懐メロ想い出噺し .
                 (ドン・キホーテの暴走機関車)           

                   ま  え  が  き

  今日から我が一番愛する歌謡曲に面と向って、ドン・キホーテよろしく大した目標も無く特
 定もしていない相手に戦いを挑むこととなった。従者のサンチョの奴は、まだ馬小屋で朝寝坊
 をしているか。どうせ暴走するだろうこの機関車での一人旅だ。こいつはえらい事になったぞ。
 さいわい私の愛する歌謡曲は所謂懐メロ、もう60年70年80年も前の歌の数々だ。作品を
 つくった大方の人々は、もうこの世にいない。私ですらいろいろの思いを持ちながらそのうち
 に、いづれ彼の地に赴かねばならない。

   この雑文を読まれた方のなかにも“なるほど”と、変な感心をする人もいるだろうし、或い
 は私の教養のなさに軽蔑をなさるかたもお出での筈である。もうどちらでもいい、この変な機  
 関車が、変な貨車を無理やり連結させられて、地下のモグラどもを驚かせながら何処にあるの
 か判らない終着駅で車止めをぶち破って停まるまで、何卒お付き合いを、是非お願いしたい。

  この雑文は貨車を順次連結して行くような形式で、この「まえがき」の後に新しい記事を挿
 入することにした。古い記事はここから貨車のように連なって順次スクロールダウンしてゆく
 ようにした。また音源や参考の歌詞、音声、絵画その他関連記事の一部を聞くこと見ることが
 出来る曲もあるので何卒クリックをして戴きたい。自動で立ち上がった「メディアプレーヤー」
 の画面が音だけの場合は「プレイヤー」を適当の大きさにして、左下隅などに配置すると文字
 画面の邪魔にならない。 (バーンジョンにより位置などが異なる) (タイトルを昔噺とした
  のは私の愚かな美意識からである。)

   ○いつでも更新記事はここから始まる。

               70、村娘
  戦前の農家はみな大家族だった。母が嫁に来た頃は、未だ叔父や叔母が未成年で生家に残っ
 ていた。だから家族は12人前後と多く、他家も沢山の家族で暮らす家が多かった。明治大正時
 代には嫁と姑が相前後して、出産すると言うこともありうる農家もあった。農村の女性は嫁さ
 ん要員(所謂村娘である)として、長男以外の男は兵隊か、入り婿要員として、農作に手伝った
 り近隣の色々の作業場に勤めたりして、その日(嫁入り・婿入り・徴兵検査)の来るのを待って
 いた。これらの亭主の兄弟姉妹は母みたいの嫁に入った立場では「小姑」などとか言われる疎
 ましい存在で有った。

  今の農村には嫁さん要員がなくて大分困っている。自分の娘を東京などの都会に勝手に出し
 て仕舞って、自分の後を継ぐ大切な長男は何時になっても嫁さんが来なくて、40歳50歳になっ
 てもまだ結婚も出来ず独身でいる。昔からの仕来りを無視した一種のルール違反だから、自業
 自得と言うべきかもしれない。これでは子どもも、孫なども生まれる筈も無く、農村は高齢者
 ばかりで若者や娘が居なくなって、今に農家はだんだん疲弊して遂には滅んで仕舞う。

  私がもの心のつくころは、叔父さんや叔母さんは、さすが居なくなっていたが。姉は第一子
 で長女だったから3男4男とは10歳近く齢の差がある。姉は「和裁学校」や農作業の間に同じ
 集落の「仕立て屋と雑貨屋」をしているの叔父の家でミシンなど踏んで手伝っていたりしてい
 た。そのころの姉は文学好きで、芥川の「鼻」とか「蜘蛛の糸」など難しい本を片っ端から読
 んでいた。島崎藤村を「藤村とうそん」などと間違って口に出して、私たち兄弟に笑われたり
 した。そのうえ宝塚の少女歌劇のスターの、グラビア写真ばかり載っている雑誌や「主婦の友」
 や「婦人倶楽部」などと言う雑誌も沢山あって別冊付録の「夫婦和合読本」など失敬して盗み
 読みしたこともあった。歌謡曲もその頃は、流行歌と言っていた時代で、いつも鼻歌を歌う陽
 気な姉で有った。そんな姉から音楽の影響を受けた。

  曲名は五、六十年後でわかったのだが記憶の残るのは表題の「村娘」である。私が小学校へ
 上がる前と記憶するから、まだ家に残っていた叔父か、叔母が歌たの歌なのかもしれない。勿
 論歌好きの姉が歌っていたような気もする。歌と言うものは曲名が判らなくても、何か知らな
 いが胸を打つメロディーがあり、曲名が判らないときはイライラしながらも、いつまでも頭の
 中に残るものだ。三拍子の曲と言うことは分かったが、どこかで聞いたメロディー、聞いた覚
 えのある歌だ。歌詞は定かに覚えていないので所々記憶に残っているコマ切れ歌詞を繋ぎ合わ
 せて歌っていたなつかしい歌だ。この歌は私が大正11年生れだから、大正の末期から昭和の初
 期の歌に間違いあるまいと思っていた。

  NHKは戦後の可なり早い時期からスタートさせた「懐かしのメロディー」と言う、ラジオ
 の番組があって「天然の美」をテーマ音楽にして番組は長い期間継続されていた記憶がある。
 世に「懐メロ」と言う言葉が出来たのもこの番組からだと言う。昭和40年代に為って栃木県に
 在住する「福田俊二」氏が制作した「日本流行歌年表」の制作や、「全国なつめろ愛好会」を
 立ちあげたのは誠にいい時期だった。

  そのころ、このことは私たち40代50代の心の琴線に響き燎原の火の如く「なつめろ」ブーム
 が押し寄せた。時まさに「高度成長期」の中にありそれに呼応するかの如く昔懐かしレーベル
 を思い出すレコード会社が、戦前のSP音源を使い復刻LPの制作して販売を始めた。生活と
 仕事に終日追われていた私達も、子育ても終わるころであり、ここに至った時時自分の人生を
 振り返る余裕もでき、日頃は通り過ぎるだけのレコード店などにも立ち寄るようになった。

  復刻LPと言うにはまことに楽しいもので。たくさんの曲が詰まっており、戦前に購入した
 所謂SPレコードは両面でたった二曲、一日の労働では一枚購入することも叶えられなかった
 時代で、LPレコードはどんどん作られ。安くなった宝石を買う気分で私たちはセッセと買い
 込み、集めて、聞いて、飾ってよき時代が来たとレコードを見て仕合せを実感したものだった。

  LP30枚組など大冊の「昭和流行歌全集」など各社競争のように、自社ヒットした曲やら、
 ヒットしなかった曲まで収録して次々と発売して購買意欲をそそられた。軈てその大冊の続編
 まで制作され誰の財布もそれには追いつけなくなった。
  
  その中に今探すメロディーがあったのだ。その曲名は、始めて知る曲名は「村娘」であった。
 作者不明なのは或いは、外国の曲ではないかと言う感も有るのは、私の考えすぎかもしれない。

  村 娘  作詞作曲者不明  歌 丘 銀子 リーガル S8.1 65765414
                                (この歌は並河敬一が歌っていない)

  一、春が来たのに 恋の花  村に若芽?が 出来たにに
  二、娘の恋は なぜ咲かぬ  咲かしてみせます 村娘
  三、夜明けの闇に 恋の花  田舎娘は 立ちあがり
  四、私の恋の とげるのは  いつになるのか恋慕調(蝶?) 
    

  実はその大冊のLPのなかにこの曲があった。歌詞はレコード付属資料の通りであるけれど
 三流作詞家でも書かない様な稚拙で意味不明な個所ばかりで腑に落ちないことだらけである。
 私の記憶の中にある詩句も、このような詩句がつかわれていたことは確かである。
  歌は昭和8年吹き込みとは為っているが、私の覚えたのは小学一年生の前後(T14.5〜S2.3.4)
 の物心のつくか付かない頃のことだから、この音源かオリジナルか、後で制作されたのかは定
 かではない。

  話は少し飛躍する様だがそうではない。この復刻LPの中の二番目の別の歌「浮草の旅」を
 歌っている歌手は。九州熊本出身の早世した歌手で「横田良一」の研究者から送られた資料に
 よれば、「歌手 並河敬一は、この横田良一である」と言うことを知らされた。彼「横田良一」
 には別名と言うか変名の多い歌手でその名は20以上に上っており、「楠木繁夫」や「松島詩子」
 と並ぶ多名歌手である。不幸にして24歳で若さ(1911-1936) で夭折し、世を去って仕舞った 
 が「並河敬一(横田良一)」に冥福の祈りを捧げるものである。         
  一番最後になったがこの歌を歌っている「丘銀子」なる無名歌手は別名「沢文子」だといって
 も更にわからなくなるだけであり、詳しいことは私には判っていない。     (2012.1.1)
  艶歌傑作集  @捨小舟(丘銀子)A浮草の旅(並河敬一)B村娘(丘銀子)のSP音源(3曲目)を聞いてみよう。
  並河敬一(横田良一)の別の資料を見よう
                         69、東京だよおっ母さん   東日本大震災以来自分自身が90歳に為ろうと言うのに、修業や素養がたりないのか精神不  安定で困る。(いつでもそうではないか!と云う奴は誰だ)4.5日前地球の前を通り過ぎた何  とか言う、小惑星が本当に地球にぶっつかって、この世が終わりになることを妄想した。   何億何万何千日目の今日が地球の滅びる日かも知れない。いつか本当にこの世が終わること  は紛れもない事実で確かなこと、そんな目に遭いたくないが、自分自身の終わりが近いのに。  そんなことは考えなくていいのに。でも科学も仏教も「生あるものは、何時か必ず死に、形あ  るものは、いつかは必ず壊れれる、会った人とはいつか必ず別れる」、「生者必滅・会者定離」  と言ってるではないか。地球とてその例外では無いのだ。   何時かはこの地球も消失する。未来永劫の劫と言うのは天国だか地獄だか知らないが、そこ  の坊主が何百万年に一度ぐらいこの地球にやって来て、何のためか知らないが、どこかにある  の岩石の表面を法衣の袖とか袂で一回撫でてから、帰って行くのが「一劫」とか言う単位であ  る事を、子供の時母から聞いた。「生者必滅・会者定離」と「未来永劫」とは何処か矛盾して  いる様にも思える。現代用語では「まっいいか!」   と、そんな事を考えたいたら、もう遠い昔に亡くなった父母のことを懐かしく思い出した。  母は昭和43年7月80歳で、父は昭和49年10月90歳でこの世を身罷った。私達が幼少  の頃は父には怒られるばかりで、あんまり楽しい喜ばしい思い出とてない。誰しも思い出すの  はやはり母のことであろう。   大正12年9月の関東大震災のあと、ちょっとした復興景気があったらしいが、大正の終わ  り頃から支那事変の始まった昭和12年頃までは、大不況の最中で特に農村は疲弊しきってい  た。不況は今と似ているがその比では無く、当時の子供にとってはこの不況こそが、子供への  加害者で父親の不機嫌など、二次的なものであって、強ち父親を責めるのは間違いだったのか  も知れないが、家の運営は当然父の責任であるから、これも仕方がないことであった。   その意味では母は不況だけでなく、いつも難しい顔の父からの被害者でも有った。父は暴力  こそ、振るわれなかったがいつも機嫌が悪く、母は納戸の隅で隠れて泣いていた。父は母ばか  りでなく、私たち兄弟に当たり散らした。しかし外面は意外なほど評判が良く「仏の何さん」  と言われるほどのお人よしだったが、世間からかなりの信用が厚かった。だから一銭の金にも  ならない村役ばかり仰せつかって、熱心に村の仕事をこなしながらも、あまり家庭は顧みず、  本業の農作は放ったままで母を始め家族たちに重い負担ばかりかかっていた。   母のことが長くなったが、話はまだまだこれからである。母はいわゆる女学校を出ていて、  其のころの辺鄙な片田舎では結構なインテリであり、隣近所のおばさんたちとの井戸端会議で  支那の蒋介石がどうの、汪兆銘(汪精衛)がどうの、スペインか、どこかの内乱でフランコ将軍  がどうのと、言ってみんなを煙に巻いていた。   大東亜戦争が悲劇の幕を閉じ、戦後が始まった。戦地から復員したわれわれ兄弟たちは皆職  もなく、戦争中の荒れた田畑などの農作業に手伝ったり、村の治山事業の石運びの土方などを  して家計の足しをする以外しか方法はなかった。   食事時卓袱台(チャブ台)の前に兄弟四人、大胡坐をぶっ掻いて(方言かも)の食事の様に母は、  「まるで土方の飯場と同じみたいだなぁ」(差別語かな・作業員の詰所)と言いながらも、心か  ら喜んでいたのを今も懐かしく思い出す。この頃の母は最大の幸せだった時期かも知れない。  子供達が誰も戦死も病死もせず復員したのだ。父の次弟(叔父)とその長男(つまりいとこ)もと  もに戦死した。集落の中には兄弟3人とも戦死した家さえあった。   敗戦後2、3年経つと田舎も農作も平常に戻りつつあり窃盗騒ぎや、集落内のいざこざなど  も少なくなり大分落ち着いてきた。長兄が家の運営はやって行ける様になった。私たち兄弟は  揃って東京に出てきたのは、昭和23年の桜にはまだ時間のある早春の頃であった。東京都は  都への転入をまだ正式には認めいなかったので、今で言うなら「住民票」のない都民で言わば  (もぐり都民)となった。だから2合5勺(何人分か、何日分か覚えいない)の飯米の配給もなく、 ときおり田舎へ帰り生家から「かつぎ屋」のまね事をして汽車の車中で警察官に捕まったこと もあった。   兄弟がそれぞれ就職して、昭和も30年代に入った。世情も私たちの生活も、一応安定し、  「もう戦後ではない」と言われる時代となった、母は時々上京して老後を東京のわが子たち兄  弟宅を泊まり歩くのが楽しみの一つの様であった。上京の前の手紙には必ず手紙で今回の見物  するの場所まで指定してきた。ある時の見物の計画の記憶で今も忘れない。    1、シネラマが見たい。   3、ハトバスに乗りたい。 2、キャバレーが見たい    4、東京温泉には入りたい。     まだ「東京タワー」は出来ていなかった。東京タワーの工事の始まったのは昭和33年であ  る。勤めのビルの窓からタワーの四足が空に向かって立ち上がり伸びて行く工事の様子が手に  取るようであった。日本中の鳶職が誰も居なくなったのは「東京タワー」の所為だと言われた。 「東京タワー」の建設は、これから日本が入って行くる益々盛る高度時代への象徴であった。   シネラマは今はもう無くなって仕舞った(今の新しい国立劇場とは違う)当時の国立劇場に常  設されていた。「これがシネラマだ」とか「シネラマホリディー」などの何タイトルかあって  一年ぐらいで更新され4.5年は続いていたようだ。その時は真ん中の前列の5列目ぐらいに  母を誘いシネラマの壮大さに目と耳を奪われた。直ぐ後ろは来賓席のようで、席が空けてあっ  たから、母と私の席も最高のいい席な筈だった。   画面はアメリカの航空母艦からジェット機に乗り込んで下界を眺めた後、母艦に着艦すると  きの気分はまさに最高でジェット機の両輪が母艦の甲板に着艦したコトンとした音の感じも体  に響くように伝わった。   他にはNYの町をバスに乗り見学、劇場内の壁に8個とか16個とかあるスピーカーから遠  く鼓笛隊の演奏がだんだん近づいてくる様が物凄いリアルな感覚で我々の乗った車とすれ違っ  たりした。画像は後から後から迫力のあるシーンが眼前に展開された   はとバスでの東京見物はお決まりの場所を次々案内し、島倉千代子や三橋美智也の歌のとお  りであった。     島倉千代子(東京だよお母さん) 昭和32年 @二重橋 記念撮影 A九段坂 靖国神社 B浅草観音様仲見世   三橋美智也(東京見物)          昭和32年 @二重橋 戦死の兄 A上野の西郷さん  B靖国神社 大鳥居   母はあの頃、リョウマチが嵩じて歩くのが大変で母の片手を肩に担いで半身背負うような状  態で他の見物客の後を付いてまわった。後年病が重くなり10年以上の寝たままで、この世を  去ったが当時の母は精神活動はかなり活発であったようだ。   キャバレーは当時銀座のキャバレーで有名なのは「銀馬車」が有名だったが、20年代後半  で取り壊されたたと記憶する。この私が辟易した「キャバレー見学」は豪放磊落で硬軟両派で  広く顔が利く次兄に依頼した。場所はわすれたがどこかの「キャバレー」の支配人に話をつけ  たが夜という訳にもいかず午前の時間に招かれて、中に入ったという。無人の「キャバレー」  と言うのも「ミルクを入れないコーヒーみたい」で変だが、けれども母はミラーボールや豪華  な調度に驚いたり、ここで働く女性たちの「控え室」まで覗いたと云うのには、後で聞いて恐  れ入った話で、母も田舎に帰っての土産話に、この事を度々話題にしたそうだ。   東京温泉は昭和50年代頃にはもう取り壊された様だが、ネットで追跡してもはっきりしな  いが、確か都心近くにあった筈だ。東京駅八重洲の地下道りにもあったと言うが、それとは違  う。当時かなり有名で有ったが50年と言う歳月がそういうことを記録にも残らないように消  え去ったことも詮無いことか。その時はこれも次兄の担当?であったから、私とて詳しく知る  よしはない。母の話ではいろいろな湯舟があって、出たり入ったりして温泉で一時間以上も、  贅沢な時間を楽しんで、これまた大満足であったらしい。   戦前に獅子文六の原作?で「東京温泉」というのがあり当時の「ロッパ劇団」が演ずるラジ  オ小説(ラジオドラマ)があった。古川緑波が演ずる主人公が都心に温泉を発見した。ストーリ  ーは全く忘れて仕舞ったが、ヒロインに三益愛子が出ていた。結局硝酸とか硝石が埋まってい  て、地下水の発熱はそれが原因とかの「オチ」がついていた夢物語であった。「東京温泉」と  言うネーミングは、そもそもこれがヒントとも仄聞している。   母の実妹、(詰まり叔母)も東京の息子のところに来て、ついでに我が家にも立ち寄ったとき、  我が家の写真アルバムを見せたとき、その昔叔母が自分の子供たちを引き連れて「東京見物」 したことがった。その写真説明に「叔母一家の東京見物の時」と書いてあったら、誇り高き叔 母が痛く機嫌を悪くして、私は何となくムズ痒くて接待に困った。これは後日談!!。     島倉千代子(1938-)は、もう73歳 三橋美智也 (1930-1996) は66歳で死んでから15年  も経つ。私は恥ずかしながら90歳になんなんとんしている。ああ懐かしいかな、過ぎし日々。                                      (11.11.11)    
 母の東京見物(二重橋前で29.4.24 中列右端)ああ、呼べど還ら過ぎ去りし57年の昔よ     島倉千代子の「東京だよおっ母さん」をMIDI演奏で聞いてみよう。
 東京の「はとバス」今も健在です。「東京見物!」をどうぞ。            68、南の花嫁さん   このホームページの表紙に掲げた大輪のヒマワリの黄色い花を掲載している間に何とか「ひ  まわり」に結びつけ連想した雑文を草したいと思いつつ、もう八月半ばに為って仕舞った。  「ひまわり」にも赤い花びらをもつなど例外があって、試しにネットを検索すると私の常識を  ?遥かに超える種類があって浅学を恥じるばかりである。   もう死去して20年以上も経つ女優で、かつ流行歌手でもあった「高峰三枝子」の歌も現在の  高度の技術によりオリジナルな音源を更に美しく再現して、LPやCDから聞いて楽しむこと  が出来て、我々はその恩恵を受けまことに有難いことである。   戦争酣わの昭和18年1月高峰三枝子の歌う「南の花嫁さん」が発売された。私は応召したば  かりで、馴れない軍隊生活にキリキリ舞い毎日で、それどころの騒ぎでなかった。戦後に入手  したレコードのレーベルには、「藤浦洸作詞 古賀政男作曲」と確かに書いてあった。  ここでそれを兎や角言うのでは無い。戦争中はあらゆることが統制され、特にアメリカの音楽  など、敵性音楽として事細かく「演奏禁止の曲目表」まで新聞に掲載された時代で呆れた時代  で有った。   敗戦直後、病院兵の私は部隊の残務整理の後、直ぐに復員したが、すべてを失った私は唯一  の故郷で虚脱と環境の変化の中で、荒れた心を癒しつつも何とか立ち上がり農作業に熱中した  が、かえって再起不能と言われる病魔に侵され死線を彷徨する日々が続いた。病漸く癒えて、  山奥の戦争直後で荒れ果てた温泉に自炊で20日ばかり湯治したことがある。   戦前に山ほど買い込んだ三つ折り楽譜も既に散逸していたが、やっと残っている中から好き  な楽譜と、始発駅で売店でたまたまあった「南の花嫁さん」の三つ折り楽譜を買い込んで、こ  の貧しい温泉で日がな一日を小声で一人歌い暮らした。   前奏の「ドレミーーソラドラソミレドミーー ミレミレドラミソラーー」を聞き始めると心  がウキウキした。   原詩も原曲も、もともと中国の作者のものであったらしい。中国も戦争の相手だから、こん  な風(日本製)に、作者まで偽わざるを得なかったことも止むを得ないであったであろう。戦後  それはいつの事か!!!、知らない間に訂正されたようだ。今は年表まで訂正されている。こ  んな例はほかにも沢山あるようだが本題から外れる。   さて、さてである。冒頭の「ひまわりの花」は、2番でこう歌われている。  「椰子の葉かげに 真赤な夕陽が くるくるくると まわるよ 赤いひまわりの花」  「ひまわり」の花は黄色に決まっているが冒頭に触れたように「例外のひまわりの花」には  色もいろいろ有ってびっくりするばかりである。然し普通の歌にまで例外の花を取り上げるこ  とはあるまい。詩作は私には心得が無いから判らないけれど、前節に「真っ赤な太陽」とある  から、素人のこじ付けで納得しうる人がいるかも知れないが、私にはそんな人がいるとは俄か  に信じ難い。歌詞については、私の保存している種々の資料にも、そのように書かれてあるし、  高峰三枝子もそのように歌っている。   色の事については若いころ「カラーテレビ」に興味を持ち少なからず学んだことがある。色  には「絵具三原色、赤(R)・青(B)・黄(Y)」と「光三原色、赤(R)・緑(G)・青(B)」があり、当  然テレビは「光三原色」を用いられている。画面を「虫メガネ」で見ると赤・緑・青と整然と、  ドット(点)が並んでいるのがわかる。「光三原色」は全部発光すると無色透明だがテレビの画  面では有りえない(空気など画ける訳がない.その必要もない。透明は(絵具で言う白)の事であ  り、七色の太陽と言うけれど普通の光は透明なことがわかる。   光が無ければ闇だ(絵具では黒として扱う)。白(透明)の反対色(補色)は黒(闇)、赤の反対色  は緑、黄の反対色は紫である。青の反対色は橙かな?色彩の学問では「青っぽい」のは「シア  ン色」とか「赤っぽい」のは「マゼンタ色」とか言って、とぼけて逃げている。   黄色のヒマワリは赤と同じ暖色系に入る。太陽が沈むころには「黄色いひまわり」は赤っぽ  く見えるかもしれないが、詩作にまで持ち込むのは無理かもしれない。(広辞苑をみると)感覚  器官への直接の刺激がなくっても、あとに残る感覚現象。例えば夕日などを見つめたに後に種  々の形・色・明るさの像が残る現象とある。色ついて決定的なことは書いていない。   色への拘りは別にして、この歌のレコードと一緒に「白片力」(バッキー白片)のハワイアン  演奏の「南の花嫁さん」のレコードも入手した。B面はなんだったかもう記憶もない、67年も  経った昔の事である。「花なら赤い カンナの花か」と歌うところが演奏では、  「チャチャッチャ チャーチャチャ チャチャッチャ チャチャチャ」  と演奏しているのが面白く楽しく聞いた覚えがある。戦後も一時期「バッキー白片とアロハ・  ハワイアンズ」とかの楽団で活躍した時代があった。  「黄色か赤か」自己の掲示板に出したが今現在、教えて呉れる方はまだ現れない (11.8.12)  まわるよ赤いひまわりの花を聞いてみたい    ひまわりの花はなぜ黄色い(YAHOO知恵袋)            67、湖底の故郷   「夕日は赤し 身は悲し」東海林太郎の切々と訴えるような歌声は昭和12年の6月発売され  たP社のレコードからであった。哀愁と言うより悲痛とも言えるこの歌は、燎原の火の如く全   国津々浦々へと広まっていった。  この年は恰も、すべてに困難を暗示するような、そして日本が初めて遭遇する敗戦に至る長い  戦争の発端となった蘆溝橋事件が勃発したのもこの年であった。   昭和の初め人口が増えつつあった当時の東京府は上水道として東京府と山梨県との境にある  小河内村(東京側)と丹波山村、小菅村(山梨側)とに跨る小河内ダムが計画された。そのころの  雑誌は、このことをグラビア写真で取り上げ、山の中腹に点線で水没する位置まで示したり谷  間に点在するやがては、湖底に沈むであろう農家まで写し込んであり、今もなおこれらの雑誌  に掲載された写真を生々しく思い出す。   然し対中国戦争がいよいよ激しく、戦前の工事(1936 S11)は中断のままで昭和16年(1941)、  遂に「米、英」などの大国を相手に無謀な大東亜戦争をに突入して5年足らずで、かって経験  したことのない敗戦を迎えた。この戦争直後の混乱期をのり越えて、小河内ダムの建設の大工  事が完成したのは昭和32年(1957)で、戦争で中断の期間はあったとは言いながら、実に20年の  歳月を要した。竣工当時は東京府専用の水道用貯水池であり、その規模は世界的にも最大級の  貯水池であった。   現在の東京都はなぜか、利根川系の水源を飲料用としてこれを利用しており、今回の東日本  大震災と大津波によって発生した福島原発事故から発する放射能の汚染を受け、一時飲料用の  水として特に幼児の飲用に不適と発表したのは、つい先月の事である。   この項を書くに当たって、利根川水系が都の水源(都の23区と他の一部の市を含む)と変わっ  たのは不覚にも私の不勉強とは言え、初めて知る事であり誠に、衝撃的なことである。以前か  ら利根川水系の亀有浄水場から23区のうち江戸川区や葛飾区が利用していることは知っていた。     然しこの事実は今回の上記福島原発事故から利根川系の水道水で都がTVなどで発表された  水道水の放射能汚染から知り得たものであり、わたしの早とちりで間違いかもしれない。積極  的に取材したもので無いことを付記しておく。     歌謡曲「湖底の故郷」の話を続けるには再び戦前に戻らなければならない。戦争で工事は中  断されたままでいたが、作家「石川達三」による、この土地を舞台に描かれた湖底に沈みゆく  であろう「日陰の村」の長編小説が発表された影響もあってか、ますます大衆の心には沈みゆ  く「湖底の故郷」の切ない気持ちが焼き付けられた。小説のストーリーの細かいところは全く  忘れて仕舞ったが、小説は村の有力者(村長?)の美しい娘と貧しい農民の青年の恋愛を悲しい  物語とした作品であった。この項を書くため、もう一度読み直しすべく探したが五能不自由な  老体の一人暮らしでは、なかなか見当たらないので諦めて仕舞った。   そのころの新年の事である。新年会の幹事を引き受けた父が、福引きのネタつくりを炬燵に  当たりながら、考えていたことを、懐かしく思い出す。籤の「題」でこんなのがあった。  「小河内ダム」とかけて「湖底の村」と解くその心は 丹波・小菅 賞品は 「タバコと菅笠」  とか。   昭和30年代後半と記憶するが、東京都は夏季の渇水期にあり、都民は真夏の節水に喘いでい  た。ある日兄の運転するマツダの小型車(当時の流行型)に同乗して、もう名称を「奥多摩湖」  と名を変えたいた現地にドライブしたことがあった。無残にも湖底まで曝け出して、取り壊し  を逸した民家や枯れ木などまで露出し、異状渇水を眼のあたりに見た。しかし周囲は公園化し  ていて観光地になっていた。湖畔には大きな慰霊の石碑があり長年の工事の犠牲者(87名)の名  前が痛々しく刻まれていた。   また歌謡史的に落してはならないのは、この歌の「歌碑」が公園内にあることである。後年  「懐メロ」が復活して全国的に盛り上がったころ、福田俊二氏の主宰する「懐メロ愛好会監修」  で、この歌の作曲者の「鈴木武男氏」のLPレコードを制作したことがある。ジャケットには  当時まだ健在であった同氏のダンディーな姿で湖を背景にして撮った写真は、独立した写真と  しても傑作であった。   撮影したのは地元の方で「懐メロ愛好会」の会員でもあり、今はもう故人となってしまわれ  た「清水写真館」の主人清水氏である。歌碑の建立と時期的に前後しているのか、この「歌碑」  が写っていないのは誠に残念であった。   昭和27年にこの「奥多摩湖」かっての昔を偲ぶ歌で、調べたがこの時期の制作の意図は判明  しなかったが「湖底の村 作詞 高橋掬太郎 作曲 大村能章」で東海林太郎が歌っている。  残念にもヒットとはならなかったが、これまた佳曲である。   生まれ故郷を追われた人達の時代はもう終わって、現在話としてはこのことを聞いてはいる  だろうが、孫達の時代であろうか。時間と言うものはかくも無情である。   福島原発の事故で故郷を離れいつ復帰が叶えられるのが何時か、予定さえつかないこれらの  多くの人々はこの「湖底の故郷」以上の悲しみにあるだろう。早くの原発の収束を願わずには  いられない。                            (11.5.4)  鈴木武男作品集のLPレコードのジャケット写真
 湖底の故郷歌碑  東京都水道局H.P             66、旅姿三人男   この歌を歌うたびに昭和10年頃の浪曲(所謂浪花節と言う)の全盛時代を懐かしく思い出さ  ずには居られない。それは浪曲師「広沢虎造」の一人舞台の様な時代であったからである。   勿論当時の浪曲界も多士済々、美声といわれた「寿々木米若」や美声で声が会場の隅々まで  届く大声量で唸る「春日井梅鶯」歌謡曲的なちょっと軽薄な語りの「三門博」、盲目で悪声が  また魅力の「浪花亭綾太郎」、女性では七つの声色を持つ「天中軒雲月」などの、虎造に引け  をとらない人々も沢山居たが、何といっても「虎造」には敵わなかった。其れは江戸っ子調の  語りとリズミカルな(歌謡曲的)節まわしは殊更上手く、三門博とは一味違った浪曲であった。   当時の女学生まで「虎造」の真似をするほどの人気で様々なやくざや清水次郎長を主人公の、  「浪曲映画」まで出来てその映画までヒットした。浪曲歌謡曲の見本のようなヒット曲で虎造  節から作り上げた、テイチクの美ち奴の歌っている「吉良の仁吉」やタイヘイの井田照夫の歌  う「浪花節と兵隊」も虎造節から生まれたものでありイヤが上にも盛り上がり若者達にも大い  に支持された。   学校のお昼の休み時間かに音楽室に潜り込みピアノで「チャララッカチャンカチャンカ、チ  ャララッカチャンカチャンカ」と浪曲の三味線の合いの手の真似をやって怒られた記憶がある。  終わりのチャンカのところで半音上がる音があり、ハーモニカでは演奏出来なかったことを果  たした思い出である。  「虎造」と言えば演題は他にも沢山有るが、殆ど「清水の次郎長伝」が主で、表題にある三人  衆とは一番目は「小政」で √清水港は鬼より恐い、大政・小政の声がする。  二番目は「大政」で浪曲ではこう紹介している。   √元は尾張のお先手で、槍組みの小頭で、槍を取ったら山本流の使い手で、本名山本政五郎    が、武家を嫌ってやくざとなる」    歌の文句の「なんで大政 国を売る」とあるが、その意味も分かると言うものだ。   本当は三番目に位置しないけれど浪曲でも一番人気の「森の石松」が三番で歌を締め括って  いる。浪曲の内容も殆どが、この「石松」を主人公にしたストーリーとなっている。   √馬鹿は死ななきゃ 直らない・・・・・・・・・・   √江戸っ子だってね 神田の生まれよ 寿司食いねえ 酒飲みねえ・・・・・・・・・・・     当時の「虎造」はテイチクの専属であったらしく緑のラベルで「清水次郎長伝」のレコード  が、10枚組か何枚組か定かではないが生家にあった。各レコードには相応しい副題がつけら  れ「石松代参」とか「お民の啖呵」とか「三十石船中」「身請山の鎌太郎」などが有った。   √秋葉地や、花、橘や茶の香り、娘やりたやお茶摘に 此処は名代の火伏せの神 秋葉神社    の参道に 産声上げし快男児 遠州森の石松の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・   始まる虎造節を最後まで暗記して自慢したものであった。  この歌には親分の次郎長が抜けている。本当は次郎長も登場させたかったのだと、ある人は  言う。レコードの3分強の盤に4番まで収めるのは無理があるけれど編集の仕方で入らないこ  とは無い。ここに歌詞があるといって渡された歌詞カードに四番があった。誰が作ったのだろ  う。この項のため確か保存した歌詞カードだが探しても見当らず残念である。   オリジナル歌手は今更言うまでも無く「デイック・ミネ」=「三根耕一」で有るがいろいろ  のエピソードは有名すぎて私の語る範疇には入っていない。また新ネタの持ち合わせは無い。   もう30年も前のことか、懐メロ会の旅行で伊豆高原駅下車して旅館のマイクロバスで険し  い曲がりくねった山道を登り旅館の会場に臨んだことがある。あの頃は懐メロ全盛時代でラジ  オなどの懐メロ番組の司会で有名な宇井昇アナも来ていた。   会が酣の頃中京のラジオ局とかに繋いで実況中継もしたらしい。その中継が終わり「沢雅夫」  なる無名歌手が登場して、宇井アナから紹介があった。「広沢虎造」の三男であり本人の言う  には「一人前(スター)になったら芸名の頭に「広」を付けたいと言った後この「旅姿三人男」  を歌いだした。   何と驚いたことに「ラ行」が徹底的に恐ろしいほどの巻き舌(これも一種のテクニックであ  ろう)でショックを受けるほどであった。歌い終わってから全員に、この歌の入ったシングル  EPが配られた。今どうしているだろう。親は巨万の富と名声を得たのに、彼も70歳はもう  越えたろう。その後TVやカラオケでは聞いたことが無い。宇井昇さんはどうしたわけか、先  年江戸川のアパートの一室で一人住まいのまま、自分の火の不始末かの火災で焼死してしまっ  た。家族はどうしているのだろうか。疑問のまま今日に至った。今も彼の作ったホームページ  がそのまま「宇井昇の連載エッセイ」として消されずにそのまま残されている。かなしいかな (11.2.17)                沢雅夫の「旅姿三人男」 のEPレコードのジャケット写真  故、宇井昇さんのH.P NEXT(過去の下記記事を読む) 65 母を思えば        ミスコロ  63 君の名は         織井茂子   64 希望の首途       松平 晃  61 海のない港の歌     田谷・羽衣   62 愛染かつら    霧島・ミスコロ  59 ザッツ・オーケー    河原喜久恵   60 この太陽       佐藤千夜子  57 進軍の歌        陸軍軍楽隊   58 白蘭の歌  伊藤久男・二葉あき子 55 白いランプの灯る道    奈良光枝   56 不壊の白珠       四家文子  53 久しぶりだよ       春山一夫   54 勝利は翼から    松平・近江他  51 曲名秘匿                52 田道間守        唱  歌  49 あゝ玉杯花受けて     一高寮歌 50 瓢箪ブギ        春日八郎    47 縄飛び伴奏曲        管弦楽   48 宣戦布告        不  詳      45 椿姫の唄        東海林太郎  46 島の星月夜  ミスコロ・高杉早苗       43 島の娘         葭町勝太郎  44 コドモノムラ      不  詳  41 守備兵ぶし        小野 巡   42 ばってんぼー      アメリカ 38 涙の渡り鳥       小林千代子  40 琵琶湖哀歌    東海林・小笠原  37 酋長の娘         石田一松   38 啼くな小鳩よ      岡 晴夫  35 村の一本橋       二葉あき子  36 洒落男         二村定一  33 空の神兵        鳴海信輔   34 雨のオランダ坂    渡辺はま子  31 英国東洋艦隊潰滅の歌   藤山一郎   32 曲名秘匿        歌手秘匿    29 青い牧場        藤山一郎他  30 大政翼賛の歌     伊藤久男他      27 支那の夜        渡辺はま子  28 誉れの号外       結城道子  25 有り難う本当にご苦労さん 有田弘二  26 泰の娘         林伊佐緒   23 佐渡島悲歌        原都々子  24 上海航路        松平 晃  21 旅の三味線        伊藤久男   22 上海の花売娘      岡 晴夫     19 天国に結ぶ恋   徳山l・四家文子   20 荒城の月        佐野成宏   17 若き日の夢        李 香蘭  18 金比羅満帆      東海林太郎   15 満洲娘          服部富子   16 愛国行進曲       各社競作   13 元気で行こうよ      霧島 昇   14 なつかしの歌声     藤山一郎   11 若鷲の歌         霧島 昇   12 逞しき進軍      東海林太郎    9 父よあなたは強かった  伊藤久男他  10 聖処女の唄       藤山一郎     7 そうだその意気     霧島 昇他   8 お使いは自転車に乗って 轟夕起子     5 裏町人生        上原 敏他   6 いろは仁義       上原 敏     3 若しも月給が上がったら 林伊佐緒他   4 戦友          不特定     1 母を呼ぶ歌       霧島 昇他   2 誰か故郷を想わざる   霧島 昇                           ○この雑文は休み無くネタのある限り続けてゆきたいと思う。       ○ここを訪問された方の「どんな話でもいい(掲示板へ)」聞きたいものだ。       ○私は歌謡曲をあまり愛するがためその影のことを書きたかった。       ○更新記事はいつもトップから書くように工夫した。