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ヴァンドーム幻想

シャトレ座の思い出

中学に入った頃のこと 

モンフォール・ラモリーのラヴェルの小さな家

ヴァンドーム広場幻想

日本でも外国でも歴史が深く感じられる場所があります。普段何気なく歩いていた場所も、よく注意して標識を見ると、様々な言われがあることを知ると楽しくなってきます。

ヴァンドーム広場はもとはルイXIV世を称える記念像が建てられていた(1702年)を取り壊して、ナポレオンI世がオーステルリッツの戦勝を祝してヨーロッパ連合軍から奪取した大砲を螺旋状に巻きつけた円柱を建立したそうです。

ショパンは一枚だけ残した写真を、ヴァンドーム広場に面したアパルトマンで撮ったようです。ショパンにしても、元新撰組の土方歳三(!)にしても亡くなる数日前に写真を撮りました。

よくぞ残してくれたと思います。共に30代後半、ショパンは1848年、土方は1869年で、二人とも眉目秀麗で知られた人ですが、ショパンの肖像画はサロンのマダムに気に入られそうな繊細に微笑む姿ですし、土方は「役者のようなやさしそうな顔立ち」という言い伝えからは錦絵のような姿しか想像できなかったでしょう。

土方は写真を撮るときに「生きて官軍(新政府)に落ちるような事があれば、地下の近藤(元新撰組局長、一年前にすでに斬首されていた)に会うことはできない」と言っていたように、すでに数日後の函館の戦争で死ぬ事を覚悟していたと思います。穏やかな平静さを保った表情に短髪も洋装も似合っています。おそらく故郷の人に「町人や百姓から侍になって名をあげた、もう思い残す事はない」と伝えたくて残したものと思います。

一方、ショパンの写真はどうも不機嫌そうに顔をしかめ、結構がっしりした体格に見えます。ショパン自身の意志ではなく、回りの人に勧められてしぶしぶといった所でしょうか。

ショパンは死ぬ3週間前にヴァンドーム広場に面する高級アパルトマンに引っ越し、そこで亡くなりました。何もそんなに具合が悪いのだから引っ越しなどしなければ、もう少し長生きしたかもしれないのにと思っていました。

そこが現在の、よくウインドウショッピングをしていた現在ショーメという有名宝石店の2階だったと知ったのは最近の事です。ほぼ真向いにリッツホテルがあり、あの英国ダイアナ元妃の婚約者ドラディ氏は、ショーメで指輪を作って受け取り、リッツホテルでの最後の食事に向かったのです。時空を超えて、ショパンが少し体調が良くて、外を眺めたなら、二人が見えた事でしょう。

ショパンの死には沢山の人が立ち会ったと証言していますが、そんなに大勢の人が本当に入れたのかという疑問があります。

ヴァンドーム広場のすぐ裏手にあるマドレーヌ寺院で葬儀は行われ、大勢の人が参列したそうですが、8年程生活を共にしたジョルジュ・サンドは参列しなかったそうです。

そのマドレーヌ寺院では、40年余り後にフォーレが主席オルガニストになりました。(フォーレは、私の師であるマグダ・タリアフェロを少女の頃から大変可愛がり、彼女をソリストとして自身オーケストラの指揮をとりヨーロッパ中を回ったそうです。)

ショパンのお墓があるペール・ラ・シェーズ墓地に行った時のこと、(ウィーン郊外にあるベートーヴェンやシューベルトのお墓に参った時のように、一対一でお墓に対峙できるものと思っていましたが、)広大な墓地の中、ビヨンビヨンにのびたショパンのピアノ曲らしきテープの音が聞こえてきて、人が群がっている一角があり、門番にもらった地図からもその辺りがショパンのお墓である事がすぐわかりました。しかしその回りは多くの人、多くの蝋燭が灯された人ごみで、とても一対一になる事はできませんでした。晩秋の寒い中、今も根強い人気がある事を実感しました。(パリのお墓には体のみ、心臓は生前の遺志によりワルシャワにあります。)ヴァンドーム広場は今も高級街ですが、ショパンは経済的に困難だったと言われる晩年にも高級街に住み瀟洒な馬車と御者を手放さなかったそうです。

裏手のマドレーヌ広場には今はフォション本店やチョコレート店、三ツ星レストラン、ルカ・キャルトンの鬼才シェフと言われるアラン・サンドランスが休憩時間に日向ぼっこをしていたりする少しほっとする界隈です。

              

                ヴァンドーム広場                     千春画              

             2010.11.26     畠千春ピアノリサイタルプログラムより転載

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ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を弾くにあたって調べたところ、初演がパリのシャトレ座だったことを知り、ちょっと意外な気がしました。シャンゼリゼ劇場での「春の祭典」初演の折の演奏者や観客を巻き込む乱闘騒ぎがあまりにも有名な為、他のバレエ曲もすべてシャンゼリゼ劇場のような気がしていました。実際は「火の鳥」はオペラ座、それぞれ違う場所で初演が行われていたのです。(主役はすべてニジンスキー)

シャンゼリゼ劇場はパステルカラーのギリシャ風の天井画のいかにもベル・エポック調、オペラ座は大理石の大階段にシャンデリア、赤いビロードのいすやカーテンにシャガールの天井画の華やかな劇場です。

それに比べると、シャトレ座はセーヌ川を背にして左側の全体的にグレーの石のイメージ。下の席が取れない時は、安くて音も眺めも良い天井桟敷を利用しました。この劇場は、ドイツの古い劇場にも残っていますが、天井桟敷に昇り降りするための階段は外の別の場所に入口があり、日本橋の三越に昔あったようなエレベーターも途中の階までしかありません。身分の差別が今よりも大きい頃建てられたからなのでしょう。

ペトルーシュカがそういう場所で初演されたというのは革命以前のロシア人にとっては特に意識しなかった事とは思いますが、そんな時代に作られたきわめて新しい音楽だということを思わずにはいられません。パリという街では、新しいことが否定されても否定されても生まれ、やがて歴史になっていく気がします。

シャトレ座ではフレーニやヘンドリックス、ノーマンの歌、ショルティ指揮のシカゴフィルのマーラーやコチシュのバルトークとドビュッシーのリサイタル等、思い出深いコンサートばかりですが、とりわけ印象深いのは、夏の暑い夜、冷房のないシャトレ座でヨッフム指揮バンベルク交響楽団によるブルックナーの連続演奏会です。ヨッフム×バンベルクはドイツでもパリでも何回も聞きましたが、猛暑の中、ワイシャツ姿で黙々と演奏するヨッフムを黙々と聴いた演奏は今でも心の糧として残っている気がします。

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中学に入った頃のこと

 親類の者が園芸科で教えていた事もあり、親が出身の学校に入ることになりました。家が遠かったので昭和の初期に建てられた木造洋館の寮に入りました。小学校を出たばかりの私には、想像力をかきたてられる場所があちこちにあり、食事風景などはまるでディケンズ(今でいえば小ぶりなハリーポッター木造版?)の世界でした。

 私服の自由な校風ですが、学校に隣接する寮に入っていると早朝からおそうじ、朝食後に礼拝、学校に行ってから朝の礼拝、昼の聖書研究会に出たり、放課後に聖歌隊の練習をしたりして、帰ってから夕食後に礼拝とすぐにその生活に入り込んでいきました。

 中一の担任の先生が礼拝の時には素晴らしいソプラノで賛美歌を歌われる音楽の先生でした。入学後程なく仲良しになるためのキャンプが御殿場であり、その時の礼拝で奏楽をするためにピアノを習っている人で、ツェルニー40番以上の希望者が試験を受けることになりました。

 その時にいつもは厳しい先生が「畠さんのピアノはいい手をしているせいかいい音がするわね」と言ってくださったので、すっかりうれしくなってしまいました。

 その後同じ学校の卒業生の遠山一行氏のお連れ合いでコルトーの弟子の遠山慶子先生、モーツアルト研究の海老澤敏氏のお連れ合いのピアニスト小川京子先生に教えていただくことになり、大学卒業後はヨーロッパで3人のコルトーの弟子につくことになりました。(マグダ・タリアフェロ先生は子供のころカザルスに見出され、フォーレに可愛がられた後、コルトーに、ペルルミュテール先生はコルトーとモシュコフスキーに師事した後、ラヴェルにラヴェルの全ピアノ曲を習った方です。また、パリに行く前にレッスンしていただいたツィメルマンの先生であるヤシンスキー先生はパリでタリアフェロ先生のクラスを卒業していらっしゃいます。)

 他にも色々な国のいろいろな先生に教えていただくことができましたが、中学生のあの頃、そこにいなかったら、違う人生を送っていたかもしれないとつくづく思うのです。

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モンフォール・ラモリーのラヴェルの小さな家

大分前の事になりますが、モンフォール・ラモリーという所にラヴェルが晩年住んだセカンドハウスがあると聞いて、友人達と行ってみました。

天気の良い秋の日にパリから、〈鹿注意!〉の標識が所々にある田舎バスを乗り継いで、着いたのはお昼もかなり過ぎていました。

小さな教会と広場から少し昇った谷あいにあるラヴェルの家はすぐに見つかりました。案内人に導かれて部屋に入るとこじんまりした玄関兼客間で、壁の色はグレーの濃淡のモノトーン、小さなアフリカ風の絵や線の模様はラヴェル自身が描いたそうです。

右奥の小ぶりの部屋は作曲用に、エラール社の幅の狭い(88鍵ない)グランドピアノがあり、「夜のガスパール」や協奏曲等をここで作曲したそうです。「ピアニストなら弾いてもいいですよ」と案内人に言われるままに、思いつくラヴェルの曲のさわりを何曲か弾いてみると、ここに座ってこの曲を作曲していたかもしれない、と不思議な気持ちになりました。実際、この小さな部屋から数々の名曲が生まれたのです。

入口左側の階段から階下に降りていくと、小さなキッチンを通って奥に寝室があり、玄関は一階から入ったのに谷あいに建てられているので、寝室からも庭に出られるようになっています。

案内人によるとラヴェルは夜中に作曲し、昼間の道路の音をさけて階下に寝室を置いたそうです。昼でも眠る時に月や星が見えるように、左右の雨戸に三日月と星の形に穴があけられていました。

又、階段の途中のケースに彼の着ていた服が飾られており、意外と小さいのでびっくりしましたら、ヨーロッパの人としては小柄で、158儖未梁侶舛世辰燭修Δ任后2m近い長身だった若きペルルミュテール先生がここで「メートル(大先生)」と見下ろし、ラヴェルが「モン・プチ」と見上げていたのかしらと想像しておかしくなりました。

入口サロンへ戻り、木製のバルコニーの方から外を眺めると、視界の先まで夕焼けに染まった紅葉がゆるやかな谷に続いていました。突然、先程の広場の教会の鐘がガランガランと鳴って谷間に響き渡っていきました。とっさに私の頭の中にラヴェルの「鏡」の最後の曲、「谷間を渡る鐘の音」が流れました。そうだ、ラヴェルはこの鐘の音を聞いてこの曲を書いたに違いない、と勝手に確信してしまいました。

薄暗くなった森を帰路につくバスの中で、孤高で完全主義のような印象だったラヴェルと同じ家から同じ景色を見、同じ鐘の音を聞いて、ちょっとお茶目で生活を楽しんでいた人だったのだなぁと以前より身近に感じられるような気がしました。

     ラヴェルの家                                    千春画              

                  2007.11.22     はたちはるピアノリサイタルプログラムより転載 

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屋根裏でのラ・ボエームな日々

 オペラのラ・ボエームの舞台の第一幕をみると、いつも『あんなに屋根裏って広くもなく天井も高くないのになぁ』と思ってしまいます。パリでは、6回ほど引越しをしました。始めは郊外の宇宙都市のような近代住宅の街ナンテールの寮では、当時、ピアノの藤井一興氏、ギターの福田進一氏、作曲家でピアニストの野平一郎氏等、今の日本を支える音楽家がそれぞれ個性的に暮らしていました。東の郊外で古い一軒家に住んだ時は、デカルト研究者の平松希伊子さんと短い間でしたが、工夫し協力し合いながら住みました。そこでは、春には庭の茂みの中で、毎朝パンくずをあげていたムクドリが卵をかえし、初秋にはリンゴが大量になるので、毎日大鍋にコンポートをつくり、大わらわだった事も懐かしい思い出です。最後に住んだ、サンソン・フランソワの家が直ぐ近くにある、16区の小さな部屋も忘れがたい場所です。

その中でもひと際パリらしさを味わえたのは、サンジェルマン・デ・プレ教会の裏にある、小さなフュルスタンベール広場。隣にドラクロワのアトリエがあり、作曲家アレクサンドル・チェレプニン氏の住居に付随する、小さな屋根裏部屋にいた1年弱のことです。その頃、氏は亡くなられたばかりでしたが、代々音楽家の家系で、弟子のプロコフィエフがピアノ協奏曲の1番を彼に献呈していることや、前婦人が米国系の資産家で、チェレプニン版と呼ばれる新しい曲を発表する楽譜を出している事、氏が来日の折には、私の母方の縁者である作曲家の清瀬保二も案内した等という事は知っていました。(チェレプニン氏の弟子の伊福部昭氏が2年程前に音楽の友誌に氏のことについて連載していました。伊福部氏はゴジラのテーマでも有名です)

タリアフェロ先生の招きで急遽パリに戻ることになり、調律師の木下さんがあそこが空いているようだと教えてくれたのです。当時の中国系ピアニストの夫人がニューヨークに住んでおり、電話で『適当に片付けて住んでいて下さい』との事、埃をかぶった古い楽譜の山を整理していたところ、色々な楽譜の中から、清瀬保二のチェレプニン版の楽譜が出てきてびっくりしました。後日、夫人がパリにいらした時に、私がタリアフェロ先生についている事、部屋をきれいに使っていること等を喜んでくださいましたが、楽譜の事をお話ししましたら、とても驚いて残っているものの中から、きれいなものを幾つか選んでくださいました。

次の夏には、建物に故チェレプニン氏の記念プレートが埋められる事になり、当時パリ市長だったシラク氏が、広場に置かれた演台の上で演説しているのが屋根裏から見えました。階下の母屋には私も招かれ、イコンがあちこちにかけられている部屋にロシア・中華・仏の料理が並び、後につくことになるペルルミュテール先生、オリビエ・メシアン氏とその伴侶ロリオ夫人、グッソー氏、ムニエ氏と将軍の夫君、批評家ジャック・プーレ氏等、錚々たる音楽家が所狭しと集まっていて、まるで映画のシーンの中に入り込んだような気持ちでした。

落ち着いた広場も一歩出れば、ラ・ボエームの第二幕のような喧騒で、カルチェ・ラタンと言われる学生街でもあります。紛争の際、催涙ガスで涙が止まらなくなり、慌てて1つしかない窓を閉めた折にノックの音、学生が警官に追いかけられているので匿ってくれとの事。部屋に入れる訳にはいかないけれど、煙突掃除が屋根に上る扉の内に暫く隠れるように教えてあげたこともありました。それでも空の澄んだつきの美しい晩に、広場の桐の木の中のベンチで、ギターを奏でながら静かに歌う若者の声に耳を傾けながら、しみじみと幸せを感じる日もありました。

そのうちに狭い風呂なしの状況を見かねて、画家の蛯子善悦氏夫人の幸子さんが、ラ・モットピケの近代的で快適なアパルトマンが空くのを教えてくださり、保証人に三ツ星店(当時二つ星店)シェフの斎須征雄さんをご紹介いただいて、私の家に名シェフを食事にお招きしたりすることになりました。その後、屋根裏部屋にはシャワーがついて、私の友人の後にギタリストの鈴木大介さんが入ったそうです。鈴木さんは、作曲家の武満徹氏が好きだったギタリストだそうですが、その武満氏が唯一の師と言っていたのが清瀬保二だそうなので、世界は広いようでどこかで皆つながっているような気がしています。

 

2006.11.24     ミューザ川崎 音楽工房 リサイタルプログラムより転載

 

これには後日談があり、武満徹氏の夫人は、私の中、高(恵泉女学園)の先輩であることが判明しました。 

 

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