世界は、体系である。

世界にあるということ、生きるということは演繹することだ。

演繹とは体系を行ったりきたりすることである。

この演繹活動を、「私」と定義できよう。

 

数えることは、ある没入から脱することであり、脱したあと展望できるものを

等質すること、である。

数されたものの本来生を奪い、無機質な記号に変えてしまう。

しかし個は、個である限りいかなる等質も受け付けない。

 

世界は、にとって体系している。

ここで「にとって」とは、暗黒の主体者を表現している。

体系とは、これこれがここそこにあって、にとって不条理ではない、ということである。

そこにあったものがここに移ってもおかしくない、という判断。

この移行したという事実は、事実性を「にとって」に委ねる。

 

ところで、先に、習慣的「私」を破棄し、「私」を定義しなおした。

すると、従来の「私」が担っていた機能、所与が他に付された、

あるいは独立した、ということになる。

それらはによってを失い、自体存在することになるのだ。

 

事象は、関係に縛られている。その関係の限りでの事象でしかない。

かつてAの隣だった、さっきよりBから離れている、というように、

関係は消えてしまうことはない。

 

ここで、三段論法の批判的吟味を行おうと思う。

AならばB BはC AならばC

 

この,砲いて、A、Bは相互に関係している限りでのA、Bなのであって、

その柔軟性(A、B間の関係を越えても依然としてA、Bであり続けるか)

はコンテクストによる。

 

△砲いて、BはCと同じなのに異なる?

Bを内包、Cを外延とするなら、BはCにどの程度含まれているのか、

明瞭でない。

BはCであると定義するならば、それは恣意と見なされなければならない。

 

において、,ら論理的時間が経っている。

この時間の間にも、Aは様々な関係を関係するわけであり、それは既に

においてのAではない

 

Aの近く、あるいは遠くにくるはずだったものが現にAの近く・遠くにある、

これが決定論の根拠である。しかしながら、Aの近く・遠くに移行するとは、

漸次的であり、従って世界の全ての関係を更新する。するとそれはもはや

かつてあったAではないのであり、従ってかつてAだったものはそれをAたらしめる

によってを失う。

この無規定性が、この論理の不完全性が、過去から可能を汲む展望の外が、自由を示唆する

のである。

この自由部分に現在する可能性は、自由部分に限って無限であり、

自由部分の現在は未規定であり、そこにおいて、演繹がなされ、

不可能な現在は捨てられ、可能な現在は演繹されるのである。

関係は、更新され続ける。

AがBに関係している限りでのAのCの関係、など。

してみると、絶対関係とはもはや存しなくなり、

それは理念として、あるいは、にとってにしか存在しなくなるのだ。

 

ところで、個の変容とは、その可能を個に求めるべきだろうか?

従来了解されてきた考えでは、変容の可能は「綜合」によって説明されてきた。

しかし個は、関係の変容を受け入れられるのか。

演繹は決して流れない。絶対に現在するものだ。

それが流れるのは、にとっての限りである。

すると、無限の現在は、いちいち他の演繹で構成される、ということになる。

ここに現在と流れの多層が、見出される。

生が、ある。演繹が、生の無数の流れの中、点滅する。

生が動くとき、それを可能にする演繹が、生に現在する。

 

各演繹は、表現を目指す、換言すれば、統一的な「によって」を必要とする。

それは、肉体という一つの表現である。

また、自体作用は、肉体の演繹によって表現される。

作用は、演繹性を持たねば作用されない。

演繹は、体系を作り、自らそれに従う。

それに従わない演繹は、滅するか、可能な覆われた体系を開拓する。

 

演繹としては、表現世界から肉体を纏う。

脳としては、必ずしも望む演繹が可能であることはない。

これが一つの障壁であって、これは物理的不可能と呼ばれる。

演繹が表現を得られるとは限らないわけだ。

演繹、そして脳、この両者の調和が、肉体に行動として表現されるのである。

演繹は、表現されて初めて、その関係的物理が適用可能なのであって、

従って我々はここに新しい一つの物理学を見る。

世界に物理する、これは表現が物理に先行することに他ならぬではないか。

 

各演繹は、個する。

作用なり所与なりと、色彩なり音なりとは、同じく表現である。

ここで、等質することへの疑問を思い出す。

等質とは、あくまで表現の次元で語られねばならないのだ。

 

一つの完結した演繹が、生として表現することを許される。

世界の体系に反する演繹は表現されない。

たとえ思惟の中で、世界の体系に反する演繹が存したとしても、

それは思惟の体系には反しないのだ。

 

演繹が、ある体系内の部分を流す。すると、世界は全て関係付けられた体系なので、

世界全体が流れることになる。

関係の間接性を持てど、関係性が希薄になることはない。

間接は、流れるものに流され、間接した流れを全て含んだ流れに、流される。

また別の間接をもった流れにも、流される。

こうして、間接は、無限の間接性を可能する流れを、流れる。

間接の流れの可能な流れに、間接の流れが重なると、前者は一方で流れを限定され、

一方で新たな間接先を得、可能な間接を増す。

 

演繹の遂行とは、もし演繹が絶対に現在するものであるならば、

体系に沿って行き来する「にとって」に他ならない。

演繹の遂行は、全て「にとって」なされている。

これは、世界中のあらゆる人、生命、現象は、主体性を持たないことを意味する。

すると先に定義した「私」は、にとってであり、個個の生命体ではないのである。

 

にとってが、持続するあらゆる作用から、行動に適う作用を抽象する。

生きるとは、行動を体系に従って「にとって」に変化させられることだ。

それだから、行動は、常する。にとっては任意であるので、にとっては

常に作用を任意する。

にとっては、作用は無限のスペクトルの仕方を持つ。

ここでも作用は、スペクトルという表現であって、やはり表現が物理に先行している。

あるスペクトルから無限のスペクトルが派生する。

ここに自由部分が新たに見出されるが、作用を現在させたにとってが、現在から

体系的に可能なスペクトルを任意する。

 

                                                                                            

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