現象の構造でなく、その意味に多様を認めるならば、世界は意味のスペクトル、あるいは意味の諸次元に無限であり、

それもスペクトル的に無限であるだけでなく、次元的に無限、といったことが起こってくる。

では現象が意味を持つのはどういうときか、という問いがまずもって排されねばならず、

第三者的に配される、といったことでも、今回限りではなく、

意味とは、無限な近接する意味へとスペクトルを連なり、その近接する意味自体が無限のスペクトルを連なっているので、

スペクトルとスペクトルとの対応が一つの意味であり、従ってそれは無限の無限である。

加えて、近接、この仕方がさらに無限であってみれば、意味は無限の無限の無限である。

それだから、もし意味の地図を作ろうと試みるならば、それは4軸をもつ座標空間でなければならないだろう、

しかしこれは以下に述べるように、幾何学的な座標空間では表すことの出来ぬようなものである。

これらの無限は、次元的に隔たっている。

 

次元とは、そのそれぞれの隔たりが、隔たり間のものを互いに越え合うような隔たりであり、この点で

「個」の概念とは区別され、さらに、隔たり間の事物事象がそれぞれが揺らぐものであってみれば、当然隔たりも揺らぎ、

その意味は、ある次元に存する「意味」が、その次元の無限の間を自由にスペクトルするものだから、

諸無限が次元として隔たっているのであれば、ある次元におけるスペクトルにおいて移動した「意味」が、

なおも別のスペクトルに居座っている可能を、つまり、「意味」が別々のスペクトルに、

別々のスペクトルにも関わらず存する可能を、さらには、それぞれに、ではなく、

また、要素的に、ではなく、一息に、存するという可能を、隔たりのあり方そのものに求めるものである。

次元とは、単にお互いが超越的である、ということではない、としよう。

互いに他である、という事態は、両者の超越性と、意味的な重なりとの、スペクトルであった。

そして超越的であるとは、こうなることの必然性をも「他」の構図に含むものであった→

これは言葉の問題であるが、超越にスペクトルを許せば、次元はそうではない事態として語られる必要があり、

許さなかったならば、次元はスペクトルを持つことだろう。

 

隔たっているという「事実」こそが隔たっているのであり、この晦渋な表現の意味は、

隔たりには最低それぞれ隔たり合う2者がなければならない、という理念から単純に導かれる2者とは、

互いに「他」として隔たっているのに留まる一方で、「次元」として隔たるとは、2者がまずあるのではなく、

隔たりが、可能であることをまず問うという理念があり、それを展開していくことで初めて明らかになるようなものである。

隔たりが可能であるとは、隔たりとは無限の知識である必要があり、それは、いかなる他-他、あるいは他-他-の構図においても

隔たるという普遍性を持つためであり、換言すれば、他がそれぞれどんな意味を帯びていようと、絶対に隔たっているという

状況を、普遍的に敷くためである。

 

また単に隔たりが知識であるのみならず、それらがお互いに越え合うとはいかなる事態か。

それはいかなる直接的及び間接的なスペクトルをもってしても結ばれない両者が存し得る、という理念を持つ

隔たりであり、ここにまたそうした隔たりの可能を問うてみれば、

空間上の線上の点と点とは互いに直接にスペクトルし合い、図形と点、あるいは点と点、または図形と図形、

とは互いの意味の了解を間接して互いにスペクトルし合うけれども、こうした空間上の無限の例は、なべて可スペクトル的で

あって、いかに物理学者や数学者が騒ごうとも、平面と空間とはスペクトルを持つのであって、従って次元ではないのである。→

意味の諸次元とは、そうではなくて、「意味の間接をするさしあたっての者」がおらず、従ってスペクトルが全く不可能な

意味とはどんなにスペクトルする意味を辿っても辿りつかない意味のスペクトルを持つのであって、

それは、それぞれの意味のスペクトルは、そのスペクトル自体が意味を帯びているので、他の意味を持つスペクトルの介入を、

許さぬ、と言うより全く不可能だからである。

 

意味から「意味のスペクトル」が放射するが、それは一定の意味付けられた方向へと無限に遠く放射し、

しかしこうしていって、意味が2つ重複するとは、あり得ぬ話である。

それぞれは、それぞれのスペクトルにある限りでのそれぞれ、だからである。

ここで空間的イメージを受け付けないのは、放射したスペクトルが、無数の線で表されるとすれば、それは

それぞれ曲線であり、しかも揺れ動く曲線であり、しかもイメージにおいて重なり合いはするものの、

理念として決して重なってはいけない、というところにある。

スペクトルの揺れを生むのは、現象学的意味での志向性であるが、これは意味のスペクトルに2点を取る第三者ではもちろん

あり得ず、志向はそれが志向するスペクトルを辿る際にスペクトルから近接する意味領域へと自由に迷い、

こうしてスペクトルは、歪む。

意味は揺れを、揺れは志向を指し示した、それは、意味とは「こうして考えるその場限りのもの」に先行して3重の無限を持つが、

第4の無限としてのスペクトルの揺れ、それはスペクトル上の意味から意味へと駆けていく営みに必然的に可能性としてあり、

この営みは、意味の変遷を可能にするものであり、これを志向と名づけるものである。

 

意味の揺れとは、志向という営みによるが、ここで営みとは、近接をする、といったこともまた営みであり、

一見営みでない無限、単にスペクトルであるという事実、これも実は点を転がす、といった営みであり、

営みが完全を目指す、従って理念を目指す、には、どうしても営みが遂行される、諸営みを営む営み、が必要となってくる。

この営みの全体性を、とりあえず「一つ目の時間」と名づけるものである。

しかし「営みの全体性」と言うことができるのは、全体性をそれ自体営みとして考えない盲目だけであり、

盲目から脱しようと思えば、全体性を考える、ということを盲目とするか、一つ目の時間を諸営みと構造を同じくする営みと考える、

ということを盲目とするか、どちらかであろう。

全体を考えるとは、そもそも営みに組しているものには権利されず、というのは、営みの停止(エポケー)をしたのだ、

と言うが、それには、全体を思い続ける必要があるのみならず、営みを停止している、という事態を営みの外に求めねばならず、

停止を営みと認めない、ということは、営みのうちに存するあらゆる停止を全て担わねばならない、といった理解に苦しむ

状況を生む。「そうではなくて」、と言うだろう、「営みの停止は、停止が問題なのではない」「停止は営みの停止であり、

普遍的な停止そのものではない」。しかし、だとするならば、普遍的な停止、ということを、

排すべきものとして暗に知っているのでなければならず、そうではない、ということを理解していなければならず、

「そうではない」事態を知っていなければならず、「知る」「理解」とは営みではない、と永遠に主張することを強いられるだろう。

 

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