D・N・A

 


 

 

 

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■■■アルバム「ノー・ニューヨーク」の最もエキサイティングな面は、60年代のロックとのつながりを、はっきりと断ったことだ。ニューヨークで起こった、ニュー・ミュージックの最初の波は、パティ・スミス、テレビジョン、ブロンディー、ラモーンズ、ミンク・デビル−−歴史を新しくしようとしたのに対し、「ノー・ニューヨーク」のバンドは、過去を強奪し、新しい構成で、つばを吐きかけた。4っのオリジナル・グループのうち−コントーションズ、ティーンエイジ・ジーザズ、マース、D・N.・A−後者の2グループだけが。当初の目的に動揺をきたしてはいない。

■■「ノー・ニューヨーク」が出て、ほとんど2年になろうとしているが、D・N・Aは孤立している。この風変わりで、すばらしいパワーを持ったトりオは、スター症候群の誘惑にも、アンダーグラウンドに隔離されることの気楽さにも負けてはいない。マースの方が頑固に、不透明で実験的かもしれないが、D・N・Aだけが、週の初めと、週末に公衆の前で演奏し、ゆっくりと、不可避的に、何も信じない人々を、ユニークな激裂さへと転化させようとしているのだ。

■「ノー・ニューヨーク」以後、非常に正確なキーボード奏者のロビンクラッチフィールドか、ダーク・デイを結成するために脱け、元ぺル・ウブの創立者、ティム・ライトが、べ一スとして加入した。懸念にもかかわらず、正直に言って、結果は有益だった。めがねをかけたギタリスト、アート・リンゼイの、叫びと、わめき声のカタログは、日本人ドラマー、イクエの規則正しいパーカッションと、ライトの激しくうねるべ一スにささえられ、D・N・Aは、3つの異ったエゴの拡大へと展開し、パーカッシヴな3人組は、リズムとメロディックな構成をまとめ上げ、一つの気分を引き立てる。

 

 

「映画の方面からも、作曲を考えてみたいんだ。」アートは説明する。「なぜって、曲に予期できない変化を与えたいんだ。音楽的に必要ではないかもしれないが、感情的な意識を取り入れたいのさ。ほんの短い時間内に、いろんなものを入れたいんだ。」

やせ気味のアート・リンゼイは、ロックン・ロールの悪名高い人物には、あまり好ましくない候補者の一人だ。ヴァージニアで生まれ、3才の時に父親が大使をしているブラジルヘ移り、小さな村の学校へ通った。

「ブラジルでは、ポップ・ミュージックがとても盛んなんだ。」とアートは言う。「とても知的でもあるんだ。特に、20年代のサンバや、60年代初期のボサノバみたいに。詞なんて、信じられない程だよ。ジャズの影響を受けているんだ。それから、カーニバル・ミュージックがあって、それは、400ものドラムがいっせいに演奏しながら通りを行進するんだ。音は、ひどく大きくて、地震のようで、とて.もD・N・Aに似ている。」

フロリダのカレッジに、少しの間通った後で、アートはニューヨークヘ行き、「ヴィレッジ・ボイス」でメッセンジャーとして働いた。(「やめた時には、電話で広告の売り込みをやっていたんだ。」と、彼は自慢している。)最初に、リンゼイがギターを手にしたのは、ジェームス・チャンス、日本人のべ一ス・プレーヤーのレック(ティーンエイジ・ジーザスのオリジナル・ラインナップ・言うまでもございませんがフリクションでございますだ)、レックのガ一ル・フレンドで、一度もドラムを叩いたことがなかったイクエと、一緒にジャムをやった時だった。アートは、自分が影響を受けたのは、マースの友達達、ドリィー、チナ・バーグ、マークー・カニンガムだけだと主張し、彼らのために曲も書き、ドラムさえ叩いた。

「もしマースがなかったら、チャンスは、ああいったことはできなかったと思うね。」と、アートは指摘する。「チャンス自身もそう言ったよ。マースが、ロキシー風のヴェルヴェッツの影響を受けた曲を、最初に演奏したのさ。終わりの頃には、ノイズになるんだ。ノイズを作り出すことは、純粋な喜びなんだ。パブロ・カザルス・タイプの、少年と機械の関係のようなものさ。とても、羨しかったよ。」

でも、なぜロックン・ロール・バンドを始めたの。

「基本的に、見せびらかすためさ。」と、アートは認める。「商業の中で唯一、神に見捨てられていない分野のようでもあるしね。とてもやっかいだが、本当にセクシュアルだし…………その上、バンドは他人と協力できるだろ。バンドのメンバーであることの、ある種の責任は無視できる。フォーク・シンガーじゃないんだ。自分を偉大だと思わせる何かの拠り所を、正確に確認できないというのは、大切なことだと思うよ。」

1977年頃、D・N・Aが結成された時点で、このバンドの様なサウンドは.全くなかった。ニュー・ウェーヴのバンドは、どれもこれもメロデイーに固着し、曲は因習的な、歌−−コーラス−−歌、といった構成だった。D・N・Aは、こういったカテゴリ一を、独断的に粉砕してしまった。

「音楽が売れやすく、興昧深いものになるように、いろいろと変わったこともしなくてはいけなかったんだろうと思う。あまり良く知らないが、どれも似たり寄ったりで………ポップ・ミュ一ジックの歴史には、新しい裂け目ができ、新しい傾向が生まれるポイントがあるんだ。僕は、新しい傾向を始めたかった。たとえ成功しなくても、満足できるじゃないか。」

「僕たちは、3人がそれぞれドラムのように展開して、ビッグ・ドラムのようなサウンドを出したかった。それで、ティムを入れたのさ。僕らは、ダンス・バンドになろうとしている。ブラジル・アフリカ・ニューオルリンズの音楽は、ドラムがメロディーを伝えるんだ。一般的なメロディーの定義は狭すぎるよ。ティムも僕も、とてもメロディカルに演奏している。アンチ・メロディーじゃないんだ。ロックン・ロールなんかよりも、ずっと音楽的だ。まあ成功したいなら、お決まりの土曜の夜の衝動を、満足させるようなことをやってりゃいいのさ。」

「オーティス・レディングのレコードを聞いてみろよ。ポップソングを歌ってるんだ。でも途中で、彼はただ叫んでいる。とても、リズミックなシャウトさ。それにみんなが夢中になったんだ。ヘンドリックスにしても同じだよ。」

D・N・Aの曲は、どうやってできるのですか。

「最初は、抽象的なアイデアから始めた。」と、その過程を説明しながら、アートのひどくやせた姿は生き生きとしてくる。「どんどんテンポの早くなる曲とか、どの要素も調和しない曲が創りたい。抽象的で動的な写真のようをものだ。僕達は、リハーサルで偶然見つけて気に入った、孤立している実例を発展させるんだ。それをただ、繰り返し、繰り返し、繰り返し演奏すると、いくぶん縮まる。そして、ティムがべースで、すばらしい音楽的な進行を提案して、そこから、始める。今では、14曲程あるよ。」

「僕のギターの弾き方は、新しいものじゃないことは、わかっている。ヨーロッパでは、以前から、集団で符面を書いているし、ある前衛は、すでにこの領域で成功しているよ。僕は、普通のコードにあるより、もっと多くの音を弾いている。でも確かに、その多くはノイズだけど。」

リンゼイ−クラッチフィルド−イクエのD・N・Aは、かってのヴォイドイズのギタリスト、ボブ・クインのプロデュースで、チャ一ルズ・バルのLUST/UNLUSTレコードに、シングルを一枚録音している。それは、イーノがプロデュースした「ノー・ニューヨーク」よりも、多くの点で現在のグループの音に近い。耳ざわりで、発展性があり、ギーギ一いうが、同時に催眠的でもある「リトル・アンツ」b/w「ユー・アンド・ユー」は、すぱらしいドキュメントである。グループが「ノー・ニューヨ一ク」のために、4曲を録音し終わった時には、D・N・Aはすでに、クラッチフィルドとリンゼイの違ったアイデアのため、分裂していた。

「ロビンは、もっとポップで、どんな小さな点においても組織的なものがやりたかったのさ。僕は耳には明らかに組織的だが、算数のようじゃないようなアイデアに興味がある。」

ティム・ライトが加わったかわりに、D・N・Aは、クラッチフィルドのエレクトリックでアーティフィシャルなポップ性を失わない。そして再び外観だけの大荒れに身を落とした。「ノー・ニューヨーク」の中の「ライオネル」のシンプルだが非常に魅力のあるリフを失ない、代わりに、脳みそから腹わたへ突き抜ける、沸き立つ大釜のような揺るがすポリリズムを手にした。

本当に強力な音楽の条件といえば、あまり、個人の心理の具体的事象には関係しないことだ。」とティム・ライト先生は講義する。

「知的に構えさせるとか、説明できるようにではなくて、腹わたのレベルで感じることができるようにするんだ。もし聴衆が俺達を見て、今までに見たバンドと比較したら、笑うかもしれない。さもなければ、<そったれと思うだろう。でも、俺達が何をやっているにせよ、方法を知っていることは、認めなきゃあならんだろう。」

「僕らは奇妙だと思わないか。」と、まゆ毛を弓形にしながらア一トは聞く。

「俺達のやってることはとても複雑なんだぜ、理解させるには本当に努力がいるよ。」とライトが続ける。「でも誰かに認めさそうなんて気は無い。もし、おもしろくなかったら、こんなことはやってないだろうよ。」

アートは話をもとの筋道に戻す。「僕らの書く曲はとても演奏するのが難しいんだ。それで、肉体的な努カがいるわけさ。」

「1セットやるたびに、体重が減るぜ。」とライトはこぼす。「興奮を最高潮に持っていくためなら、肉体的に必要なごとは何でもやるさ。曲が最後の部分になったら、もう一回激しく熱狂さそうと、挑戦するんだ。」

「みんなは、即興演奏だと思ってるんで、3人がピッタリ止めると驚くんだ。」と、無表情なアート。

最近D・N・Aは、一部ラフ・トレードから資金の供給を得て、アルバムのために曲を録音るため、ニューヨークのヴァンガード・スタジオに入った。これまでにバンドは6曲録音している。「ニュー・ファ一スト」「ブロンド・レッド・ヘッド」「5:30」「32123」「ニュー・ニュー」と「ライング・オン・ザ・ソファー・オブ・ライフ・である。「ノーニューヨーク」では、イーノがD・N・Aのサウンドを、一般に受け入れられ易いように簡潔にしたが、新しい作品では、増幅された荒々しいふちや、ブーブーいう歪みがすべて残されていて、D・N・Aのライヴ・パフオ一マンスに近いものとなっている。私が聞いた未完成.のテープでは、D・N・Aの生のパワーと全くのホワイト・ノイズの微妙な違いを、どうにかして実現しようとしている。明らかに、どんな不足も、曲が録音される時偶然に起こり、突発的に資金が役に立つようになる。

「俺達は一文なしだったのさ。」とティムは打ち明ける。「ラフ・トレードは、D・N・Aのレコーディングにそれほど興昧があったのじゃない。奴らは、再発しようとしているペル・ウブの・「ファイナル・ソリューション」の権利を確実なものにしたかったのさ。その曲は、俺とピーター・ラフナーが共同で書いたんだ。ラフ・トレードのジェフ・トラヴィスは、テープを待ちうけているとは決して言わなかった。−−ほんの一週聞前に、レコード屋へ歩いていって、そのことがわかったよ。トラヴィスが金をくれたのは、ただペル・ウブを抜けたメンバーに注意を払うためだったのさ。それ以来、奴とは会ってもいないし噂も聞いてない。」

「ペル・ウプは『ファイナル・ソリューション』を、もう演奏することすらできないだろうよ。ピーターと俺が抜けたからな。デビッド・卜一マスは、今までに一曲だって書いてないんだ。俺が、自分の音楽を追い求めていけば、すごくエキサイティングなものができるさ。」

時がたつにつれ、D・N・Aは、一団となり、ライヴ・サウンドにみがきをかけ続けて、その存在が正当であることを証明している。アートとティムとイクエが、D・N・Aとして長く演奏するにつれ、サウンドは親しみやすいものにをっていく。しばらくすると、D・N・Aの曲の異国性は、サウンドの根底をなしている原始性の魅力となっていく。

「僕らはお互いに、違うりズムを弾いて、それが、一つになって、大きなリズムを形作るんだ。」とアートは説明する。「僕のギターを聞けば一つのリズムがあり、ティムのべ一ス、イクエのドラムを聞けば、それぞれのりズムがあるんだ。アフリカのダンス音楽みたいさ。コンピネーションが無限にあるのさ。」

「ノイズのためのノイズとは違う。」と、べ一スのティムが、ソフトな口調で言う。

「バンドの方向性については、個人的にも音楽的にも、盛んに議論や衝突があったよ。」とりンゼイはつけ加える。

D・N・Aは、自分達でやりたいだけ、クラプで演奏させてもらえるのだろうか。

「依然として、それについては問題がある。」とティムは言う。「クラブの支配人は、僕達が客に衝撃を与えて、客が帰ってしまうことを恐れている。」

「そうさ、奴らは、僕らを金にならないノー・ウェーヴのアート・バンドだって思ってる。」とアートは賛成する。「ずっと、そういった種類のバンドにされてきたけど、ツアーをしたり、ニューヨーク以外の新聞にも載ることで、抜け出そうとしているんだ。」

「D・N・Aが存在しながら、一方でレコード会社がはじめてメジャーの崩壊を経験しているのは、ちょっとした大変動だな。」とライトは嘆く。「15年前には、新しいものを捜すのはずっと簡単だったのに。」

「わからないな。知的な考慮を別にして、僕らの音楽は、精力的でうるさく、ワイルドで強力だし、社会とは、接触ができないでドラッグを勧める……そういったロックン・ロールのすべてがある。」

でも今日では、ほとんどの人が眠けを催すような音楽を求めていませんか。親しみ易く心地良いものを求めるだけじゃないですか。ロック・フアンでさえ、驚くほど保守的になってしまった。

「そのとおりだ。」とアートが言う。「ほとんどの人はD・N・Aを、ニューヨークの恐怖と暴力を、暑苦しさと雑音と汚物を反映していると思うだけだ。でもそれは一面であって、すべてではない。」

「僕は都布のせいでフリーク・アウトしてるのではない。」とライトは断言する。「全くの都会的な環境で、できるだけエネルギーをD・N・Aに注いでいる。それは、山やジャングルに住んでいる人が作る、原始的な民族音楽と同様、ワイルドでも暴力的でもない。そういった曲はニューヨークに居るからできるのではない。体の奥底から生まれるので、環境から生まれるのではない。」

D・N・Aの曲には、理解できる詞がないから、多くの聴衆とコミュニケートできないのではないですか。

「僕はたいてい英語で話している。」とアートは主張する。「理解してもらうときは、わかり易いようにしている。実際、今話しているように……まあ半分半分にしようとしているんだ。言葉を使わなくても、声だけでコミユニケートできる。シンガーは、感情移入を犠牲にして、言葉だけにすべてを託すべきじゃない。ナイトクラプで歌手が曲の山場になると、急に感情を入れようとするみたいだ。ひどいインチキだ、わかるだろう。」

「イクエは日本人だ。新しい国へ来て、言葉を勉強しなくてはいけない。アートは2ヶ国語を話す。(ポルトガル語と英語)それで回りの人間が、自分とは違う言業を話すというのが、どんなものか知っている。僕はずっとユカタンに居る。そこには白人はいなくて、インデアンだけが住んでいる。」とティムがつけ加える。

「D・N・Aは言葉自体の限界にいる。言葉は、人類の歴史において、比較的に発展が遅れている。強烈な声明を行なうには言葉がなくても良い。」

 

この討論をした時、D・N・Aはタキシード・ムーンをサポートに、初めてのウエスト・コーストヘのツァーに出る予定だった。ハリウッドの恐怖映画「デッド・キッズ」のサウンドトラックを録音する可能性もあった。そしてもちろん、バンドは自分達のアルバムを完成させて、リリ一スすることを望んでいる。

D・N・Aは、たとえ多くのフアンが得られずとも、音楽とノイズの、カオスとビートの、ユーモアと苦しみの、傲慢と傷つきやすさのそれぞれの共有領域のせとぎわに留まるだろう。……そして、とても心暖まるヒュ一マン・ロックン・ロール・バンドは、限りない社会との相互作用の中で、生きつづけるだろう。この多国籍なトリオが80年代後半のいつか、巨大なスピーカを鳴り響かせて、2万人の観衆をわかせるまで、待つことができるのか。私はそれまで待てない。

 

訳 福田 久さん
NewYorkRock1980

 

(hataeno)

 

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