
韓国インディペンデント映画 2007
会期:2007年8月25日〜31日 会場:シアター・イメージフォーラム
『ウリハッキョ〜われらの学校〜』キム・ミョンジョン監督
インタビューの始まり、挨拶をかわした後、ミンジョン監督は流暢な日本語で
〜時代を射る作家の眼〜 part.2
主催:イメージフォーラム 共催:駐日韓大使館 韓国文化院
text:阿佐美澄子

今作は、2006年の釜山国際映画祭のドキュメンタリー部門で最優秀賞を受賞。
韓国では2007年に劇場公開され、ドキュメンタリー映画では過去最高記録の動員
数を達成した。インターネット上などで評判を呼び、自主上映の動きも広がった。
インディペンデント映画としては、異例のロングランヒット作であり、特殊な上映
ケースだ。
トニー・レインズ氏は、このドキュメンタリー作品を「親密さと客観性のバラン
スが繊細にとられている」と評している。
子供たちに母国の言葉と文化の基盤を提供するために存在した、過去に540も存
在した朝鮮学校。現在では、その数は60校だけになっている。そのなかで、北海道
に雄一残る朝鮮学校にて3年を過ごし、授業や活動などを撮影したものだ。
決して政治的な目的ではなく理解への歩みとして、このような子供達がいること
を普通に、韓国や日本の人たちに知って欲しかった。と監督が語っているように、
スクリーンの中の子供達は、本当に生き生きとした姿で描かれている。
キム・ミョンジュン監督は1970年生まれの釜山出身。
昨年、日本でも公開された『マジシャンズ』のソン・イルゴン監督の作品『花の島』
(2001)の撮影監督をしていた。撮影監督だったミョンジュン監督が、何故
このテーマでドキュメンタリー映画を撮ることになったのだろうか。
今作、もともとは妻でもあるチョ・ウンリョン監督のもと映画製作が開始された。
撮影スタッフとして関わることになったミョンジュン監督は、ウンリョン監督
とともに日本に取材で同行し、朝鮮学校の存在を初めて知ることになる。お二人の
恋愛が始まったのも、この作品製作と同時期にあたる。その後、結婚から約7ヶ月
頃、不慮な事故によりウンリョン監督はこの世を去った。
映画を自らが監督することに決断した思いは、どのような気持ちだったのだろうか。
――2002年の9月に結婚したのですが、彼女と付き合っている頃から全国の在日
の学校を廻っていたので、舞台となった北海道の学校へは、結婚する前にも行き、
結婚してからも行きました。
北海道の学校の皆さんが、私達の結婚を本当に暖かく祝福してくれました。
その後、事故があり監督が亡くなってしまい、それで北海道の方々に事故の事を電
話で告げると、自分の家族の事かのように心配して下さり、本当に温かく接してく
ださり、有り難かったし、その後に葬儀のため韓国に来てくださろうとしたのです
が(国籍の問題で)ソウルに来ることが難しく、皆さんがその事を残念に思われて
いました。
その思いに答えようと、火葬した灰を少しだけ持ってきて、大阪にある東大阪朝
鮮中級学校に木を植えてそこに蒔きました。そして、残りを北海道の学校に梅の木
を植えてそこに蒔きました。
皆さんが、こんなに家族みたいな心で接してくれるのは、ウンリョン監督への信頼
じゃないかと…。
ウンリョン監督は、自分が積み上げてきていた心というものを、私が絶対に伝えて
くれる、と信じていたと思うのです。ドキュメンタリー映画というのは、監督と撮
られる人との関係というのが大切で、ウンリョン監督が2年間かけて積み上げてき
た関係を、もしも他の監督がするとしたら、また最初から関係を作らなければなら
ないです。私は、撮影監督として初めから同行し、その方達と触れあってきていま
したので、私がやるべきではないかと決断いたしました。
3年もの期間のドキュメンタリーですが、撮影はひとりでされたのですか?
――はい、そうです。ひとりでして、編集は2人で、です。
2003年10月から2005年4月まで。学生達の入学式が終わってからクランクアップ
しました。その後、編集に1年6ヶ月かかりました。
編集は、どのような作業状況でしたか?
――撮影したテープが500本。ひとつのテープが60分で、全部見ないといけない
ので。それも、ただ単純に見るのではないので、見ていくうちに忘れしまうので、
全部記録しながら見ました。1日に2、3本くらいずつ見ていると、肩が痛くなるん
ですよ(笑)。
内容が内容なので、日本語も入っていますし韓国語も入っていますが、在日の方々
の言葉が韓国語とは少し違うので、韓国人でもわからないところがあります。
実際、自分で撮影したものなので、自分でやらないといけない状況でした。
在日の方々の言葉は、まるで方言のようでした。在日朝鮮語は、アクセントも日本
語に似ていますし。韓国の人もすぐには、その言葉が理解出来ません。30分〜40
分とか聞き、よく聞いているうちに、ようやく理解してくる感じです。映画の上映
時もそうでした。
そういうものでしたので、その在日朝鮮語を理解するのに1年くらいかかりました。
その後、編集のみに6ヶ月です。画面を見ながらでなく、メモした文章を見なが
ら作っていきました。
最初、編集作業を終え繋げてみたら、7時間くらいの映画になりました。
それを削っていき、2時間10分の映画に。
韓国での上映時は、字幕をつけていると伺いましたが。
――全部、韓国語で字幕をつけています。上映後、30分くらいすると、だいたい
在日朝鮮語も理解出来るようになってくるみたいなのですが、最初から感じて(理
解して)もらいたいので、字幕をつけています。
パネルディスカッションで「この映画との出会いによって、180度気持ちが変わった」
と言われていましたが、どのように変化されたのでしょうか。
――人生が変わりました。
もともとは撮影監督をしていたのですが、撮影監督としてデビューして、うまく人
生を生きていくような感じだったのです。自分だけのことを思っていました。この
映画に出会って、この方々に出会い人生観、世界観が変わりました。人生の目的が
出来たというか…。
サッカーの指導をしていた先生のエピソードの台詞にその気持ちが反映されていますか。
――そうです。「人のためにすることが幸せだ」という。あれは、私の声です。
この映画は当初、自主上映をし、その結果(動員数)を
シネコンのオーナーにみせ、上映してもらう。という上映方法だったと話されてい
ましたが、それは監督のアイデアからですか?
――私のプロデユーサーをしてくれていたコ・ヨンジェさんのアイデアです。
その人は、韓国の独立映画協会の事務局長をしています。
この映画の上映方法は、特別なケースだと言われています。


「映画は見ましたか?」と話しかけてこられた。
「はい、とても感動致しました。見ることが出来て、自分にとっては良かったです」
との、月並みな答えに「日本人にとっても感動しましたか?」と、心配そうな
顔をされた。
このドキュメンタリーは日本人にとって痛い部分も描いているんだ、と、その事を
案じているかのような優しい目が印象的でした。韓国語で話すと少しプサン訛りの
ある監督は、本当に日本語をよく勉強されていて、問いへの答えも日本語で話され
る場合が多くあり、とても有り難い気持ちで取材をさせて頂けた。
日本での自主上映も広がっている今作品。次回作は未定との事だが…。
監督自身、今作の異例なヒットにより、危機的状況と案じられている韓国映画協会
から、興行についての意見を求められる立場になったという。
DVDの発売も決まり、インディペンデント映画やドキュメンタリー作品の興行に
おいても新たな可能性を開いた、貴重な作品になったことには違いないと思う。