Kyrie的原初的世界論

 

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さて、原初的世界を論じるにあたり、誰もが最初のものと認める、絶対に明証的なものとはなんだろう。

ここでは、数を意味しない、という意味の限りでの「無限」を挙げよう。

これは数学的な無限、を意味しない。

単に数えることから純粋、という意味での「無限」なのである。

数えることは、並べることであり、価値付けることだ。

従って数えることは、抽象的な作業を前提する。これは否定されねばなるまい。

そして、これは存在ではない。

存在とはひとつの意味であり、それはあるものに付帯するものとして、

純粋性を損ねるものだ。

ここに、数性、存在性を伴わない無限を想定する、という作用が認められる。

同時に、数性、存在性を斥ける、という作用が認められる。

後者は、その作用のさらにその数性、存在性を斥ける、といった作用を付帯する。

こうするとそれは無限に続くように思えるが、どうしてそう言いきれるのか。

それは、数性、存在性を斥ける作用を受けることを自ら指示する、という

構造を、それ自体が持っているという事実を、いくら作用を積み重ねても

同様に認められるからだ。

無限にある、と想像する限りではそれは抽象的であり、

無限にある、と一つ一つ確かめながら確信する限りではそれは具体的である。

ところでこの無限の意味は、もちろん最初に挙げた無限とはまったく違うものだ。

無限を構成する一つ一つの事柄は互いに並べられており、従ってこの新たな無限は数性を持つ。

数性を持つ無限が、数性を持たないよう努力されている無限に付帯している。

数性・存在性を除く作用が、同じ構造を持つものとして、無限に並列している。

それらは「個」であって、「個」があるという事実が「変化」を表現している。

可能・不可能に関わらず、近接・離別・没入させようと試みても、事実として

「個」が「個」間の「個」であることをやまぬ、そうした緊張がある。

「個」が「個」を保つには、その被付帯ー能動的付帯構造に影響しない個別性が必要である。

 付帯の可能。いかなる作用にあしらわれてもその十分な具体をもった付帯を止まない、

そうした付帯の可能。こうした付帯は、「性質」にまで昇華されてしかるべきであろう。

こうして個はユニーク性を要求する権利を持つ。

 

存在を前提しないこと。

これは、コギトから導かれた「思う」に志向されないこと、を意味する。

存在とは、志向によって左右される。

志向するという作用が、体系に関わる。

このことこそまさに志向という意味をなしている。

世界すら、ひとつの体系に過ぎない。

体系の演繹が進むと、存在性はゆらぐ。

つまり、「はっきりとは志向できない」「曖昧に志向する」

といったことが起こってくる。

志向とは「何ごとかについての意識」であるが、

その「何ごと」が曖昧になっていき、ついには虚空を志向する、言い換えれば

志向先が無限に広がる、という状況に陥る。

しかしそれでも志向自体は続いているのであって、「何ごと」を探して彷徨う。

 

しかしここで、話を元に戻そう。

原初の無限とは、存在ではなかった。

しかしそれは、十分志向されうるものであるように見えるが、

実は志向されているのは表現された無限の表現部分なのである。

この表現という、芸術に多く関わる言葉は、後ほど論じよう。

 

具体的思惟においては、先なる作用といったものがあり、それから順々に

ユニークを要求していく。

抽象的思惟においては、作用全てが均一にユニークを要求している。

両者ともに言えるのは、作用とはその構造に関して均一なのであり、

そのユニークとは、「無限」に近いか否かなのである。

してみると、ユニーク性は要求される以前にすでに作用それぞれが持っていることになる。

ここで、ユニークを色彩や音に求めるという試みは一旦挫折せざるを得ない。

 

ところで、この完全に抽象的な世界は、具体世界を目指す。

また自体存在する限りでの色彩等は、抽象の宙に浮いたままではいられず、

これまた具体世界を目指す。

とすれば、両者が具体世界において出会うという見込みも期待できよう。

色彩が自体存在するというこの仮説は、クオリア問題をすり抜ける。

 

ところで作用は、無限への遠近で最小限のユニークを得た。

しかしそれは抽象の内部で完結しており、少しの具体性も持たないものだ。

そこに色彩が介入する余地はあろう。しかし繰り返すが、私は色彩とこれら

作用を結びつける時間に乏しかった。

真の具体とは、いかなる想定をも含まない。

抽象的なまなざしに、具体は頑として動かない。

 

ここで、一つの日常を見出す。

すなわち、無限とは固体で、それに付帯する作用が線として連なっている、

というイメージである。

これは表現であり、表現とは具体・抽象・日常の彼岸にある世界なのだ。

関係が、表現されている。表現は抽象を具体へと移行させる。

移行された具体は、さらに日常へと移行される。

色彩や形態とは表現体であり、これらを介して日常が表現される。

この意味とは何か。

ここでも私の至らなさから、記述を省かさせて頂く。

 

さて、我々は最初に何をしただろう。

ある抽象を、作り上げた。

それは射程をもつのであって、その射程外に没入してしまわない、という意味を含んだ。

射程外?それは射程外を持つのか?

付帯を取り除くという演繹活動の体系の中で、ある意味領域から体系が築かれた。

日常から、意味だけが浮き出す。

日常とは、諸事象の意味の一つの体系付けである。

その体系内で、抽象と具体とがひしめき合う。

それらから、抽象のみを、抽象した。

その意味は、一つの意味体系の解体であり、再構成である。

本当の哲学とは、いかなる体系も先入として通用させないことであろう。

それを私はできなかった。

意味の連なりの離れた2点の結びつきが離れれば離れるほど、それは形而上学的である。

してみれば、形而上学的記述への批判の見通しも出てくる。

 

さて、改めて、我々は最初に何をしただろう。

具体世界から具体的意味を奪っていくという演繹。

演繹とは、一般に、意味と意味とに連関を見出し、その連関に新たな意味を

見出すことである。

すると我々が行ったのは、具体世界の諸意味を「付帯」として連関させ、

「無限」という意味を築いたことである。

その体系の頂点において、我々は新たな意味体系を作り上げる。

この繰り返しである。

 

日常の表現のみに埋没している限りでは、それは「表現世界」と呼ばれて良い。

そこには表現のみがあり、表現が意味を持つことも意味が表現を持つこともない。

意味が新しく生成されるには、3通りの仕方が認められるのであって、

すなわち

 Г△覦嫐において、その表現において近接する意味を見出すこと、

◆Ф畧椶垢覦嫐と、それに連関する意味との橋上に意味を見出すこと、

:近接も連関もしない意味に橋が掛けられること、

の3つである。

このうち、最後のものは重要である。なぜなら、日常世界においては、

素朴な意味体系が行ったりきたりされており、それから脱することは、

意味体系を失い、意味が意味性を失い、表現が自体存在する表現世界の

存在を裏付けるからである。

しかしの可能は、未だに証明できずにいる。

 

意味とは、全ての空間を空間付け、従って世界を物理的に構成するだけでなく、

日常そのものをも構成する。意味は互いに意味づけあっており、

意味のないものは、存在しないと解されて構わない。

志向

しかしここで、形態、色彩等の表現が自体存在するのなら、それには意味がない、

従って存在を認められない。

しかし、形態や色彩やらが日常世界にある限り、それは意味を持たずにはいられない。

これを「後験的意味」と呼ぼう。

それに対し「先験的意味」は、意味が表現されることで顕在することである。

ここで、意味が己を超えて表現される必然はなんだろう。

それは表現を持たない意味は理念として緊張されたままで、今にも具体を目指そうと

しているからである。

意味が表現を得る際、借りられる表現はなんだろう。

表現世界は、意味に与える表現を限定したりはしない。

だからこそ、音楽を聴くときそこに色を見たり、

情景を見るときそこに音楽が鳴るのである。

これらは潜在的な表現として、どんな表現された意味も持っているのだ。

 

しかしここで、クオリア問題という最大の難関に立ち会う。

表現世界は与える表現を限定しないとしても、意味側の何かが、それを

限定する。

全て、意味は同質ではない。より抽象的な意味、そうでない意味とがある。

意味と意味との近接が、スペクトルの移行の表現を要求する。

 

                                             

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