Peter Schmidt


 

ピーター・シュミットの作品は、決して売る事を意識したものではなかった。
それらの作品には、スタイルと通常呼ばれるような表画上の一貫性が少しもない。時には革新であり、また時には再評価といったあらゆるスタイルの方向を実践している。忘れられ、捨て去ったものに新しい生命を吹き込みながら。
彼の作品が、確かなものはありえ得ず、成されないという除外や否定から作られなくなって以来、その作品には未来への恐れも過去への怖れも表われなくなった。
彼は自分の絵を自己知識のシステムとして、また世界を見出す為に用いている。彼の知性を利用して成される実験を克服している。彼の作品のぎりぎりの線で制限される知性を用いて。知性が、やがては放棄されるべきだと言っているつもりではない。知性はデザインする時などには、まだまだ重要な機能を持っているのだから。
このような物を創ってゆく人間に最も大切なのは、彼等が決して、本来の結果、を生まないことだ。


この2年間というものピーターは、彼の仕事を主に水彩画に限って画いてきた。“日曜画家の絵”と“真剣な絵画”とのきわどい分かれ目にあるよIうな興味のある素材だ。水彩というものは、特別な情感の範囲を表わさず、無心な諒解されたやり方を、それ自身がもっているのだ。
私がこれらのリトグラフを(Before and After Scienceに)一諸に入れようと思ったのは、他のどれよりその作品を私が好きだった事、そして私自身の作品(アルバム)に似つかわしく思えたからだ。私は、既に確立された(値段の高い)ものにさまたげられていたヴィジュアルな作品の市場を作り出す可能性を証明する時に関心を持っていた。
レコードの市場というものは、絵の世界と違って、かなり広い確立されていない発売システムを持っている。
一般の人々は(“芸術愛好家”と同じように)レコードショップに入ってゆく。
レコーディング・アーティストが持つ自由を画家達は享受していない。
原画はバイヤーによって値がつり上げられ、彼等はそれに比べて少な過ぎる値を原画に支払い、複製画をアート・マーケットから他のバイヤーが買うという仕末だ。
私は将来、ヴィジュアル・ワークが、今レコードが売られていると同じ方法で売られる事を望んでいる。
より大きなマーケットに標準的なコストで。

Brian Eno

 


 

質問
何故、イーノの音楽は興味深いのか?
何故、“ビフォ一・アンド・アフター・サイエンス”に於いてもそうなのか?

考えられ得る解答
それが予想もしなかったコンビネィションで結びつけられているからだ。
そこでは奇妙さと奇妙さの混合が、全く奇妙なのだ。明白さの混合。
明白なものと奇妙さが密かに通じ合っているのだろう。明白さと美と奇妙さの混合物は、美しいものであるはずだ。彼は明白さを開発し、その末尾に旧式なものを付け加える事を恐れない。
彼は自らの活動に常に答え続けている。知性と感情の両方によって。
彼は予想を出来ない範疇こ自らをファイルする。彼は何を当為とするか、吟味してから立ち止まる。彼はレーベルにがんじがらめにされることを拒絶する。
彼は、自分の技量の使い途を考えている。彼は必要だとなると、その技術を習得する。また、それに窒息しそうになると、技術を捨てる。彼は同様に可能なものを放りながら、自分の行った事を元に戻してゆく。
彼は俗物ではないが、音楽を作る方法をみつけようとしている。
彼はどんなクラブにも属さない。彼は今までにした事がないものを、している。
彼は重要でないものは何一つないと思い、ちっぽけな小石すら裏返して見る。
彼は自分の作る音楽のエンジニアであると同時に、奴隷でもあるかのように振るまう。彼はどんな要素−−生真面目さまで引っ張り出して、自らをオーケストラとして使う。

彼は限界を突き抜ける。
官能的なテクノロジー、数学的な叙情、正確なもうろう、機械的な不規則さ、気分的な計算、驚くべき期待、異国風の合理。
どうあるべきかという、うんざりする程の繰返しの後に、最も多次元の形態である歌に、このレコードは戻った。

基調となるメロディは、たゆとう煙の上を被い、メロディは調査に基づいている。辞書にある韻、最小の音声の変化を最大の意義の変化にしてしまう。
精巧な技術的剪定をされた曲は、注意深く組み立てられ、何気なく放って置かれる。落胆、捨て鉢、再考、再編集などが。
自分で課した質間に対する考えられ得る解答、
−−−“どんなレコードを私は本当に聞いていたいのだろうか”

Peter Schmidt