瀬野大輔 書作展「言志四録の気韻」同時開催

 

レクチャーコンサート

佐藤一斎の(がく)

佐藤一斎の音楽思想について

 

恵那市岩村城下

美術の館(柴田家)

20175515:00?16:005613:00?14:00 

 

岩村コミュニティセンター(旧岩村公民館)大会議室

20175517:00?18:30

 

 

小講演と演奏:古山和男(リコーダー)

 恵那市出身。東京を中心に演奏、研究、教育、文筆活動を行っている。著書に『秘密諜報員ベートーヴェン』(新潮新書)。916日にいわむら一斎塾主催の特別公開講座「佐藤一斎と夏目漱石」?漱石生誕150年に因んで?を予定。

     

賛助出演:  中村華子(笙)

 国立音楽大学卒。独奏者として、あるいは「伶楽社」や3人の女性笙奏者のアンサンブル「笙ガールズ」などのメンバーとして活躍中。

 

主催:古楽倶楽部 共催:NPO法人いわむら一斎塾

 

演奏曲

 

「天使の夜啼鶯(ナイチンゲール、ロシニョール)」   J.ヴァン-エイク作曲

 リコーダー Re-cord-erとは『詩経』の「嚶鳴」と同じ「鳥が鳴き交す」の意味であり、秘密結社ではこの鳥が鳴くことに特別の意味がある。17世紀オランダ曲。

 

「黄鐘調調子」                    中国古曲

 「黄鐘調」が元声太和」の「元声」であり、雅楽で論理の原点とされる基本の調子であり、この曲は黄鐘調の音合わせをして聴衆の耳を馴すためのプレリュード。

 

「陽關曲」                    明清楽

  王維渭城朝雨?輕塵。客舎々柳色新。勸君更盡一杯酒。西出陽關無故人」の音楽。

  一斎の時代の清国からの輸入音楽。(「楽とは何か」いわむら一斎塾報20号参照)

 

「早春賦」                          吉丸一昌作詩

(「春への憧れ」[Sehnsucht nach dem Fruhling]      W.Aモーツアルト作曲 K596

「荒城の月」                      滝廉太郎作曲

  一斎門下と西洋音楽の導入。

 

故郷(ふるさと)」                          岡野貞一作曲

(「ヤンキー・ドゥードゥル(アルプス一万尺)」他   アメリカ曲)

  一斎門下とプロテスタント思想。        

 「天地人心に存する者」、人類共通の「天理本然の性」。

 

「ファンタジー」ア・テンポ・ジュスト A tempo giusto   G.P.テレマン作曲

 「正しいテンポで」「天地人心の本然の実現」「腔子の裏と外の一致」「精神と物質の調和」 

 

「うつろひの花」                  桑原ゆう作曲

 鶯の鳴く野辺ごとにきて見ればうつろふ花に風ぞ吹きける

 

聖人より前なるも、聖人より後なるも、未だ曾て始終有らず

 リコーダーと笙のための委嘱作品。洋の東西、時代を超越した音楽。2014年に本日の演奏者によって初演。

                                      

 

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<参考資料> 古山和男 記

 

 

「礼」と「楽」について

 

 佐藤一斎は「一気息、一笑話も、皆楽なり一挙手、一等足も、皆礼なり」(言志録第七十八条)と、日常生活における「礼楽」について説いています。

 この「礼楽」の「楽」とは、人々の心を満たして精神を浄化させ、各人の自己を高める感化を及ぼす楽曲のことであり、本来の自分自身の良心である「真我」に気づかせ、それを確立させて志を整えるに資する音楽の実践のことでもあります。

 お互いに敬意をもって尊重し合い、秩序を維持する社会の約束事が「礼」であり、直接感性に訴えかけて内面から人を陶冶する愉しみが「楽」であると言えるかもしれません。

 「文化」はこの両者が相俟ってはじめて形成されるものですが、「楽」の発想は「礼」より歴史的には古く、既に中国最古代の殷の甲骨文に認められます。元の儒学では、思想を伝える「詩」「書」「易」「春秋」と、人に働きかける実践的な方法論としての「楽」と「礼」が「六芸」と呼ばれていました。

 漢の時代になって儒学が『四書』『五経』として文献的に整理されてからは、「楽」は「礼」に付随するものとし「礼記」で扱われるようになりました.

 『論語』には「楽は徳を章にする」「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」とあります。人の教養が「礼」によって安定し、「楽」によって人格が完成し、「徳」の顕われが「楽」であると言っている孔子は、「楽」を「礼」の上位に置いているようです。

 また、『礼記』礼運篇には、「楽は内に動く者なり、礼は外に動くものなり」とあり、『荀子』楽論篇には「楽なる者は、天下の大斉、中和の紀なり」ともあります。これらは、人は「楽」である舞踏、詩歌、音楽を通して、生命を実感し、生きる意味を得て、心の自由を獲得するということでありましょう。

 「礼楽」は人間存在の差異性に根をもちつつも、相互理解に理解し合って協調と連帯を現実社会で実現し、さらに自然と融和して、生命活動の中の表現方法として、生・共存を可能にする生活様式である生命共生の世界秩序に即すこと、つまり「互いに相手を人間として敬意をもって重んずること」とも、二十世紀の実践的碩学梁漱溟によって現代的に解釈されています。(『梁漱溟全集』第一巻「東西文化及其哲学」383頁)

「礼楽」は「生」=「仁」を実現させる人類の英知であるということが言えそうです。

 

 『礼記』楽記篇には、「楽を致して以て心を治むる」「君子はその道を得るを楽とし、小人はその欲を得るを楽とす」ありますから、「楽」は音楽によって心を治める方法、あるいは技術でもありますが、「楽」は善や美をといった「仁」を実現するものであり、欲求を満たす手段ではありませんから、「楽しければよい」「聴衆の受けを狙う」という歌舞音曲の類は「楽」ではありません。

 

 また、『礼記』には、「礼楽刑政其の極は一なり」ともあり、「楽」は個人の自己実現、幸福のために使われるというより、為政のため国家の秩序維持のための手段とも考えられていたようですが、「自由な自己」の実現による「徳」の涵養による個人の自己実現と社会への貢献を説いた佐藤一斎は、「楽」を政治的な支配の手段と考えていたのではないようです。それは、一斎の教える儒学そのものが、為政者が民を支配するための社会秩序を説く中国や朝鮮半島のものとは違い、徳川幕府「朱子学」の枠には囚われない開明的なもの、真善美の基準で各人の心の在り方と行動を問い、より良い社会を考える、哲学的であり社会学的な日本独自の啓蒙思想であるからです。

 「青は藍より(いで)て藍よりも青し」と貴賎門閥子弟長幼を超えた人物本位の実力主義を説いた荀子は、「楽とは礼楽のこと」と記し、「学は以て()むべからず」(『荀子』勧学篇)と生涯の学びを主張していますが、これは、「三学戒」として知られる佐藤一斎の「少而学 則壮而有為 壮而学 則老而不衰 老而学 則死而不朽」(『言志録』第六十条)に通ずるところがあります。

 二十歳の一斎は、荻生徂徠の『辨道』の誤りを正して講釈した『辨道薙蕪(ていぶ)(徂徠の論を(かぶら)のようにぶった切る)』において、荀子の礼楽について論じています。

「荀子ハ、スナハチカノ性善ノ説ハ、必ズ礼楽ニ至ラムコトヲ慮ル。故ニ性悪ヲ言ヒテ、以テコレニ反スルノミ」という徂徠の言を、「性善にして、礼楽(すた)れ、性悪にして、礼楽興らば、すなはち性悪にあらざれば、教への入るべからずや。何ぞ言の(たが)へるや。それ礼楽は(これ)を性情にの理に本づきて、立てたり。故に曰く、風を移し俗を()ふるは、(がく)より善きは()し。(かみ)を安んじ民を治むるは、礼より善きは莫し。と。また曰く、礼楽は、徳の(そく)なり(『春秋左氏伝』僖公27年「礼楽は徳の則なり。徳義は利の本なり」)、と。既に(これ)を性情の理に本づきて、立てたり。すなはち性善にあらざれば、教へは得て(したが)ふべからざるなり。云々」(13則)と鋭く論破し、「礼楽」を広く実践することの大切さを主張しています。

 

 では、この「道を得る」、「徳の則」である「楽」について、一斎は、どのようなものを想定していたのでしょうか。

 

 

一斎が説く「楽」

 一斎は、この世に生きる人が心がけるべき考え方の根本、すべての価値感の根源について次のように言っています。

 「太上(だいじょう)は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は(けい)を師とす」(言志録 2

 「凡そ事を()すには、(すべか)らく天に(つか)ふるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず」(言志録 3

 

「宇宙は我が心に外ならず」(言志後録 20

 「人はすべからく心の腔子(こうし)(うち)に在るを認むべく、またすべらく心の腔子の外に在るを認むべし」(言志後録 52

 

 また、その宇宙観、死生観については下記のような諸言から知り得るところがあるかもしれません。

「真我(心霊)は自ら知りて、(せい)(すい)(へだ)つること無し。常霊常覚にして、万古に(わた)りて死せざるものなり」(言志晩録 292

「我の我たる所以の者は、蓋し死生の外に在り」(言志耋録337

「天地に未だ(かつ)て死生有らざれば、則ち人・物に何ぞ死生有らんや」(言志後録27

「我れの我れ()る所以の者は、蓋し死生の外に在り」(言志耋録 337

 これは、「真我」(天=心)と「?殻」(地=自分の肉体が属する森羅万象)の二元論であえい、デカルト、ベルグソンのような「精神」と「物質」の二元論に通じるような哲学と言えるかもしれません。

 朱子学は「気」と「理」の二元論を採り、「気」の詰まったものが生命であり、これが解体が人の死と説く。陽明学では、この両者が一致し一体となって自己が実現されると説く。「独立した自己」を極めようとした一斎が説く哲学は後者に近いため、幕末維新で身を挺して「至誠」を尽くした活動家たちの共感を得て、日本が独立した近代国家として成立するのに多大な影響を及ぼしたと考えることができましょう。 

 したがって、その「楽」も、「天」の法則に適って、宇宙と一体になったものであり、「志」に適う「利刃」で「清泉」の如く、自ら求めて確立した「自得」のものでなければならないのでしょう。

 

 一斎は、孔子の重んじた理想の音楽である「古楽」について言及しています。

 「すなわち管弦に被らせ、簫磬にととのえ、聴く者をして親炙するがごとくならしむ。・・・生者は皆死に、金鉄もまた滅す、いわんや物(楽器)に寓する者、能く久遠を保せんや。

 故に曰く、古楽滅びざる能わず。但だ、元声太和の天地人心に存する者に至りては、則ち聖人より前なるも、聖人より後なるも、未だ曾て始終有らず」

 

「古楽不能不亡 楽其始於何世 果前乎聖人歟 若有待於聖人 而後作 則其人既亡 而其所作安能独保久遠 聖人徳精英 発而為楽 乃被之管弦 諧之簫磬 使聴者如親炙之 則楽之感召 以其徳之寓於此也 今去聖既遠 伝之者非其人 其漸致差繆 遂以亡 亦理勢之必然 韶之伝於斉 孔子深契於心 然恐巳非当時全 但其遺音尚足以感人 而今亦遂亡矣 凡天地間事物 生者皆死 金鉄亦滅 況乎寓於物人 能保久遠乎 故曰 古楽不能不亡 但至於元声太和 存於天地人心者 則前乎聖人 後乎聖人 未曾有始終焉 是亦不可不知」(言志録 77

 

 まさに天界と人間精神の一致した音楽、楽器や楽譜を超越した音楽こそが不滅の「楽」であるということです。

 これは、音になる以前の天の法則(宇宙の音楽であるムジカ・ムンダーナ)と一致する志(人間の音楽性であるジカ・ムンダーナ)が大切であという西洋の哲学に通じる発想です。

 また、物である楽器に頼ってはならない。楽器に余り拘れば「玩物喪志」に陥ると戒めています。

 元声太和の天地人心に存する音楽を求めた「楽」の痕跡は東洋にも西洋にも残っているので、現在その精神を求めてそれを演奏することは可能でしょう。

 

音楽に関った一斎門下ゴシックの人名は一斎の直弟子、あるいは孫弟子)   

吉丸一昌1873-1916):大分県臼杵出身。熊本第五高校で英語を小泉八雲と夏目漱石に、儒学、漢文、国文を秋月悌次郎に学び、漱石が招いた教頭狩野(かのう)亨吉(こうきち)(父良知が一斎門下の陽明学者であり戊辰戦争では大槻磐渓の同志であったに、大学卒業後の就職で世話になった。漱石には自分の採点間違ということにして、吉丸の英語の落第を救済した逸話がある。

 東京帝大国文科に進学してからは、学生でありながら、大学門前に借りた古民家に私塾「修養塾」を開き、生涯にわたって苦学生たちの物心の面倒を見続けた。加えて、1902年の第三中学国校への奉職と同時に、下谷中等夜学校を開設して、地方から奉公に上がった貧しい家の子弟を教化指導した。東京音楽学校の教授を務めていたため、尋常小学校唱歌編纂委員会作詩委員長にも任じられ、『早春賦』などの「唱歌」の作詞者として知られ、牧師でもあったが、その創作と研究の根底には一斎の説く礼楽尊重の姿勢が感じられる。東京府立第三中学校教諭のときの生徒には漱石の弟子となる芥川龍之介がおり、出身の臼杵の後進には同じく漱石門下の野上豊一郎と『三四郎』の続編といわれる『迷路』を書いた野上弥生子の夫妻がいる。

 吉丸の著作には、『修身訓話』『精神修養』『武士道訓話』『立志訓話』『修身夜話』『名家修養談叢』などがあり、専門の作詞についての書『新撰作歌法』には、「歌は(ことわ)るものにあらず」とは古來の定論なり。即ち複雑なる理論を説くものにあらずして、單純なる直覺を尊ぶものなり。智識を與ふるものにあらずして美化したる感情を傳ふるものなり。道理づくめに記述するものにあらずして刹那に感じたる気分を偽らず矯めず正直に記述するものなり。古來歌は幼く詠めといふは、その意味なり。」「然れども知るべし、作歌は藝術なり、芸術たる以上は、趣向を選擇すると共に用語の選擇を忘るべからず。歌詞には素より雅俗なしと雖、その用法に巧拙あるを知らざるべからず。然り、この用語の選択と、その用法、この二つのものは實に作歌者の努力を致さゞる可らざるものなり」とある。

 

 

プロテスタント思想を研究し導入布教した一斎門下

中村正直(まさなお)(敬宇)1832-1891:幕府同心の出身で、一斎と安積艮斎に師事。昌平黌学監を務めた。林學斎が計画実施した1866年の幕府留学生渡英には取締役として同行した。明治後は、静岡学問所の教授となって東京を離れたが、後に福沢諭吉(その父と兄は「死に到る迄、孝悌忠信の一言」という謹厳な漢学者、長崎海軍伝習所取締、艦長木村喜毅(よしたけ)芥舟(かいしゅう)付きの通訳として咸臨丸に乗船)、西周、森有礼、新島襄加藤弘之佐久間象山門下)、津田真道佐久間象山門下)、箕作麟祥(あきよし)(安積艮斎門下)、西村茂樹安井息軒門下)、阪谷朗廬昌谷(さかや)精渓(せいけい)門下)、植木枝盛(えもり)奥宮(おくのみや)慥斎(ぞうさい)、福沢諭吉門下、愛読した『言志四録』に人の心の「洪大無辺」を読み取っている)らと「明六社」を結成してプロテスタントの啓蒙思想の普及にも努めた。「天は自ら助くるものを助く」の訳語が有名。

 1871年にサミュエル・スマイルズの『Self Help』訳書『西洋立志伝』を出版し、百万部以上を売る。また、ジョン・スチュワート・ミル『On Liberty』も『自由の理』『自由論』として訳し、「最大多数の最大幸福」を主張した。女子教育、盲?教育にも尽力し、東京女子範学校学長、東京帝大教授(学生に三宅雪嶺など)も歴任した。その私塾の「同人社」の出身者には、女子教育のための「女学雑誌」を刊行し、明治女学校の校長を務めた巌本善治(よしはる)三宅雪嶺と田邊花園(かほ)とも親しく二人の結婚仲人となった)や朝日新聞で二葉亭四迷と夏目漱石に小説を書かせた池辺三山(その父吉十郎は、反政府蜂起の決起を要請する前原一誠の訪問を受け、西南戦争で熊本隊を率いて西郷軍に加勢して処刑された。その門下の佐々友房は生き残って私塾「済々黌」を開き、井上(こわし)安場保和らと国家主義的結社の紫溟会を結成した)がいる。つまり、漱石の『虞美人草』以降の新聞小説は一斎の孫弟子で、西郷隆盛を師と慕う志士の息子によって企画編集された。また、陽明学徒的な自由民権運動家であり明治女学校で教えた北村透谷は「福沢諭吉が外部の改革者であるのに比べ、中村は人間の内面を問題にした」と述べている。

 

新島譲1843-1890):安中藩士。「同志社英語学校」の創立者。藩主の縁戚の備中松山藩主で老中であった板倉勝静(かつきよ)に安中に派遣された一斎の許で苦学した川田甕江(おうこう)に師事した。幕府の軍艦操練所で学んだ後、米国製「快風丸」を購入した川田から、この大型帆船の江戸から備中への回航の操船を任され、1864年にはこの船で函館に行き、そこから上海経由で米国へ密航した。川田は米国での新島の動向を常に把握し、情報を得ていたようなので、この密航は川田山田方谷、函館を管理していて外国船との接触があった木村喜毅(よしたけ)、栗本鋤雲(じょうん)ら海外通幕吏の一斎門下の人脈、あるいは老中板倉ら反英国親米幕閣によって仕組まれたものであったのかもしれない。「同志社」を京都で設立できたのは、以前京都所司代であった板倉家と懇意の公家が土地を提供し、山本覚馬、その妹で新島の妻となった八重ら、藩主が京都守護職であった会津藩の人脈の協力があったからである。高梁に建てられた基督教会堂も、川田らと新島の関係の深さを物語っている。後に、米国へ留学した会津藩士の娘の山川(後に大山巌に嫁す)捨松を預かって保護した土佐出身のロシア正教の司祭沢辺琢磨は、函館で新島の密航を助けた人物であり、坂本龍馬の従弟にして武市瑞山の義兄でもあり、新島が軍艦操練所で学んだ米国帰りのジョン万次郎とも親しかった。

 新島に入門した横井小楠の長男の横井(伊勢)時雄は、山本覚馬の次女のみね(峰)を妻とし、同志社の第三代社長(総長)になっている。「日本をキリスト教化する」と横井小楠を断罪して暗殺した攘夷主義者の予測は、結果的に一面では当たっていたと言えるかもしれない。

 

木村熊二1845-1927:出石藩士。昌平黌に学び、一斎と安積艮斎に師事し、上野戦争では彰義隊を支援して薩長軍に抵抗した。アメリカに渡航しプロテスタント倫理の影響を受け、帰国後フルベッキ(1830-1898、オランダ系アメリカ人の宣教師)によって洗礼を受けた。一斎の長男佐藤滉の娘町子の娘(一斎の曾孫)鐙子(とうこ)1848-1886)と結婚し、田口卯吉(鐙子の異父弟)植村正久らと明治女学校を設立したが、鐙子が死去してからは、信州の小諸義塾で民主主義的社会を作るための教育に情熱を傾けた。島崎藤村をこの地に招いたのも熊二である。生涯を通じて最も親しかったのは、若い頃には共同生活をしていた田口卯吉(鼎軒)である。

 明治女学院はプロテスタントの人々によって設立運営されていたが、一斎的儒教精神に基づく日本的婦道を教える自主自立の私学校であった。熊二からその運営を託されたのは中村正直の弟子で熊二と同郷の巌本善治(よしはる)であり、津田梅子、幸田延、島崎藤村、北村透谷らも一時期講師を務めたが1909年に閉校された。巌本善治編『木村鐙子小伝』(女学雑誌社、一九八七)の序は曾て熊二の上司であった勝海舟によるものである。(藤田実美『明治女学校の世界』育英社(1984)夏目漱石門下の野上弥生子『森』(1985)、島崎藤村『桜の実の熟する時』『春』)

 

プロテスタントの思想を研究しその宗教者となったのは陽明学を学んだ人々であり、その多くは『言志四録』の影響を受けていました。例えば、メソジスト教会(内村鑑三や新渡戸稲造が入信し、岡野貞一を援助し音楽教育を施した)の初代日本監督であり青山学院大学の初代学長となった本多庸一(よういつ)1848-1912)は国士と呼ばれていましたが、その座右の銘は、西郷隆盛の「敬天愛人」を手本とした「畏神愛人」でした。

 

開国の条約交渉の当事者となった一斎門下

 幕末、ペリー来航以前から、開国まで外交と国防、軍備と兵器生産の近代化を推進してきたのは、大学頭の林述斎の林家の一族郎党、門弟たち、佐藤一斎の弟子たちでした。

 対外交渉、条約締結、開国、軍備の近代化?、西欧技術の導入による富国強兵を策定し、近代国家建設の準備を行ったのは、安政5年(1858)に任命された五外国奉行、水野忠徳永井尚志井上清直堀利煕岩瀬忠震(『幕末五人の外国奉行』土居良三、中央公論社(1997)但し、この書は一斎については全く触れていない)、及び、林復斎川路聖謨河田迪斎らは一斎の弟子であり、一族であり、主君述斎の郎党でした。開国を断行したのが老中職にあった第七代福山藩主阿部正弘ですが、その侍読を務めていたのも一斎門下の北條悔堂でした。阿部正弘の父での阿部正精(まさきよ)(蕪亭)は第五代目藩主になる前、父信由(1728-1814)の古希を祝うため一斎が収集した『名流清寄』(1797)に二点の詩画を寄せています。

 幕府で外交を担当していたのは、中国、朝鮮と対等に渡り合える漢学者でした。昌平黌の初代学頭で、一斎が仕えた林述斎が朝鮮通信使との外交窓口であり、実際に対応接待を一手に引き受ける招致委員長であり、一斎の同門の松崎慊堂(こうどう)がその実務を代行しました。その実績と人材があったため、欧米との外交も昌平黌の人脈が担当して開国を実現さることになりましたが、欧米語を先ず漢文に訳すのが当時のやり方であり、中国で既に漢文に訳された欧米書があったので、漢学の素養は外国と折衝する外交官僚に必須の能力でした。ペリーも当初の通訳として中国人を同行し、1854年の和親条約も、一斎の助言の下、復斎が漢文で交渉に当たりました。この時、大槻盤渓はペリーが連れてきた中国人通訳の羅森に漢詩でメッセージを伝えました。吉田松蔭はこの話に触発され、黒船への乗船を企てたと言われます。

 

林復斎(?(あきら))(1801-1859(一斎の没年):述斎の六男。?宇(ていう)の子壮軒親子が若くして没した後大学頭となった。ペリーの黒船来航時に、外交文書を精査して過去の外交経緯を把握し、師の一斎の指導補佐の下、一斎の婿となった河田廸斎(てきさい)を秘書官としてペリーと直接交渉に当たり、砲艦の圧力に屈することない毅然とした態度で「日米和親条約」を締結して日米の平和的友好関係を築いた。これは「世のために働くことが自己の救済になる」と教えるプロテスタントの倫理観を行動原理とするフリーメーソンの一員であったペリーと、一斎から陽明学的「志と行動の一致」の教えを受けていた復斎らが、お互いを「知情意」に優れた人間として理解し合えたことによる幸運であったと言うべきであろう。これによって日本は本格的な開国を準備し、国として独立を保つことができた。その後の各国との交渉で辣腕を発揮して国に貢献した外国奉行の利煕(としひろし)岩瀬忠震(ただなり)は述斎の孫であり、復斎の甥である。

 また、国際情勢の変化と海防の観点、及び欧米国との条約の制約から、通信使の改廃の交渉を朝鮮王国とも行ったのも復斎である。

 

河田廸斎(てきさい)()180-1859):一斎の八女の(しむ子)の婿であり、一斎の後継者に指名された。讃岐高松藩領善通寺で帰農した元武士の家に生まれ、幼くして両親を失った逆境にあって近藤篤山(一斎がその墓表文を撰している)に朱子学を学んだ。地元でその才能を惜しまれ送り出された江戸では、家庭教師をしながら苦学の末、30歳にして一斎に入門を許された。同門の吉村秋陽春日潜庵、及び廸斎次男の陶庵が養子となってその後を継いだ大橋訥庵とも親しく交わった。幼名が八之助であったため、その温厚さを「ほとけ河八、鬼佐久間(象山)、どっちつかずの安積艮斎」と囃された。一斎の一番弟子の十五歳年長の安積艮斎は「河田は家富みて常に仙台袴着くる位なりける上容貌秀麗にして進退閑雅なれば、甚だ先生に愛せられ」「予は貧家にして衣は膝を蔽ふに過ぎず、容貌は此の通りなれば、常に先生に疎んぜられ、雲泥の違ひなりし」と自らを卑下して茶化しているが、極貧で艱難辛苦した廸斎に対するこの言は、容貌と立居振舞いの印象以外については事実とは言い難い。一斎との養子縁組も、林述斎の意向があってのことと思われる。河田姓を残したままの廸斎の後継指名は、家門を守るための封建的な世襲ではなく、時代を先取りした人物本位の能力主義であった一斎の考えによるものと考えられる。一斎は学問の才能がないと判断した長男の(慎左衛門)に、田口家の株を買い与えて佐藤家から出しているが、それもこの考え方によるものであろう。

 1854年の対ペリー交渉では、林復斎を補佐して通訳、翻訳を艮斎らと漢語で行い、その交渉記録を六巻の『墨夷応接録』に残した。その際に起草した自筆の日米和親条約の原文はワシントンの公文書館に保管されている。また、ペリーから贈られた模型の蒸気機関車に最初に試乗した人物であることがペリーの『遠征記』に記されている。この条約締結の功績を認められ、禄米二百俵の旗本に取り立てられた。同じ農民出身であった艮斎が「家富み」と言ったのは、このことを指したのかもしれない。(中村安宏「幕末儒者・河田廸斎」の思想的位置)『日本思想史研究』26、東北大学大学院文学研究科日本思想史研究室、199414-26頁)一斎から私塾「愛日楼」を託されたものの、一斎が没した直後に劇疾によって急死した。一斎の著述原稿が今日に伝わるのは、廸斎の家族子孫がそれを大切に保管していたことによる。(現在は東京都立中央図書館河田文庫として公開されている)

 1857年の各国との通商条約交渉時の上申書には、攘夷論を批判し、人類共通の「天理本然の性」という一斎の思想で西洋人にも信義をもって接すれば心に感ずるはずだと書かれている。

 

佐藤一斎の音楽生活

 一斎が「楽」と当時考えていたのは、具体的にどうような音楽であったのでしょうか。「坊間の詞曲の如きに至りては、多くは是淫哇(いんあい)()兪欠()、損ありて益なし」(言志録76)とあるので、三味線による遊郭の歌舞音曲や民謡や盆踊りの音楽の類ではなかったはずであり、能楽を好んだという記録はありません。

 古楽、つまり孔子の時代の「楽」と古代中国の雅楽のことですが、一斎が宮中や寺社で保存されている雅楽を一般的な「楽」と考えていたわけではないようです。当時の最新流行の儒教の音楽で、一斎が傾聴し自らも合唱に参加していたと思われるのは姫路藩で演奏されていた「明清楽」です。この姫路藩の藩主家臣は一斎の門弟でもありました。

 

酒井忠道(1777-1837):播磨姫路藩第三代藩主。「佐藤一斎に師事し棒米を贈る」との記録がある。画家の酒井抱一がその叔父に当たる。先代忠以(ただざね)の時代に藩政改革を試みた河合道臣を再度登用し、凶作や災害の備えの義倉を設け、林?宇、及びおそらくは一斎の指南で「固寧倉」(民は(これ)(くに)(もと)(もと)(かた)ければ邦(やす)し『書経』)と名付ける。

 次代の忠実(ただみつ)の四男は、1828年に三河田原藩の養子の藩主となるが、そのお膳立てをして受け入れたのが家老の渡辺崋山であった。一斎門下として道臣崋山は、お互いを認め合った人間関係にあったのであろう。

 渡辺崋山は長崎遊学中に明清(みんしん)(がく)(しん)(がく)を習っているが、酒井家は明の時代の中国音楽の明楽(みんがく)を保護しその演奏集団を維持していた。日本に帰化して明楽を伝えた()()?(えん)(1618-1689)から4代目の()(こう)(鉅鹿(おおが)規貞、1727?-1774)を召し抱えて管弦と声楽の編成の明の宗室と廟堂の荘厳な音楽を行っていたのが姫路藩であり、この活動は礼楽の研究と実践の一環でもあった。(中尾友香梨『江戸文人と明清楽』汲古書院(2010)明代の王陽明の学を研究し教授する一斎は、この明楽との関わりにおいて、酒井家と親しく交流する必然があった。一斎は実際に聴いた音楽の素晴らしさについての記述があるが、その演奏のひとつが姫路藩の明楽であったのは間違いない。この明朝の宮廷音楽、あるいは儒学の宗教音楽の荘重な外来音楽は(「魏氏楽譜」が残されている)は、1764年から1772年(一斎の生年)頃に最盛期を迎えた後衰退していったが、教本『明楽唱号』があった姫路藩では、文化文政期まで演奏が伝承されていた。清楽の流入流行に押され、清楽に吸収されたため、その後は明清楽と称されたとの説もあるが、儒者と武士による唐音(中国原語)で唱和する重厚な儀式音楽である明楽と、通俗的な軽音楽で、身分を問わない個人的な趣味の音楽である清楽は性格、形態、演奏状況が全く異なり、競合、あるいは代替関係にないので、大規模で費用のかかる明楽が行われなくなったのは、清楽の流行よりも酒井家他諸藩の財政逼迫によるものと思われる。

 

大島松洲1793-1832):仙台藩の儒者。1820年一斎に入門し、1821年には一斎に随伴して、京都、美濃上有知、岩村に旅し、岩村藩重臣の丹羽清左衛門(格斎)、小菅勝邦の案内で岩村の天瀑山に登った。(岩村資料館にこの時の自筆詩あり。1824年に長崎に赴く際、一斎は「仙台大島于木歴京師赴長崎。賦二絶餞行。辛巳秋于木従余遊京今為重遊」(『愛日楼詩』第四巻)と餞別の詩を贈っている。一斎に学んで陽明学に開眼し、長崎などで見聞を広げ、仙台で新たに学舎「心学書院」を建てた。朱子学を奉じる保守派の執拗な排斥攻撃に耐えて、藩学藩政を一変しようとしたが、心労により40歳で早世した。(桜田虎門『鼓缶子文章』巻三)『佐藤一斎と其門人』には「諸儒之を忌み讒謗四方に起れり」とあり、広瀬淡窓の弟旭荘は「師大憂遂鬱死」(『日間瑣事備忘』)と記している。

 松洲「清楽」を長崎で学び広めたことでも知られる人物であるのから、一斎は月琴の清楽を松洲の演奏で聴いていたのかもしれない。清楽については、渡辺崋山は書家の市河米庵(崋山筆の肖像画が京都国立博物館にある)とともに長崎で、清国からこれを伝えた金琴江の弟子遠山荷塘(一圭)学び、安芸広島藩の儒者坂井虎山も昌平黌で学ぶ前(1837年以前)に長崎で学んでいた。亀井昭陽ら多くの広瀬淡窓の門人たちも清楽に関わっていたが、それは生きた中国語の語彙や発音、当時の庶民文化を知るためであった。昭陽は「雅楽や史学などは日本が清を超えているので、清に学ぶべきものがあるとするなら、清楽のような俗文化である」と明言している。

 

 

 

早春賦                 作詞:吉丸一昌  1913(大正2年)

春は名のみの風の寒さや 谷の(うぐいす)歌はおもへど 時に(あら)ずと声も立てず

氷解け去り(あし)(つの)ぐむ  さては時ぞと思ふあやにく 今日(けふ)昨日(きのふ)も雪の空

春と聞かねば知らでありしを 聞けば()かれる胸の思ひを 如何(いか)にせよとのこの頃か 

 

 

                                古山和男記 

                     

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