pro.jpg (12112 バイト)        Producer 研究           細野晴臣

 

 プロデューサーと一言でいいつくしてしまうと、こんなわけのわからない職業はない。つまり、いろいろなタイプのプロデューサーがいるわけで、日本のディレクターもそのうちのひとつのタイプだ。定義もひとつには決められない。お金の管理かといえば、それだけで音楽ができるわけではない。結局、売れるレコードを作ることに責任を負うのがプロデューサーである。といってしまうとそこで話は終わってしまうし、この様に表現するよりは、価値のあるレコードを作るチームのチーフであるというべきだ。そのようなレコードは売れる見込みにある商品なるからだ。

 ベストセラーのレコードは価値がある、それは売れるということに対する評価である。売れたという結果にたいしての価値づけであって、多くの価値の中の一つ(最重要視されているだろうが)である。つまり、僕は売れたレコードのプロデューサーを即認めるわけには行かない。認めるには、そのプロデューサーが今後売り続けることができるかどうかにかかっている。常に新鮮な驚きとアイディアを保ち続けることがプロデューサーの面目なのだ。ということは、商売的なカンの鋭さというものはそのプロデューサーを有名にはするだろうが、それだけでは音楽の持つエネルギーを扱うには少々物足りない。

 音楽にたずさわる根本は何かというと、お金や名声ではなく、音楽に対する熱意と執着である。その点でプロデューサーはアーティストと肩を並べなくてはならない。これを保ち続ける人こそ、だれでもプロデューサーになるべきだ。だからプロデューサーというポストにはミュージシャン、アレンジャー、プロモーター等々、音楽にかかわるおよそあらゆる人が出そろっているのだ。

 最近のプロデューサーでは、イーノの活躍が特に目立っている。ニュー・ウェーヴのレコードからアヴァンギャルドまで、その範囲は広い。とてもユニークなアーティストである。彼はミュージシャンというよりも、アーティストである。音に対するコンセプトを持っている。つまりアイディアがあるのだ。だからイーノの智恵を借りたいが為に、彼にプロデュースを依頼するわけだ。しかし、時としてプロデューサーがアーティスティックであればあるほど、アーティストとぶつかる可能性が大きくなる。そこには必然的に相性の問題がある。

 最近ディーヴォの2枚目『生存学未来編』が発売されたが、前のレコードのプロデューサーであったイーノとの関係がうまく行かなくなり、こんどはD・ボウイーのプロデューサー。ケン・スコットにかわっている。ディーヴォにいわせると、「サティスファクション」は彼らがスティッフ・レコードで録音したオリジナルの方が、イーノのプロデュースした物より良いと言いきっている。聞き比べると、あまり大きいチェンジはないが、音のインパクトがオリジナルの方に多少強みがあり、ディーヴォの言うことも納得できる。

 しかしディーヴォというグループのイメージと、そのレコードの全体の持つインパクトはイーノのプロデュースによって大きな成果が上がっている。それはディーヴォのマイナー性をイーノの計算されたメジャー指向がカヴァーしたからに他ならない。そこには売ろうとするレコード会社の計算もあったにちがいない。いずれにせよ、ニュー・ウェーブ系のグループをイーノがプロデュースし、大当たりするというパターンが出来上がっていたから、イーノのプロデューサーとしての価値は定評ができつつあり、ディーヴォがイーノをおろしたという事実はそれを傷つけるものではない。

 それは、アーティスト同士の、アーティスティックなぶつかり合いと見なされる可能性の方が大きく、その裏に商売上のかけひきがあるかどうかはレコードの盤面上にはあらわれる事ではないので(音楽には)さほど関係がない。ただし、イーノのプロデュースしていない今回のアルバムは、確実に変化していることは明確にあらわれてしまう。手法的には、シンセサイザーを以前より多用して派手になっているが、アイディアがないのが決定的だ。1枚目より価値が薄れている。

 このレコードは、ディーヴォの名声によって売れるかもしれないが、1枚目より面白くない。とすると、そこでイーノの価値が評価されるわけである。ここでやっとプロデューサーの価値がおもてにあらわれてくるのだ。イーノの場合のような「定評」こそ、プロデューサーがかちとるべきものである。プロデューサーは、ある程度の定評を得るまでが大変なのだ。それはこの仕事の土台である。やり続けることこそ、この仕事のテーマであり、それを助けるのは定評である。その土台をもとに、レコード・セールスを上げるということがプロデューサーの栄光である。

 この様にアーティスティックなプロデューサーは相性を必要とし、例えばイーノがカーペンターズをプロデュースするということは考えられない。そのアーティスティックな面が強ければ強いほど、その活動範囲は限定される。だから、職業プロデューサーの場合、彼の音楽的バック・グラウンドは広ければ広いほど役に立つ。こう考えてみると、イーノの場合はプロデューサーの側面を持ったアーティストであり、職業プロデューサーとは言えない。イーノという名を聞いて即、プロデューサーを思い浮かべることはできないはずだ。

 ところがクリス・トーマスといえばプロデューサー以外の何ものもイメージすることはない。クリス・トーマスのプロデューサーとしての武器は、彼のエンジニアとしてのキャリアである。物理的な音に対するコンセプトを基礎に彼のカラーを出していて、イーノのデザイン的な音の処理とは異なり、音質の色彩にポイントがおかれている。これはアレンジャーやコンポーザーの仕事ではなく、プロデューサーとエンジニアの仕事である。ひとつのグループなりアーティストがプロデューサーを代えると、まるで違った印象を持つことがあるが、これは音の組み立て方によるもので、プロデューサーの好み、あるいはコンセプトによって変化するのだ。

 

 音の基準というものは存在せず、とてもあいまいなもので、それを決定していくのは最終的には聴覚である。音は視床下部を通って直接大脳で感知され、思考の過程を通らない。それだけ音はダイレクトに感情に結びついている。それをコントロールすることが、レコードを作る上でどれだけ重要なことかは、プロデューサーが最も痛感するところだろう。音の質によってカラーを出していくという方向は、特に最近その傾向が強くなり、主にディスコのレコードはその音質の独特のカラーを求められる。

 フィル・スペクター、クリス・トーマスなどのプロデューサーは、サウンド偏重タイプであると思う。彼らの腕は、音のクォリティーや音場のコントロールという天でピカ一であり、プロデューサーのひとつの伝統を築き上げている。現在は音のクォリティーは技術のサイドから保証されていて、特にディスコにおけるもとも重要な作業は、ディスコ専門のテクニックを持つエンジニアが起用されるくらいである。であるからして、プロデューサーは特に音場のコントロールにその全神経を集中する事ができるわけで、ビー・ジーズのレコードを注意深く聞くとその完璧なまでの仕事ぶりを知ることができる。

 音に基準がないということは、プロデューサーのひとりひとりが違う独自のスタイルを持つということと同じで、プロデューサーの基準というものがないのだ。有能なプロデューサーが10人いたら、10種の違う色彩を持つレコードができなくてはならない。そのレコードを創るプロセスはやはりそのプロデューサー独自のものがある。

 

ロッキンf 1979.7


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