に欠いていって、

やがて隔たるという方法に至る、というのではなく、

そもそも隔たるとは、隔たりがまずあるのでなければならず、「そうではなく、

なにかあるものが2つあって、その2つがまさに隔たりを表現しているのだ」、

と主張するものがいたとしても、そうすると、その2つが隔たりに先立つことになり、

隔たりを語ること自体、恣意的だ、ということになろう。

それだから普遍的な隔たりがまずもって敷かれているのであるが、

この隔たりに物が布置されると、それはそれ以後何が隔たりに布置されようと、

絶対に何からも隔たっている、という保証が生じる。

 

この方法論的隔たりと方法論的スペクトルとが同居する、という意味は、

隔たりの持つ性質が多寡を持つ、つまりスペクトルする、ということに他ならない。

隔たりは、その上に据えられた2点をスペクトルすることを許さない。

これはその2点の意味がどうあれ、それらが隔てられなければスペクトルするにしろ、

一度隔てられたならば、当然起こってくることである。

スペクトルを許さぬ、これは2者の意味の遮断を意味するが、本当を言うと、

延長的意味の広がりが、つまりは意味のスペクトルが、隔たりに据えられたとき、

意味はその延長性において無限の分断可能性をもつものであるから、

これを隔たりは意味に従って分断を維持することを強いられ、とすると、

隔たりは知識者であるか、あるいは第三者的な「にとって」が存するか、いずれかであり、

しかしここで、分断とは一定に落ち着く必要は必ずしもなく、その落ち着きは

今や副次的な時間に委ねられるとした場合、

隔たりは分断の作業そのものであるか、あるいは第三者的な「にとって」がそこにおいて

分断する場であるか、のいずれかである。

隔たりとは、もし第三者を前提しないのであれば、意味を絶えず延長付けながら、

それを無限の仕方で分断する営みであり、その性質の多寡とは、意味を延長付ける際の広さ

であるというのは容易に理解できるにしても、、

それを分断する際の意味的形状については、そもそも多寡という言葉が二元的であってみれば、

理解は不可能である。

そこで、多寡とはスペクトルのことを言っていたのであるが、

これを改めて定義すると、スペクトル上を移動するものは、

空間座標によるイメージを受け付けず、ただ漠然と、今ある所から、

広がりを展望し、さらにその展望は、

把握可能内においても、把握がこれこれの努力でこれだけ可能である、

というスペクトルを持ち、またあるさらに遠い展望では、スペクトルが断絶し、

それ以降は展望内の諸物を様々な要素に抽象したその抽象を、

並べ立てていく想像のみが存する、という事態の、把握の漠然とした広さの大小である。

スペクトルは漠然とした広がりであり、意味の延長付けとは、その漠然とした広がりの

漠然とした了解であり、その分断は、分断された意味が点のイメージに

還元できないとすれば、展望の外に広がる抽象的な領域に沿ってなされる、ということになる。

ここで展望とは、第三者ではないのか、という疑問が当然挙がってこよう。

しかし展望にしろ、第三者にしろ、それはとりあえずは原初的な意味であり、意味を鳥瞰する

仕方であり、その仕方が意味であるのは、まさにそれが仕方であるからである。

 

仕方は意味であるけれども、その仕方の仕方が意味であり、仕方の営みそのものでない

とするならば、「意味を営む」という第二の世界が当然立ち現れてこよう。

一つ営みが営まれれば、当然その営みの意味のスペクトルも、

営みとしてのスペクトルをすることになる。

仕方の以外の意味、もまた営まれる。

それは、仕方によって全て意味は取り扱われ、そうして取り扱われた意味は、

もはやスペクトル上の延長に留まることをしないで、論理に組する、という営みに

入り込むからだ。

 

 

・現象学批判

 

なべて意味は、志向されたりすることで営まれるが、

ここで現象学にそれが包含する誤謬を指摘すると、

必ずしも志向が何かについての意識である必要はない、

それは志向という営みの意味が、その営みに先行しているからである。

またさらにここで現象学の批判に時間を割けば、

世界を超越して考えるとは、そもそも営みに組しているものには権利されず、

というのは、営みの停止(エポケー)をしたのだ、と言うが、それには、

まず全体を思い続ける必要があり、それは、あらゆる営みを全く無視することは、

停止をし続けることが十全である必要があり、その不可能は、

ある意味を停止をする緊張は、営みによって常に翻弄されるからである。

思い続けることは、決して十全ではあり得ぬのだから、それというのも、

ある全体とそのうちの諸関係を一気に把握できる

事態が存するとしても、諸関係は常に更新されるのだから、

換言すれば、諸関係は営んでいる時間の部分であるのだから、

全体を思うとは、永遠に継続することを強いられるのである。

 

また、営みを停止している、という事態を営みの外に求めねばならず、

つまりはエポケーを営みと認めない盲目が必要であり、

こう問われることに、耳を永遠に塞ぐ頑固さが必要になってくる、すなわち

「エポケーの構造と、普遍的な営みのとしての停止の構造との相違を述べよ」。

停止とは、ここではさしあたり、営みのなかで、

「意味」を「『このように』実現する」、ということであり、

それは、「『そのようには』実現しない」ということを意味するが、

停止という概念には、この言い換えが可能でなければならず、

その可能は、実現される「意味」に、実現されない「意味」が伴う、

だとすれば、意味は別のスペクトル、それも、実現されているスペクトルとは、

少なくとも「営み的」に相成れないという「意味」を帯びたスペクトルが、

実現という営みと平行して「参照」されねばならず、参照とは営みであるから、

実現とは参照を伴った、二重の営みである。

 

・論理と時間

 

主題された意味があったとして、全ての意味はその意味から直接的・間接的に連関するが、

ここで間接的に連関するとは、あるより主題に近接する意味を経由する、ということで

あり、そうしていけば確かにその主題的意味は全ての意味と連関する、が、

経由元スペクトルと経由先スペクトルがスペクトルしているのだったら、

初めから経由などという作業は存在を認められない、だがこの概念の必然性は、

意味とはスペクトルだけでは説明できない点にある。

意味の布陣とは、定まったものではなしに、その主題が設定されたとき、

スペクトルが放射し、間接が爆発的に形成され、主題スペクトルとは異なる意味にも

とめどなく連関していく。主題的意味がやはり徐々にメタモルフォーゼするのは、

やはり仕方の原理であり、そもそも意味を主題する可能は仕方にあり、

この仕方の特権は、意味としての仕方、に仕方が留まるのではなく、

しかしその意味が、その原初からして、意味の重なりの極であり、

ここで極というのは、意味を無限に伴う意味というのは容易に想定可能だけれども、

そうではなくて、あらゆる意味の閲覧の可能をもってそう言うのであり、

ここに主題化する営みに、他のあらゆる営みに優れるものが見出されるものである。

 

仕方によって、これまで原初だと思われていた意味布陣がメタモルフォーゼするが、

仕方はその変容する意味布陣において、膨大な意味を抱えることもできるし、

ある意味だけを取り出すこともできる、その可能は、

いずれにしろ、仕方によって扱われた意味群は、それだけで完結するものであり、

それはいちいち論理性をもった世界である。

理論的には、我々がそこにいると信じる世界というものは、

仕方による世界の一仕方に過ぎない。

それも、ただの妄想や、世界の一部の眺めや、夢や、純粋な図形、

などといったものの区別がすでに世界の無限を示唆しており、それらの世界は、

それだけで可能である、という可能を、「論理」に求めるものである。

 

論理とは、意味のスペクトルではない、それはもちろん、各世界が意味を顕在し、

それがまさにスペクトルの断絶、およびスペクトルの破壊を意味するからであるが、

では、それはその世界を完結せしめるまさにそのものである。

しかし世界の完結とは言っても、世界は柔軟にその様相や延長を変える、

様相を変えることの意味は、ある意味布陣において、顕在していたものが潜在し、

潜在していたものが顕在する、ということであり、より詳しく言えば、

その世界における顕在が、今まで顕在せしめていた意味が潜在スペクトルにおいて

メタモルフォーゼした意味を、照らす、ということであるが、

なぜそういった事が起きるのか、それは論理と時間の問題に委ねられる。

 

意味は表現される。表現とは、分かれることである。

分かれることとは、隔たることである。

なぜ意味は分かれるのか、分かれるということが、表現を形成し、

それが仕方の開始の論理に適っていれば、その意味の営みを開始する、

ということであるが、さしあたって純粋な「仕方」の視点でこの問いに答えるならば、

仕方は、空疎を取り扱い、空疎な「取り扱うもの」を当然可能性しているが、

空疎を取り扱う仕方が仕方によって異なり、

同じ顕在可能性をもった空疎を、それぞれ仕方する、その不可能は、

仕方が何ごとかを仕方するのが論理であり、その論理の実効が時間であるが、

つまりは仕方は扱うものが空疎であれ、すでにその仕方の構造、つまりは可能な

世界を、素描しているのであって、ここに世界が仕方の数だけあることになるが、

取り扱われる空疎は、既に仕方によって二次的に意味づけられている、

それだから「同じ空疎」、という表現自体が仕方の次元においては許されない、

ということによる。

それだから埋められる空疎は、前もって二次的な意味を与えられ、

意味布陣から仕方による取り扱われへの移ろいの中、絶対的に隔たりのうちに

隔たっていなければならない。

 

しかし必ずしも意味が空疎を表現として埋める必要性は見出されないのであって、

道は3つあり、仕方は表現を要求はしない、仕方は表現を要求する、仕方の要求は任意

である、の3つであり、我々としては後2者を排斥する態度を取ってきたのだから、

ここでも前者に従うことにしよう。

 

ところで、意味とは、仮に表現されたとき、必ずしも顕在可能ではない。

それは、それが表現された仕方に表現できない状況にあったり、

他の意味との同居が適わない状況にあったりする。

前者を仮にあり得ることにすると、意味の布陣と仕方とはある統一に

それぞれ部分しあってはないことになる。

ここで、仕方の起源が、吟味されねばならない。

仕方とは、まずもって意味であった。しかし、仕方とは、確かに意味ではあったけれども、

意味を欠いて在ってもよいのではないだろうか。

先に「空疎」を説いた。空疎があらかじめ布陣していて、それを次々と延長的に埋めていく、

この考え方の問題は、空疎を埋めるものを前提してはならないことであり、

また、意味が布陣していて、それが次々と表現されていく、

この考え方の問題は、意味が表現される必要性のなさにあった。

しかし考えを進めると、空疎は、満たされる可能性を持つから空疎であり得るのであり、

従って満たされるものを要求できる。

空疎は意味であり、またこれこれの意味に満たされる、ということを意味の布陣に求める。

空疎は普遍的であり、それだから意味を、また表現を、要求する。

要求された意味は、空疎という個に埋まるため、表現とならねばならないが、

空疎が普遍的ならば、求められる意味とはなにか。

 

空疎は満たされるものがある、つまりは空疎があって、それが満たされる、

というのが従来の意味で論理的だけれども、本当を言うと、論理とは、同時性の不可能性であり、

それを可能にするのが、時間なのである。

空疎の充填の表現、それにかかる時間はその空疎に意味するあらゆる意味によって定まる。

しかし仕方が、メタモルフォーゼするものであってみれば、空疎に意味する意味は、

あるいは増し、あるいは没し、すると、空疎が満たされる時間は、メタモルフォーゼする。

さらに、そうしてメタモルフォーゼした世界に居場所を追われた表現は、空疎と化す。

しかしその空疎は、すでに仕方に意味づけられた空疎だから、二度と表現はしない。

空疎は表現に埋められる、表現は空疎を埋める、その必然は、

空疎は仕方の変容にいつか埋められる可能性を持っているし、表現は仕方の変容に

生まれる論理的要求を叶う、それら全ては世界として実現「されている」、

それが内包する論理的矛盾が、時間によって、論理的に「実現」「されていく」、のである。

 

・音楽におけるシュールレアリスム

 

ここから以上の論を前提しつつ、芸術の話に入ろう。

世界、とりあえずは私-感覚-思惟にとっての世界−これも一つの仕方なのだが−

があるとして、そこに楽曲がある。

楽曲は、それが作られた私にとっての作者、私にとってのその家族、観念的なその誕生、

観念的なその歴史、観念的生命、観念的宇宙、と、

とめどなく延長的・内容的に意味づけられている。

これらを全て遮断した楽曲だけの世界と、私-感覚-思惟にとっての世界とは、

時間の進行が異なる。

後者において、音の波が、世界に引き起こし、それは引き起こされる以前の音の波と

いう意味から居を追われ、同時に世界及び世界中の全てのオブジェクトが引き起こされる

以前から居を追われ、この追われ方が、論理であり、追われが、時間である。

これに対し、閉じられた(さしあたって演奏されている)楽曲の世界では、

ある音で完結しても、それはそれで論理的だが、音は、観念世界におけるよりも、

ずっと小さな意味を担っている、それは観念的な意味が全て音から遮断された

からであるが、その小さな意味で、論理的でなければならない。

 

ここで、ベートーヴェンの「運命」を引用する。

ベートーヴェンは、原初においては人間的であり歴史的であり…と無限にスペクトル

している意味の多重にすぎない。

それが最低ベートーヴェンとなるのは、人物や歴史が表現されたとき、

論理においてある人間が、延長的に、意味的に、ある人間に重なることが

不可能であったため、彼はベートーヴェンである必要があったからである。

さしあたってベートーヴェンを構成する人格等を、かの運命の動機を残して

捨て去る、換言すれば、表現しない、となると、運命の動機は、

捨て去られた後に残る空虚のみならず、ベートーヴェンの思惟、記憶、その組する

歴史等の、連関すべてをも、そのうちに担うことになるが、これら今や空疎と化した

延長をどこまで担うかは、もっぱら「世界の終了」による。

終了とは、空間的、時間的、及びそれらの折衷だけで語られるものではなく、

例えば物理学で扱っていると信じられている世界は、どこまでも膨張し、

いつまでも膨張縮小を繰り返すとは言え、そのあらかじめの論理で、終了している。

 

楽曲を創るにあたり、運命の動機が担う意味連関を、全て欠落させてしまおう、

すると残るのは、運命の動機が持っていたフッサール的意味での志向性であって、

動機は、楽曲の全体性のうちで、次々と楽想を志向していく可能性を提示する。

ここで運命の動機は、その意味を全て失ったので、同時的に

鳴らされるガラスの炸裂によって意味づけられる。

運命とは、ガラスに意味づけられた限りでの運命であり、してみるとガラスとは、仕方である。

「ガラスの運命」、それが志向することができるのは、第三者が介入しない限り、

ガラスの普遍的な歴史、ガラスの普遍的な性質、などである。

それらが「音」という十全でない仕方で表現されるならば、

可能性は、ガラスが割れた時点を中心とする、ガラスに意味づけられる限りでの

時間軸そのものだけれども、それらが終了しないといけないのは、

ガラスがある仕方で割られた、という論理が、音による全体性の中で、展開していって、

「ガラスがある仕方で割れた」ことを表現しきるからである。

けれども、事実は、ガラスが割れたことであって、ある仕方で割れたのではない、

つまりは表現されるべきは、「ガラスが割れた仕方自体、及びその帰結においての完了」

であり、というのは、ガラスが割れた仕方、及びそれが他に及ぼす影響を、

終了によって無視せしめる必要があるからである。

 

ガラスが自体で割れた、この一見の不条理、ガラスが割れたにも関わらずその現象は

自体完結する、この論理の不協和こそが時間を推し進め、時間がこれらを解釈できるもの

にしてくれる。これらが実は論理的なのは、この現象が、我々の妄信している世界と

表現するものを一致しないからであり、ガラスの破裂、に割り当てられた表現は、

我々の妄信世界では、まさに「ガラスの破裂」だけれども、つまりガラスが破裂した

のだけれども、この曲中の世界ではそうではなく、ガラスの破裂を説明する楽音

であり、その説明は、論理の不協和が解決し不協和なく終了するという意味で、

論理的である。

 

・ガラスの破裂という不条理を楽音で説明する可能

 

ここで、ガラスの破裂を無理に楽音で説明しようとする努力は、愚かな行為であろう、

楽音の持つ性質を、分かりやすい文章を分かりやすくする、そのためが故に楽音がある、

というようにしなければならない。

こうなると、もはやこの作品は歌曲でも音楽でもない、新しい表現媒体となるだろう。

 

楽音の持つ最も固有な性質とは、時間及び3つの次元、すなわち、音高、音強、音色

であり、五線譜が示しているのは、実は、小節の進行が時間軸であり、縦軸が音高の

スペクトルである座標平面なのである。ここにさらに音強による一平面を加えることが

できる。以下にこの楽曲の記譜の一部を示す。

ある音声が、楽音によって意味づけられる(逆も真)。

音声は楽音に意味づけられた限りでの音声だから、その楽音が回帰すれば、

もはや音声は不要であり、しかもその楽音が転調等によってメタモルフォーゼしていれば、

音声では説明不可能な事柄が説明可能になる。

スペクトルが、その最も顕著な例である。

つまり、事象を、楽音と言語によって定義づけるものである。

さしあたり名称としてのガラスを定義づけた運命は、ハ長調のトニックの機▲疋潺淵鵐箸梁絢

によって構成されている、この属七で終わることの意味は、属七の限定進行音が進行

しないままにされており、これは不条理である。それだから、次にその解決として、

かつ進行するものとして、別の調のドミナントが出現するのである。これが繰り返される。

 

・終わりにあたり

 

そしてこれら全ての論の展開が、永遠のシュールレアリスト、

ダリによる「偏執狂的批判的方法」と一致するのである。