懐メロ想い出噺し

           懐メロ想い出噺し(4)
                (ドン・キホーテの暴走機関車)   

              

              50、瓢箪ブギ
 昭和30年キングの春日八郎により歌われた歌に「瓢箪ブギ」と言うのがあった。私も30
代に入ったばかりの頃だったが、今も忘れずに覚えているから「中ヒット」位にはなったので
あろうか。
「ブギ」と言えば「笠置シヅ子」の歌った「東京ブギウギ」などの一連のブギを歌ってからも
なお沢山の「ブギウギもの」が生まれ、ある意味で戦後復興の原動力になったといわれるが、
敗戦以来の貧しく重苦しい世の中をこの歌で吹き飛ばし、多くの日本人をやる気にさせたのも、
あながちオーバーな表現とも言えないようだった。
「美空ひばり」も笠置のものの物まねに飽き足らず自前の「河童ブギ」など結構沢山の「ブギ」
ものを歌っている。昭和30年ともなるとやや遅き感はあるがこの曲つまり「瓢箪ブギ」の面
白いところは作曲が江口夜詩であると言うことだ。作詞者と話合いがあったかどうか知らない
が歌詞に彼江口夜詩の出身の地岐阜県の養老の滝が詩の材料になっていた。
 その地は峨峨たる(オーバーな表現かな)山道をどうにか通れるバスで「江口夜詩記念館」に
たどり着ける。建設された建物の形は金管楽器のホルンをイメージしたと言われたが軍楽隊出
身の彼に相応しいのかも知れない。
 もう二十年ばかり前、建設間もない頃の現地を訪れたことがあるが、館長氏が言った。まだ
この記念館は出来たばかりで資料も揃っていない上、私自身も間違いが多いと思っているから
その様な誤りの箇所などを是非指摘して頂き教えて欲しいとの丁寧な申し入れがあった。
 上映時間30分ばかりの記念館PR映画を新しい美しく立派な音楽ホールで見せて貰ったが
稚拙な制作で全く話しに成らないほど間違いが多く、見るに耐えなくがっかりしてしまった。
 江口夜詩に関った人たちの名前が違っていたり、彼江口夜詩が無名時代からから彼の作品を
殆どのように歌った「松平晃」の一片の資料もなく、一言の記録も無く全くの素人の館長であ
ったのをいまさらの様に思い出す。江口夜詩の子息の江口浩司氏(1927−作曲家)もいるのに一
体どうしたのだろうとその時大変不審に思った。あれから20年近くたった今いろいろ整備し
たであろうか。
 話をまた元に戻そう。「養老の滝」の話は小学校の頃の話だ。多分国語読本か修身書の中に
取り上げられていたと記憶している。昔酒飲みの父親がいて自分自身の貧しいのを知っていな
がら親孝行の息子に「酒を買って来い」とか、いろいろ無理難題ばかり言っていた。
 ある日息子が通りかかった所に滝があって、プンプンと酒の匂いがこの滝から匂ってくる。
この水を掬い飲むと将に酒である。喜んだ息子は、この水を腰に下げていた、いつも水のみ容
器の瓢箪に口一杯にして持ち帰った。
 父は「滝の水」という事も知らず、とても「この酒は美味しい」と親孝行の息子に感謝した
のであった。・・・・・・・・・・というのが話の定説で、裏の話まで先生はわたし子供に教
えて呉れなかった。
 父親は、これはただの「滝の水」で酒ではないことを百も承知しながら、親孝行で夜昼身を
粉に働くわが息子をいまさら乍ら思い、今までの「分からず屋の頑固」な父親もそれからは心
を入れかへ、息子の言う事を聞きながら幸せな日々を暮らしたと言う。
 この歌は「瓢箪ブギ」という曲名だから瓢箪のことにもっと触れてみたい。今だったら自動
車で滝に行き、ペットポトル100本くらい車に積んで運んできて、親父に酒の風呂に無理や
りにでも入らせたかったとわたしは思う。
 私の小学校の同級生の女の子に「駒江」と言う子がいた。その妹に「駒子」姉が「お駒」総
領(長男)は「久吾(瓢箪のことを[ひさご]とか[ふくべ]とか言った)」末男は「駒夫」と言った。
女の子は皆美人で賢かった。母親も美人でどんな悪たれ小僧でも「審美眼」はあったのか、こ
の3姉妹はみんなの憧れの的であった。
 これらの子供たちの親父の名は何と言うのだろう。何と何と「瓢作(ひょうさく)」と言う名
前であった。「瓢箪から駒」・・・辞書を見るがいい。突拍子も無いことを言うのだ。
 昔(戦前)は名づけ親というのがあったが(今もこのような風習が何処のもあるが、東京にもあ
る)名をつけた本人は洒落た積もりであったのか、まさか他人の子供の名前を冗談の積もりでつ
けたのではなかったろう。それとも親が自分の名前の連想から思いついたのだろうか。
                                     (09.9.21)
					

        49、あゝ玉杯に花うけて
 今、リアルタイム(2009.8.23.PM2:00.)で私のホームページの表紙を飾るべく、友人から頂
いた写真、今を盛りと咲いている「芙蓉」の花を掲載することにした。ここでふと気がついた
のはこの花の季節は季語では秋と成っていて暦では現在、もう立秋も過ぎて当然ではあるが、
今真っ盛りの花は残暑の炎天をものともせず、短い花のいのちを今日も咲き誇っている。
「広辞苑」を調べると「ハスの花の別称」とあるがそれはそれとして、「美人のたとえ」とも
言うのだそうだ。
 さて。話は飛躍するが明治三十五年第一高等学校の寮歌として発表されたのが「あゝ玉杯に
花受けて」の歌である。題名になっている、さかずきに花びら(多分桜の花びらだろう)を受け
て、この酒を飲み干しながらいい気分になっているのが一高の学生たちではなく、桜の樹の下
で酒宴を開いているのは、下界の俗物野郎どもで、こう言う輩を見下して、我々学生は高邁な
勉学を志しているのだと言う。それならこんな俗物野郎に「玉杯」などで酒など飲ませなくて
もよいのに(ここが若干矛盾する)・・・・・
  ここまでは誰も知る解釈でこれが通説と成っている。正反対の説もあるそうだが、話は詩歌
の二番へと進めなくては成るまい。芙蓉の雪の精をとり 吉野の花の華を奪い」と成っているところがこれから議論になる箇所
である。私は少年時代から覚えた歌詞はこうである。
「芙蓉の嶺の精をとり 吉野の花の香を奪い」と覚えた記憶がある。「芙蓉の嶺」とは、そう
「富士山」のことである。日本では富士山は「美の象徴」でもある。その霊を、魂を、命を分
けて貰おうと言うのである。花の香を奪うのは、蜜蜂が蜜を集めているのと同義と思えばいい。
 私の手元にある出版物やその他資料、インタネットの検索ではホームページの数多箇所を調
べたが全て前者となっていて字義の検討もせず他の印刷物から単に機械的に写したのであろう
と思えるところばかりである。
「芙蓉の雪」とは何だろう「芙蓉」と「雪」では季節的も違うではないか、「富士山の雪」と
言うことなのだろうか。「雪の精」は判らないでもない。次は「吉野の花」とは「吉野山の桜」
のことであろう。つまり上野公園で言うなら全山を覆う桜の代表つまり「(染井)吉野桜」であ
る。「吉野の花の華を奪い」とはどう言うことだらう。単なる活字の誤植がそのまま定着して
しまったのだろうか。
 上記私のこの考えが誤りであることを明々快々に否定して下さる方、或いは同調していただ
ける方がいないものか探している次第である。                             (09.08.23)

           48、宣戦布告
 敗戦記念日が近くに迫ってきた。私は敢てこの日を終戦記念日とは言わない。日本はずーっ
と昔から戦争に負けたことがない。何時他国と戦争しても必ず勝つと子供の時から教えられて
来た。
 それなのに戦争が始まるとわずか3.4年で、刀折れ矢尽きて負けて仕舞った。日本人は負
けても格好よく「終戦記念日」とかに言い換えて、いまだ当然のように済ましたままである。
敗戦は原子爆弾だけのせいにしている人もかなりいらっしゃる。でも兎に角あの日は最高に悲
しかった。
 襟章を掻き毟り、帯剣を放り出して寝台に突っ伏して滂沱たる涙を、抑えても抑えても止ま
らなかった。この駄文を弄して居ながらも、あの日を思うと親が死んだ時よりも悲しい。本当
である。戦争に絶対不敗を信じ、神風がいつ吹くか・・・と、まで信じていたのに。
 敗戦記念日に近い今日の日、選んだ曲名が「宣戦布告」である。この軍歌というよりもこれma
も「格好」よく「戦時歌謡」と言い直そう。「軍歌の研究」に熱心な友人が居て音源を捜して
いると言って私のホームページに沢山の曲名を書き込んできた。

 応徴士を送る歌 テイチク 昭和19年1月前後と推測     ○徴用工のことであろう。
 米英撃滅大行進曲 昭和19年1月前後と推測
 珊瑚海海戦の歌
 ますらをの道                ○S18.10 Columbia 100764 山本元帥遺詠 歌唱 伊藤武雄 
 二千の忠烈  昭和18年6月ごろ         ○アッツ島玉砕のことであろう。あゝ      
 霊かけりけむ
 マレー攻略戦                ○S17.7 Victor A4338 波岡惣一郎・藤井典明
 ビルマ防衛軍行進曲
 学徒勤労の歌
  出陣学徒壮行歌
 海ゆかむ 反歌「雄々しくぞ」
 出陣学徒壮行歌
 戦友の英霊を弔う  作曲は近衛秀麿(近衛文麿弟)○S14.3 POL 2741 東海林太郎 音源所有
 宣戦布告 野村俊夫 作詞 古関裕而 作曲    昭和16年12月8日
 太平洋の凱歌 日本詩曲協盟?(聯盟) 作詞    昭和17年初頭と推測
 行進曲「暁の進軍」       江口夜詩 作曲
 敵性?撃滅 土岐善麿 作詞  伊藤昇 作曲
 行進曲「連合艦隊」     山田耕筰 作曲
 勇敢なる日本兵         瀬戸口藤吉 作曲
 世紀の進軍             海軍軍楽隊 作曲
 海洋航空の歌           海軍軍楽隊 作曲
 行進曲「帝都の守り」   海軍軍楽隊 作曲
 泰國進駐 島田磬也 作詞 山田守一 作曲
 東亜の暁雲                 清水脩 作曲
 我らの日章旗             高木東六 作曲
 青年日本                 秋吉元作 作曲
 波頭?(波濤)萬里           安倍盛 作曲
 明けゆく亜細亜           呉泰次郎 作曲
 堂々たる進軍             高階哲夫 作曲
 堂々たる皇軍に寄す       大中寅二 作曲
 闘志                   市川都志春 作曲
 紀元二千六百一年         齋藤秀雄 作曲

 上記「曲」の音源・歌詞・楽譜など資料をお持ちも方、情報の交換をお願いできないでしょ
 うか。(筆者が勝手に訂正や注釈を入れた箇所がある T&T)

 と言うものである。さて、頭書の曲名に話を戻そう。「宣戦布告」はそに日つまり昭和16
年12月8日古関裕而作曲とある。Co社の公式年表にも福島市の「古関裕而記念館」のホー
ムページにも同館発行の冊子の年表にも載っていない。開戦の翌々日か、大戦果とともに「ニ
ュース歌謡」としてリアルタイムで聞いた「英国東洋艦隊潰滅の歌」と同じようにレコード化
されなかったのだろうか。八十数年の私の生涯の中の記憶にはこれらの曲の殆どがはじめて知
る曲名である。この頃の若い人の中に所謂「戦時歌謡」に興味を持つ方がおられ少し心配であ
り、少し安心もしている。                                                   (09.8.6)


           47、縄跳び伴奏曲
 終戦記念日がまたやって来る。大方の人たちは原爆記念日は知っていても、65年も前の8
月15日敗戦記念日のことなど知る人、思い出す人さへ少なくなってきた。
 その敗戦に近いころ、あるいは敗戦の日もあったと思う。ラジオ放送で毎日午前10時ごろ
流れたラジオ体操で縄跳び伴奏曲であるが、当時の誰でも知っているラジオ体操とは別の時間
枠で放送されたのかもしれない。この縄跳び伴奏曲はピアノではなくオーケストラの伴奏であ
った。
 この曲は下記の様に自己の掲示板で訪問者に問いかけたが七十歳以上の方でないとわからな
いのは当然だが最近ある方から教えられ「ラジオ体操の伴奏曲のCD」というのが復刻されそ
の中にあったのにはいささか吃驚した。そのうちに楽譜まで所持している方が現れて全てが解
決してしまった。
                自己の掲示板から(1)
 昭和20年敗戦に近い末期のころです。ラジオから流れた曲があります。もう63.4年前の
話ですがラジオ体操伴奏音楽と思いますが、その曲は「ハンガリア舞曲にも似た、明るいよう
な、そして悲しいような、言うなれば敗戦を予感するような、なんとも例えようの無い美しい
曲で聞いているだけで心がやすまる感じの曲でした。余りにも美しい曲でこれがラジオ体操の
曲か、音楽か、と当時でも私は不思議に思えてなりませんでした。
 当時私はこの曲に取りつかれ、町に出て偶然にも楽器店だかで楽譜を入手ができ、ドレミ唱
法で覚えて今もメロディーを忘れておりません。先年やはり偶然にもこのビクターレコードの
音源を入手し今も大事に保存しております。
 この曲は頭書に述べた様にラジオ体操と言うか、もう定かではありませんが縄跳び運動の伴
奏曲として午前10時ごろ放送されたものと記憶しております。
 音源はヴィクターの深海善次作曲(紀元2600年の奉祝歌を編曲されて方で有名で各社競
作でこのビクター盤が一番売れた。)の管弦楽です。今も時々思い出しては、これを知ってい
る方、或いは興味のある方がおられないかと願っているのです。
 もし音源を聞き当時のことに興味や知っている方は私にメールください。ドレミ唱法で覚え
た楽譜をべた書きしました。参考になるでしょうか?
 6-#5 6-7 12176 3-- 234 3-17 6--  343 1-7 6-- 343 6712 3-17 2364 333333 3217 6--
                自己の掲示板から(2)
 T.Nさん有難うございました。ご指示のアドレスの中のキングレコードから発売のされている
「ラジオ体操の全て」のCDの13番目の曲がその曲です。音源はビクターのもののようです。
私のものと同じでヴィクターの深海善次の作曲のものですから間違いありません。
 30秒ばかり試聴ができます。カデンツァ(ノンリズムのソロ)からワルツに入って行き次
はリズミカルな2拍子へ変わってゆきます。こんな難しい曲で本当に縄飛び運動が行われたの
でしょうか。音源は所持しているのでこの事より当時のこの曲で、ピアノなどの伴奏でなく本
格的なオーケストラの演奏で(たとえレコードでも)「縄飛び運動」を実際にした方の思い出
を聞きたいのです。確かあのころ毎日このオーケストラで放送がされた記憶があります。
 私は内地で軍隊生活中で、仕事が事務兵でしたからラジオは事務所で仕事中でも幸い毎日聞
くことができたのです。テレビが無い時代ですからその体操の様子がわかりません。
 いまは「縄跳び協会」?まであるのも驚きです。              (09.07.18)
縄跳び伴奏曲を聞いてみたい


           46、島の星月夜
 辞書によると(よらなくても)星月夜とは、星の光が月のように明るい(そう感じる)夜のこと
である。「島の星月夜」は昭和14年にCo社から発売され「松原操」が「ミス・コロムビア」
名で唄っている。台詞を語っているのは当時の松竹の人気スター高杉早苗である。夜の海辺に
立って遠く戦線で活躍する兄に思いを馳せ切々と話しかけているが「兄さんもやっぱりこの月
を眺めてさぞかし感慨に耽っているでしょうね」とある。アレ!?星月夜では月など出ていな
いのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私も少年時代見た夜の空の明るい星空、今の東京などの大都会では想像もつかない星だけで
明るい夜があった。今もふるさとの夜空には無数の星が鏤められ輝いていのだろうか。少し心
配になってきた。少年時代の我が故郷には、漆黒の闇夜などは深い曇り空の夜以外にはなかっ
たような気がしてきた。東京の夜空は電灯の明るさでほんとうの夜空をまともに見ることは出
来ない。
 この歌の出来た翌々年つまり昭和16年に今度はTa社から同じような曲名のやはり台詞付き
の「利根の星月夜」と言う歌が発売された。作者も同一人であったから当然かもしれない。
 歌手は「立花ひろし」である。台詞を語るのはこれも当時,新興映画の大スターでチョッと
エキゾチックな容貌の「真山くみ子」であった。この方の台詞は、兄が明日の出征を控えて妹
と別れの為夜の利根の流れに棹差しながら兄出征の後事を妹に託す会話がしみじみと語られて
いる。
 実は妹と言うのは今様に言うと所謂「ダミー」で本当は恋人にしたかったのだ。昭和14年の
頃から言論統制が酷くなり歌や詩の題材に女を扱うのは大変なことであった。だからこの頃か
らは歌に登場する女性は妹か妻ときまっていてた。
 当ホーム・ページのMIDI演奏曲目表にもあるとおりMIDI演奏もSP音源も所持して
いるけれど、著作権などのため公開出来ないのが残念である。         (09.6.25)
「兄さんもやっぱりこの月を眺めて」を聞いてみる


           45、椿姫の歌
 この歌は昭和10年東海林太郎が歌ってヒットした曲である。無頼漢と悪口を言われた通称
阿部武こと「阿部武雄」の作品で蓋し名曲である。作詞の矢野目源一は文学者だが戦後は所謂
「軟文学」の方に転じたと言う。
 この歌は映画主題歌のようにも思えるが和洋映画のどちらにも映画製作は見当たらないが昭
和12年グレタ・ガルポがヒロインの「椿姫」をやっているが年代が合わない。当時は外国映
画や小説に題材を求めて、日本で勝手に「主題歌」を作った例も沢山あるからこれもその範疇
であろう。
 50歳(S45)で死んだ私のすぐの実兄の愛唱歌でもあった。兄の遺作8ミリフイルムを編集
し本人が、かって健康のころ歌ったこの歌を、当時流行した磁気発声映画に編集してバックに
流した。この8ミリ映画を義姉に見せたら、寡婦となった嫂が涙を流して感激していた。
 東京に在住してもう60年以上になってしまったが、今となって「ヴェルディー」の作曲し
た「椿姫」の歌劇など見る機会もあったであろうが金も必要だが、私のレベルが低かったのか、
こう言ったことの文化的恩恵に浴したことなくこの齢になってしまった。がしかし小デューマ
の原作は、遥か昔80年近い昔のことだが翻訳小説としてこの「椿姫」は読んだことがある。
小学校の5年の頃のことだったと思う。
 仏蘭西文学全集の10冊以上あった本の中だったと記憶するが「クォバデス」とか「ドン・
キホーテの冒険」も確かこの中にはいっていて、そのころ矢鱈に、訳もわからず読書力旺盛の
勢いで本を濫読したものだ。その記憶と言うものは全く脱落したところと、また意外に鮮明に
覚えているところもあるものだ。
 小説は歌劇の構成とは全く違うと思うが、小説は主人公のマルグリット・ゴーチェが肺結核
での死後、彼女の遺品の競売のところから物語は始まり過去へと遡って行く。映画で言うフラ
ッシュバックのような手法でストーリーは進んで行く。悲恋とか、病とか、私「小学5年生」
の心を捕らえ胸が詰まるような、堪えてもなお滂沱と流れる涙を抑えることの出来ないほどの
感銘を受けたものであった。
 歌劇のことを書くのを洩らしたが、もとより見ていないから書けない。結核を病んでいる彼
女の役が声をふり絞って歌う体力の要る「歌劇」と矛盾して初演ので「椿姫」の役の設定が拙
く大失敗だったと言う。当たり前である。
「椿姫」の由来は常時胸に白椿を挿していたことらしい。本来高級娼婦といわれた彼女が巴里
社交界で貴婦人や紳士の中に入り込んだりするのが文化の違うわれわれ日本人には理解できな
い。尤も日本には「遊女屋」とか「岡場所」とか言われたところに、他の一般女郎と違って文
学など詩歌を嗜み、そして理解した教養の高い「御職女郎」と言われる女性もいたが、行動は
その場所だけでの「籠の鳥」であった。
 たかが「歌謡曲」本来文学を論ずるつもりも才能も無いのに危うく脱線しかけてしまった。
しかし東海林太郎は歌の内容がしっかり把握できないと決して(歌詞の丸暗記ことではない)歌
わなかったと言う伝説がある。あくまで伝説である。彼のうたった歌の中にも、どうかなと思
われる歌詞で私もそう思うものが幾つかある。                (09.5.8)


               44、コドモノムラ
 遠い昔の話である。懐メロの想い出噺しというから当然昔の話となるのは仕方の無いことだ。
私が小学校へ上がる以前のことだったと思う。貧しいあの時代に、なぜか私の家には雑誌や本
が豊富にあった。その中に「コドモノクニ」と言う雑誌と言うより絵本のようなものがあった
のを遠い記憶から呼び戻すことが出来る。
 その頃つまり大正末期から昭和初期に掛けて児童文学の最盛期であり、新しい童話や新鮮な
童謡が続々として生まれた時代であった。この歌「コドモノムラ」はその「コドモノクニ」の
中にあったと思う。
 後述の経過から作者は北原白秋の詩で弘田竜太郎が曲を付けている。この歌をどうして覚え
たかは今となっては定かではないが、ある日母から歌うことを禁じられた。あれから80年以
上の歳月が流れた。なぜあの時母から歌うのをとめられたのか気になっているが、今となって
その時代背景を考えるとおおよその見当は付いてきた。
 同じような傾向の「赤い鳥」と言う児童雑誌もあった。作家などと言うものは大概自由な思
想の持ち主でそのころ台頭しつつあった全体主義というか、後に一般的には「軍国主義」とし
て大きな嵐が国民を襲いはじめた。北原白秋なども自由主義者とかアナキストとか言われて当
局から睨まれる存在でもあったようだ。
 先年ある機会で北原白秋の作品集「子供の村」の全貌を発見し、記憶のメロディーを呼び出
し、私のホームページに掲載したから一度でもいいから是非聞いて頂きたい。この詩を読んで
当局が歌うことを禁じたのも、頷けないことは無い。詩の3節目の「子供の村は子供で決めよ、
村長さんを一人みんなで決めて」とある。「全体主義」にとって自治は有害なのであろうか。
母が「この歌をうたってはいけない」と言ったこともこの年になって判ったような気がする。
 この「子供の国」と言う本は奇しくも1922年、即ち私の生年に創刊し廃刊は戦争直前の
1941年のころだったらしい。私の廃刊はまだであり時期もわかっていない。(09.4.29)
「コドモノムラ」を聞いてください

            43、島の娘
 またしても我がふるさとでの少年時代の思い出です。ちょうど今頃の櫻の満開の時期のこと
でした。以前にも拙文の中で取り上げた櫻の花見のことを当時は難しく「観桜会」と言ってお
りました。
 あのころ(私の故郷)今以上の不況で一家心中や一家夜逃げ、一家離散の事件が度々あった
ころです。にもかかわらず日本人は櫻が咲くと貧しさも、悲しさも忘れ(忘れようとして)つ
いつい浮かれ始めます。
 観桜会は三日ぐらい続きます。夜は桜並木の「花のトンネル」の下で舞台を3箇所にもしつ
らえて「素人飛び入り演芸会」が開かれます。前もって出演者は大体は判っているのですが、
名のとおり「飛び入り出演」が大半なのですから終了時間さえ判らず夜更けどころか夜明けま
で舞台は熱演の連続です。東京から本当の芸人まで飛び入りして、手品や曲芸や漫才などを披
露して今も思い出すのは夫婦漫才でしたが演題はその頃大ヒットした「島の娘」がネタでした。

 女「島の娘」がはやっていますねー」
 男「ここは山の中だよ、お客さんは海さへ見たこと無い人が多いよ「山の娘」でいこう」

   √ハアー 山で暮らせば 「山の中だから娘は奥手なんだよ、二十一ぐらいかな」
    娘二十一 恋心    「人の目なんて無いよなー、あ、猿がいる」
    猿の目 しのんで    田舎の人を山猿扱いに馬鹿にしています。

 漫才の掛け合いが打々発止と激しく続きます。村の人たちはこの早口の江戸っ子弁で馬鹿
にされているのも気付かず拍手喝采です。「島の娘」がはやったのは昭和八年です。そして
「東京音頭」も、翌年には「さくら音頭」もはやりました。いわゆる「ハー小唄」と言われ、
歌いだしが「ハー」で始まる歌がたくさんありました。面白いことに「島の娘」の「ハー」
を「佐渡おけさ」と同じ歌い方をなさる方が多いのに驚きます。

   「佐渡おけさ」    はーーーー さどへーーー さどーへーと 
              67ーーー


   「島の娘」      はーーーー しまーーでーー くらせばー
               .       .
              1ーーーー 7176

 同じ集落で雑貨商をいとなむ叔父の家に上がりこみ、勝手知ったる叔父の家、チコンキのあ
る部屋に入り込み、レコードケースを開けて片っ端からターンテーブルに乗せあの独得の針音
とともに流れる歌謡曲に聞き入ったものでした。叔父一家は仕立て屋(今は洋裁とか言うのか)
も兼業でしたから、ミシンの音がしているからあまり音は気に掛けないようでした。
「島の娘」はオーケストラの音が突然止まったり、唄が遅くなったりするところも子供ながら
も「いいなー」とため息をついたものです。
 後年「楽譜」が読めるようになったのも下手の横好きになったのも、そんなことがあってか
らのことです。勝太郎は肺がんかで70歳でなくなっています。       (09.4.10)


             42、ばってんぼー
 いきなり「ひらがな」の曲名である。九州の方言「ばってん」に関係あるのかな?カタカナ
で「バッテンボー」とやったらやっと気が付いた。60何年の昔のことである。
 正しくは [buttons and Bows] いや [buttons and Ribbon] そう 「ボタンとリボン」と言
うアメリカから輸入した舶来歌謡曲の曲名である。
 アメリカに負けた終戦直後の昭和21年にアメリカ音楽に迎合したような曲が服部良一の一
番弟子といわれた平川英夫の作曲した「愛のスイング」が「池真理子」により歌われ大ヒット
し彼女は一躍スイングの女王と言わるようになった。
 この項を書くにあたってネットをつぶさに検索したらあるは、あるは「バッテンボー」の洪
水である。しかしなぜか「バッテンボー」といわれれるようになったのか、本当のことが説明
されていないようなのに、やや吃驚した。やはりここで冗談交じりでもいいからチャント知っ
ていなくてはいけないなと思うようになった。アメリカ映画「腰抜け二挺拳銃」の主題歌とし
て日本でも昭和25年「ボタンとリボン」の曲名で「池真理子」が歌いまくり、スイングの女
王に相応しく「バッテンボー」の歌として、またもヒットしていやが上にも彼女の名前は有名
になった。当然映画も巷間の話題に上って大当たりであった。
 原曲名は [Buttons and Bows] であったが「ボタンアンドボウ」では日本語訳に直しても、
何のことかわからない。Bows に随分沢山の意味があり、日本ではタイプライターやワープロ
(もうこの言葉も古くなってきた)のインクリボンや女性の新体操ので振回す棒の先につけた
テープも [Ribbon] だが「りぼん」とは日本では普通女性やリカちゃん人形などの蝶結びの髪
飾りやプレゼントにつけた蝶結びのリボンまた、紳士の蝶ネクタイなどのことでもあるのが一
般的のような気がする。だからこの曲名を「ボタンとリボン」としたのは蓋し賢明であった。
 しかし英語に弱い日本人(私が)は [Button and Ribbon] の「ボタンアンド」がバッテン
に聞こえるのかもしれないが [Ribbon] がどうしても「ボー」には聞こえないと、はなはだ恥
ずかしい知識しかもっていなかった。[Buttons and Bows] が原題とは思わなかった。
 映画も懐かしくこれにも触れたいが、思い浮かぶ名場面はたしか後半の画面で、馬車の後方
で後ろ向きに腰をかけた、俳優と言うかコメディアンのボブ・ホープが足をブラブラさせなが
らがアコーデオンを抱えて得意顔で弾きながらこの歌を歌うシーンがあったのをいつまでも忘
れられない。                                                      (09.3.29)
発音辞書の切り張りのバッテンボーを聞いてみる
アメリカ何とかシンガーズのバッテンボーを聞いてみる

             41、守備兵ぶし
 「守備兵ぶし」を語る前に当時の世界情勢と言うよりアジア自体の情勢を知る必要があるが、
いつも言っているように私は歴史研究家ではないから、遠い記憶だけでこの項を始めたい。
 日本が中国との争いと言うか戦争は、それは昭和の5.6年に遡らなくてはなるまいが、今
にして思えば幻の帝国と言われた「満州国」が日本軍閥やその傀儡のでっち上げの国といわれ
ていた。「満州国」ができてから「王道楽土・五族協和」を平和の合言葉のように子供心を捉
え「憧れの大陸」として、いつか必ず日本のためこの「満洲国」のため大陸に骨を埋めること
が叶えられるのが最高の夢であった。
 その頃の貧しい家庭に育った少年たちは小学校を終えたら「大陸へ、満洲へ」の時代で、昭
和12年以降本格的に中国との戦争が激化するまでは中国大陸での争いは日本内地を{観客席}
として、中国の大陸を{舞台}になぞらえ、プログラム{新聞やラジオ}を見聞きしつつ遠い
舞台を眺めながら不遜にも戦争を楽しんだのであった。
 だから当時の歌謡曲は大陸・満洲を題材にしたものが殆どで歌詞に深刻なものは少なく戦時
歌謡などの意識も区別もなく、その時代の普通の歌謡曲と思っていた。だから明るい歌が多い
と言っていいし、勿論日本人特有の感情で、歌謡曲本来の哀愁のある歌も多くあった。
 昨年春神奈川大の満洲の研究家の教授の来訪を受け満洲歌謡について半日近く話したが、私
の支離滅裂の話の中にも得るところやヒントを得たようで喜んで拙宅を辞していった。
 前置きが大分長くなってしまったが、昭和11年発売のこの「守備兵ぶし」は「ソ満国境」
を守備する兵隊の国境警備の苦労に題材を取ったものである。
 懐メロカラオケ全盛時代にこの歌「守備兵ぶし」は簡単な歌ではあるけれど前奏から唄に入
るのが難しく失敗する人が多かった。トランペットの長い前奏のあと3拍子刻みの「フンチャ
カチャッチャ フンチャ」の繰り返しの4小節目の最後の一拍(弱拍)で唄に入るので指折り
して数えながら「フンチャカチャッチャ フンチャ」の回数を忘れそうになったり、また2番
の唄に入るところでも何故か「フンチャカチャッチャ フンチャ」の繰り返しが素人目に、1
小節少ないと思われる3小節だから、まことに懐メロカラオケフアンには苦手の曲であった。
また歌の最初の歌詞「雪の満洲に 夕日が落ちる」の「ゆ」は四分音符一個一音でいいのだが
なぜか8分音符2個にして2音目を次の音と同じ音にして大分の方が歌い易いのかそのように
歌うのだった。つまりこうだ。

         3  | 5  5・ 6 |       が   正しいが             
                    ̄
           ゆ─  き  の    ま     ん しゅうに ゆうひが おちる                                                                                
 
               35  | 5    5 ・  6 │     と歌う方がいる。    
              ̄              ̄

 雪の日に夕日が落ちるも変だけれど、本当は雪の降っている日とは書いていない。ここは雪
で象徴される満洲なのだ。雪は降っている間も雪、積もったのも雪、雨は地に落ちると最早只
の水である。                            
 この歌をうたった歌手は「小野 巡」であるが歌手になる経緯は、たれでも知っていて陳腐
となるから改めて取り上げないが、私と同県人だから特に親近感があり今はもう100歳に近
い年齢で健在のようで私もあやかりたいものだ。また奥様も夫とともに長生きしたが、ここ2.
3年前亡くなってしまったようだ。元歌手で夫婦(結婚前も)デュエット曲や夫婦両面盤もあ
るが、どんなロマンスがあったのかとても興味深いが、今は奥様の冥福を祈りたい。
 この項の終わりは懐メロ解説記事の受け売りになってしまうが、この歌から私が曲の相似を
発見したような思いもあってここでとりあげるが、古賀政男がテイチクの時代で翌々年ごろ、
この歌をメロディーを丸借りしたような曲「どうせ征くなら」をD・ミネに歌わせている。
 テンポを思い切り遅くしているからボーッと聞いていると判らない。古賀政男の言いぐさが
がいい。・・・・・・・・「彼はいつも俺のメロディーを失敬するからその仕返しさ」だと。 
                                    (05.3.15)
前奏(ブンチャカチャッチャ)を聞く
どうせ征くならの唄いだしを聞く


                 40、琵琶湖哀歌
 この曲が世に出たのは東海林太郎がテイチクに移籍した大東亜戦争の直前のことだった。ど
うして長年関係していたポリドールやキングを捨てて、古賀政男去り藤山一郎も去って火の消
えたようなテイチクに移ったのかその経緯は知らなが、幸いにもこの「琵琶湖哀歌」や「あゝ
草枕幾度ぞ」がヒットして、巷にもよく聞くことができた。今となっては当時を知る人は少な
く、私はこの曲をリアルタイムで聞いた一人だからとても懐かしい。
 さてこの歌は「真白き富士の根(七里が浜の哀歌)」が作られた時とおなじように、この歌
の作られた動機は昭和15年の起こったボート転覆事件からであった。またなぜか当時の三高
の寮歌「琵琶湖周航の歌」を連想させる曲でもあった。
 先年と言ってももう10年以上も昔になってしまったが同好の士の集まりで、ここ琵琶湖に
遊んだことを思い出す。旅館の好意で一泊した翌早朝船を出してもらい「琵琶湖就航の歌」や
この歌、「琵琶湖哀歌」をみなで歌いながら湖水を一周した日を懐かしく思い出す。お土産屋
で求めたのは、はっきり思い出せないが風呂敷か何か求めたら「琵琶湖哀歌」の歌詞が書かれ
ていた。「近江八景の歌」を探したが見当たらず、土産屋のおばさんは全くそんな昔のことな
ど知ってはいなかった。私は小学校のころ覚えた近江八景を歌い込んだ戯れ歌と言うか「近江
八景の歌」など懐かしく思い出す。

 のせたから さきはあわずか ただのかみ ひらいしやまや はしらせてみい
   乗せたから 先は会わずか  只の守   比良石山や   走らせて見い
 
  瀬田、  唐崎、粟津、堅田、     比良、石山、矢走、    三井、
  瀬田夕照,唐崎夜雨、粟津晴嵐、堅田落雁、比良暮雪、石山秋月、矢走の帰帆、三井晩鐘、

  せたのゆうばえ、からさきのよるのあめ、あわずのせいらん
          かただのらくがん、ひらのぼせつ、いしやまのあきのつき
                          やばせのきはん、みいのばんしょう

 と、言うものであったが遠い遠い昔の話となってしまった。この歌で思い出すのは「三井の
晩鐘」である。これも小学校のころ覚えたフランスの農民画家ジャン・フランソア・ミレーの
名画「ミレーの晩鐘」に発音と言うかゴロが合っているのを不思議に思ったことがある。
 琵琶湖の傍に「三井寺」があり「弁慶の吊り鐘」がある。子供の頃絵本で見た弁慶が真っ赤
な顔を歪めながら、この鐘をどこからか引きずって来たと言われているのを、思い出す。。そ
のとき鐘の108つある(仏教の百八煩悩を表現していると言う)イボイボの一部か擦れて磨
り減ったり曲がったりしている箇所も確かにあったのを今更ながら確認できた。
「琵琶湖哀歌」で競演した小笠原美都子のことも忘れてはなるまい。東海林太郎と競演した歌
が意外と多いのも当時として肯けるものがある。彼女は今も元気で昨年か、福岡の懐メロ会に
も出席なされたようである。ますますのご健康を祈りたい。          (09.3.4)                              

              39、涙の渡り鳥
 昭和7年ビクターレコードから「涙の渡り鳥」と言う歌が発売されヒットした。歌手は「金
色仮面」と当時覆面歌手言われた「小林千代子」である。近くに雑貨商を営む叔父の家でこの
歌を聴いた。
小学校3年のときだ。リアルタイムでしかもレコードから直接聞いたのだから、これが本当の
懐メロと言うのであろう。
 そのときフト思った。どうも今まで聞いた歌謡曲とは一味違う。後年歌謡曲に本格的に興味
を持ち始めて間もないとき、もう戦時下ではあったが軍隊入隊待ちで故郷に帰っていたとき、
当時上野の音楽学校を出ていた先輩ががもう失明寸前の頃の話だったが、彼から初めてその理
由を聞かされた。
 つまり歌に不可欠な伴奏コード(団子3兄弟のような)とか言う和音が徹底的に変化のない
連続のものだったのだ。こう言うのをワンコードと言って当時(歌の制作発表時)の流行でも
あったというのだけれど、楽譜が少し判るようになってからも、作曲者佐々木俊一の他の作品
の中に同じような楽譜を見たのは3、4曲ぐらいだけで、他の作者のものでこの手法を用いた
楽譜は見たことはない。彼、佐々木俊一も音楽学校まで出ているので何らかの意図した実験だ
ったのかもしれない。
 子供のとき歌とともに聞こえたあのリズムは主和音(曲が長調だったからドミソ、もし曲が
短調ならラドミ)で、ジャンジャンジャンジャンの四分音符の連続だっのだ。佐々木俊一は最
初のころ無名の楽団の一員だったようだが、この曲で一躍ヒットメーカーとなった。しかし僅
か50歳になるやならずで他界してしまったのは、くれぐれも惜しまれる。
 懐メロの解説記事には決まったように「泣くじゃないよ」の方言?に触れているが、作詞者
の西條八十の責任でなく、作曲者本人の特に希望したもののようだったと聞いている。私の故
郷でもこう言う言い方をしているから特別の違和感はない。他の作曲家の方の作品の中にも2、
3見かけたことがあるので特別な方言とは言えないかも知れない。私はあえて「泣くのじゃな
いよ、泣くンじゃないよ」と歌えばいと思っている。
 歌手の小林千代子は美貌で妖艶と言うにふさわしい雰囲気を持っていたそうだ。戦後はまっ
たくヒットに恵まれなく、歌劇の三浦環(S21没)の後の歌劇団を継いで本名の小林伸江に
戻り歌劇に転向したが志半で66歳でこの世を去った。           (09.02.25)
前奏のジャンジャンジャン(歌に入っても)を聞いてみる
                                                                          										 	

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