OBSCURE  LABEL

Brian Eno 1    - Portsmouth Sinfonia



 

OBSCURE bP GAVIN BRYARS  THE SINKING OF THE TITANIC  

Side
THE SINKING OF THE TITANICthe sinking of.jpg (11556 バイト)
 ジョン・アダムス指揮の、サンフランシスコ公立音楽学校ニューミュージック・アンサンブルのストリングスをテープ録音にて追加。これは、カーディフ大学物理学部のスタジオで、キース・ウィンターとグラハム・ネイラーの技術的な援助を得て、録音された。
■ギャヴィン・ブライアース:ピァノ■アンジェラ・ブライアース:ミュージック・ボックス■エヴァ・ハート嬢:話し声


Side

JESUSBLOOD NEVER FAILED ME YET
■ザ・コックピット・アンサンブル:ハワード・リーズハワード・ディッドソン指揮■デレク・ベィリィ(ギター)、■マイケル・二ーマソ:オルガン■ジョン・ナッシュ:ヴァイオリン■ジョン・ホワイト:テユーバ■サンドラ・ヒル:ダブル・べース、以上のメンバーから成るオーケストラ。ギャヴィン・ブライアーズ指揮。
■プロデュース:ブライアン・イーノ    1975


 

“THE SINKING OF THE TITANIC”

 1912年4月14日午後11時、北大西洋上にてタイタニック号は氷山に衝突、15日午前11時20分、沈没した。この作品の出発点となったのは、船が沈みつつある間、バンドが讃美歌を演奏しつづけたという報道と、彼等が演奏をやめたという報告の無いことである。
 下級通信士のハロルド・ブライドが、1912年4月19日のニューヨーク・タイムズに記事を書いている。「船尾から音が聴こえてきた。何という曲かは解からない。フィリップスが船尾へと走り、それが彼の生きた姿を見た最後だった……船は、アヒルが水に潜ろうとするときのように鼻先をめぐらしつつあった。私は、ひとつの事しか頭になかった−−−沈没からのがれること。バンドはまだ演奏していた。バンドの連中は沈んでしまったと思っていた。そのときの曲は“Autumn”だった。」
 監督派の讃美歌である“Autumn”が、この音楽の基本的な要素となった。

 

“JESUSBLOOD NEVER FAILED ME YET”

  この作品は、あらかじめ録音された、年とった浮浪者の声に、室内オーケストラを加えてある。
  1970年に、友人のアラン・パウアーはロンドンの浮浪者についてのフィルムを創っていた。主としてユーストン、ウォータルーエレファントアンドカッスルの付近で。彼は撮影の間に多くのテープを録音し。そのうちのいくつかをフィルムとシンクロナイズし、他の、そうしなかったものをミキシングするのを手伝ってくれと言って、私のところへ持ってきた。その中のひとつが、“JESUS’BLOOD NEVER FAILED ME YET”である。その一部を一本のテープに移し、テープの長さだけ続<ようになっている。私はシンプルなピアノの伴奏を付け、小さなアンサンブルのためにアレンジした。1971年9月、16oフィルムのサウンド・トラックとして録音。1974年に、最終的なスコアーが書かれた。

 

GAVIN BRYARS

 ギャヴィン・ブライアーズは、1943年1月16日、ヨークシャーのグールで生まれた。1961〜4年、シエファード大学で哲学を学び、ジョージ・リンステッドと共に、個人的に作曲法を学んだ。彼は、1964年から66年まで、プロのべーシストとして働き、ジョン・ダフィ(ホール・オーケストラ)ジェフリィ・ボックス(BBCノーザン・シンフォニイ・オーケストラ)と共に、スタジオを持っていた。また、その頃彼は、グレースボロフ・ウォーキングマンズ・クラブで、ジョニイ・レイ、キャシイ・力-ビイ、デヴィッド・ウィットフィールド、ディッキー・ヴァレンタイン等と共に、伴奏者として働いていた。手品師やコメディアンやヨーデル唱者や読心術師や木ぐつ踏りの芸人と同じように。彼は、デレク・ベイリイ、トニイ・オクスリイ、リ・コニッツと共に、ジャズ・ミュージシャンとしての仕事をしていたが、1966年、即興演奏に興味を失い、ジャズの分野での活動を全く止めてしまった。1968年、彼は、アメリカ、イリノイ大学で、ダンサーのパウエル・シュファードと、作曲家のファルカーソン、ケイジ、ヒラーランズ、マルティラノ、ブルーン、クオモ、ジョンストン、といった人たちと共に仕事をした。イギリスにもどって、彼は、ボーツマス・シンフォニアの共同創立者であったので、ポーツマス工芸学校(ポリテクニック)の美術学部で教えた。1970年から、彼は、レスター工芸学校で、美術の講座を持った。1971年、クリストファー・ホブスと共にエリック・サティェの“Vexations”を演奏。彼は、実験的な音楽家と作品のための出版物、“Experimental Music Catalogue”の共同編集者である。機会がある度に、ジョン・ホワイトやクリストファー・ホブスと共に仕事をしている。

 

 

OBSCURE bQ       CHRISTOPHER HOBBS / JOHN ADAMS / GAVIN BRYARS 
ENSEMBLE PIECES

 

Side 
Chrtstopher
 Hobbs “ARANensemble.jpg (2982 バイト)
■クリストファー・ホブス:トライアングル、カウベル、トイ・ピアノ、チューブラ・ベル■ジョン・ホワイト:リード・オルガン、トイ・ピアノ、トライアングル、ドラムス■ギャビン・ブライアーズ:リード・オルガン、トライアングル、ウッドブロック、シンバル
John Adams “AMERICAN STANDARD
(T) JOHN PHILIP SOUSA
(U) CHRISTIAN ZEAL AND ACTIVITY
(V) SENTIMENTAL
1973年3月23日、ミュージアム・オブ・ア-トでの、サンフランシスコ公立音楽学校のニューミュージック・アンサンブルによる生演奏■レコーディング・エンジニア(USA:アルデン・ジエンクス)

Side
Christopher Hobbs “McCRIMMON WILL NEVER RETURN ”
■ギャヴィン・ブライヤース、クリストファー・ホブス:リード・オルガン

Gavin Bryars “1,2,1−2−3−4”
■ギャヴィン・ブライアース:ダブル・べース■クリストファー・ホブス:ピアノ■コーネリアス・カルデュー:セロ■デレク・ベイリィ:ギター■マイク・ニコルス:ドラムス■セリア・ゴリン、ブライアン・イーノ:ヴォーカル■アンディ・マッケイ:オーボエ■ステュアート・ディークス:ヴァイオリン■ポウル・二ーマン:トロンボーン
■エンジニア:フィル・オールト■プロデュース:ブライアン・イーノ 1975


“ARAN”

 “ARAN”は、このグループが、オルガン、トイ・ピアノ、自分たちのオリジナル楽器の音と、新し<手に入れた楽器の音とを結合させ始めたときに生まれた。この曲のノート進行は、最終的な効果として、予想のつかないような事が創り出される事を希って、ランダムな手法で決められている。全てが、きしるように反響することが望まれている。

]
AMERICAN STADARD

 この作品の楽器編成は明らかにされていないが、理想的なグループも、このヴァージョンを演奏したものと同じようなものになるだろう。1971年5月、初演の際に録音された。
 この曲は、3つのパートに分かれていて、各々は独立して演奏でき、別々のタイトルがついている。
 (T)JOHN PHILIP SOUSA
 しっかりした、強烈なパルスを使用し、タイトルの由来をはっきりとさせる。
 きびきびしたスネァ・ドラムがトーンを決め、他では見られないようなドラマティックなタッチを与えている。これはスコアーには無い。
 (U) CHRISTIAN ZEAL AND ACTIVITY
 この曲の主要部は、4つのパートに分かれ、調和のとれた、長くひっぱられる一連の音によって組み立てられている。この4つのパートは、ときおりシンクロナイズして。一体となったコードを創る。楽器は、各々の音の高さの範囲に従って、4つのグループに分けられ、各々のグループにはある音から次の音へ移るきっかけを与えるリーダーが居る。
 (V) SENTIMENTAL
 これは3つのうち最もメロディアスな作品であり、デューク・エリントン「ソフィスティケイテッド・レイディ」を引用し、ヴァリエイションに富んでいる。
 打楽器の、やさしいスウィングは、(またしても)スコアーには無いものだが、これが音全体にカリフォルニア風の感じを与え、ビーチボーイズやハリウッドスタジオのバンドのような感じが出ている。奇妙なエンディングは、この音楽を産み出したエリントンの作品の感傷的な色あいの、アイロニックな証しである。


“McCRIMMON WILL NEVER RETURN ”

 これは、スコットランド風笛曲への一時の興味から生まれた。メロディは、い<つかのヴァリエイションを持ち、それらは同時に、4つのリード・オルガンで演奏される。テンポは、特色のある風笛の音や装飾音が、単一の音に聴こえる程、ゆっくりである。


“1,2,1−2−3−4”

 この作品は、各々カセット・マシンにつながれたヘッドフォンをつけている演奏者とヴォーカリストのためのものである。各々の演奏者は、自分のヘッドフォンからの音しか聴くことができず、それを聴きながら、それに合わせて自分のパートを演奏する、この、再演奏のできぐあいは、その人が、どのくらいこの曲に慣れ親しんでいるか、という事によって左右されるが、今回の録音の場合は、以前に演奏した事がある人から、スタジオで初めて聴かされた人までが参加している。
 演奏者は、とりかかる前に数回の弾きだめしをしてもよいし、いきなり演奏してもよい、キャバレーの伴奏者が、ステージでいきなり「次はハツピースター・アンド・ペイパーレインボー、Dフラットで。ワン・ツー、ワンツースリー・フォー」と言われたときのように。
 この演奏においては、全ての演奏者が同じ曲の入ったカセットを使うが、各々のテープは別々に録音されているので、彼等の演奏はさまざまな変形をおこす。テープに入っている音楽の始まる時点も同じではない。カセット・マシンの質や、バッテリーの状態などが同じではないので、どれもが同じスピードで回るとはかぎらない。そして、このことが、この作品の長さやキーを決めることになる。

 

Christopher Hobbs

 クリストファー・ホブスは、1950年9月9日、ミドルセクスの、アクスブリッジで生まれた。トリニティ音楽大学で、将学生として、ピアノとバスーンを3年間学んだ後、王立音楽院(ロイヤル・アカデミー)へ移った。ここでの彼の個別教師は、コーネリアス・カルデュー(作曲)と、パトリシア・ブラディ(パーカッション)だった。

 1968年“Expertmevtal Music Catalogue”を出版、AMMに入り、3年程の間、即興的なプレイをするバンドと行動を共にした。初期のスクラッチ・オーケストラにも関係し、カルデュー、ギャヴィン・ブライヤーズ、ジョン・ティルブリイ、クリスチャン・ウォルフ等と、イギリスやヨー□ツパでコンサートをやった。1971年から、彼は、様々なウェストエンドミュージカルでプレイし、パーカッション(のちにはピアノ)デュオとして、ジョン・ホワイトと共に多くのコンサートをしてきている。

John Adams

 1949年2月15日、アメリカ生まれ。ニューハンプシャー、イースト・コンコード出身。サンフランシスコ公立音楽学校で作曲を教え、ニュー・ミュージック・アンサンブルを指揮している。

 

 

OBSCURE bR BRIAN ENO “DISCREET MUSIC

 

Side 1discreet.jpg (10165 バイト)
DISCREET MUSIC
■ブライアン・イーノのスタジオにて録音(
1975・5・9

Side 2
THREE BARIATIONS ON THE CANON IN D MAJOR BY JOHANN PACHELBEL
T FULLNESS OF WIND
U FRENCH CATALOGUES
V BRUTAL ARDOUR
■演奏 ザ・コックピット・アンサンブル■指揮 ギャヴィン・ブライアーズ(編曲も)
■1975・9・12、トライデント・スタジオにて録音■エンジニア ピー.ター・ケルセイ■プロデュース ブライアン・イーノ

 


 

DISCREET MUSIC

 私はいつも、いったん動きだしたら、ほんの少し干渉するだけで、あるいは全く手を出さずに、音楽を創りだすことのできる状況やシステムに引きつけられていた。言わば私は、プランナーやプログラマーの役割に、そしてその後で、その結果を聴<聴き手になることに引きつけられていたのだった。
 この興味を満足させる二つの方法が、このアルバムに例示されている。“DISCREET MUSIC”は、この問題への、技術的なアプローチである。もしこの作品に、スコアーとでも言うべきものがあるとすれば、それは、私がこの作品の製作に使用した特別な装置の操作表(オペレーショナル・ダイヤグラム)になるはずだ。この構成の中心となるのは、1964年にテープレコーダーによる音楽的な可能性に気づきはじめてから実験してきた、ディレイ・エコー・マシンである。この装置を組み立てることによって、私の参加の程度は、次のように制限された。(a)インプットを与える。(b)おりにふれて、シンセサイザーのアウトプットによる音色を、グラフィック・イーキュライザーで、変化させる。
 この受動的な状態をうけ入れ、ちょっと手を出したり干渉したりする事で芸術家を気どる傾向を排することができるかどうかは、訓練の問題だ。このアルバムの場含、私は、自分の創っているものは、友人のロバート・フリップが我々の計画したコンサートでプレイするための背景にすぎないのだ、という考え方にたすけられた。その将来の実用性、という考えは、「段階的な進歩」への喜びとあいまって、この作品の中で、人を驚かすようなものを創り出したり、予想のつく変化を創り出したりしようとすることから、私を遠ざけてくれた。
 私は、聴くこともでき、無視することもできる作品を創ろうとしていた…おそらくは「夕食のときの、ナイフやフォークの音と混る」ことのできる音楽を創りたいと思っていた。サティの精神で。
 
 今年の1月に、事故に会った。ひどくケガをしたのではなかったが、ほとんど身うごきできずにベッドに閉じ込められた。友人のジュディ・ナイロンが、18世紀のハープ曲のレコードを持って訪ねてくれた。彼女が帰ってから、かなり苦労して、私はレコードをかけた。横になってから、アンプが非常に低いレヴェルにセットしてあり、ステレオの一方のチャンネルが全然入っていない事に気がついたが、起きあがってちゃんとする元気が無かったので、レコードは、ほとんど聴こえない程の音でかかりはじめた。
 このことが私に、音楽の聴き方の新しい方法を示してくれた光の色や雨の音が環境の一部であるように、音楽も、囲りの環境の一部として聴くこと。
 私が、この作品を比較的小さな音で、しばしば聴き取れる限度を越えてしまうくらいの小さな音で聴くことを推めるのは、そういう理由からだ。
 自己調整や自己成生のシステムヘの興味を満足させるもうひとつの方法は、の3つのヴァリェイションに例証ざれている。これらのタイトルは、“Erota”(Jean Francois Paillard Orchestra)のフランス語のカヴァー・ノートのすてきにぞんざいな翻訳からとっている。ペラールは、この作品を、表記されたテンポの半分くらいのところでプレイしており、私はその明らかな賢明さに敬意を表して、テンポをもっとゆっ<りにした。
 この場含、「システム」というのは、一連の指示を与えられた演奏者のグループのようなもので、「インプット」というのは、Pachelbelの断片のことを指す。各々のヴァリエイションは、出発点としてスコアーの一部(2〜4小節)を使い、オリジナルのスコアーには示されていない方法で、各々の演奏者のパートを入れ替えている。


FULLNESS OF WIND

FULLNESS OF WIND”では、各々の演奏者のテンポはゆっくりになっていき、その度合は、その人の楽器の音の高さによって決められている。(例:べ-ス=ゆっくり)
 

FRENCH CATALOGUES”“BRUTAL ARDOUR

FRENCH CATALOGUES”“BRUTAL ARDOUR”では、各々の演奏者は、他の演奏者のそれに関係している音を持っているが、各々の音の長さがみんな違うので、もとの“関係”は、すぐにこわれてしまう。
 これらの作品のレコーディングとミキシングの際、私は、ペラールの、みずみずし<豊かなストリングスの特質を、できるだけ見習おうとした。

 

Brian Eno

 1948年5月5日、サフォークのウッドじブリッジに生まれた。1964~69年、イプスウィッチ・アンド・ウィンチェスター・アートスクールで、トム・フィリツプス、ロイ・アスコット、クリスチャン・ウォル・フ、アンソニイ・ベンジャミン、ノエル・フォースター、ジョージ・ブレ・シュットらと共に学んだ。1968年、ラモント・ヤングの、“X for Henry Flynt”の90分の演奏をプロモートした。1971年から2年半の間、ロクシィ・ミュージックの創立メムバーだった。そして、そのときから、ロバート・フリップ、ジョン・ケール、ケヴィン・アイアース、ニコ、ロバート・ワイアット、ロバート・カルヴァート、フィル・マンザネラ等と、仕事をしてきている。今までに、3枚のソロ・アルバムと、ロバート・フリップとの共作アルバムを2枚。ピーター・シュミットと共に、“オブリック・ストラティジィズ”を発行。オブスキュア・レコードを創立、プロデュースした。

 

 

OBSCURE bS     DAVID TOOP and MAX EASTLEY
NEW AND REDISCOVERED MUSICAL INSTRUMENTS

 

Side 1new and red.jpg (2498 バイト)
Max Eastley
HYDROPHONE
METALLOPHONE
THE CENTRIPHONE
ELASTIC AEROPHONECENTRIPHONE
■全て、マックス・イーストレイの作品による。

Side
 2
David Toop
DO THE BATHOSPHERE
THE DIVINATION OF THE BOWHEAD WHALE
THE CHAIRS STORY
■全て、デヴィッド・トゥーブの作曲による。■1975年4月12日、24日、ロンドン、ベイシング・セント・スタジオにて録音■エンジニア:リット・ディヴィース■プロデュース ブライアン・イーノ 1975

 


 
 視覚的な芸術にたずさわる人が、音を使おうとすると、様々な問題が、あり余る程出てくる。たとえば、音の速度は比較的遅いので少し遠くにいると、音と、その音を発するものとは切り離されてしまう。また、材質の問題もある。音楽的にはつまらないものでも、視覚的には魅カ的なものがある。反対に、作曲家が彫刻的な事を企てたとしても、自分の選んだ題材が、つまらないばかりか、自分の考えの実現をさまたげる、ということになるかも知れない。
 私が関係している仕事は、これらの問題を解決しようとする試みである。それは、動カ学と音楽と楽器の研究の合成。このうちの、どれから始まったか、という事はいえない。
 私の目的とするところは、これらの要素の解放と、新しい形への完全な合成である。
 このレコードの片面に入っている、とぎれな<続くダンス・ミュージックは、3つのセクションに分かれている。構成は以下のとおり。

DO THE BATHOSPHERE
 ソロ・ヴォイス/デヴィッド・トゥープ
 クジラたち/クリス・マンロ、ブライアン・イーノ、フィル・ジョーンズ


さ、おいで、Bathosphereしよう
さあ、Bathosphereしよう
Bathosphere、あなたにだってできる
聴きさえすれば
ちゃんとBathosphereを聴きさえすれば
さ、耳かたむけBathosphereてに
何も怖れることなんかない
ほら、見えて<る
あなたは幻視者になる
Bathosphereのやり方さえ学べば。
だから、さあ、Bathosphereを聴いて
そう、Bathosphereに耳かたむけて。
Bathosphereのやり方さえ学べば
もう泣くことなんていらない
Bathosphereしない?
Bathosphereしない?
Bathosphereを聴きたくない?
Bathosphereを聴いて、聴いて、

 
DO THE BATHOSPHERE”は、1973年に書かれ、同年9月24日、独唱で初演された。

THE DIVINATION OF THE BOWHEAD WHALE
 デヴィッド・トゥープ:エレクトリック・ギター+弓形のコードフォン
 フランク・ペリー:日本の鐘3個
 ポウル・バーウェル:バス・ドラ3個+ロリー・ハブ+フィドル2個
 ブライアン・イーノ:べース・ギター
 ヒュー・デイヴィス:グリル・ハープ
 (この作品は、1975年春に書かれた )

 

 音の高さを、時間の函数として、関係させる。これは、7つの部分に構成されている。その開始の前/その終了の後/2つの、ゆっくりと移動してゆく音のブロツク/2つの沈黙。各々のパートの区切りは、合図の鐘である。沈黙の長さは、この鐘の物理的な特性によって決定される。
 この作品では、5つの弦楽器が使われている。そのうちの2つは、オーソドックスな20世紀の楽器。そして、3つの、新しい楽器。
 コードフォンは、薄紙の膜をはった、円筒状の共鳴器を持っている。これは、弓形に曲げれば、低い音を発し、弦をしめれば、ドラマティックなグリッサンドを弾くことができる。原理的にも、効果音も、indian khamakに酷似している。
 二弦フィドルは、ポウル・バーウェルが竹で創ったものである。二本の弦は、ユニゾンに調律されている。
 グリル・ハープは、ヒュー・デイヴィスの発明による。これは、小さな金属性の焼き網(グリル)で作る。一本の弦が、足からグリルまで引っぱられ/もう一本の弦が、グリルから手まで引っぱられ/全体が張りつめた状態におかれる/上側の弦を空いた方の手でこする。
 この作品は、ある一定の周波数帯でのコミュニケイションに関する研究と平行する、レ.ポートの第一弾でもある。この、コミュニケイションというのは、コウモリのシグナルや人間の口笛、マッコウクジラの声、などのことである。
 

「ひげを生やレたアザラシが、灰色アザラシの亡霊を罠にかける。彼等はオーストラリアの蛙たちを紹待する。ある椅子の物語。」

デヴィッド・トゥープ/ソロ・ヴォイス+フルート+水

夢の道。
岩の音楽。
こだまの岸辺。
砂が移動する。
ある椅子の物語
ある椅予の物語。

 “The Charrs Story”、という歌は、1970年から72年の間のいつだったかに書かれ、度々大衆の前で演奏され、その後、ラジオでも一度放送された

 

Max Eastley

1972年、ミドルセツクス工芸大学で、彫刻の学位を取り、卒業。エクセター・カレッジ・オブ・アートの音響・照明工学部に、特別研究員として1年在籍、その後、自分の専門分野で本を出版。ロンドンヘもどり、新しい/再発見された楽器に関する本のシリーズの初版に、寄稿した。これらの寄稿者たちは、ITVの、“Aquarius”にフィーチャーされた。

David Toop

1949年5月5日生まれミドルセックス、アンフィールド

 

*2000/01/31 ICC企画展“サウンド・アート展”

 

rockmagazine10 1977      (hataeno)


HOME/BACK