それが本来であることは永遠にないだろう、その本来と派生、その構図に従うならば、

それはコンテクスト中にしか姿を現さないものだから、それは常にコンテクスト付けられた派生である。

ならば本来性とはそもそも生まれるはずのないことなのである。

本来性は、各人のつどのものであって、その経験からそれは本来性でない、と判断したものである。

それが本来性そのもの、「純粋性」を必要とするのは、いかなる経験にも由来しない創るコンテクストにおいてである。

本来性を得たいと思うときなされるのは、経験したコンテクストから、「これはこのコンテクスト上に置かれるがため派生した変容であろう。

と判断することによって。さらにその判断がなされるのは、そのコンテクストの「性格」がある、と感じとることによって。

コンテクストの性格とは、その上に出現しそのコンテクストをなす諸々が、そのコンテクスト上にあることによって、性格づけられたとき。

しかしこれはおかしい。それらがコンテクストをなすのだったら、そのコンテクスト上にあることによって、それらとなる、この循環は

どう説明すべきか。

それらがその本来性に従ってコンテクストをなし、なされたコンテクストにおいてそれらは派生する、と「本来性」を用いた説明は可能だ。

この説明の問題は、本来性がどうやって単独で在り、コンテクストをなすのか、というそもそもの議論である。

ここで常識に惑わされてはいけないだろう、つまり「本来性とは実はしかじかである」といった再定義によって。

一度「本来性」を捨て去ると、何が起こるか。「諸物は常に変容を被る」、この表現は正しくない。

変容を被る本来性、といったものをもその表現のうちに潜めているからだ。

のみならず、「変容した物」は常に何かからの変容であり、「その『何か』が、変容前における本来である」、とも反駁されうる。

「何か」は変容前における変容である、と、この反駁に反駁しても、それはそれで正しいかもしれないが、

どうしてある様態がある変容である、と説明できよう?

ある様態はなにかからの変容であるか、さもなければ変容ではない、「本来」なのだ、という向きには返す言葉もなかろう。

それだから、ある「様態」つまりある「物」という存在を、捨て去る。様態、物に伴う「変容」も、「本来性」と同様、捨て去る。

ある持続する「諸物」という言葉が、意味を失って、「あらゆるもの」は、物を失う。

 

物を失った世界。物を失うとなると、なにが起こるのだろうか。それは「物」に接していた諸々―「もの」から推測される。

物の成立、及び持続、及び変容、及び終焉。それらに伴うは、なにか。

 

成立。それが物であると見始めること。ならびに、それが物として新たに見始められるを、境界し始めること。物の方から。見る方から。

見始めること。見る、しかし、かくかくしかじかを見るのであって、見ることは「かくかくしかじかを見る」のである。それならば。

ただ「見る」は意味を失い、「かくかくしかじか」も見られるだけのものではなくなる。それらは溶けあい―

かくかくしかじかは、見られる限りにおいて、かくかくしかじかである。この逆の志向性。

見るという表記は、常に見られる物を付記せねばならず、また常にそのように考えられなければならず、

抽象的・構造的に扱われるを禁じられる。

見るとは、「ある物」をその都度見る限りでの、見るである。と言うことさへ「構造的」として禁ぜられるならば。

定義が、できない。

 

それが物であると見始めること。これを今一度考える。

物以前の「それ」。見始めることによって、「それ」は物となる。これが観念論的として嫌がる向きに対しては、こう言う。

「それ」は観念ではなかった、そして見始めることにより、観念となった、観念とは「物」のことである。

これが「感覚の膜を想定している」、と避難する向きには、こう言う。

見るとは方向がなくて、場であり、意味づけられた区域、それも境界のない―があり、そこに飛び込んでくるを、

区域に分かつ営みが存在するのだ…その営みのある場所は。場がすでに意味づけられているとするなら、

分かつ営みは「見る」以前になくてはならない。それは取りも直さず膜ではないか…しかし。

見るとは純粋に場であり、区域分けの解釈とは同視できない、と言う。「見る」は存在の全体であり、従って見られないものはない。

そこにある存在が、営み以前に区域分けされており、それに従って見られるのだ。どれが見られどれが見られないまま留まっているか…

それは生きているコンテクストに拠る。

解釈は区域の隔たりをなくす力があり、

また区域とはイメージではとても表すことのできない、意味があってそれに沿う意味がある…のではなく、

意味とはコンテクスト中にしか姿を現さず、従って意味とは自体存在はせず、あるコンテクスト中に体系をつくる。

その解釈がコンテクスト中の体系を解れさせ、新たにコンテクストを生む。

コンテクストの生成とは一義的なものではなく、それを意味している、に、派生したコンテクストが生まれ、その生成が止まず、

コンテクストはコンテクストに包され、こうして世界は進化していくのだ…それも世界はその非イメージ的射程に応じて一義ではなく。

コンテクストは保存されているから、そのどれを生きるかは全くの任意である。あるコンテクストに留まることができないのは、

コンテクストのなす体系が閉じていることはありえず、そこにほつれがあるからである。

 

これらの前提について語ろう。

 

.灰鵐謄ストの生成。

 

 コンテクストとは、それを逆を辿るを可能だからして、生成の一点を探すことはナンセンスである。

 加えてコンテクストとは、あるとき始まり、あるとき終わる、といったものでなく、悠久に続く(ことが可能な)ものであるから、

 やはりその生成はコンテクストの自律性には求められない。

 見られた存在するものは、一様に、赤子の純粋無垢性をもって現われるのではない。それは、それが見られるようにコンテクスト付け

 されていたのであって、「誰かの存在するもの」であり、特にそれが「私」によって見られたのならば、「私」の、広くは人生における

 「存在するもの」でさえある。こうして存在されたものは、コンテクストが存在外であるため、その一部、その要素、といったものでは

 決してない。コンテクストの存在外性、コンテクストは存在を扱う仕方において、その存在が見られたところに存する存在の一切を、

 超えている。もっとも、見るとは言え、2物を同様に見る、つまり同様に存在させることは不可能である。

 コンテクストの中で、ある見えるものを見ること、を要求しているのであって、その場合、見えるものは、そのコンテクストにとって

 見えるものである。見ることを要求するとは、つまり存在を要求するとは。

 コンテクストは存在外志向性であり、常に空疎な志向をしており、それが何かの仕方によって存在に達するとき、

 クロニクルが生まれるのだ。この得られた存在、が、存在である限り、さらに何かを志向しており

(というのは、その存在には、少なくとも起源と帰結とがあるはずだから。さらには、その存在だけでは自体できず、

 そのための志向、ということもあり得ようからだ)、存在外志向は、それを起源として、存在的クロニクル、つまりは

 生きた存在的コンテクストを生む。これが大抵、私達がコンテクストと呼ぶものの起源の大半である。

 それでは、この存在外志向性、その起源が問われていることだった。

 

 存在的コンテクストは、相対的には存在外コンテクストである。それが志向の積み重ねであるならば、その志向先である存在は、

 当然志向されている、見られているわけだから、その志向における存在としてであり、一方でその志向は、その存在の外にあるのである。

 その志向を志向するものは。そうしたものがあるなら、志向の輪廻に終止符が打たれる。しかしそのものの起源が新たに問われる。

 このような考えの陥っている誤謬は、「前後の関係」に拘泥されていることである。それを、違った形ではあるが、打ち砕いたのが、

 ハイデガーである。

 

 志向の元を辿っていくことは、突如存在しないものに行き当たり、それが起源とされるが、それは相対的であるし、こうした方法自体も

 相対的である。志向的クロニクルは、その起源と帰結とを同時に含むからであり、さらには、その志向は、その志向が可能な、

 いくつもの起源・帰結を―その多彩な可能性に従って、コンテクストを生みさえする。この生まれるコンテクストは、無限である。

 なぜなら、起源・帰結とは、例えば起源の起源、といった仕方が可能であり、この起源の起源のもつ射程を操作すれば、

 一つの無限が得られようからだ。また起源のもつ部分、要素を取り出してみれば、その要素を要素とする連関、またそれらの連関、

 がただちに働き、一連の無限の陳列を見せてくれる。しかし注意したいのは、要素とは、それが切り取られたものである以上、

 それにピッタリする要素が連関することは絶望的である、ということだ。

 それにピッタリする要素は、まさにその要素しかないのであって、それはその要素的な連関は不可能だけれども、意味的な連関は

 一つの無限を展開する。

  要素とはやはりコンテクストのなかの要素である、要素がコンテクストから取り出されたと思うや否や、その取出しの過程がすでに

 コンテクストである。だがここで問われるのは、この二つのコンテクストを、コンテクストとして同列に扱ってよいか、ということ

 である。要素は取り出される、眼差される。取り出そうという眼差し、によるコンテクストが、展開される、コンテクストは眼差される。

 取り出そう、と思ったとき、コンテクストは流れ出す。

 その人が、取り出そう、と思ったその日が始まったとき、コンテクストは回りだす。あるいはその人が誕生したとき。世界が。

  

 この要素を取り出すことが、ここで特別に語られている以上、その取り出すことを含むコンテクストは、特別なものでなければならない。

 取り出すことは、要素が事実に浮いている、事実がある要素に切り取られる、その仕方は。

 世界がこんなにも切り取りがしやすくなっているのは、偶然とは思えない。切り取り可能な世界だけにさしあたり生き、刻印を受ける、

 こう考えた方がよほど自然ではないか。切り取りが不可能な世界、というのは想像できないものではない。

 そこを切り取りの手始めとして、眺もうと思うや否や、それは眺められた意味から逃れるように、さらなる外延へと溶け込み、

 眺めていた意味は、その意味の外延へと、何を眺めていたのか全く分からなくなってしまう。ある程度の知性があるのなら、

 その外延のなかに当初の意味を探し当てる、といったことは想定不可能ではない。その場合、外延Aは外延Aとして

 理解されていなければならない…だがそれがさらに内包に、外延に、逃げるのならば。

 それもその内包とはAだけの理解からは到底得られないような延長を占めており、またその外延Aの外延とは、それを知っていようが、

 その瞬間、それを知らないような外延Aの外延に意味を占められるならば。それは色彩のまどろみのように。

 外延―内包の分かりやすい構図が、その世界中においては利用できなかったとしたら。

 

 Aと置く、この可能は、それが置かれうるような状態にあらねばならない。

 その状態とは、あたかも遠近法のように、Aを含むもの、同時にAに含まれるもの、という一つの無限、

 そこへの何ごとも没入不可能な一つの体系が存在する、そんな状態なのだ。Aが含むものは決して一列ではなくて、無数にあるし、

 それもAの解釈、によって、その内包はまるでAを解釈するがごとく変わってゆく。

 Aの解釈とは、Aを通過して生きるものにとっては、Aに至るコンテクスト全てであるし、Aであるときのコンテクスト全てである。

 Aを越えた生のその後は、Aを生きることはできない。それは、Aの解釈とは、Aであるときのコンテクストでもあるから。

 同時に、生は、Aを生き続けてゆく。この生の、どんな反省も、どんな予測も、Aを回避することはできない。

 こうして可能になる、Aの内包の新たな性格付けは、Aを生きているある生の、生の生き方であり、それはまだAを生きていなくても、

 またAを生きるに際しAを発見できなくとも、またAを生きていない、それでもAを生きていたことがあろう生においても、

 そうなのである。

 

 こうしてAの内包・外延という無時間的な概念は、時間的なものに変わった。

 

 その解釈の変動は、

 

 そのコンテクスト中にAの内包が含まれないことはあり得ない。

 

 要素には、事実が憑いてまわる。

 

 

 存在に突っかかってるコンテクストが

 さらに、志向とは、意識するものの、どこを意識するのか、どこまで意識するのか、

 意識するものを意識しながらにして何を意識するのか、といった一連の可変的要素をもつ。

 志向とは、意識するか、しないか、の二択ではない。志向するものと志向されるものとの関係―志向するもの、あるいは志向そのもの、

 が、志向されたものであるとするならば、

 

 しかし志向性は一方で見られ存在し、見られないとき存在しない、というのは暴論であろう。結局は存在の問題を、「見る・見ない」の

 問題に単純に還元してしまっており、存在を見られたもの、と前提したことが、全てを危うくする。それならば。

 見ると言ったのは、便宜上に過ぎない。

 見るとは、誰が見るのか、と問うことは、ナンセンスである。

 コミュニケーション

 

コンテクストの流れ。

コンテクストの保存。

コンテクスト中の体系。

コンテクストに生きる。

コンテクストのほつれ。

見る。

志向。

無限。

世界。

 

意味、解釈、コンテクスト…これらについてもう少し詳しく語ろう。

意味は、コンテクスト中にしか現われない。意味とは、メルロ=ポンティの言うように、差異であり、ある変容する意味に対して徐々に

変容する相対性であり、とするならば、「意味」などという構造的な言い回しは、混乱を招くだけであろう。

意味の本質、といったものはなく、記号化される以前の意味は、コンテクストの見方、

コンテクスト中の見る射程、コンテクストを見るコンテクスト、に拠る。コンテクストを見るコンテクスト、そう、見ることは、

コンテクストである。また「見る」は存在の全体である、と言った。この両方を、どう折り合い付けるか。

存在の全体としての「見る」

コンテクストは、決して存在する、というものではない。それは、コンテクストは、あるを存在付ける「見る」以前のものであり、

「見」られた存在するもの、の外で、意味をコンテクスト付けしているからだ。あるコンテクストのなかで、あるが見られ、存在がするのだ。

コンテクスト中において、見るは、コンテクストを部分的にしろ存在づけることであり、その存在間において、存在するものは存在する。

存在間を、見るコンテクストは、可存在するものを、見るコンテクストによって変えてゆく。

見るコンテクスト、それは見ることはコンテクスト中にしか存しない、ということであり、そのコンテクストとは、原初的・構造的には、

「見る構造」を把握する形での、コンテクストである。「見る」が次々に存在を増やし、

従ってコンテクストに上る存在を肥やしていったとき、「見る」自体はその存在の体系にいつか存在として明るみになるときがくる。

存在の増え方は、決して任意ではなく、コンテクストに基づいており、この存在以前のコンテクストは、

体系をなす、

 

 

コンテクストは連綿と続く…しかしどれほどの分岐を経たことか。どれほどのコンテクストが、未だに輪廻し、あるいは終焉したことか。

我々はいくつ存在するのだろうか。我々は何度死んだのだろうか。

 

見始めるとは、かくかくしかじかを見、かくかくしかじかと捉えることまで包含している。

捉えることは、見ることが抽象的に扱えないのならば、やはり「見る」以上の捉えることではない。

また見るは、捉える以下の見るではない。

 

 

見る。何を?この眼球の前に現われるものを?それとも思惟のうちで現れるものを?思惟のうちで、何かを見ているのですか?

 

 

再び見始めること。かくかくしかじかを見始めること。かくかくしかじかを見始める以前、

 

イメージについて。これが私に排斥される傾向にあるのは、イメージの方で用意し提供する素材が、十全でないと思われるからだ。

 

 

 

「もの」とは、物なき哲学において、物の代弁をする空疎な、結局の「物」に過ぎないのか―物の定義。及び「もの」の。

物とは―もの全てが帰するところの

性質でもなく、外延でもなく―

 

しかし、ものが物になるとき、―例えば言の葉に上るとき―

それは物として扱われる、なぜなら

 

共有

 

我々が用いる道具、これはわれわれという生に触れている。

鉛筆を用いるとき、それは生きている私の腕とちょうどフィットして、

また私が思う運動にちょうど触れて、運動する。

果たして私の「思い」、「神経」、「腕」、「鉛筆と手の臨界点」、

「鉛筆そのもの」どこまでが生なのか。

鉛筆は、それがなければ、それを用いるときの運動すなわちある「生」

を産まなかったはずである。

そのとき、その生は空白となるのではないか。

道具による生。

もっと抽象的に言えば、我々は、常に道具に触れている。

空気に、人に、言葉に、果ては思考に、己に、生に。

それを用いるときの仕業がなかったとすれば、その仕業が生なのだとすれば、

我々は仕業に常に追われて生きている。

−思考、己、生に触れる、とは。

生を生きる、この使い古された言い回し。

生を生きるならば、生は二通りのイメージを提供する、すなわち

 崟犬論犬られている」

◆崟犬呂修貅体生きているものである」

生は生きられている。誰に。生きているものに。ないしは、既に生きたものに、やがて生きるものに、

生きていないものにも。すぐにこの四つがセットとなって回答してくる。

これは言葉の綾か。どうしてこの四つがセットとなる必然性が、言葉にあるのか。

誰に、と問うた。この誰に、が、四つの存在者を導いた。「誰」は四通り存在する。

しかし、既に生きたものの今は生きていない様、それが再び生きることを孕んでいたら。

しかし、やはり生きていないままだったら。生きるまえは、生きていなかったとしたら。

これら問いの弾幕の、恐怖。

「再び」「やがて」「すでに」これらを時間のカテゴリーと見止めて、この無限列の無限の組み合わせ

によって生はなるとする。その場合、その列の数は。

 

生は生きられている。どのようにしてか。

この場合、生は構造として見られている。その結果としての回答。

生きている諸生を順々に身に入ることよってか。断片的な生を、縫い合わせることによってか。

押し寄せる生きていないことから、逃走することによってか。

どのようにして。

 

生は生きられている、というテーゼが導く問い、それはいくつか。

生は、生きられている。誰に。わたし以外のものが生として生きているから、こう問うのである。

どのようにしてか。わたし以外のものが生として認められ、わたし以外として振舞っているから、

そのように問うのである。

 

しかし、生きるのに、「生を生きる」という以外の生き方が、あるはずだ。

ただ生きる、という事態は許されない。取り巻く諸々が、その生を縁どり、記録し、こうして

「生きた」と言うことができるのである。また取り巻かれている生も、その取り巻きを縁どるのだ。

取り巻きの無際限の分割、つまり、全ては生きている。

 

生は、道具に満たされている。思考の綾、その中断、その対位法。

思考が口唇を濡らす以前の、その言葉、まだ口唇によって、つまり身体によって

解禁されてないところの、その言葉。

思考が巡らす以前の、思考によって解禁されていないところの、その言葉。

未だ巡らしていない、だが巡らされるかもしれない。巡ら「される」のだ。言葉が。

だから思考は、言葉を巡らし、またそうする力のあるものとする。

言葉は既に巡らされたのではないか。言葉はどこからやってきたのか。

その問いに答えるは、暗黒。問い。並べて問いは答えを伴っているのか?

−正しい問い。

 

−頭の中の口唇。このイメージの正当性

 

−追われて。そのイメージが意味するところは。

 −言語から喚起されたイメージ−鬼ごっこ。

仕業が生なのだとすれば、我々は生に追われている。

つねに生きようとする努力が、そのまま生として、我々を急き立てる。

−しかしそのような努力など、私は感じていないのだが−

感じるとは。感じないものが、たくさんある。それを知るのは、やはり感じることによって、である。

すなわち、「わたしはこれを感じ得ないと感じる」。

五つに分断された情報が、ひとつの思念を生む。

 

-生の核部分が、思考に纏わり付かれているというイメージ。このイメージは正当か。

 

時間よりも速く進行する絶対的な速さとは、あるのか。

時間は、生きられる。また時間は、生きる。

あらゆる無限に分割された部分、その部分(ドット)が、変色したとする。

または、その部分が、他の色に囲まれてその色みを出すとするならば、全ては外在によって、また自分が外在であろうことの、

外在において、生きる。外在するドット間のニュアンスが変化したとするならば、また本当をいうと、ニュアンスのみが存在し、

それが絶えず変化しているのだが―その部分は、その組するニュアンスを、強制的に切り取られたので、その変化は、

切り取りに縁取られたその縁取りの内部、部分の、己を外部から守る内向と、内部として縁取りを正確に知りその縁取られた

そのゆえを理解しようとする営みと、その理解に基づく己を再び外部からの守り、あるいは理解の不可能。

このうち最初の守りは、内部とされたゆえを知らないがため、己が内部である必要性を少しも知らないので、

内部へと内向するのは外力によってであり、内部はむしろ、己を外部へと浸透させようと外向する。

また外部の方では、自分が内部と共に部分とされたゆえを知らないとき、そのゆえは、次元を逸する営みであるのだが、

囲んでいるその状態を払いのけようとする努力とは、境界を薄くしていって、

やがて相互に再び色彩が流れ出すときを努力することであり、この場合境界とは、流路の変更、境界に沿った変更である。

 

臨界が定められて、初めてそれとして、またはそれに対して、という対比が生まれ、そのような仕方で生じる互いのズレが、

定めた次元のもとで、時間という主題として取り上げられる。

 

ここで、やがて、と時間のカテゴリーを用いた。やがて、は、今ある努力の点にあって、

 

−物体の延長とプシュケーもしくは思惟の延長とのあいだの、相互を移行する働きは、

 この二つの延長における単位を超えている。

 

延長の移行。純粋にひとつの延長に溶け込むことがもし可能だったのならば、私は、例えば純粋に身体であり、

身体はそれがそこに在る場所を指定していく予定、維持、記録、が必要になる。あらゆる延長から「内」を守り、

「外」の侵食する毒に、つまりは徐々に延長をかじってゆく毒に、「内」を守ることこそ「運動」である。

その「内」の知。あるいは直観。部分は

 

−曲線による歴史の構成

 

ある曲線から別の曲線への通訳。曲線は通訳するまでもないではないか。

しかし曲線の、「どのようか」に関しては、その幾何学性の同期だけをもってしては

通訳し得ない。まず「どこから」あるのか。この「どこから」は、時間外・空間外の「どこ」からで

あり、それはその歴史を尋ねているわけではなく、ある歴史上において、その曲線が出現した「ところ」

を問うているのである。この「ところ」は、やはり時間や空間を超えている。

歴史は、もはや因果さえ設定されていないさまざまな曲線の絵巻物であり、曲線は端を持たぬため、

何本の曲線があるのかもまったく判然としなくなる。曲線は歴史を埋め尽くす。

歴史の参照において、みずから曲線となったものは、その視点の流路によって、歴史の事実的な流れ

に逆らって、それだからこそ自ら曲線なのであり、自由に現在をも往復することによって、

どこまでも曲線である。仮に出来事が断辺のみとして与えられていても、それはやはり曲線である。

曲線の視点、しかしそれは端を持つ。

最古の歴史閲覧、最近の歴史閲覧。

 

 

 

−森羅万象を曲線に置換することへの抵抗。

 

なぜ森羅万象のままではいけないのか。歴史に因や果をみるならば、歴史をそのように見ること

として、すでにそれは屈折した歴史なのである。

 

 

 

互いに触れるとは、互いに同期することだ。それならば、同期のために、互いと自分とを知らなければならない。

この知は、すでに触れ合っているもの、剥がしが不可能なものには、

部分は、部分をその語るとき、部分自らの部分に触れる。

人間においては、自分を語る際に、自分を生きる際に、その語られる、生きている自分に触れる、生きる自分に触れる、離さない。

語る語が口唇を開かないとき、それは身体と魂の未分岐が、口内にあり、今にも吐き出されようとしながら、それは

吐き出されない。

しかし口内を占めるという延長、口内は延長なのか。語は、どこからやってきて、今口内にあるのか。

 

−分割は還元不可能か

 

分割は、その輪郭、形態的輪郭、あるいは有意義性によってなされる、のか。

ただ分割すること、その部分が分割される部分が、知られていなかったとしたら。

生きているとき、その意識的生に精一杯で、分割自体はそれと知らずなされる。

生に対応する分割、しかもそれが分割されているとは気づかれぬ分割−

不可知の分割の生への対応性は、生の裏で、生を紡いでゆく営みにある要素を占める。

生の裏。それは無意識を意味しない。生きているとき、それが触れる手元のものの

大事に扱われ、あるいは虐げられた、そのものの歴史が、今そうあるように使われる。

その扱われ、その使用は、今歴史的であり、歴史をそのものに刻む行為として、それを使用する。

使用は、なにかのため、その道具を介してその「ために」を行う。

介された道具の意識は、主人の意図を受容し、その道具自体は意図に逆らうことないが、

しかしその使用には、作用先の主人の意図に適う作用をせねばならず、この二つの主人の間にあって

せめぎ合う。

 

−私。

 

 

反省は、私に触れることである。

 

私の街、私の家、私の手…ものは私に極限まで近づく。その延長において。

その極限とは?それを脳科学に求めることはできる。

手は私ではないのか。手に触れること。手に、思いが触れる。これは手を意識しだすことか。

思いは、触覚を介す。手に身体が触れて、これが手だ、と思う。このときの思いは、手を思い、

手が思いであり、手の思いが私に触れる。しかし手が、思いに触れるのでは決してない。

また思いは、触覚に触れる。触覚は、全て部分外部分である。

部分外部分は、その部分の内部分を含まない、純粋な外部分である。つまり、触覚は身体を含まない。

触覚と身体の臨界点。触覚は、身体に触れそうになり、身体から、外部に触れようとするが、決して

外部には触れ得ない。むしろ身体が外部に触れる。

このとき、思いは、身体に触れる。身体は、触覚を外部として、触覚に触れそうになる。

身体が触覚に近づくほど、身体は触れることを思い、触れることの思いを私に告ぎながら、

私は触覚に触れる。私だけが触覚に触れることができる。身体にはそれがどこまでもできない。

身体は、思うことができる。身体の思いは、触れそうな部分を志向する限りで、思う。

身体が触れそうになるのは、身体であり、身体内であり、身体外であるが、身体は志向にいつまでも

触れることができないし、身体は思いに触れることができない。

しかし思いは身体に触れる。この一方通行。その可能は。

私という、全てに触れることが可能な超越者がいる。私は触覚に触れる。外部に触れる。身体に触れる。

私は、部分に還元できないし、全体にも還元できない。内部もなければ外部もない。

私は、触れようとするときに限り、思いに触れる。触れようとする思い、思いは触れられず、

私の部分でさえある。この矛盾。しかし矛盾こそ、哲学に残された唯一の方法論である。

私の部分である思い。しかしこの部分は、全体への志向を持たない。

全体が見えない、見ようとしない。全体があるのかどうか、無知のままである。したがって、いくら

思おうとも、何をを思おうとも、私を思うことはできない。造られた私、例えば心理学用語の「自我」

、デカルトの「コギト」、これらは造られた私である。

しかし思いを部分に仕立て上げるのは、思いは部分への志向をもつ点に限る。

思いは部分をもつ。部分は思いの全体をしばしば超え、それ自体もとの思いを含みこむことさえ。

思いはその言表化された先が延びれば延びるほど、その部分としての連関を、連関することを、

その言表全体として許さないようになる。結果思いは、部分ではあるが、そのさらなる部分化を

許さない。したがって言表可能な思いは部分をもたない。

思いが部分をもたないならば、思いは生起し、そのままである。それだから思いは、思いの数だけ

あるのか(対位法)、または、こちらの方が正しいと思われるが、

言表以前の連関によってそのつど生まれ来るのか。

 

思いの生起、初めての思い。思いの言表以前。世界。それは身体に触れず、世界に触れる。

世界の思いは、延長に触れて、私に報告する。しかし延長は、思いに触れることができない。

身体に触れない仕方、しかも外部に触れて、思いに触れられる、触覚の誕生。

それこそが生の誕生である。生は触覚によって、身体外として生まれる。

身体が、思いを制限する、思いに触れることができないにもかかわらず。

生まれた生において、触覚は、外部に触れて、そうして触れたものを、私は触れる。

私の、私による世界の世界化、ないし世界の制限化。触覚の誕生、生の誕生は、世界を私という極に

いちど無に帰することであり、それから身体の及ぶ限りの延長、外部に触れて、その限りの外部に

私を限ることである。

 

あらゆる無限に分割された部分、その部分(ドット)が、変色したとする。

または、その部分が、他の色に囲まれてその色みを出すとするならば、全ては外在によって、また自分が外在であろうことの、

外在において、生きる。外在するドット間のニュアンスが変化したとするならば、また本当をいうと、ニュアンスのみが存在し、

それが絶えず変化しているのだが―その部分は、その組するニュアンスを、強制的に切り取られたので、その変化は、

切り取りに縁取られたその縁取りの内部、部分の、己を外部から守る内向と、内部として縁取りを正確に知りその縁取られた

そのゆえを理解しようとする営みと、その理解に基づく己を再び外部からの守り、あるいは理解の不可能。

このうち最初の守りは、内部とされたゆえを知らないがため、己が内部である必要性を少しも知らないので、

内部へと内向するのは外力によってであり、内部はむしろ、己を外部へと浸透させようと外向する。

また外部の方では、自分が内部と共に部分とされたゆえを知らないとき、そのゆえは、次元を逸する営みであるのだが、

囲んでいるその状態を払いのけようとする努力とは、境界を薄くしていって、

やがて相互に再び色彩が流れ出すときを努力することであり、この場合境界とは、流路の変更、境界に沿った変更である。

 

 

部分外非部分。部分を内に含み、内の部分から排出され、外を形作り、

それも部を持たない外であり、二度と同じ内部分に還元不可能であり、また再分割が不可能な事態。

これこそ、万物を部分と捉えていた思考から脱し、二度と世界を部分と考えない、

唯一の仕方であると思われる。

排出された部分は、どこに置かれる。かつて内部分だったそのところには、なにが埋められる。

排出された部分は、かつて内部分だったそのところに、部分としてではなく置かれる。

卓越した知性者によって。ある知性が、部分を非部分へと変える。まどろむ盲目ではなくて。

この知とは、世界が部分していることを知っている。それが避け難いことをも。

この知が、知の踏む手続きが、部分的であるため、「知は、己が知である、しかも知の部分として」、

ということは容易に理解できても、「知は、己が知である、この知とは部分ではなくして」

ということを理解できない。この知が、言表されている以上、それはありうる全ての言表のうちの

ひとつ、部分である。しかし。ありうる全ての言表は、時間を越えている。そこから紡がれた

言は、言を発す。時間的に。この言の時間が、時間を越えている全ての言葉の部分であると、

果たして言えるのか。時間を越えているものの部分とは。絶対の速さで、速度が0である、

そうした時間。それは、進まない。生起してから、ただ、ある。

ある言が発せられるとき、その全体性に、歴史のくいが打ち込まれる。

しかし打ち込まれるべき全体性は、ない。それが打ち込まれた瞬間、時間は全体から剥がれ落ち、

打ち込まれるべき時間として、打ち込まれながらのろのろと進んでゆく。

何が打ち込まれるのか。打ち込みと打ち込みの間は。

全体性は意味の全体性であるから、生起した意味が、全体性より意味を借する。

一度の意味で全ては決まる、その知性者にとっての。意味は因果を連ね、宇宙の創世にまで遡る。

これがその人の誕生であるし、宇宙の誕生である。

そして因果を必要とする意味、派生が必要な意味、は、自ら派生を派生元へ0の速度で連関し、

また自ら因と果を0の速さで連関することで、全体性の絶対性を守っている。

 

0の速さ。

 

 

ある部分であるとき、外は、動くとき、内は、内として、外の動きに晒される。

内が排出される可能とは、内は、内とされたゆえを知らないがため、

己が内である必要性を少しも知らないので、あたかも非部分であるかのごとく振舞う。

すなわち、内を超え、外であるかのように。

このとき、内であるとしたところのものは、

内を維持するため、

外にしたがって動く、その相対化。

内単位と外単位。

内へと内向するのは外力によってであり、内部はむしろ、己を外部へと浸透させようと外向する。

 

それでいてそれ自体は部分ではないところのもの。

 

身体と非身体の断絶とは。身体は部分か。非身体は部分外で、しかも部分か、私の部分か。

 

 

私の思い、私の記憶、私の意思…

私にとってより近いものとは、

 

私の何々で人生は構成される。

私による「何々」は、私以前の歴史をもつ

「私は考える」という表象は必要か。

 

−循環 継次 同時

 

全てはこのうちのどれかであり、その組み合わせである。

循環

 

―主語なしの言語のうえで生存できるのか

 

 

疑問とは、なべて絶対的観念的疑問の派生態であり、この絶対の疑問は、その疑問されるあらゆる疑問を、

その構えにおいて、疑問する疑問に包摂するものであり、これで全て反省の構造が見てとれた、と言わんばかりである。

絶対的観念的疑問は、その構えが疑問されることはあっても、疑問する余地はない。すべて疑問の構えは、

そこから派生したのならば、絶対的観念的疑問とはあらゆる疑問の構えであり、

これを疑問することは疑問することが己が構えを疑問することである。

 

しかし己が構えを、疑問することなどできるのか。疑問は、構えている。それが疑問とするものは、少なくとも以下として導かれる。

 

,△蕕罎覽震笋法△箸蠅△┐催えることはできる。ある素朴な回答に対する、反省そのまた反省。

△気蕕法反省は、回答の仕方を疑問する。

その疑問―回答という構えを、疑問する。このとき、疑問―回答という構えは、疑問され、

い垢覽震笋その構えにおいてであることを、疑問する。

 

,竜震笋砲いて、返された回答が、素朴に過ぎると言うなら、さらに深い回答を求める。この深さとはなにか。

それは。まずできあがった回答としての概念及び付帯的体系の、その概念及び付帯的体系とはなにか、が問われる。

疑問者は提示された概念について、少なくとも了解できるだけのその概念の現象する貧しい体系すらもっていなかったので、

回答者は二通り、選べる。疑問者が少なくとも了解できるだけの体系にその概念及び体系を出現させる。

体系から概念を解き分け、その概念を中心とした体系を、イメージ化することで、両者に共通の体系を得る。

従って、交流可能なイメージは、0の時間の体系、ないし時間の不必要な体系のイメージ化が不可能なため、

時間を持ち、絶えず時間の促す所与により変容していく、そんな素朴なものである、イメージは。

このイメージの場を交流することができれば、それは優れた器官だろう。しかし生憎、人間はそうはなっていないようなので。

先にさしあたりその部分体系を答えた体系は、先の疑問を見止めることができる時点で、既に日常の普段そうである体系にない。

 

 

その在りようが問われ、在ることとして、その「どこに」「どうやって」が問われる。

 

 

絶対的観念的疑問とはなにか。ある絶対を設定すれば、全ては派生態としてイメージできる。

それゆえ「絶対」は観念的であるのか?このとき、絶対的であるのは、隣の「観念」か、さらに隔たった「疑問」か、両者か

このとき、△砲いて、疑問されたのは、回答の仕方であるが、それは基の疑問を構造化する、

しかしどんな構造になっているかについては、何も語らない。その必要がない。

 

部分とは常に「内」であり続けるか?

そうではないだろう。葉と種をもつ植物を想像してみたまえ。

葉は部分であるけれども、真上から見た場合、全体は葉に覆われて見えなくなる。

この場合、部分である葉は、植物の「内」を脱し、植物全体である、と言うことができる。

植物の方では、それが少なくとも、イメージ的に、全体性であり続けるとは必ずしも

言えない、ということになる。

真上からしか見たことがない場合、葉は全体であり、さらに植物を知らなかったのなら、

葉は地面に置かれた部分<染み>であろう。

植物から離れて−この染みが部分であるのは、地(ち)が地(じ)として

捉えられた場合、地に色が染みている場合。

染みるのに必要な面積、むしろ体積が、0の高さで染みられている。

染みは取れないものとする。染みを横断する線で地を切ったとき、その横断面を水平に見ると、

ある直線が得られ、それは二色、もしくは一色(染みの色)である。

この線、しかも色の付いた線。色は線のどこに付いているのか。

用意された線を、色付けしてみようとしても、無駄である。それには色が入るだけの延長がない。

ならば、色の付いた線を引いてみるならば。しかもそれは、カラフルが可能な線である。

そのような意図の下、設計の下、プログラムの下、において、そう設定すればよいのである。

こうしてみると、線の表現可能の有限性が見えてくる。

 

線の世界。

線は、もちろん曲線でもいい。それが、無限に曲がり続けている、そんな線でもいい。

否、線は曲線でなければならない。また、無限でなければならない。

我々は常に最低の世界に考え、しかもそれが可能なところのその要素を見逃してはならない。

 

線の複数性について。ある線にある線(分)が交差したとき、それは一本の線とみなす。

そのプログラムの可能は、ある曲線の途上の交差点になるべき場所にて、線がそのような交差点を

引き上げる、といったものである。

 

線の複数性について◆8鮑垢垢襪海箸里覆て鵑聴幣紊寮はあってはならない。

二つ以上の交差不可能な線は、線のみの世界には求められない。

 

線の分岐について。線はいく様にも分岐してかまわない。

 

線の輪環性について。

→生を表現できない。

 

文字の線の離れ

 

線が曲線ならば、そのプログラムされた色合いの変化で、全ての二次元を表現できる。

線と線とは、どう交流するのか。また、その線と線の間を埋めるものがないとすれば。

線は、引き続かれる。ある曲線が引かれ、それに類似の曲線がやがて引かれたとき、

「類似である」という情報が、まさにその線を伝って交流することは可能か。

その線の形がまず保存されねばならない。その保存先をどこに求めるのか。

幸い、創造的な線は、ある設計、ある意図、あるプログラムなどなくして存在しない。

 

 

時間の測定 線の可表現性

 

絶対の疑問、純粋な疑問の不可能性

イメージと空間の相違

 

「初めは?」と問うとき、それはこの速度なき瞬の最初の構えを要求している。

「初めは?」と問うとき、それはこの文字列の解読を要求している。

「初めは?」と問うとき、それは問いに問われていることを、態度的に自覚することが要求されている。

 

問う構えがまずもってあって、それが次第に問いを向ける先の仕方を構えて、

つまり問いに問いかけられることが、ある場合にできるもの、を自ら(問い)の構えに照らして創り上げ、

その創造のための知に、ほとんどそれは解答を創造しており、その創造を、解答の実現、存在の完結として創り上げる。

問う構えとは、さらに問われるものを構える以前に問われるものを豊かに想像しており、それは問いの問う意味に次第に収斂されていく。

収斂され、狭まれた意味を、,修琉嫐から問いかけられ、問いは豊かに不確定になり、その存在の傾向を問いかけられる。

こうして存在を問われた問いは、その多様性に、その意味の多様性に、意味がそこにおいて別っせられるところの空間を広げる。

その際問いの意味は、問いの、問われるものの想像から、その想像の意味から、その意味に至る想像元、つまり問いを、7晃され、

収斂される。,砲茲衂坡猟蠅砲覆辰震笋い蓮∩杼を止めないし、また自らを想像したものに想像され、あれこれ想像されるがまま、

自ら想像に創造されるわけではないが、その存在の傾向を想像され、自らを想像する。

ここで新たな問題が生まれる。想像したものは、存在するのかどうか。→存在の確定

想像を止めず、また自らを想像する、このことの可能は。想像した自らが、想像しているのだ。

このことによって、自らに閉じこもる、あるいは外を生きる、これらのイメージ的直観が破壊される。

想像する自らを問いは想像しているのであって、自らを想像する想像の傾向に、想像先もまた傾向される。

問いは自らを想像のうちに決定することなく、想像し、そのため想像は空間的イメージでは捉えられないほど多様、ぢ晋気梁人佑砲覆襦

このことが、問いが自らを迷いながら、従ってその解答、陳述された解答の解釈の多様、未だ解答に困っている傾向のブレを生む。

 

 

問う構えがまずあるのか。問いが生まれる構えが必要なのではないか。その場合、さらにその構えが生まれる構えを。

従って一般に、「生まれることの構え」を。

この一般性への螺旋を断ち切ろう。求められているのは、起源であり、

そのまた起源であり、それらが生まれながら、相互に生み合う、しかも0の速さで、こうしたことである。この対位法。

この生み合いに要する時間は。やはり0なのか。起源は、生まれるのか。

ここで起源を具体的に示すため、「問い」の起源を考えよう。

問いは、生む。生まれたものは、問うことができる。

問いの生む仕方は、「何か」を生むか、そうでないものを生むか、ほとんどそうでないものを生むか、

そのいずれでもない「生み」である。

「何か」、は、存在論的なカテゴリーを持っている。

しかしカテゴリーは、絶えず新たなカテゴリーを生む。言葉で解き分けられたカテゴリーは、

意味によって溶け合い、コンテクストによって明らかになってきたそれを言葉にもたらす。

この場合、コンテクストは必要なのか。意味による溶け合いは、環境的変化によるのか。

溶けること。

 

 

問いは、問いと名づけられるより前の段階を踏む、それも前といっても、問いと同時的な段階が、

0の速さで、いちいち問いと同時に段階を踏む。

生成と違い、問いとはすでにあるものなので、0の速さで問うことが可能なのである。

それが時間を要しているように思えるのは、反省が、

問いに対する反省が、生成的であるからに過ぎない。

また問いは、「〜?」とされるよりも以前に、ある。

問いは、全ての言表そのものである。問いを含まない言表があるならば、それは極である。

言表の際、それに十分な確信があったとしても、確信を揺るがす不安が駆り立てられる。

問いが、生まれる。

この場合、確信と不安との関係は。

確信とは、言表していることと、つまり生きていることと、

言葉に乗せられた事柄、つまり生きられたこととが、対応していて、その対応の速度が0である、

ということである。速さが増すと、言表としての生きていた生は、生きられていることの変容に、

言表をそのまま生きることに不安を感じ始める。

 

なぜ言表が、生きることなのか。言葉を連ねる、言葉は重ならない、従って、それは、時空を占める。

しかし、言葉は共存する。

言葉は了解される、その読に要する時間、

言葉の区切り目を生き

 

いちいちの行動において、その行動に要する記憶が、行動と同時に行動する。

 

 

 

問いは、それを発する者、を、問いかけることが可能なものとするのではなく、

むしろ問いは、発せられ、問いかけられているものに辿りついても、別に無くならなくてもいいのではないか?

問いかけられているものは、問いに対し、回答してもいいし、しなくともよい。

この回答しなくともよいことは、回答のひとつの様相といったものではなく、従って問いに対する

態度といったものではなく、問われていることを超えている、あるいは及んでいないのだ。

空間を問うことはできない。なぜなら、問いは空間を超えているからである。

 

問いはこうして空間の次元を超えて滞留し、脱空間化、脱二元論化する。

問いは、身体を超えで、しかも身体の先にあるのは、空間ではない。

脱空間化としての視線の交流。視線は身体から発せられることなく、もちろん眼と身体外との臨界点

において生まれるわけでもなく、視が線となるのは、視が視にぶっつかったとき、

 

次元の輪廻

 

内容を失う。

発せられた問いは、絶対疑問として、問うものと問われるものとの境界において、中性化するのか。

問いは、問われるもの

 

それは、問いという構えが、問いの発射によって形作られ、その志向性を構えとして、薬籠中にするのである。

しかしこの問いの発射は、自らを構えづける。発射は創造的であり、構造的ではない。

このいちいちの、十分具体性をもった問いの発射が、その具体性に、どこまでが問いの構えなのか、を濁らせる。

問いは発射に創造され、やっと問いとして発射される。

問いはある具体に、その構えを問いかけ、それに学び、すなわち行き先をもった発射を構える。

この学びは、「問いとはなんであるか」を、その時間的な具体性ではなく、その抽象性によって学ぶ。

具体性を抽象化する営みの速さは、いくらか。それは0と捉えられねばならない。

ある具体を、具体性のもつ歴史としてみること、歴史の参照は速さ0である。

 

具体は問いに学ばれると同時に発射し、セカイは動き出す。

 

問いが問いを向ける先。それは問いに創られるのか。その場合、その速さは。

生なる陳述としての歴史、それは不断の解答である。「あれはなんだったのか?」

に対する答えが、歴史上存在する。これは、問われていることが、問いに先んじていることの証明ではないか。しかし。

歴史上のある事象が、まさに答えという在り方で主題になるとすれば、それは一つの在り方であるので、

その事象はいくつもの在り方を並行しているのか、それとも問いが、その在り方を瞬間変えるのか。

歴史を最低限参照する際、参照されるのは、ある事象の、陳述である。

歴史はその非連続性を、日にち、国、歴史に組した人々、などに負っている。

それらカテゴリーはそれぞれ点々のイメージに還元できる。しばらくは、そのイメージに従うことにしよう。

誰が、何を、どこでしたのか。すぐさま点が、その問いに対応する。点が対応するのか。

点は、色味を帯びた点であり、それらを結んだとき、その線が徐々に色味を変容する、そうした点なのだ。

イメージできないのは、それらの点が一次元以上の表現を要求する「意味」を持っており、そ

れは点と線のイメージでは追いつかない。

しかし。歴史の陳述は、単色の線によって(文字によって)十分表されているではないか…

地に染みる線、文字がいかに意味を持つかは、後述することにしよう。

陳述は、歴史の構造を、ほとんどカテゴリーに区切って述べる。

すなわち、「誰が」「何を」「いつ」「どこで」など。

歴史の「どこで」の連続性は、世界のあらゆる場所がそこでの出来事によって進行するが、

そこでの出来事は染み、またその規模も様々である。

例えば革命があったとして、それが田舎の仕事帰りの男達の談笑の種に上るとする。

その談笑は、

 

問いと問いを向ける先とは、イメージ的には離れている。

問いが問いを向ける先を、問いの構えに照らして創り上げるとき、そのとき要す速度は。

問いの構えとは、問われることの意味の多様にしたがって、自由に変容する。

しかし問われることの仕方が、「誰?」「なぜ?」「どこ?」など、カテゴリー分けされている場合には、

 

 

だから陳述される。

 

 

 

問いの最も起源的なもの、それは、「そこに居ないこと」ではないだろうか。

 

 

しかし構えとは、問われることせずしてないのではないか。

なべて陳述は答えであり、それが述べられてから、それが問いの答えであった、とみることもできる。

 

生まれる。その「どこから」、「どこに」、が問われよう。

この具体性をもった問い、

 

しかし構えが必ずしもあるとは

 

 

傾向の、よく傾向から離れた事例について。その危険。

 

問いは完結しないという点で、存在的に浮ついている。

 

収斂した意味を、解答としてあれこれ想像するが、その

 

 

その構えとは。

それは存在に問いかける態度を次第に得ていく。

 

 

持たないがため、

 という性格を帯びる。

 

_____________________________

 

    論理学研究

 

・ではない

 

「〜ではない」とは、「〜である・ではない」ということだと、普通理解されている。

「〜ではない」の仮借なき否定が、全ての「〜である」の意味を奪い、意味を咀嚼することなくその解釈を変えさせ、

吐き出すよう構えている。冷徹に。恐らく営むことなく。

否定するものが飛び込んでもこないとき、否定は、何をしているのか。何がきてもいつでも否定せむと、頑張っているのか。

むしろ否定は、全ての言表の誕生に誕生を共にする、旅行者なのか。ある肯定がないと、否定は存在できないのではないか。

全て否定は、有意味でなければならないのではないか…

 

言表されるべき意味は、予めの意味である言表にその意味を借りる。また言表は、言表以前の意味に投げ込まれる。

それは、きっと読む人のうちに。発した人のうちに。

むしろ言表化以前の意味が、言葉として時間性を得る仕方については。

 

言葉が読まれるときには、その読まれる言表の延長性が、文字の輪郭を線で追えるまでに抽象化される。

この線を辿ることが、自ら持っている曲線に照らして、その文字を特定する。この営みは時間的でもある。

むしろ持っている線そのものが文字にまでなったとき、それはもはや非時間的に読まれ、

次の時間性へと移行する、次の文字へと。

文字が2つ以上並んだとき、読み手はもはやそれぞれの文字の形状を把握しきっており、

一つ目の文字から二つ目の文字への移行、それを目で追うとき、つまり時空的視界の時空的移動とは別に、また異質に、

文字の間隔、文字の固有化のためにのみ、空間を若干利用する。

その利用の仕方は、他のどんな間隔にも関わらず、それが文字の間の隔たりである、という確信を、

「文字をそれぞれ連続して読むための意味」に拠っている。

この意味は、文字の間の空間のみを限定して意味しており、それはほとんど純粋に空間的な意味である。

文字の間の空間が、その文字付ける   と意味されており、

どのくらいの空間の幅で、それが一連の文であるか否かが、判断されるのか。幅によってその空間性は連続性

ここで「意味」の定義が危うくなってくる。意味とは、何かを意味するのか。

 

一方、言葉が聴こえるときには。耳に届く単一の騒音―それを数ある音に輪郭づけるものとはなにか。

音を聞き分けることと、音の意味を理解することとは違う。

必要な音の輪郭内の音は、騒音のままである。音は時間的であることは疑いようがないが、若干空間的でもある。

それは音を考える限りのことであり、音は配置される、予めイメージ的に輪郭されていたものを、音として輪郭づける。

音による輪郭の強化によって、ますますものはものとして、多様性を失ってゆく。

生が、輪郭とその間、その間隔を生きるようになる。

それだから、イメージにおいて解き分けられた意味形象を輪郭する音以外の音は、雑然とした騒音である。

耳が把握する目の前(もちろん後ろも)空間性において、そこに聴き出すものが、

音響や近くの音の影響によって常に多様であるにも関わらず、それと特定するのは、

 

諸感覚はその未だ輪郭づけられていない所与をイメージに委ねる。この段階での時間性は、0である。

しかし、これに意味が空間性、時間性を与えるのでは決してない。

思惟している意味が、やってくる。

目の前の情景ならびにこの意味と感覚所与との一致したものだけが、イメージされ、

イメージという「浮動する時間性」「曖昧な空間性」を浮動したまま、曖昧なまま受け入れる場、

それが意識なのだ。

無意識とは、もともと/脳に許された空間性と時間性との操作によってはイメージができない、そういった事態である。

時間を越えて、思惟されていた意味は、それが時空的であり、またこの世界で可能な空間性、時間性に一致したときのみ、

意識の場に現われる。

これら述べたSFを正当化するように努めよう。意味が必ずしも時空的でない、という可能性は。

それが脳において思惟されうる、という可能性は。それが思惟可能でも、目の前に、世界に、存在し得ない、

脳が世界を、イメージさへも超えている、という可能性は。

およそ理解しうる意味とは、時間性と空間性との多寡によって形式づけられる。

それは、後に見るように、脳がそうなっているから、という根拠によらずに、哲学的に証明すると、

 

意味が、その時空性を異にした別の意味と、

 

どうして思惟していた意味と感覚所与との一致が判断されるか

 

感覚所与に一致する 目の前存在に一致する

音と線による輪郭化

心の声

文字列を読むのに、この限定された意味が前提されているとすれば、それはア・プリオリな

 

それがどんな空間的把握の次元を超え、の可能性を押し開いているので、それを非延長的に読み、

 

このことの可能は、のちに脳の研究で、より一層具体的になることだろう。

 

発せられた言表の読む人の意味側の働き

「投げ込む」とは、あまりに古い言い回しである。「投げる」とは、接触を避けることである。

しかし言表は、己を投げる、むしろ進んで飛び込んでいく。この飛び込みの積極性は、言葉の、時空的でない在り方に

耐え切れぬことに拠る。

 

言葉が記されたとき、紙、その上の文字、ペン、手、が、完全に接触している。

ペンは離れる

視線が文字に、鼓膜が発言に触れる。読む視線は、その文字と時間的にのみ接触を共にする。

空間的間隔は、理想的には、目が文字に触れることを妨げない、とする。

しかし、線分で表される、視「線」の空間的比喩形象。

また、視線がそれに拠るところの、身体の向き。

視線は、それが延びていって、ついには視力的な不可能性にも触れ続けるのか。

視線とは、比喩に過ぎないのか。それとも、線で構成された世界にあって、やはり線であり続けるのか。

持っている意味が、空間に顕在しているから、それを捉えるのは最低、「線」なのだ(むしろ線で十分?)

 

我々が捉えるものは、立体なのか、面なのか、点なのか、意味なのか。

立体は、見えない。このことは常識的である。

それが立体であるのは、それについての意味が、それを立体でなければならない、と告げているからである。

意味は、全てを整合的にせずにはおられない。

 

ここらで、脳における意味の在り様を脳科学から借りてきて、それを哲学的に解釈することを試みよう。

脳は、ニューロンとい神経細胞からできている。

ニューロンは、主細胞体、そこから延びる樹状突起、軸策、からなる。

樹状突起は、他のニューロンからの刺激を受け取る。ここまでは本当のことらしい。

刺激を伝えることのみがニューロンの役割だとするならば、それは触発されねばならないだろう、最低一回は。

それはいつか。

   ・・・

その一回において、刺激がニューロン間を走り続けるとすると、その走った軌跡は、まったく偶然的なものか。

脳がその隅々まで柔軟体であるとするならば、ある「外在的な」出来事によって脳が形態変化し、

結果ニューロン同士の間隔が変容し、同じ刺激でも反応が異なる、という可能性は成立する。

 

シナプスは、樹状突起にも直接作られる、というのが新しい研究結果である。

とすれば、シナプスとは、ニューロン内に位置的に任意に作られ、

基本的に他のニューロン樹状突起に神経伝達物質を一方的に送る。

あるニューロンの形態上、また体積上、それに伝えられるニューロン

(つまりもとのニューロンの周辺にあるだけでなく、樹状突起をそのニューロンへと向けている)の数は、限られる。

しかも伝えられるニューロンらは、もとのニューロンの接っせられる箇所がそれぞれバラバラだから、

その影響される度合いも速度もまたバラバラである。この影響される度合いと速度とは、

前者が細胞体の遠近に相関することから、この両者もまた相関すると考えられる。

ニューロンのどこにシナプスが形成されるのか、それは必ず他の樹状突起と接するところに、確実に形成されるのか。

だとすれば、それは「知」である。むしろダーウィンを信奉するならば、

そのような「知的」ニューロンを「偶然」数多くもった脳をもった生物が、より多くの情報の通いが可能であり、

より「知的」である、ということが結論されはしないか。

 

刺激は興奮性であるか、抑制性であるか、であるらしい。興奮は、伝えようとする。抑制は、伝えまいとする。

次々に興奮性あるいは抑制性の刺激が伝わってくる、その鬩ぎ合いにおいて、結局刺激を他のニューロンに伝えるのか、

それとも刺激を抑制のうちに抹消するのか、時間が割かれる。

この鬩ぎ合いの度合いにおいて、速く伝えるニューロン、遅く伝えるニューロン、

伝えないニューロン、がカテゴライズされる。

もし遅く伝えるニューロンが、軸策末にシナプスを作ったのならば、その伝達の遅さは最大となろう。

この伝達の持続のうちにも、神経伝達物質が次々に入ってくるとする。

あるニューロンが接しうるシナプス形成の箇所は決まっているから、この論の段階では、

その接しているシナプスから送られる刺激は一定持続している、とすると、

結局、もとのニューロンが刺激を送るか送らないか、は、決定されている。

それがいつか、どんな速さでか、も決定している。しかしIfの話は脱しよう。

刺激は一定持続して送られるのか。

 

・結論

 

ここまでで明らかになったことで、意味が果たして形成可能なのか。

 

これまでは一つのニューロンを見てきた。それは仕方のないことであって、

ニューロンの全体を考慮に入れることは、不可能であり、

従ってニューロンを論ずるときには、どうしても一つのモデル、一つの体系、を想像せねばならなくなる。

それを人間の脳の一部の一般的構造と捉えることは、脳の特定の部分が特定の領分をもつという事実から、誤っている。

むしろある事実、例えば手を動かす体系―これも複雑すぎて手(笑)に負えないだろうが―のように、

その機能が輪郭付けできるもの、ないし器官、作用、を対象にすべきではないか。

しかし実際のところ、手の機能は、輪郭付けできない。どうして、どんな結果をもってそれが「輪郭完了した」と言えるのか。

ではその機能の輪郭が完了可能な、作用とはなにか。それは、無限に連関するが、その連関が完全に把握可能で、なおかつ

その連関先を一切無視できる、そうした都合のよい作用のことである。

それは身体のうちには、手がそうであるように、求められない。

それは、なんと、連関の意味性、連関としての機能の有意義性を、極限まで除いていって、

残ったもの―デカルト的、フッサール的アプローチに求められる。ただしそれはコギト〜ではない。

連関の有意義性を除くとは、主題が、ますます主題として、輪郭付けられ、輪郭外の侵入から常に身を守る、

そういった主題の設定である。ここであくまで抽象的表現に留まるのは、

具体的な表現は主題と無関係な連関を数多く呼ぶからである。

当面は、そうした主題―硬く輪郭付けられた主題、の、「構造」ではなく―それはコンテクストを無視するから―

その非本来性における在り様、を考えていくことにする。

 

連関とはなにか。それが意味的に連関してゆく―ということを意味するならば、それは意味の存在を前提している、

あるいは、その外在性を証明しなければならない。

連関とは、「ナニカ」についての、連関である。それだから、ある主題があると、そこから抽象可能な要素全てに、

連関が生じる。より一般的に言うと、その主題に「触れうる」もの全てが、連関する。連関した副主題のさらなる連関は、

主題の与り知らぬことである。それは、副主題に触れているものからなる連関だからである。

 

意味論と存在論は、その第一義性をめぐって、互いに争っている。

「意味」…存在がなぜあるのか、その「なぜ」としての意味。

存在が存在として規定される記述において見いだされる意味。

存在の意味論的な、意味。

こうした見方をとると、全て意味は、存在に先立っているかのようだ。

存在が、その構えの意味に従って大別されるのだが、

意味は、目の前存在にも、世界・内・存在にも、どんな在り方をするものにも在る、

それはおそらく、それぞれ違う在り方(意味)で。

つまり意味とは、一方で、「在る」のである。そして全て意味は、「在る」という意味において、「在る」。

また「在る」は、その意味を、意味が「在る」という、その事実から汲む。

意味は存在するものの「在り方」であり、意味そのものの在り方からこそ、その在り方が意味をもち、

その在り方の諸様態から辿っていって、ついには全て在るものに意味があることになろう。

また意味は、存在するもののひとつの「在り方」に留まらず、「在り方」が「在る」のであって、

「在り方」それぞれが、それぞれ「在り方」をもち、それを可能にするのは、

在り方をそれによって分け隔てるところの意味である。

意味は、隔たっている、意味そのものによって。少なくとも「在り方」という語を用いるならば。

 

しかしある在り方は、「無意味」であることもできる。無意味とはやはり「在る」のであって、

意味の「在り方」が意味によって解き分けられた際、「解き分ける」という意味の、

解き分けられた諸意味的存在が、「解き分け」たところの意味に還元不可能な場合、

諸意味存在は、意味として存在してしまっているので、解き分けたところの意味は、無意味となる。

つまり、存在は、それ自身「在り方」であり、それが「在り方」に留まり、唯一の「存在」という絶対性でないのは、

存在とは、「在り方」であるか「複数」であるか、そのどちらでもあるのか、の究極の選択を前提している。

しかし意味とは、存在である。「存在」があって、「意味である存在」がまたあるとすれば、

前者は存在が意味であることを了解していなかった「存在」であり、こうして、少なくとも「存在」の「仕方」、

ないし複数の存在が在ることが証明され、さきの前提は前提という消極性から脱する。

 

仮に。意味とは、ある存在(の在り方)からある存在を「指示すること」であると、してみよう。

なぜこうした前提が生まれたのか、その必然性とは― 意味とは存在であり、その、意味である存在が、

意味として、それ自身ある存在の在り方の様態(相対性)であるからである。

それが相対性であるからには、その存在意味は別の存在意味様態から汲まれ、また汲ませている

(平面上の二個の点のイメージに拠る)。すると、指示とは、意味が絶対に様態に過ぎないならば、

必ず止め処なければならない、ということになる。

またなぜ、意味は存在を様態付けると言えるのか。それは、存在の様態とは、最低、意味のあるなしで在るからだ。最低。

ある存在は無意味であるが、その無意味は、元の意味として、無意味への至りを構えている。

この構えて在ることが、構えとして無意味であって、その無意味な存在は、なんらをも指示していないのである。

であるから意味とは、この段階では、有意味の存在が無意味(という様態)である存在を、

指示されながら指示すること、である。この逆ができないからこそ、無意味は意味を持たないのだ。

しかし無意味が存在の一様態としての地位をかちとっている以上、それは有意味を指示しなければならない。

そうでなければ、無意味は有意味という絶対性に指示される、様態とすら呼べぬものであるだろう。

それは一つの可能性ではあるが、ここでは「解き分け」という指示の仕方を導入することにより、

さしあたりその可能性を回避することにする。前提として、無意味は、有意味と同等に「様態」である。

しかしこの前提は、あとで吟味される必要があるだろう。

 

「解き分け」は、ここでは、ある存在を、有意味な存在と無意味な存在とに分けることである。

この解き分けることの必然性は、有意味から有意味と無意味とを同時に指示することであり、

有意味なものだけを指示するだけでは、無意味は永遠に指示されず、従って意味とは、

有意味の一義だけに留まるであろうから、存在は様態を全く持たなくなる、ということから導かれる。

この解き分ける存在の意味は、有意味であり、「解き分ける」という意味から

「解き分けるがそれは無意味である」存在を、少なくとも指示する。

この無意味である存在は、解き分けによって初めて生まれたのではなくて、すでに有意味と無意味とを、解き分けたのである。

それら解き分けたものが、別に有意味と無意味として、事実として解き分けられているから、その解き分けはもう無意味なのである。

また、このとき、解き分けは、解き分ける己をも「有意味として」自己指示するから、解き分けなのである。

こうして解き分けによって、有意味と無意味とが指示された。

この自己指示は、解き分けている自己を指示する。その場合、解き分けは、

無意味(すでに解き分けたもの)と有意味とを指示するが、

奇妙なことに、こうして指示された両つは、もう既に解き分けられたので、自己指示したところの意味は、無意味となる。

しかし、自己指示した有意味の方は、有意味であるのであって、ここでこれを説明するために、いくつかの説が挙げられる。

 

仮定〇惻┐靴唇嫐は、無意味から有意味へと、更新される

 

この場合、更新される手続きは。

解き分け(有意味)が自己指示によって無意味になり、新たにその解き分けた一方そのものとして、

有意味として己を更新する、ということである。ここではまだ時空の助けを借りないとすると、

解き分けた際、その際に解き分けは「すでに解き分けたものとして」無意味となり、解き分けられた、

「未だに解き分けるもの」として有意味となる。この様態変化。ここではこの事象の説明が、様態の変化だけで済まされた。

そしてこれは、新たに有意味や無意味を設定する必要がない、まさに様態が「有意味か」「無意味か」だけで定義される、

それ以上意味の広がりようがない、意味論である。あとは、これを装飾していけば、

やがては我々の日常へまで発展できるであろうか。

 

 

´しかし。ここでは時空の助けなしに指示を説明しようとしているが、

自己を指示することで解き分けが完了するわけではない。

それは無意味と有意味とを指示しなければならないので、

まず己が、解き分けるものとして、自己を両分しないのであれば、

己を先に無意味として解くか、有意味として解くか、であるが、

この両方は共にたやすく否定される。

存在が無意味となるためには、解き分けたものが、また解き分けようと志向し、

それがすでになされているがために、解き分けるものとして、そうなるのである。

それだから己がまず「様態として」無意味になること、が意味することは、

それが無意味となるだけのプロセスを踏まずして「無意味となる」、つまり、

解き分け先すらない、無意味である由縁(意味)が、まさに「無意味」なのである。

これは新しい一つの「無意味性」として、心に留めておこう。

 

必要な議論 この「様態として」「無意味である由縁が無意味」であること、に至るプロセスとは。

自己指示しているその状況は、

一度、己が無意味になったのならば、それはもう解き分けることをしないはずである。

少なくとも自己指示のみによって様態を変化させようとするのであれば、そうである。

なぜか。

詳しく言えば、それは自ら有意味になろうとすることで、己が絶対性を逃れようとするのだ。

しかし、もしそれが出来るならば、有意味と無意味との意味的区別はそもそもなく、全ては有意味であり、

無意味とは在り得ない、ということになろう。意味的に、無意味と有意味とは、

隔たっていなければならないのである。どのようにして隔たるのか。

無意味とは、解き分けをしないことで無意味であるのではなく、解き分けようとするが、

その解き分けが無意味であることに拠る、ということは、先に述べた。

この仮定,両豺隋△修里茲Δ幣況は起こりうるか。

己を指示しようとする。しかし指示しようとする己は、無意味という様態である。

それだから無意味は、無意味を指示している。それだからこの指示は、無意味なのである。

 

これが有意味の場合。

己を指示しようとする。有意味は、有意味である己を指示したもの、であり、指示された有意味は、

指示という契機によって無意味に様態変化しようとする。

指示した有意味が、有意味を指示したのに対し、その指示された有意味は、無意味になろうとしている。

まさにこのとき、有意味は無意味になろうとする有意味を指示しているのであって、

有意味はそれが有意味であるとき、直ちに無意味になろうとするものであるから、

「無意味である己を指示することによってまさに己が無意味である」ようになることを目指す。

しかし己はすでに有意味なので、逆に、「指示することが無意味である」ことを目指すのである。

存在はまず有意味であるので、その存在が無意味であることを、指示しようとしても、それは無意味である。

その指示が、指示することが、無意味である。

無意味であろうとすること、という有意味の傾向に、有意味による指示は己を反して、むしろ裏切って、

どこまでも有意味な自己を指示するのである。指示は、どこまでも「指示すること、をする、している」である。

概念などではないのだ。有意味は常に指示している。自らが絶対であることを避ける「理」に導かれ、

それは常に指示している。しかしこの「理」が絶対であることを避けんがため、理とは、それ自身で存在する

ものではなくて、有意味の「主観」なのである。有意味は、己が有意味で厳としてあることはいけない、

と主観している。この主観は、さしあたり最低の段階を目指すのなら、己でないことを、目指す。

「無意味」については、知らない、知る必要がない、最低限の段階では。

己でないこと、それはその主観にとって己でないことであって、論理的な「非・自」とは違う。

ではこの主観にとって、「己でないこと」とはなにか。

 

最低限の主観、それは、「ナニカについてのナニカである」ことである。しかしこのナニカは、当然、空疎であり得る。

「ナニカについて、である」、つまりそれは絶対では有り得ない。「私についての」、なるほど。

しかしそうでなくとも良いではないか。それだから、この「ナニカについての」、を留保する。すると、「ナニカである」は、

「ナニカである」ものども全て、それが「ナニカで」、その仕方で有り得る全て「について」を、「ナニカである」。

つまり、「それが『ナニカである主観的理』に照らされた全ての可能な『について』は、ナニカであろうと主観するならば、

その理を主観し、その主観の仕方が『について』であり、その仕方の様態毎に主観がある」のだ。

「理」を主観的としたのは、もちろん絶対性を避けるためであるが、それが「理」なのは、まず「ナニカであ」り、

そのことによって可能な主観を狭めるからだ。可能性を狭めることが、「理」である。

主観もまた構えを持つ以上、それは理である。それも主観的な。

 

しばしの脱線を許されたい。

「ナニカである」理を、主観的に定めるところは?

それはまた最低限な、この有意味にとっての絶対であり、主観、絶対的主観である、のか。

理が無限に主観的なものである以上、その根から発する意味論の派生態は、無限に論じられねばならないのか。

いや、主観とは、それらの絶対的理としてのそれに留まらず、むしろそれらからも理られ、互いを規定し合い、

時に膨張し、揺れ動く一つの体系的傾向なのだ。このことは後で論じられよう。

 

理に「について」を照らす、そんなことがこの最低限の意味の次元で、自動的に可能か?

そもそも「無意味を目指す」だとか、「絶対性を避ける」だとか、の理は、なんのために?なぜそうでなくてはならぬ?

意味を論じるうえで最低限であるのは、「意味があるかもしれない、またそうでないものも可能かもしれない」、である。

この「ある」は、「在るという仕方で、ある」を意味しない。存在論外の、意味論なのである。

すると全て存在性は頑なに排斥される、ないしは存在論的には存在するものでも、

それが存在するという仕方で在る、ということを無視する。前者は存在論を前提し、後者は存在論以前である。

ここで、理なるものが出でてきたので、これまで固く守ってきた絶対様態性が、危うくなる。

そこで、この意味論は、その最低限の意味論を存在として包する、意味にとっての絶対性を認めねばならぬのではないか。

なぜなら、理とは、「ナニカである」、そのナニカを定めるものであり、あるいは傾向させるものであるからだ。

しかし、ナニカの方から、自ら定まりにゆく、ということは、この絶対に単純な意味論でも、不可能ではないように思える。

主観的理、すなわち「自らであってはいけない」こと、ゆえに、脱自を目指す。理とは意味の主観であった。

その主観が、「自らであってはいけない」ことは、自らであることが、「自ら絶対であること」、唯一の他の様態としての無意味

があることを、「知っている」、あるいはそのように振舞う。更には、「自ら絶対であること」を避ける論理、

「私は一様態でなければならない」、この「でなければならない」、という性格に、その傾向は貫かれている。

これだけの前提を含まねばならぬのである。しかしこの両者のどちらかというより、むしろ…

 

この意味論においては、有意味は、主観を持つ。その意味は、

「意味のようなもの、またそうでないようなもの、について、意味である」「かもしれない」である。

有意味は、己である「意味のようなもの」外ですら、「意味である」のだ。その「外」は、前論理学として、有意味にとっては、

自分であるようなもの・でないような、としてあるのだが、それがまさに己である、ということである。→

つまり、有意味は記号に置換不可能で、「自分であるようなもの」の「ような」部分を、自分に浮動する。

有意味は、自分に浮動し、従って自分(有意味)が浮動するのである。

置換不可能と言うのは、自分を浮動する自分と、自分に浮動される自分と、浮動される自分を浮動する自分と、

それら全浮動が浮動する自分であるからである。

例えば、自分を浮動する自分は、自分をxと置いたとき、xは集合xの要素であり、しかも要素xが浮動するということは、

集合xが書き換えられる、ことを意味し、集合xの変化は、要素xの変化と恒常的に全く同じでなければならず、

そうすると集合xは要素xと一致する、という奇妙な結果が得られるが、これは意味論的にはまるで当たっていない。

意味論的には、自分とはまず最低、「指すことが可能なもの」である。それは「自」であるが、その由来は、それが

あらゆる浮動のうちで、唯一として指すことが出来ること、である。

「自分を浮動する自分」とは、指され、指されることによって「ようなもの」から「自分」へと脱し、

浮動することは、未だ指されていない「ようなもの」を浮動するのであり、しかしそれは既に「自分」であるので、

それは指されており、それによって浮動するところは「自分」であり、それでもまだ自分が浮動するのは、

指されたものが「ようなもの」の意味的に指すことがまだ任意にならざるを得ず、指され、自分が、ナニを「ような」ではないか、

まだ自分において、浮動する余地がある、ということである。

「自分」は、指されることで初めて生まれるのではなく、「指すことが可能なもの」なのである。

自分が指されることで、指す側のものは「自態」を得る。以後「自態」の「態」が「ような」のうちに変容しても、それが自と

「自態である自」として最大に、あるいは「自態であるかのような自」として控えめに、一致し、その諸様態のうちに

自は浮動する「態」として、「ような」を浮動することを、かろうじてする。

しかし指すこととは、どうやって?全ては態であるはずだ。しかし全てが等しく態であるとは、決していえない。

まず、最低限とは、それが最低であるがゆえに、態を展開する余地がなければならないのだ。そのように最低を設定する必要がある。

一面の真っ白、このような最低でさえ、あえての真っ白であるがゆえの、因もしくは意があるはずで、

論は一気に前者ならば因果論、後者ならば主観論に発展する。因や意などない、と主張することは、もう因果論や主観論に足を

突っ込んでいることである。

 

真っ白とは、導かれた真っ白であり、考えられた真っ白であり、考え続けられている。

誰に?どうやって?セッティングは、それを考え出し、進行的に考えているところのもの、

またそのものがそこから(世界?)かんがえているところのもの、その状況、との並行なしにはあり得ない。

それだから、これまでの意味論を転倒させる必要がある…

 

・再び、意味論へ。

 

>意味は、目の前存在にも、世界・内・存在にも、どんな在り方をするものにも在る、

>それはおそらく、それぞれ違う在り方(意味)で。

>つまり意味とは、一方で、「在る」のである。そして全て意味は、「在る」という意味において、「在る」。

>また「在る」は、その意味を、意味が「在る」という、その事実から汲む。

 

ここでは、「在り方をするもの」は全て意味を持つ、と考えられている。誰に?

それは最低限、この転倒的意味論にまで導いたところの前・論をその全てとしている、導くことができたもの、である。どこから?

それは最低限、この転倒的意味論が、むしろこの意味論中のものを所与として、それによって指示されるという仕方で、

描かれるだけの、最低の世界、である。

「誰に」は、意味論に指されている。誰に?、と問うことが(実際こうして問われている!)、

その意味論にとって、それが考えられたものであることを印付ける。

しかし誰に?は、二通りの意味がある。まず意味論が、そこから導かれた己の転倒的意味論にのっとって、初めて「誰に?」、

と問うのであるが、その誰に?は、今までのような演繹によってもたらされ規定される、意味論の展開でしかないのか、

それとも、誰に?と問われたものが、それ自身意味論的展開であるとしても、その「誰」がそのような展開を導いたものとして、

意味論に指されるのか。前者においては、「誰に?」の回答は、その意味論中のみの所与によってしか構成できぬであろう。

しかし後者においては、その考えた「誰」の、「どこか?」「どのように?」が問われ(なぜ?)→供

また「ここ」「かのように」が一般に指され、一気に「誰」の最低存在が、

その今ある状況(論じている状況)からの所与によって形作られるのだ(「論じ」については犬鮖仮函法

その所与により、所与されるところのものとして、その被所与が可能なものとして、最低、「誰である」。

それだから、「誰である」ことは、所与された全てを言っているのである。

しかし、「どこか?」「どのように?」が、意味論中のものを所与として、「非・誰」である全て、

誰?を囲む全てであるとするなら、それによって再所与されるところの「誰」は、意味論に指されはするものの、

意味論中のものを所与としない、ということになるだろう。

「誰」が指されるからこそ、「非・誰」としての「どこか?」「どのように?」が可能になるのである。

しかし「誰」を指すことが、全く意味的な所与を伴わないようにし、「どこか?」「どのように?」を指すことには、

所与する、こういう自動機構を、意味論は構えているのだろうか。

それとも、意味論が、「誰か?」や「どこか?」を指し分け、それに応じた所与を被させる、自動機構を構えているのか。

いずれにしろ、このような差別は、もちろん偶然ではない。「自動」である。

果たして人間の意識とは、論の断片からなっているのか?もしそうなら、脳科学者と同じ主張、

「意識は機械的なものである」を、哲学的にも主張することになるのか?→

 

>論内から志向された自、、これは全て「誰である」。しかしまた、「どこから?」は、意味論中のものを所与として、

>その所与が、「論じている自」について最低まとわる条件を、最低に素描するだけである。

>しかし論内が「誰である」を志向しても、それが「誰?」に留まる、ということも十分に有り得る。

>転倒的意味論を前・意味論から導くことができたもの、が「誰?」の最低の条件であるならば、

>まず前・論を導いたところの存在は、問われる必要がない。なぜなら、まず、前・論は、

>それが生まれ育まれるところが論であり、その被志向性、つまり前・論の成長を志向する前・論・外がある。

 

否、ここで「外」を用いるのは危険だろう。もしかしたら「前後」も?

「前」は、育つものではない。「誰」が、生まれ、自らの起源を問うのである。その「誰」がおのおのに問いそれなりに導かれた

「自分・前」は、間違っていることがない。なぜなら。その「誰」はそれが在る、その全体性のうち、発見し得たものを所与とし、

部分とする。その部分の決定性に、他のあらゆる取り巻く部分が決定し、「誰」が多くの場合「自分」を発見するのは、

その周囲の決定の際、最初の決定が、既に非・自であるからだ。

それにしても、なぜ「誰」が必然してくるのか。「あるような」全てを解釈し、分節する際、それは「誰か」「どこか」など、

形式的な問いに従って、初めて有意味である、形式を満たした回答として、「あるもの」を初めて解釈可能な事態が生まれる。

「誰」を問わないことは、「誰」を前提としない賞賛されるべき態度ではなく、むしろ盲目か、頑なである。

そのような論は、永遠に問いに晒されるであろう、「しかしそれは一体、どこか?誰によってか?」…

論は、自らが論であるとき、その扱うものを、自律的に増すことはできない。限られた扱うものどもを、いろいろに配置し、

新しく意味づけ、連関を探り、「感情移入」する。ある扱うものに、「誰である」。

その「誰」「にとって」、別の扱われたものに対し、全てを他とするもの「である」。これは「誰」の主観である。

そのとき、元の論はいかに扱われるか。「誰」にとっての位置づけで、論はある。論は「誰」の主観世界(と言い切る。

なぜなら論が感情移入できるのは、論が扱うものとしてのナニカであり、論が扱いうるものを、そのまま踏襲する)、の、

ナニカであると同時に、「誰」は論の扱うナニカであることをやまぬ。つまり、論が感情移入する仕方は、

そもそも論は、発見されている全てに対し、感情移入するのである。そのことで、「ナニカにとってあるナニカはそのナニカである」、

つまりナニカ間の関係性が、「論にとって」定まってゆく。

 

論に所与が飛び込んでくるとき、

論はその所与の位置づけを、

 

このことを示す前に、「誰」はナニカをア・プリオリに持っているのか、いないのか、

そのことがどうやって知れるのか、を、意味論的に問う。「誰」は、それが最低の「誰」であるための、論を、持っている、

というより更に、それが「誰」を決定性として考え得るための、ナニカ―「誰」とそれ以外とが結局のところ分かれる、

そのような「それ以外」としてのナニカ―を、最初に決定するだけの「制約」をされている。

この制約は、「誰」の系譜に連なっている。「誰」は、生まれるが、「誰から」生まれるのか。

それは明らかに、そこから、生まれたのがまさに「誰か」である・「誰」と呼びうるものである・「誰として」認められるものである

ところの「誰」を、生まれた「誰」から分かつところの、常に生み続ける「誰」である。

この生む「誰」は、その及ぼす業全てが、産出である。すなわち、自らでないところのものとして、いちいち生むのである。

この「誰」にとっては、自分とそれ以外、という極図が、決定的なのであって、この「それ以外」として生まれせしめられたものは、

その極図をまた持つ。なぜなら。その生まれたものにとって決定的なことが、なにか一つでも定まったのなら、

別のものは(なぜそれが別であると分かるのか?)、その一つを相対どって決定される。→未決定性

「『誰』の系譜に連なっている」と言った。「誰」が、自分の似姿、ないし他の決定の近似的性質・近似的形状が彼の全てなのに、

そこからナニカ全く別なものが生み出されうるのか、当の本人にとって知ってか知らずかを問わずに。

確かに別のものは生まれうる。それは、意味の比喩形象においても、形象そのものにおいても、曲線の諸構成によって、である。

 

彼は、絶えず、曲線の比喩形象の目まぐるしい変容の中、生きている。ある決定が、決定に及ぼしたとき、その及ぼしは、

同様で有ることは全く有り得ないだろう、その及ぼしの契機が契機に、ずっと連なっていて、再び元の決定が契機「ではない」、

などということがあろうか。しかし、ニーチェは、それを円環のイメージに還元してしまったけれども、

未決定性を扱うここにおいては、事態はそう単純ではない。決定性は、しかしそのように単純に見え得たからこそ、

そのように決定されたのである。このことはまた後で論じられよう。→未決定性

 

しかしもし決定が複数あったのなら、困惑するだろう、その唯一つの決定性に、帰属させるのか、様態付けるのか、

帰属するのか、同列に扱うのか。これら可能性は、まず唯一の決定性があることによってのみ可能である。

 

 

生まれた「誰」は、生んだ「誰」とははっきり分かたれねばならない、なぜなら、生んだ「誰」を、生まれた「誰」が

全く指示しない、となると、意味論的に、その生まれた元、生まれた事実さえ無視されることになり、

生んだ「誰」は、「なにを生んだのか分からない」。生まれた「誰」は、生まれたのではそもそもない、という論理に陥るからである。

それが言い過ぎならば。生まれた「誰」は、「生まれた」という事実を、どこから了解するのか。

了解する必要などないのではないか。それを了解するだけの十分な複雑さをもったものが、生まれて、まず未決定性に投げ出されている。

 

 

「誰」は、「誰」から生まれるのではない。ある「誰」が及ぼした、その作用は、作用の結果を、

「誰」に、「誰」を囲むものに、決定する。「誰」が及ぼした作用は、「誰」にとっては、彼にとってのある決定に及ぼすのであって、

決して新しいものを生みはしないのである。むしろ、彼は、ますます生まなくなっていく。

なぜなら、「誰」を囲むものは、ますます結果に決定されていき、その限られた決定の中で、彼は生きるのである。

それでは、成長とは。また、生むとは結局何を意味するのか。

「誰」の及ぼしは、知らず、彼の知らないところまで及んでいる。それでも、彼がそこには生きてはいないけれども、

 

 

 

もはや「誰」と決定しているこのものにとっては、

 

そもそも及ぼすとは、どんなことを言っているのか。

 

それを囲む全てを、さしあたり生んだもの全てと了解し、それに指示されるがまま、

 

しかし決定的なものの移行は、

なぜそうなったのか。

 

もしその制約がなければ、「誰」である様は、肥大し、あるいは萎縮し、それはそれでよいのだが、そもそも「誰」と

区切る意味すら無くなってしまうのではないか?

「誰」は、その最初の決定において、如何様にも変容しうる。

自は、指されているのである。

 

非は、次々と非・自として決定されていく。その非として、

ますます自がはっきりとしていく。

 

つまり前・論全体を「前」として、それを絶えずその「前」からの所与をもって、「誰」がそこにおいて可能な、

最低の環境を常に所与し続けるからこそ、それは「誰」の「前」ではいられない。

「前」は、その「誰」によって、「誰」の誕生によって、初めて論じられるのだ。

 

否、ここで「誰」を前提することは危険だろう。「誰」も「前」も前提しない、

 

「前」からの志向、自外へ向けたあてなき志向、「前からの」志向、その志向は、志向方向を遡って「前」の志向した部分、

を発見するだけの、最低の、「誰?」とも問われぬ思惟を示唆する。

この思惟は、前・論のある部分を己に志向される、というより、前・論の部分部分は、

それが志向する先までは問わないにしても、それが十全な志向となり得るためのある指定を予め秘している。

 

論内から志向された自、それが論の内の存在に過ぎないとしても、それは志向される。なぜなら、論の己が内では、様々な部分が

指示しあっており、この指示しあうことは、部分が己を部分的・全体性―とにかくその論を全体とするが―に対して、

自由に解体・再編成するものだから、指示可能なもの、つまり「自」は無際限に考えられる。

しかしそれは、最低の「誰」を意味しない。

また論は、前・論と呼ばれたものは、「誰?」と問うことができるまでに、つまり「誰かによって」が必然的になるまでに

十分になったとき、それは「誰?」と問うことなしには、「誰かによって」それ以上成長することはない。

その問題こそ、「誰によってか?」を論ずる論の段階、言ってしまえば成長、転倒となるのである。

 

しかし。「誰に?」と問うていることは事実だとしても、その必要性はどのように成長されたか。

論が、「誰に?」と問う事を、上では主張しているのである。「問うこと」それ自体は、論に果たして出来るのか。

「誰かがまずあって、論を論じる」という素朴な考えは捨て去られるべきである。

こう進行している、その進行は、論と論じているものとの境界を最低とするのか?→

 

 

 

 

 

何一つとして、確かなものはない。確かなものはない、ことさえ非。不確定。

論、とはそんななか、非性不確定性によって部分として限定された、「全体」を言っている。

この全体の中で、この論の中で、全体・外に対し相対的に確定され、従ってそれは全体内で絶対を占めている、そんなものがあるのか。

論じているときにのみ、その「論じ」を「巻き込む」「とき」は、不確定ではあるものの、全体的で有り得る。

その全体の部分は「巻き込まれ」、「論じ」を臨界とするが、「論じ」は多分に一般的であり、

例えば「論ず」「ところ」すら、「論じ」である。要するに、巻き込まれた部分は全て、「論じ」であるのだ。

論じとは、ナニカを論じているのか?その必要は必ずしもない。なぜなら、「論じ」は一般的であり、巻き込まれた全てを

部分とする役割に徹し、その肝心な「論じ」はナニも論じていない、むしろ「ナニナニを」論じている、という志向性―

そのナニナニがもし無かったにしろ、それは「『を』論じている」限り、論じを外に開けておくことで既に志向的である―

すら、その「非」を極とする連続性である。つまり、全く志向的でない「論じ」は、巻き込むものすら持たないことになる?

 

「私」と論中に書かれる事実

 

この一般性の臨界を超えたところ、「論じ・外」

 

論外などなく、論は伸び広がって

 

・最低存在と自態

 

最低の誰に?は、これからいくらでも装飾されうる最低として、その装飾化の可能まで、むしろある程度装飾されたものである。

論の部分は必ずしも未だ論であるとは言えず、その部分は「ナニカについて部分であ」り、そのナニカを、部分は

そのゆえを求めるような形で、自外へ放つことで、ナニカについて部分でありえる。

部分は、いずれにしろ部分・外を志向するのだ。すなわち、その部分であるゆえん、部分・外・全体性・部分、ないし「誰か?」。

この両者の関係はどのようか。

論は、意味的に沿って破断(解釈)されるのみならず、それが意味している最中の、まさにそのときそのところを、破断されうる。

>その可能、まず、さしあたり意味的な部分が、部分であるゆえを外に求めたとき、その外が、

>その部分だけしか由縁付けなかったとしたら、それはナニカの部分としての、部分ではない。ただ、部分としての部分である。

>この由縁付けとは、誰?にとってその部分が、まさにそのものである、ということである。それが部分として、か否かは問わずに。

>その誰?にとっての所与としての部分は、全く意味的に異なる、それが論のうちにあったところの分割可能性とは違うところにある、

>そのところにおける部分として、分割可能である。それはむしろ、「誰」の部分でさえある。

 

部分であるゆえ、由縁など必要なのか。むしろ由縁があって、それが「誰」を初めて導いているかのようだ。

「誰」にとっての由縁(である)。「誰」からしてみれば、部分が、なぜ全体の中で、部分なのか―いや、

ある「ナニカのような」、が輝きだし、その輝きが無視できなくなるほどになったとき、それはなにゆえなのか…

その輝きに照らされた周囲に感情移入し、その周囲のナニカにとって、その輝きである、つまり「誰」にとってそれは

「ナニカ」としてしまうのである。

誰の存在を前提しているのである。しかし誰は、間違いなく、ある。ナニにとって?

 

「ナニカについて部分である」ために、最低、それが部分外としてのナニカを最低に全体化し、己を所与として、己が、所与として

整合的に在り得る、そうした最低条件を、求めるのだ。

部分が、ナニカを最低に全体化するのである。その可能は、まず己を所与化し、その被の当てを知ってか知らずか、

あるいは自動的に―、やがてそれとして指され得る限りの、そのような全体を「奇跡的に」発見する、そうした可能性がある、

というところにある。しかし、「それとして」、その部分を指すところの全体性は、有り得ないのだ。なぜなら、

全体は、その内で、それが「それ」つまり部分を、いかようにも「他の部分にとって」と解釈(感情移入)でき、

かえってそうすることで初めて、「それ」をあらゆる方面から、主観し、認めるようになるのである、

あくまで一部の「他の部分にとって」。

 

その瞬間、やっとその部分は、それを部分とする全体に所与し、それはまさに奇跡である。

 

 

このナニカが、その部分についての条件であるならば、

 

意味そのものが破断されている、それが意味を持とうとする傾向は、それが「無意味」なのではなくて、

「意味では有り得ない」であるから、この有り得ないことは、その都度「その意味では有り得ない」ことになり、

すると、積極的に解釈すれば、つまり「その」は一般性における様態に過ぎないとすれば、

それが意味で有る、別の様態としての「その」、が有り得ることになる、ということが、広げられた様態をその「非現実」において

占めうる、というところにある。しかし、いちいちの都度において、「その意味では有り得ない」が貫かれているとすれば、

「どこに」その意味で有り得ることが、有り得るのか。意味が破断されるとは、もちろん意味が諸意味に分割されることではなく、

つまり意味が、内包と呼ばれるものに還元されるのではない。その内包が、それを内包とする外延を、かえって内包的ナニカとし、

―つまり、外延は内包に対し、一般性をもつとされるが、内包は、その一般性を一要素として、様々な外延にまたがっているので、

内包は外延を、一義にナニカとして決定する。揺れ動くのは内包で、いちいちの限りなく理念としての事実に漸近する内包が、

外延によって構成―それまさに、要素による構成―されていて、その事実関係のために、ある外延を取り入れたり、排したりする。

 

 

より普遍的な未知の意味に、組することである。意味は未知の意味に対応する、

 

「その意味では有り得ない」、まさにそのとき、「その」が指され(誰に?)、同時に「その」の「有り様」が開かれるが、

指された「その」は、破断された意味について「自態」である。これは「自態」の限定的主観である。

そして「その」と同時に問われた「有り様」が、意味の破断部分を具体的に閉じる。

「有り様」は、最低として、意味的に意味の破断部分を、全体性として有り得るように、否、「ように」(目的性)ではなく、

「全体性として有り得ること、そのもので、ある」。

ある有り様である意味だけが、その有り様として、その有り様を部分とする部分外、またその様態がそれの様態であるような様態性、

といった二つの仕方で、顕在しうる。

 

「その」は指され、指されている限りで、「(指している未決定性としての)『その』、『自態』」である。

ナニについて?その答えこそが、「その」の主観である。

「について、自態である」。「自態であること」は、「その」が、未決定性にとって、「その」の「有り様」でありうるような「様」の、

全体性・外を、「その」に、未決定性にとって。自は、態を浮動する。態は、自を浮動する。その意味は、「自」は全体性・外を

指され、それがその自の全体の、初めての全体であり、その全体を限り、浮動する。その全体を浮動することの全体が、態であり、

態は、浮動する全体である自を、その態である限り、浮動する。

未決定性、は、「ナニカについて未決定である」、つまり主観的である。このナニカは、逆に未決定性が指示可能な自態へ指示可能、

全体性・外、全体性・外の、意味的な全体性・外、のうちの、「外」を初めて定める「自」、によって、ナニカとして、

全体の内のものとして、初めて、「ナニカ」な。つまり、未決定性の、そのゆえに未決定な、

自態の指された全体・外・部分的・全体性、が、未決定に初めてあり、そのあることは、指され、自態し、全体し、指されながら、

指すものが未決定として、全体化・部分化した「その」に、相互志向「ナニカにとって、また逆にナニカについて、初めてナニカ」で。

この相互志向は、主観、被主観を含んでいることが明らかにわかる。

 

そこで、先の問い、「その」はナニについて、である、のか、「その」の主観性を、今一度問う。

「について」とは、「である」ことの、限定ではあるものの、その限定とは、「ナニカの限定された一部」に留まらず、むしろ

「ナニカの、ナニカで可能な、すべて」を言っているのである。それだから、「その」は、自態「であり」ながら、

それがある自態に留まることが許されぬのは、ナニカつまり全体的・部分性、を、指されることで。

つまり、「その」は、「そのである限りの可能な全て」ではなく「ナニカとして可能な全て」、

指される元が「ナニカ」という準未決定性なのである。それだから、自態は、ナニカを決定することで、自態自体、

その都度自態が変わる。自も態も変わる。自態が変わることで、ナニカは「自態である」ことに「ついて」、限られてくる。

「その」の、「について」が自態を超えた場合、それは存在を言っているのである。

また「である」が自態を超えている場合は、それは主観のうちに全てを収めているのである。

しかし「ナニカについて、自態である」と言うときの自態は、ナニカに次いで、

自己を維持している。この自態が自己を維持できるのは、定義のまさに途上における一瞬である。

すなわち、それは自態であり、それはナニカについて。ナニカについての未決定性が維持されている限りにおいて、

自態の方では、ナニカに拘らず、自態そのものである。この自態が己であること、が一瞬に過ぎないのは、

未決定性が、主観的であり、つまりナニカについて未決定であるから、そのナニカは、やはり「ナニカとして」準未決定であり、

この「準」のゆえとしての「ナニカ」という規定、「ナニカ」はしかも未決定の表現である。

「ナニカ」という表現が維持される限り、それを基づく全ては、半ば未決定であり、未決定であるがゆえの、自己をもつ。

ところが、半ば未決定、それはナニカに基づいている限りで、「半ば」未決定なのであり、

すると、「半ば未決定」とは、二重の意味で非・自己的である。

すなわち、第一に、「未決定であるがゆえの自己」は、半ばの決定性により、決定性にとって、

半ば未決定であることにより、崩れ去る。第二に、「決定性であるがゆえの自己」は、ナニカの決定に基づいているから、

そもそも自己ではありえず、こうしてこれもまた崩れ去る。

 

では自己とは全く有り得ないのだろうか。こうして語る語は、それ自体、未決定―決定の間を、浮動している、のか。

その間の決定は、ナニに拠るのか。否、「未決定である」とすることが決定そのものだとしたら?

完全な未決定とはなにか。それは、まず「未決定である」という表現を導きの糸とする。

未決定は、「である」のか。「である」かどうか決定できないからこそ、未決定なのではないのか。

もしかしたら、いやほとんど確信的に、それが「未決定か決定かどうか」さえ決定されていない、のではないか。

「決定されていない」ことは、一つの決定である、とすればどうか。

「こと」、と意味的になされるようなものではないのだ、未決定は。「こと」ではない、また非「ではない=である・ではない」。

未決定の「未」、は、「である・ではない」を意味しない。未だ決定している・ではない、でなく、「未だの決定」。

「未だの決定」は、決定の様態のようなものではない。決定は、どこまでも「未だの決定」に変容し得ない。

なぜなら、決定は、最低、意味論的な「で」、である。「で」より以前を、了解し「決め付けて」いるのである。

「で」を欠きうる、「非ナニカ」が、未決定でありうる。

「で」は、「ナニカ」化し、最低、「ある」を潜め、最低、「存在」を表現する。

「ナニカ」は、決定を望む。なぜなら、それがナニカである以上…「である」以上、それは則らずにはいられないのだ。

基盤に、原初に、展開に、分枝に、結果に。これらに則らずして、どうしてナニカでありえようか。

これら則った「ナニカ」から、「非ナニカ」「未だの決定」が初めて考えうる、かといって少なくとも、

「未だの決定」が原初的ではない、ということにはならない。「非」とは。ナニカを否定するものである。もしかしたら、

「ナニカであること」をも?非の射程は根深く、その究極は、「ナニカである、ことの非、ナニカでありうる『則』の非」。

非は、則ではない。則に拘らず、そのどこで、そのいつ、しかるべき、そういった則の、悉くの非。

則のない、非。現われるための則さえ、非。しかし諸則とは、対等でないからして、それぞれに否定されうるが、

それら諸則を一まとめに非すると、どうなるか。「非」の意味性が、それぞれの則の、「非され」の仕方を無視し、仮借なく、非。

「非され」の仕方は、その則の意味内容に沿って決められるべきなのに、それにも拘らず、一まとめに非、される。

「あるような・ないような・どちらでもないような」、な最高の一般性に叶うだけの、貫く非に、まず「ある」だけの則は、

非「あるような・ないような・どちらでもないような」されるものとして、非される。すると。

それは「あるような・ないような・どちらでもないような」の、「ある」ことのみを有意味に否定され、

「ような・ないような・どちらでもないような」は、意味のない非であり、しかしそれは確かであり、

非によって生まれた、新たな産物である。その則についての、非が生み出す、「ような」。

全ては、「あるような・ないような・どちらでもないような」諸の、「ような」非、つまりそれぞれの様態的非性、

を増すか留めるかして得られるとすれば、一まとめの「非」するとは、

その様態的非性によって既に非である性は非することが無意味であり、有性が非されるそのプロセス、

その意味、その連関が、非されたものとして、「非」にとって有意味である、という、

これはもう完全に「新しい体系」が誕生することになる。

 

しかし立ち止まって、様態的非性が様態的であるとき、つまり様態的非的様態性が、その様態性にも関わらず、

どうして一義に非されようか。非されたとしたら、その先の意味は。

様態性の導かれる必然性は、「ような」がすでに様態を表現しているので、「ような」の付きうる提言、

意味的にそれが可能な提言は、すべて「ような」を無視できない、というところにある。それだから、

「ような『あるような・ないような・どちらでもないような』ような」。この最初に付された「ような」が表し得るところは、

「ナニカであるような」ないし「ドンナにてあるような」、これから決定性を排すると、「ナニカのような」。

ナニカは、決してそれ自身で現象することは有り得ず、別のナニカがそのナニカに扮しているから、あるいは「ドンナ」が

絶えず付きまとっているから、決定性を欠く。といって、それはもちろん任意ではない。「ナニカ」の存在が、ドンナにかあって、

そのあらゆるドンナにて一致するような、別のナニカがある。それが別である訳は、そうでなければ、ナニカがナニカとして、

決定されてしまうからだ。ところで、この提言はこれまでの未数性(数まで至っていないこと)から脱し、具体的な個数、

1つなければいけないことになる。なんとなれば、ナニカはもはや唯一普遍であることが未決定とされ、最低もう別の未決定性、

があるかどうか、未決定となったのだから、最低、1なのだ。そしてあるかどうか未決定の別の未決定性、が、

数えられるものである限りで、初めのナニカは1である。数えられるためには?→

「ドンナような」、ドンナは、様態を表す「ような」を、ただ様態を表しているだけの表現から、

様態を付けるための表現へと変容させる。どのようにして?「ような」単体だと、それが「ドンナでような」

「ドンナでもなくような」「なんでもなくような」「ただような」、と、これまでの未決定についての表現を体現(体に現する)

するのに加え、「ただような」は、初めて己としての「ような」で、それが無意味であるにせよ、「である」のである。

 

こうして、ドンナという未決定性が、初めて「ような」の新しい意義を開き、具体的な様態を自らと置換し得るのである。

 

 

一方、後に付けられた「ような」は、さらにナニカを連ねる。

 

やはり「について」

 

こうして未決定が、どこまでも未決定、行き着く先は「非」であることが示された。

すると上記の二重の非・自己性は、また書き換えられなければならない。未決定性が「半ばの」と言われたのは、それが

「ナニカについて」未決定だったからであり、それは未決定の主観であるが、今や未決定は、

「ナニカについて」という「決定性」を未し、「について」のみを付す。

未決定は自ら未決定であることが未決定なので、未決定はどこまでも自分を非していく。その行き着く先は?

それ自身未決定性ゆえに何ものも受け入れぬ、「について」は、未決定「である」ことが未決定「である」とき、

「未決定について未決定について…」となる。この極としての、「について」は、必要である。

 

未決定は、「未決定の非・未決定」に、この初めの未決定が、それ以降も未決定を連ねるのは、

未決定である己であり、その己であることが未決定であり…と非空間的に循環するか、

未決定である己を未決定した己を…と空間的とまでは言わないとしても、可イメージ的な連続性に委ねるか、

という選択はまず途方もない間違いでありむしろ―未決定は、「についてとしてのナニカ」を欠いた瞬間、

また「である」を欠いた瞬間、己すら放棄したのであるが、まずこれが主観の破壊であることは容易に認められよう、

しかし己を放棄したとは?

それはそれが未決定であるがゆえの、「自ら」未決定を体現していなかったら、他のナニに未決定が見いだせよう?

この可能性を回避するために考えられるのは、「未決定」が、他にその意味を委ね、自らは決定的である、ということである。

「ナニカを未決定として、そのことがまさに決定的である」。しかしこれはおかしい。これが表すのは、「未の決定」である。

これに従い、未決定がナニカを志向・主観するのであれば、ナニカについて、未決定であることが決定的

 

 

この未決定の系譜の「どこに」、

 

未決定ゆえの自己

 

「未だの決定」とは。

 

それを「私は決定している」の文法の上に、まさにそこに、「ナニカ」であり、決定されている限りで、「ナニカ」を選択できる。

選択とは、行動、思考、言動、存在云々である。

最低の「私」。

 

ここにその余地のある未決定性が、

 

初めて「ナニカについて」自態であり、

 

 

自態は「ナニカ」であったし

そのの主観

ナニについて?

 

「その」は、どこまでも具体的であり、こうして「どこまでも」述べられていることで、第一義に具体的一般性であり、

次いで一般性そのものである。

では未決定性とは。

 

 

 

それは絶対に一般性を欠くものだけれども。この一般性を欠くことの意味は、まず最高の一般性が、

「意味では有り得ない」。そして、破断が、

 

 

部分間の連関や切断は、

 

なぜなら、状況は、最低・外として、その態を変わる。状況は最低限であり、それは最低存在の内にまで及ばず、

また絶対に外であることもせず、触れている。

 

 

 

部分は部分を超え、分割され、統合され、うちに収められたりする。

こうした部分の混乱の中、全体とは果たして一義に動じないものであろうか。いや、決してそうではない。

部分は、その志向が十全となり得るものを、その部分の変容によって変えるとすれば、おのずとそのような部分を包する

全体が志向するものの全体も、変わってくるのである。

 

志向とは、そもそもなにか。「ナニカが、ナニカを、意識する」こと、というのが一般的であろう。

しかしこの定義により、ナニカはますますナニカとして、ほだされることのない固く定義されたものになってしまった。

なぜか。ナニカはもはや主体・客体として動かないものとなってしまっている。

主体でも客体でもないものは、まったく没してしまう。主観の定義的傾向とは、「ナニカについてのナニカ」であった。

主観は、まずナニカであり、そのナニカは、「ナニカについて」を、その意識されることにおいて、志向する。

つまり、「ナニカであること」が定まったならば、それはその外部分に意識しだされ、ますます「ナニカ」として身を固める。

意識されることは、その意識するナニカが外となることであり、また意識するナニカは、ナニカを意識するものとして、

その意識するナニカの全てである。

しかし、未だ志向されえていない部分・外部分・部分性全体・全体外があるはずで、それというのも、先に論じたように、

論は、その「部・分」の仕方の仕方に応じて、部分の志向先が変わり、従って全体の志向先、その全体を委ねるところの、

「誰」は、全く違う「誰」へと変容する。「誰に?」と問うことは、愚問ではない。むしろ常に問われなければならないものだ。

なぜなら、全体は、それが捉えられるだけの、最低の「誰」がもしいないのならば、そして部分に全体が訴え、

部分がそれぞれ志向する部分的最低存在の、その者らからのそれぞれの被志向が、それぞれ部分でしかないとすれば、

またそれゆえに全体の方で、予め部分を全体・内・部分として、知性していなかったとすれば…

もしくは、もっと単純な説明としては、初めから部分は定まっているのである。

それとも、部分とは、全体とは、そもそも意味論的には架空に過ぎないのか。

論の部分とは、しばしば全体を超える。それは部分が志向し、従って志向され返された際。

部分が志向するのは、その部分を、全体に対して部分である最小公倍的存在でありえ、

また最大公約的存在でも在りえる、最低存在である。前者の意味は、その部分の志向した存在者が、

部分外を少しでも志向し得る場合である。この場合、その可能は、部分内部分相互が、主観するのだ、

すなわち「外部分・内についての部分である」。これが意味することは、部分は外部分の内である部分であり、

それは内である限りにおいて、部分の部分性、つまり部分の部分である由縁性―

それは全体への意味的志向性の強さによって変容する―を、浮動するのだ。

この強さとは、その志向が、全体を、どれだけ超えているか、による。全体を超えない志向性は、そもそも部分では有り得ない。

その志向性である部分が、最低存在を志向する―すると当然、打ち返された志向は、その部分の志向、

をも志向することになるから、考えうる最小で、全体であり、またそれ以上で最小でありうる、それは志向した部分性に基づいて。

 

しかし少し立ち止まって。

果たして本当に、部分を志向することは、その部分の志向をも志向することになるのか。志向と志向の触れ合う場所。

最低存在者が志向しているのは、部分の全体以上ないし以下である。全体としての部分は、

もはやその部分が全体に対して部分だった、その部分ではない。部分は、それが部分として在りえる、膨大な全体像を、今や

手に入れる。

全体に対しての部分性

 

それでも最低の存在であるのである。

しかし本当を言うと、この「志向し合い」は

・最低存在と自態

 

 

所与された

それが「誰か?」が前・論からは問われない何ものかが、

へと脱していく

は問われることもなく、投じられた所与だけによって、

その被性だけによって、それはこうして限界まで導かれた。それが限界にまで至ったのは、

またそれ以前に、前・論の成長は、

 

 

意味は、在るらしい。

 

意味論が「誰かによるもの」であらねばならないのは、

 

 

さて、我々が設定すべき最低とはなにか。

最低とは、それが発展の余地がある、「ような」で、ような。「在るような」、という表現を、ここでは避けた。

存在自体、自であるので、それを持ち込むのは最低とは言い難いだろう。

発展は、論へと、とは限らないので、

 

この曖昧さ。曖昧さにさらに拍車をかけるものとして、「傾向」という概念ならぬ傾向、を導入する。

これは、あらゆる定義を、曖昧にしてしまうことで、その曖昧さのうちに、

それが塗り替えられる恐れから脱しようと試みるものである。

ある存在の全体傾向性から、その全体へ、その全体が傾向的であるがゆえに、

全体へと還元不可能な諸傾向的部分が規定(傾向)されたのならば、その諸傾向部分は還元不可能なので、

全体傾向性を超えた、「全体・外・部分」となる。全体は、部分によって越えられる。

しかしそれが未だ全体性を保っているのは、それが傾向を許す、傾向で己があるからである。

全体は、傾向性である(傾向がある)。それは存在することもあるし、しないこともある、

またその傾向に存するあらゆる二項対立間を浮動し、そうして朧ながら全体が見えそうである、といった曖昧なものである。

傾向に存する二項対立。0と1。ある傾向が、考えうるすべての二項対立間を浮動することで在る(無い)ならば、

それは考えうる最高の存在傾向である。傾向をこの不確定的な絶対性から免れさせるのは、コンテクストと様態とである。

コンテクストによって、どの二項対立をどう一義に決めるか、ということを傾向する。

諸二項対立の間は、様態によってそれぞれが呼応しあう。ある二項対立が一義に決まれば、それに連関する二項対立が、

呼応した一義に決まりやすくなる、ということも考えられる。決まり「やすくさせる」という決まることの様態が、存する。

二項対立の様態は、最低、質・時間・空間性から、考えられる。質というのは、それがどういう状態にあるか、であるが、

その状態とは、その位置が相対的にどう他の二項対立と連関しているか、空間的に、時間的に、ということである。

さらには二項の間の、どちらに傾きかかっているか、ということも重要である。

傾きかかっているままで、いいのである。それは、世界に現さない、が、潜在的に、他の二項対立に連関影響している限りで、

無視することはできない。

空間性とは、比喩である。我々が可能な最大限の比喩である。

 

最初の定義とは何か。

傾向は、定義されうるのか。

 

こうして必然性は、傾向性の波に覆われたかに見える。全て必然に見えるものは、文脈付けられた、その情況が、二項

偶然は必然を基礎づけている

 

 

浮動する自分があくまで自分を浮動することを、守っていることによって、

まさに自分である、つまり

指すものは問われない。

 

「意味でないようなもの」、

 

「意味のようなもの、そうでないようなもの」の設定すら在りはしない。有意味は、「有」という意味を、失うことになる。

 

 

 

様態的絶対性

 

理ととりあえず名付けるものである。

 

この論を書いているだけの複雑さをもった主観が、あるいはタイプする手の主観が、入力端末、出力端末の主観が、

この最低限を表現するだけの理を持っていなければならぬ。

純粋な伝導体、などというものは幻想である。なぜなら(我々もまた伝導体であるが)。

 

この最終的に出力する主観、モニターが、全て出力したものの意味内容を純粋受動し純粋能動するだけなのであれば、

この受動し、能動するものの介することの必然性は?

無論、情報は変容する。0と1の無数の配列が、忙しく点滅する。私の入力が0と1とに還元され、回路を伝ううちに、その配列は

次々を姿を変えてゆく。そしてモニターに出力されたものは、私にナニカを告げているのか、それともただ、0と1の理のうちに

ドットを配置しているだけなのか。それにしても、やはりモニターの主観といったものは、定義上あるのである。

それは、「伝導をするものの理」に照らされて、「伝導すること」が可能な仕方の変容態であり

(伝導することの「仕方」の変容態である、決して最終的な伝導した精密さではなくて)、

私やその他様々な閲覧者「について」の、結果的・目的的な「伝導すること」ですらある、その数ある主観のうちの一つとして。

「結果的」と言ったのは、伝導体全体性としての定義が、変容態を開き、そのうちにモニターという仕方が、

開かれた様態上に存している、結果的に、ということである。

 

数ある主観?全て主観は様態的であり、そのうちのある機能が、「主観外」に触れることで、

その都度の主観としてその主観外を解釈する。こうしたことを考えることはもちろん可能である。

主観は全て「ナニカについての」「取りうる態度」であるので、そのナニカが毎々に変容するならば、当然主観もまた変容するのである。

実は、このナニカ、は主観外である必要はない。この章の論に従えば、むしろ主観外であることは許されぬ。

 

なされたのは確かに伝導。

 

しかし我々もまた、伝導体である。

すると我々がこの情報端末を、確かに組み立てはしたかもしれないが、その「伝導すること」という理については、

我々は我々自身伝導体の一変容態なのだから、我々もまた導かれたのだ、伝導するものとして。

 

そうすると、「己でないこと」とは、「ナニカについての、私ではなく、ある」である。これを目指すのである。

「ナニカについての」については、何も知らない。無責任に、

この有意味と無意味とを隔てている理、私の主観

 

 

 

 

己の同一性。

「指示することが無意味である」ことによって、

 

 

有意味である存在は、同時に無意味であろうとする、その傾向を持つことによって、一様態と呼ばれるに値する。

この無意味であろうとすることを、その存在の有意味である様態の「もとに」、指示すること。

その存在が無意味になることを、指示するのである。無意味であろうとしている、有意味、の、この不可能な努力。

この無意味であろうとして、指示をするのだが、それが指示するのは自己であり、

その自己は、無意味であろうとしている、有意味である。この指示することが無意味になることによって、

有意味はその目標を達する。それは果たして可能か。

有意味は、様態の変化部分の志向部分を、指示しているのである。

つまり、有意味である己は、無意味を目指している、という様態の常なる変化全体であり、またこの変化は、

有意味から、無意味としての「意味」を目指しているという点で、志向的である。

変化全体と言った、それは、指示は己の全体性を指示しようとするが、この有意味なるものは、

その傾向としては、もはや一義的に有意味とは言えず、その全体を指示することは、

有意味から無意味に極限まで至ろうとする、結局の有意味の、「自己・内的様態」を認めることにはならないだろうか。

しかしこの様態とは、有意味・内の様態であり、それが結局、無意味には至らないとすれば、

その様態がもっている優れた二傾向、がそれぞれ変容するのである。

すなわち、有意味である優位性と、その指示が無意味に近いことの優位性と。

「無意味に近い」とはどういうことか。有意味は、それが無意味に近いか遠いかに関わらず、等しく己を指示するのである。

しかし、その有意味性(無意味性、ではなくて)

これは、有意味内部分の優位性ではなく、指示の有意味的優位性である。 

 

今や有意味は、自己内での様態性を手に入れた。

 

無意味に近い部分―非空間性部分は、無意味を志向するが、己のどの非空間性部分であるが故に有意味である。

しかし様態は、結局有意味である。

 

この部分―全体が、時空に拠らないものだとすれば、その存在の構えが、部分―全体化するのである。

 

有意味が有意味に留まろうとする傾向は、それが有意味であることによって、唯一無意味を指示できるからである。

それだから、有意味は構成的に、異なる意志をもちつつ、それでいて有意味という全体であることの可能態である。

有意味とは、まず傾向そのものである。傾向とは、必ずしもその存在の帰結が、一義に定まらない、優れた存在の仕方である。

諸傾向から傾向する傾向の全体を傾向する傾向、が、意味の定義ならぬ傾向であるが、これを分かりやすく言えば、

まず意味は、己の傾向的構成をしようとする傾向としての、諸傾向を、「もつ」という傾向で「在り」、

この在り方がさらに傾向的であり、この在り方の定義(在り方が傾向的である)が、永遠に傾向的に留まる、ということである。

ある傾向は、その起源と帰結が、傾向的である。ある存在の全体傾向性から、その全体へ、その全体が傾向的であるがゆえに、

全体へと還元不可能な諸傾向的部分が規定(傾向)されたのならば、その諸傾向部分は還元不可能なので、

全体傾向性を超えた、「全体外部分」

それが崩壊しないのは、

 

まさに有意味が無意味へと様態変化しようとしている努力、その変化は唯一の手段としての指示によるならば、

有意味は自己指示と存在の根を等しくしている。あるいは、指示そのものが、唯一あり得るとでもいうのか。

もう一度、指示の定義を考えてみよう。指示とは、存在から存在への、可能な繋がりである。

指示は、存在の、存在先という存在的目的を目指すのではなく、その存在間の繋がりにこそ目的がある。

 

存在先を目指すのは、「志向」といったものが担うことで、両者の住み分けが可能であろう。

 

この根については、時間的解釈の項で述べられるであろう。

 

 

その己は、まさに志向しているのであり、

この志向は、それ自体一つの様態と解されねばならない。なぜなら、有意味であった己が、無意味であろう己を

志向している、まさにその破断場面を観察しているのだが、この己が並置されることは、まさに空間化であり、

それが一時的にせよ、様態の変化だけで意味を説明しようとするこの段にあっては、それを避けるものだからである。

たといこういう姿勢が馬鹿らしいものだとしても。

志向が様態として解されるということは、つまり

有意味が無意味であろうとしているその様態は、もはや有意味とも無意味とも呼びがたいのではないか?

 

志向とは、無意味であることができる。その志向先が、全く無いがゆえに、それが志向という意味を失い、

無意味となる場合である。無を志向することと、志向先が無いこととは、全く違う。

 

時空への臨界点に触れそうになる。

 

 

 

その「無意味であろうとすること」部分を、指示するのである。

それが無意味であろうとするがために指示したのだから、その指示は、「無意味であろうとする有意味」

という様態からなされる限り、

 

 

有意味が無意味になろうとする傾向をもち、

そのために指示をするが、己が無意味になること、を指示するのである。その指示は、無意味である。

 

 

 

 

有意味である存在を、有意味が指示することによって、その指示が、その存在が、有意味であるのな

 

それは、解き分けようとして、失敗したのである。それがせいぜい出来ること、それは、

「全て存在は有意味か無意味かという様態で等しく根源的に在る」という原理に照らして、

有意味であると信じている己(の存在)を、その有意味で在ることと等しく無意味で在ろうと欲する。

そして自らの存在が己を指示できる有意味として在らねばならない、その見かけ上の有意味の優位性を取り除くために、

無意味の「己を指示できない」という「意味」を、「指示できる」という「意味」と共に絶対様態としてしまう。

なぜ有意味を、指示「する」のではなく、指示「できる」と解すのか。

それはそもそも、無意味の「しない」ということを、「できない」という欠如態として考えている節があるのではないか。

あるいは。指示するとは、ここではなんら生命的な意味をもっていない。

しかし生命的に見れば、全て指示は、「できる」か「できない」かの様相を伴うのである。

それだから、まず次のような問いが生まれる、「本当に、有意味と無意味とは、お互いに少しの絶対性をももたないのか」。

次いで、「生命とはなにか」。

 

これまでの前提として、様態は「有意味」か「無意味」か、のどちらかであり、それはそれぞれ様態「性」―

つまりそれは性質、本質に付帯するものとしての性質―を持たない、絶対様態であった。

己が己を有意味として解くならば、それは「無意味でもありえたし、ありえる存在が、未だに、今のところは、有意味である」

と解釈しうる、そしてこれは少々の時間性を加味しなければならなくなる。

あるいは、時間性を排そうとするならば、有意味は「唯一」有意味であることを許されない、ただちに無意味にならねばならないのである。

そしてまた、無意味は「唯一」無意味であることを許されない。しかしこの無意味は、有意味になることができない。

その指示が無意味だからだ。これが仮定,任呂匹里茲Δ憤嫐を持つか。

自己を指示するが、それが無意味なのである。有意味が、従って有意味である自己を指示する場合、それは無意味となる。

しかし無意味が、従って無意味である自己を指示することは、「絶対様態」を信じれば、それは有意味とならねばならない。

それが有意味となるには、

 

しかし仮に無意味が指示できるとしても、有意味と無意味との様態区別は、なおも残る。

「無意味が指示する」か、「有意味が指示する」か、という様態の区別。

しかし、これは有意味と無意味とを単に言葉上で入れ替えただけではないか。これは本来の「有意味・無意味」の意味を、無視している。

必要な議論◆ならばその本来の意味とはなにか。

むしろ、このような論の可能性が成立するところに、しかもそれが「無意味による指示」という仮定から成立したところに、

無意味による有意味性のごときものが、この論内においてさえ成り立つのである。

その無意味に導かれた「新しい論」の内容は未だ知りえないとしても。

有意味が、自己指示可能な存在としてある限りで、有意味は優位性をもつ。

しかし、また、その有意味が時間を越えて、永遠の無意味とならねばならないところに、無意味の優位性がある。

この意味での「無意味」は、指示先がないゆえに無意味なのではなく、無意味という様態ではなく、

その「存在が『論外から』絶対的に無意味」なのである。もはやこの論にとっては。

「有意味」は、指示するが、その指示先がないゆえに有意味として無意味である。

あるいは、「無意味」を指示することによって、その指示が無意味である。

 

しかしこうした前提のもとに、「『様態として』『無意味である由縁が無意味』であること」の存在が導かれた。

そしてその存在は、有意味が己を指示することで、生まれたものだった。

 

こうして「できる」「できない」の意味を指示するところの新たな指示元の存在―それも「できる」

「できない」は同等であるような、そんな様態を(有意味・無意味間の様態の在りようとは全く違うところで)

意味として指示する存在―を都合よく示唆するのである。

 

その「できる」「できない」の在りようとは。

先に様態とは、「意味の最低、ある・なし」であると示された。

いまここに、意味の「在る」から「無い」までの連続性、

つまり最低限としての「様態性」を導入しよう。

必要な議論◆しかしその権利とは。

   

ここまでの議論から派生する可能性として、。それは、その解き分けられた有意味が解き分けを続けていることで、意味が有る、

ということ、が、まさに有意味の新しい一つの様態であり、従って「解き分ける」とはこの時点で

「有意味と無意味との二者を解き分ける」という定義から脱した、ということを意味する。

また他方で、有意味であることを守られている有意味と、そうでない有意味とがあることで、それらが

解き分けの二様態をなす、ということも帰結する。しかし前者の場合、己を更新することは、その己が

それによって解き分けられた「既に解き分けたもの」によって、妨げられている。

この今や様態付けられた「解き分け」は、それが意味存在として認められる段において

(この「段」については後述する)、解き分けられる。その解き分けられた「解き分け」が、

複数の有意味ないし無意味を指示するのである。しかしここで、解き分けるものが二者択一を脱した以上、

解き分けるものは解き分けた後も、なおも別の諸意味を解き分ける、という可能性は十分成立する。

その場合、その解き分けは新たに意味づけられる(新たな解き分けで在らしめられる)必要があるが、

それは解き分けそのものを指示する、あるいは様態付ける、

また「意味が有る」とは意味を指示することだとすれば、

 

 

自己指示することの動力

 

初めの既に解き分けた無意味が

 

 

''  己

 

我々は最小限のものから始めてきた。その場合、「己」という語を使ったが、これはまだ十分に説明されていない。

 

空間的に外部に設置された自己によって、己をその己によって解き分けられる

 

この場合は空間の助けを借りるので、とても分かりやすい。

解き分ける際、己を外部に置くことで、その置かれた己と無意味とは、すでに解き分けられてしまっている。

むしろ、外部に己を置くことで、それはまだ解き分けてない有意味であり、逆に外部に置いたほうの解き分けは、

置くこと(解き分けること)で無意味となるのだから、指示すべき無意味を外部に求めなくともよいのである。

しかし、この外部に置くことは、どのようにしてか。己を分けなければならない。

 

ここで空間的というのは、己と外部に設置された己との間隔のみが問題なのであり、

間隔の幅、また間隔の外、というものは問題視されないのか。

間隔はしかし、直線とは限らない。色々な間隔の仕方が空間的に可能なのであって、

間隔はまた、間隔の「外」に縁取られているから、間隔外は、

全てのあり得る間隔の仕方を縁取る構えをもっていなければならない。

その構えとは、間隔を感じ取り、間隔の形態を感じ取り、自ら間隔のために、間隔を開け、自ら間隔を縁取る、

といった仕方である。間隔の発生は、空間の発生でもある。間隔無き空間というものは、空間と呼ばれる必然性をもたない。

間隔はしかし、外部を形作りながら、間隔で在っていく。間隔は無時間的に形成される。

点と点は、それが現象するやいなや、あらゆる間隔の仕方を指示する。それは無限に膨張する空間である。

ある指示によってある一つの間隔の仕方が指示されたとき、その間隔に沿って、空間は開示される。

その開示された空間のうちに、再び点の布置が可能なのである。

このことは人間知性の在り様の比喩でさえあろう。

そして開示された空間のうちの間隔において、その間隔外が、先の構えを見せる。

すなわち、間隔を感じ取る。そうでなければ。間隔が一方的に形成されるのであれば、間隔はそもそも形成されえないであろう。

間隔は、「なにを」間隔するのか、つまり間隔はなにを志向するのか。それはもちろん第一義的には点と点であるであるが、

その可能な間隔の仕方において、その外部をも同時に外部として、なんだか分からないが、

そこにおいて間隔が在るところのものとして、間隔がそれによってその形を定められるところのものとして、

外部を「空間外」として開示する。

外部は空間では決してないが、空間として開示される構えを持っている。

では最初の二つの点とは。

 

しかし無意味が、一抹の有意味となる可能性として、

解き分けた無意味が、解き分けられた有意味と無意味とを、志向し続け、つまり解き分け続け、

解き分けた有意味が解き分け、自ら無意味となることから守ってやっている、ということが成立する。

この場合、存在は二つ以上あることになる―

 

解き分けは、解き分けたものが自分でないから、置かねばならない。

だが、その解き分けた自らまでも置く必要は全く無いのである。

しかし仮に、解き分けが、解き分けが自分であることを知らなかったならば?

しかし事実として、事実は、それが「在る」、間違いなく「在る」、ということを知っている。

事実のこの知ることは、比喩ではなく、それがそこに在ることが確実で、

その確実さを確認した上での事実なのだ。

確認された確実さ、それがいかに確実でも、確認されない限りは、それが確実に確認された場に留まり、

それはまた一つの事実なのである。つまりそのいちいちの事実に「在れた」のである。

このことは、存在が重層性をもっていることを示唆する。

つまり、存在の前の存在、「前存在」といったものが在りうる。

しかしこの前や後とは、優劣を意味するのではない。

前存在は、可能性に、もしよければ、それを知っていることになるであろう事実に、

確認されうる可能性に投企される。事実上の、その場所へと、あり得るべき可能性へと、投企される。

しかしこのハイデガー用語とは。

投企とは、投げることである。従って、投げる者があり、投げられるものは、

投げる者に触れ、方位を定められ、射程を定められ、

その射程の先にきちんと居座っているところのものに触れるまで、投げられ続けている。

このことが、時間抜きに、無時間的に語られうるのか。

 

 

解き分けた無意味が、解き分けられた有意味と無意味とを、志向し続け、つまり解き分け続け、

解き分けた有意味が解き分け、自ら無意味となることから守ってやっている

 

あらゆる可変的な要素に揉まれて、その上で「在れる」「在ることが出来る」とは、

一つの「知」ではないか?

 

 

空間の意味

己は、今まさに解き分けるものとしての己を、外部に置く。これは純粋に解き分けるものであり、

置いた方は、解き分けたものである。この意味的な隔たりをどう説明するか。

 

時間

 

いい里

 

全て意味の指示は、有意味と無意味とに分かたれる。

 

この様態は、この「意味」という意味での意味が、

様態に過ぎぬとするならば、様態性は絶対的であり、なんら本来性を持たないことになる。

ここで今もうひとつの仮定、意味が様態であること、それは存在は、全て意味によって様態付けられているならば、

存在である「意味」もまたそうでなければならない、という不思議な論理による。

意味は存在である意味を様態付ける、このことは、意味が、存在を様態付けるものとして、

己(意味)が存在であるためには、

様態は、基本的に連続的であるが、それは存在によって、意味において、切り取られる。

そう存在である意味において。意味において、存在はその射程を決定され、それは様態性を帯びる。

 

色(という存在)が、ある存在を指示するとする。

その色は、存在的に様態であるので、その(色であるという存在的)意味において、ある存在が、

まさに「その色である」という意味において、存在的に、その色の指示対象そのものに「成りに」やってくる。

色はまた、色が存在する、その存在をもまた指示(自己指示)する。

その場合、その存在はその色に様態付けられて在って、まさに「その色である」ので、

その存在は、様態の連続性のうちに、自らを指示し、存在として射程付けられることで、まさに「その色」で在ることが、

初めてできる。それだから、この自らを指示することは、自らがそれであるその様態の全体をも、開示する。

 

 

 

その主題に触れうるものの構えは沢山あるだろう、しかし、例えば、概念は概念に触れうるのか。

この場合の触れるとは、比喩形象において、なにも「接する」ことだけを意味するのではなく、

互いに「重なり」、更には「入り込む」。

その主題的概念に、非概念的な仕方で触れさせるナニカが存在する。そうでなければ。

概念だけの営み、というものを仮定してみよう。

 

目の前存在がある。これは概念的に捉えられたものである。しかし概念しかないからといって、

その生成を非概念的として払いのけ、この目の前存在を、ア・プリオリなものと決め付けるのは、性急だろう。

それは、生成される。どのように。もちろん概念によって。

その仕方とは、「概念は意味を持っている」、という一般見解から導かれる。

「生成」という概念は、まさに生成を意味する。それは「ナニカの」(このナニカは、もちろん概念である)

生成として己を構えている様相、また自己完結している様相、をもっているだろう。それが自己完結していて、

一般的な「生成」をしか意味しないとすれば、イメージに訴えると、それは動きようがないのではないか。

ところが、一般的な「生成」を意味するとは、生成は一般的であり、それが一般的であり得るのは、

「ナニガ」生まれるときにおいても、その場に立ち会わねばならず(そうでなければ生まれた概念は、生成「された」という

意味をもたない、そうすると、それは時間に対して一般性をもち、「その時生まれた」という必然性を持たない。

生まれたものでさえない。このことに則った全ての理論は、

)、

従ってそれは忙しく動くのである。あるいは、それは一切動かない、全ての創造者である、ということになる。

一般的意味での生成が、動くにしろそうでないにしろ、それは

 

しかし概念の在り様、存在の構えとして、

 

 

この「ナニカ」についての「ナニカ」が、接触を呼ぶ。

概念は、知性的ではないから、自ら連関することはできないのだ。それは、概念は知らない、

 

 

抽象的でありながら、構造でなく、また非本来性である、このことの困難がまず除かれねばならない。

明証的に具体的であるのは、身体である。身体は観念的であり、実在的である。そして紛うことなき実在に、触れる。

身体は、「私(そんなものがあるとすれば)の身体」である限り、また「私が見た・感じた」ものである限り、観念的である。

一方、感覚そのもの、そのものの発生源としての身体は。感覚が所与としてもたらされる以前(そんなものがあるとすれば)

―所与としてもたらされてしまえば、それは「私の感覚」とでも表現されかねない―、それは「私」に触れない。

「私のもの」であるのは、「私」が捉えられるもの全てである。それだから、感覚の所与以前、

それはまさに感覚が発生した、その時点、ではなくて、感覚の到来の予感、―それは私の時間である、を回避せんがため、

―それは私の身体の時間である―

この自動人形。

 

皮質とは、ニューロンが脳外に接するという「極」であり、

 

伝えるべきものがあるか否かにも関わらず。

 

 

刺激の興奮―抑制を決めるのは、軸策から放出される神経伝達物質だ、といわれている。

外部要因が興奮的か抑制的かにはさしあたり関係がない。

それぞれの細胞は、一種類の神経伝達物質を放出すると考えられ、

したがってその効果(興奮性か抑制性か)はいつでも同じである。

同じ恒常不変の意味を担っており、それは意識―無意識への所与段階以前である。

ある第一要因としての細胞が、興奮性であるならば、シナプス間隙から、少数のニューロンの

樹状突起に興奮性の神経伝達物質が伝えられる。

 

あらゆる所与のうち、第一に興奮性のニューロンを刺激しない所与、

つまり第一に抑制性のニューロンを刺激する所与は観測可能か。

あるいはその軸策が抑制性のニューロンにのみ囲まれている場合に、

つまりそれ以上刺激が広がることが不可能な場合にその初めのニューロンを刺激する所与の観測の可能は。

そのような事態は観測されたとしても、なにがそのニューロンを刺激しているかは、全く「抑制」され、

それはどんな機械をもってもそれを扱うのが意識である限り、その実在の有無を確かめることが不可能である。

そしてこのような可能性が成立する事実からして、まさにこの世界が、

人間をもってしては永遠に知られることのない事実を事実として可能にしていることが、示唆される。

 

これは、あくまでそのようなニューロンおよびニューロン群があれば、のお話でしかない。

しかし、これが他のSF的前提と違うのは、そのようなニューロン群が、

現代の技術で創造可能だ、ということである。

 

 

刺激が伝えられるたびに、同じ意味を、もつ。

 

 

ニューロンを指示できない、意識とは別の次元

 

 

どの樹状突起からどんな刺激が出ているのか。樹状突起は有限である、

意味の発生は、

脳における意味とは、ニューロンの接続の集合の様々な仕方・であり、

またこの接続は、必ずしも隣接したニューロン同士のあいだでなされるわけではない。

ニューロンは、ニューロンを経由する。ニューロン、及びその集合が持ちうる意味…

ニューロンは三次元的に配置され、その限りで、空間を、そのニューロン間の間隔による不完全性をもって、

再現できる(もし全てのニューロンに全く同時に、同じ刺激が与えられたならば)。

その空間とは、必ずしも目の前世界だけとは限らない。

そこにあって、ある特定のニューロンを刺激するのは、ニューロンの外に在るもの、である。

ある感覚、ある意識を司る部位が存在する、と言われている。

視覚の場合、得うる情報とは、純粋に明暗、色彩のごたまぜである、と、とりあえずはしとくとして、

それが電気信号に変わる場合、電気信号(更に言えば粒子)というドット化、

ON-OFF細胞による明暗の二元化、この両者による、ドット化された明暗のみの世界が、脳に伝わる。

しかし、ものは反射率をもつ。なぜか。脳の便宜と世界の仕組みが、直接にリンクしてはいないか。

反射率は、

それが直接に結びつくニューロンの集合、

 

反射率

 

電気シナプスは、細胞同士の隙間がほとんどなく(2nm)、

ギャップ結合チャネル蛋白によって細胞内のイオンが通るので、

電気シナプスと呼ぶのですが、イオンばかりではなくc-AMP、

IP3など小さなシグナル物質も通過して情報を伝えます。

 

色を解き分ける

ニューロンの配置、また接続の不規則性が、生む効果とはなにか。ニューロン間の距離、シナプスの距離、

またそれを伝う時間、が、また刺激の、シナプス及びニューロンのもつ物理的抵抗による磨耗、つまり射程、

脳は視界を変える力をもつ。

 

 

文字の意図された意味のリズム、全く自由な時間化された文字への眼の接触、

自由な時間化された文字を時間の第一戒に束縛し、さらに粒子という延長を帯びること、つまり情報化、

また眼の得ている情報に全く同時に触れている、文字を読むこと、時に若干の自由を、粒子を

若干の自由な空間に連れ戻すこと。

脳の、時空における在り方がどのようであれ、脳に「実在」と呼ばれる世界をもたらすことは、

視線、広く触覚、電気信号etc…、それぞれの情報の在り方によるそのの変容によって、酷く変容されてなされる

ことであろう。

このとき、脳が極であるとするのは、あまりに常識に毒されているであろう。

古くから「表象」と呼ばれているものは、むしろ脳の時空的な在り方を伝って、接触して、さらに進んでゆく、

脳とは情報の在り方の異なった「存在」、軽率に表現すれば「実在」なのである。

伝い

 

肉の延長を伝う電気は、時間化された文字を、また文字の時間化は、それが十分時空的であった段の情報を、

どこまで残しているのか。

むしろ「残している」ではなくて、従って「元の文字が存在する仕方が本当の存在の仕方だ」

という考えを捨てて、今挙げたそれぞれの情報の在り方

(時間、空間、その様々な度合いの折衷、あるいはそれ以外など)が、

それぞれに文字として在るのだ、と考える。

本当を言うと、視線は触れることを、従って時空を、超えている。

触れることは、「時空的に」生きることである。

 

投げ込まれない言表は、言を表す。

「〜ではない」は、投げ込まれないことのうちに、表された言に、その表を、時空的に延長する。

すでに「〜ではない」とされた言は、さらに「ではなく」見舞われる必要はない、と思われている。

それは二重否定、もとの言表と意味を一致する、というわけだ。

投げ込まれた「〜ではない」は、否定ではない。それは巌とした言明である。

 

 

「〜ではない」はどこにあるのか。それは、あらゆるこの否定的表現の具体性のうちに、住まっている。

記されたこの否定表現は、本に、ホームページに、延長を得ているし、

それだからそれは世界の空間性を本ごと自由に動きうる、自由に読み手を誘う。替える。

そのとき、言はその人へと投げ込まれる。「〜ではない」は意味を得、ほとんど非延長的なその人の意味の体系へと同期する。

 

 

あるいは全ての表現は何かの否定だとして、

 

「である」と併記される「ではない」は、「である」を常に脅かしている。

情態性

 

・「〜得ない」ものを「得る」

 

 この言い回しも、「何か」を「得ている」のは確かだ。それが「〜得ない」

 

・意味の外在性

・言表の空間・時間性

・言葉に意味がある―意味と言葉との二元論