瀬谷佑介 Web Site   




















FROM YUSUKE

                  
「歌を詩う」

 本当はもっと自分の歌をいろいろな人に聴いてもらいたいと思うのですが、ライヴもあまりやっていないので、なかなか生の歌を聴いてもらえる機会もありません。今すぐにでも聴いてほしい歌がたくさんあります。だからと言って録音した音では僕には表現しきれない。そこで思いついたこのコーナー。
 歌を詩として読んで頂きたい。本当は歌ってこその作品であり、物足りなさ充分の企画ではありますが、そうも言っていられない。
 歌がない分、一曲ごとに一筆添えさせて頂こうと思いますが、これは詩を説明するものではありません。その詩の中の言葉にまつわる個人的なエピソードにすぎないつもりです。
 このページにたどり着いてくれた方が、ここにある詩を読んで少しでも「感じる時間」を持って頂ければ嬉しく思います。そこからしか その歌も僕も拡がりはじめることすら出来ないのですから。


                             瀬谷佑介
    

「土と空の真ん中で」

 〜「テロ」とか「戦争」のニュースを新聞で見た後に眉間によったしわを伸ばしながら外へ出ると いつもと変わらない青い空、陽に輝く木々の葉、光る川の流れの音に包まれる。この土と空の真ん中で生きる・・・これだけで充分だと思えるのだ。

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「夏の午後」

 田んぼを貸してもらっている地主のおばあちゃんとおじいちゃんがいる。おじいちゃんは、田を借りて2、3年目くらいに亡くなってしまった。
 経験が無く。理想だけで周囲と違うやり方で米をつくろうとして四苦八苦している僕に貸してしまった田んぼを心配そうにばあちゃんは見ていた。でも、じいちゃんは、「若いもんに任せとけばいいんだ」と口を出したそうなばあちゃんに言っていた。そして、「無農薬でやるってとこがいきだねぇ」と草取りで途方にくれている僕によく声をかけてくれた。そういって自転車で通り過ぎて行った。
 じいさんの自転車はブレーキがワイヤーではない昔のものだったけれど、ボロくなく、ダサくなかった。
 「昔のものは古いもの」ではない。磨き続ければ輝き続ける。そう思ったら田の草取りをする自分に自信がわいた。

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『実風』

 実風(みかぜ)は次女の名前。出産の時、ちょうど中越大震災の時で病院も余震で揺れていた。
 突然の悲劇にみまわれている人々の様子を、僕たちは毎日のようにニュースで見ている。災害、犯罪、事故、戦争・・・自分も自分の子供も、いつか悲劇にでくわす可能性を平等に持って生きてゆく。だから、辛く、切なく、悲しい時でもその時を超えたところの光に向える強さを持っていたいと思う。
 辛い風も、悲しい風も、いつかの実りの風として吹けよ。

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『優月』

 優月(ゆつき)は長女の名前。彼女の名前を考えている時、僕の中ではほぼ最初からこれしかなかったのだけど、周囲の反応はいまいちだった。「呼びづらい」とか「変わってる」とか、その名に込めた想いなど聞きもしないで却下するので頭にきた。そこでいっきにこの歌を書き妻の前で切々と歌ったところ「OK」がでた。

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『くるみのうた』

 我家の周りにはくるみの木がたくさんある。僕がこの土地に来てからも何処からか転がってきた胡桃の実が、僕らの庭のあっちこっちに芽を出して、いい木になってきた。30cmも掘ればツルハシが必要なほど硬いこの土地で、根を張って、冬の重い雪に幹が折れても、折れたところからまた春に枝を伸ばし、おもいっきり葉を広げる。そうやって大きくなった木は真っ直ぐでなく、どれも味がある。
 この土地は、人が暮らすことを諦めて何十年も前に廃村になった。僕らは「川が流れているだけ」「道が一本あるだけ」そんなこの土地だからこそ気に入って暮らしている。転がり落ちたところから一本の木になれる自由があるからだ。

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『朝日』

 『いろいろな月』が今歌える自分の一番古い歌とすれば、最近書いた一番新しい歌が『朝日』。その間10年。
 自分が子供を抱えたからだろうか、テレビもケイタイもはいらないこの山奥にいて、社会が気になってきた。新聞を眺めていると、教育も人々の生活も政治も問題ばかりで、ちょっとやそっとの事件では驚かないくらい鈍感になっていきそうだ。でも、一人の命にかかわるニュースにすらそういう感覚に多くの人がなっていったら、そういうニュースの数はもっともっと増えていくんだろうな。そして、そういう人達が作る社会の中で自分の子も自分も暮らしていく。
 流行の歌のフレーズにもよくあるように、こういう時代だからこそ「夢を持って」はその通りだと思う。でも、「どんな夢が描けるって言うんだ」と歌い返したい人もいっぱいいるのが、今だと思う。

 今日、例えどんなことがあっても今日の日は明日に暮れて、また朝日が輝き昇る。生まれて初めて迎えた朝から誰もが唯一約束されている希望だと思う。例えば誰かを傷つけてしまいたいと思ってしまうような心が寂しい時、自分を傷つけてしまいたいと思ってしまうほど苦しい時、昇る瞬間の朝日を見ようと思った。そういう朝日を見た朝があった。

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『いろいろな月』

 中学生の頃から歌をつくっている。当時は早く大人になりたくて、「夢 叶えてみせる」というような思いを込めた歌が多かった気がする。
 理想は溢れていたけれど、経験して知っていることはきっと少なかった。それはそれで、10代にしか書けないピュアで面白いものもあったかもしれないけれど、あの頃から10数年経つ今、あの頃の自分の歌で歌える歌はほとんど、ない。
 今から10年前、ぎりぎり10代だった時、、この歌をつくった。この歌だけは何故か、この歌を作っている自分の姿まで覚えている。一日中農場仕事をしていた時、毎晩一人でギター鳴らして歌っていた。あの部屋であの大きな窓の向こうに見えた月と向かい合いながらフレーズをしぼり出している自分の姿。
 この歌ができて以来、自分の歌に月は良く現れる。
 この歌と数日違いでできた歌に『Milk』というのがあって、何十曲もつくってきた10代の頃の歌の中で、今でも歌えるのは、10代最後にできたこの二曲だけだ。

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便り うしろだに から 2005

 元気に生きておられますか? 心身ともに調子よろしければ何よりだ。少し お疲れだったならば、昼夜かまわず、おいしいBeerかWineでも飲みながら、Yusuke SeyaのCDでも聴きながらごろりとして下さい。
 2004年は日本は台風に地震に大変だった。世界も相変わらずの争いごと、自然災害に大変だった。無数の人が亡くなり、無数の涙が一粒、一粒流れた。きっとテレビでは、そういう人々の悲しみや、やり場のない悔しさや、失望の表情がトレンディードラマの一場面のように映し出されて、きっと それを、「いただきます」も言わずにご飯を食べる子供や、大人が「スゲー」と想像をしないで見ていたのだろうな。テレビも、新聞も届かない我家だけれど、たまに街に出るとそんなこの国の雰囲気を感じてしまう。「テレビや新聞に向かって皆で泣こうっ!」とは思わない。そういうことじゃない。
 テレビや新聞の中の涙を想像したい。そして、その情報を知って、今 自分に出来る事を探したくなる。募金やボランティア活動は出来る時にするとして、直接にその人達に出来る事は、今はない。だから、ありきたりの言葉ではあるけれど、自分の今を大切にしようと単純に思ってしまう。いつ何が起きるかわからない。今朝も二人の娘の見て目覚められた。当たり前のような毎日だけど、ただ自分が、たまたま今のところ ついているだけのような気がしてきた。
 昨夜とてもリアルな夢を見たんだ。浅間山が噴火して、いっきに溶岩が流れ迫ってきて、
「あーこれで死ぬんだなー」と本気で呟きながら走っていた。傍から見ればマヌケな夢かもしれないけど、初めて、死の瞬間をリアルに感じた。きっとこんな感じなんだろうと。
 〜Ah 明日も僕に太陽が昇りますように〜 生き物のみんながそう思っている。それは、畑にいると感じる。喰うつもりで飼っている鶏と朝、目が合うと感じる。食べることは楽しいが、その意味は重い。今日も、本当に、「いただきます」
 あっもちろん、ごはんを作ってくれる人にも「いただきます」。僕はたまにしか料理しないけど、作る時はすごい気合を入れて作る。食べる人の事を考えて、材料として畑から収穫されてしまった いのちを想像して、「うまいっ」と言わせるものを作ろうと思う。感謝して喰えよっと思う。
 だから、レストランだろうが、コンビニの弁当だろうが、やっぱり言ってしまう。いただきます。ごちそうさま。今出来る事は、感謝することかな。

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もう一人、女の子誕生ッ!実風(みかぜ)と申します

 新潟が地震にゆれる中、2004年、10月25日、我家にもう一人女の子が誕生しました。2460g。帝王切開になってしまいましたが、今回も正子さん、がんばりました。男は何もできません。祈って ひとり 力んでいるだけ。でも、長女、優月と待っていられるということは、僕にとって救いであったし、しあわせな時間でもありました。
 名前は、実風。腹に宿ったと知った時からすでにイメージしてた名前。
 「米を実らせよ〜」と言う意味ではない。悲しい風も、悔しい風も、どんなに暗い風が吹くときも、実りのある風として吹けよ・・・と。
 二人の娘を抱え、しあわせにはちがいないけど、けっこう大変。油断すると自分がピリピリしていて、カリカリしてしまう。
 女性ってやはりスゴイと思う。偉いと思う。何がって、その機能と母性。24時間、おっぱい→うんち→おっぱい→うんち・・・の日々をのりきって行けるのは、その機能と母性がある女性だからに違いない。
 優月が産まれた時、夜中に優月がお腹すいて起きると、寝起きの悪い筈の母が、ムクっと起き上がり、乳をあげながらモチを食べていた薄暗い中でのその光景は少し不気味であり、僕は思わず寝ているふりをしまうのであったけど、今改めて思う。母は偉い。男は、「昼間の仕事で疲れたから夜は寝るのだ」とか言うのは何の理由にもならない。女は24時間母をしているのだ。
 あっ!ほら、「凄い」(すごい)という字、「妻」っていう字がメインだ。妻は凄いんだ。「夫」という字なんか、「麩」っていう字に使われているのくらいしか思い出せない。妻が作ってくれたお椀の中のみそ汁に「あったけ〜」とか言いながらプカリトと浮いているのが、のんきな「お麩」。そんなお麩的生活はきっと最高だろうけど、いつもそうだとヤバイ雰囲気になってくるので、仕事から帰ると、すかさず娘二人を抱っこし、なるべく積極的に赤子のオムツも換えてみるか、とは思ってるが・・・。
 父としてこれから娘に出来ることと言ったら、自分の今までの恥を笑い話として伝え、時に我々家族が食べる為に、共に汗をかき、共に本気で遊ぶことくらいだと思っている。

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子育て in Ushirodani

 長女・優月も四歳になった。あと二年で小学生になる歳になる。だが、知っての通り、後谷に学校があるはずもない。7km.山を下った所の学校に属すことになるのだろうが、春〜秋は送り迎えするとして、雪に閉ざされる冬はどうしましょう。「子供の学校はどうするの?」よく聞かれる質問No.1だ。
 優月が六歳になる頃までには、何処かあったかい場所へでも居を移すのだろうと、自分の事ながら客観的に思っていた。”俺の人生とんとん拍子、優月が小学生になるまでには、うしろだにを超えるすばらしい土地に出会うのだろう≠ニ根拠も無く思っていた。(中学退学歴を持つ奴のとんとん拍子って?)
 多少、ドライヴがてらに土地探しもしてみたが、この土地を超える魅力ある土地に出会うのは、そう簡単ではないと分かった。それに、どうせ引っ越すのだから・・・と思っていると、日々の生活に勢いがなくなる。新しいことをやりたいという気持ちのブレーキになっているのを感じた。だから、優月も実風も ここで育てる(と言うか、この土地に育ててもらう)つもりで行く。学校が第一優先という観念がもともとない。日々おもいきっりやっている親をみて、子もおもいっきり育て。僕が知っていることは全て教えよう。僕が知らない事を知りたくなったら学校(社会)に行け。いい友達を探しに行きたい時に、学校に行けばいい。
 今、冬の間は軽井沢で勤めに出ているので、普通のサラリーマンの家のように家族との時間は、うしろだにの生活に比べてかなり少ない。これは僕にとってかなりのストレスらしい。不機嫌な日が増え、家にいるのも嫌になる。これはまずいことだ。こんな姿の父が「思いっきり育てよっ コノ野郎」とか言っても、子はいつしかグレるだろう。
 この四年間、冬は児童養護施設に勤めている。これもつまりは子育ての仕事だと思っている。大人になったら何でもできるんだ、という勢いを持たせてあげたいと思って関わっている。楽しめるいい仕事だが、結局の所僕が育てられている。家族にも育てられている。「畜生!俺はもっともっと自由で強い大人になるから見てろ!」と思う時、そう思う。

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家つくりは終わらない

 古電柱の切れっぱしで基礎を打ったのは七年前の春。屋根を張った日には嬉しくて、壁もまだない新居に寝袋で寝た。夜、ライトアップした作りかけの我家を見ながら酒を飲むのも乙だった。あの時はひとりだった。今は四人。
 我家の原形は延べ半年強程度で出来あがったが、それと同時に進化が始まり、今だ進化し続けている。
 憧れてつくった土間の台所は、初期の設計上の問題もあったが、いまいち使いづらく、寒く、子供が土間へ落ちる危険もあり、居間とフラットに。川から一輪車で石をはこび、だいぶ苦労した石風呂は、熱効率が悪く、沸くのに時間がかかり、すぐ冷める為、廃材木製風呂に。吹き抜けのある家に憧れて、天井の3/4が吹き抜けだったが、そんなことより「暮らせる面積」が必要になり、今の時点で3/4がロフトになった。薪小屋も年々拡大するだろう。今年は3代目の風呂を作ろうと思っている。年々、廃材大工としての技が磨かれてきているのか、過去の自分の仕事に納得いかなくなってくるのだ。断熱工事もやりたい。当時は、断熱材を使う発想も知識もお金もなかった。今もお金はないが、発想する力は豊かになった。これはお金に余裕のない星に生まれた者の特権。有るもので、何とかしてやろうという基本精神を身につけた。この精神は我ながら楽しい。
 誰も見たことないが、見るからに便器だとわかる木のウロの便器がうまれたり、この頃は、断熱工事に備えて、廃車から取った窓ガラスで木枠の窓を作ってみている。
 今年、増築もしたいと思っているが、そうこうしてこの家に満足した時、つまり完成した時、僕は次の家を建て始めるだろうと思う。この家で収まらなくなったものをつくり始めると思う。
 家をつくることは、田畑で米や野菜をつくるのと同じように、生活そのもので、ごはんをつくって食べる事とも同じ事。暮らしを日々築いているって感じがする。この仕事は愛しい。
 「自分で家を建てるなんてスゴイッ」とよく言われるけど、そんなにスゴくもない。やる気があれば本当は誰にでもできる、誰もが持っている最低限の能力かもしれないと思う。だって動物は大抵自分で巣を作る。木の上に草などで編まれた鳥の巣などは芸術の域に達している。しかも一度子供を育てたら惜しみなくそこを飛び発つ。スゴイカッコイイ「大草原の小さな家」の一家もそれに似ていて惚れる。我家の家つくりもまだまだこれからだ。

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米つくり 2005

 僕らの兄貴的存在である.坂本さんと、この春から共同の農薬も化学肥料も使わない田んぼを作ろうかという事になった。僕はもちろん最初から"無農薬無化学肥料≠セったが、彼は現代の一般的なやり方で米をつくっている。彼なりに、“よい無農薬・・・≠ニは思っていたようだが、狭い地域社会の中で、他人と違う新しい事をするのは、難しい事なのだそうだ。
 しかし最近、彼は本を書いた。(題名「エコラ」ペンネーム星正晴 新風舎 売れないと次が出版できないそうなので、注文してでも買ってあげて下さい。) その本は、今のままの社会が続き、世界の自然が枯れ果てる寸前の未来を書いた児童文学小説である。昨夏頃、原稿を読ませてくれたので、田のあぜっぱらで率直に感想を述べた。「そこまで書いておいて作者が農薬ふりまいていたら、週刊誌とかのネタになっちゃうぜ・・・」
 と言う事で、約二反の小学校の裏の田を選び、この春始めてみるつもり。田植え、稲刈りは機械での作業になるが、除草は人力。肥料も有機質にして病気に強い稲を育てる。少しづつでもこのやり方を広げて行けたら、未来はまだあると思う。
 お百姓さん皆が、未来を考えて仕事しているとは思わないが、農薬や化学肥料が人間の、自然環境の未来のためにいいものではないとは、なんとなくは知っている筈だと思う。知らなかったらあまりに世間知らず。でも「それがなかったら百姓なんて大変でやってらんねえ」と言うのが、多くのお百姓さんの気持ちだろう。僕も、それはそうだよねえと思う。でも極論として、「ならば百姓、やめましょうよ」という時代だと思う。未来を奪ってまで日銭を稼がなければならない時代でもないだろうと思うのだ。戦後、日本を支えてきてくれた まだ現役のお百姓の方には怒鳴られそうだけど、時代は変わった。
 小学校の裏の田んぼで、大人が汗をかいて除草機を押す。学校帰りの子供が、その光景を景色として見ている。初夏の除草作業はキツイ。キツイけど、キツイッことは いけないことではない。汗かいていいもん作ってんだ!とイキがる大人を、あぜっぱたで子供が見ている・・・これが最先端の農業だ。
 そんな お米があきに実りますので、我家の手作り米「て」はもちろんのこと、そちらも、皆様の周りの方々にさり気なく宣伝などして頂ければ幸いです。

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