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interview 1989


 

 『テイキング・タイガー・マウンテン・バイ・ストラテジー』
 サンフランスシコで買った中国オペラの絵葉書をそのままタイトルにいただいて、シュルレアリスムの自動記述法で歌詞を書いたこのアルバムが結局のところイーノのソロ・アルバムではいちばん好きだ。
 あの言語システムにもう一度帰る気はないんですか?と聞くと、イーノの答は次のようなものだった。
 「今となっては、どうしてあのようなレコードが創れたか、どこから発生したかがわからないんだ。今後ともあの方向に戻ることは考えられない」
 当然、の答だ。しかし、ロキシー・ミュージックにテクニカル・コンサルタントとして参加したときのメイクを施したキヤンプな麗人としてのイメージは今でも記憶のなかで消えない炎だ。

 

ロキシー脱退後の1973年、イーノはロバート・フリップ(キング・クリムゾン)と組んで『ノー・プッシーフッティング』をリリース。これは、当時のポップ・アルバムの製作状況では革命的なレコードだった。と同時にイーノの現在テープ・ループに基づく音の外延化−−−の始点となったものだ。
 『テイキング・タイガーマウンテン』はこの対極の実験性、ソング・ライティングの革命だったわけである。
 このふたつの方向性がほどよくブレンドされたのが75年の『アナザー・グリーン・ワールド』である。
 フリップとはその後、『イブニング・スター』を共同製作する。
 フリップのギターをイーノのテープ・メカニックスが録音/再生/録音の工程を経るうちに、一台のギターから無限のギター・サウンドが聞こえてくる寸法だ。
 いずれにせよこの『イヴニング・スター』はミニマリズムの空疎に陥ることのない音の艶と、コズミックなドラマ性を秘めた超傑作である。


 1975年に、あなたとフリップのコンサートを聴いたのですが、あのとき舞台中央にうつされたフィルムにどの程度、関わったのですか?
 いななく馬、たなびく麦の穂などの反復だったと思うのですが。
 「いや、あれはイギリスの映画作家マルコム・レ・グリースの作品だ。選択したのはボクだけどね」
 あれを見たとき、現在の映像と音楽の双方にコミットしていくあなたを予感しましたけど。
 「そのとき、言ってくれれば道草を食わなくて済んだのに(笑)。その後、6年もかかってしまった」


 黒いTシャツを着たイーノは上機嫌に見えた。83年に赤坂のラフォーレ・ミュージアムでのビデオ・ペインティング展で来日したときよりも人なつこく、むろんロキシー前後のイメージはどこにもない。
 今回の来日はゆるやかにしか変化しないビデオ・ペインティング十アンビエント・ミュージツク以降のインスタレーションでの新展開「サウンド&ライト」(シードホール)と、78年の「801ライヴ」以来のライヴ・ステージとなる天河大弁財天女社の新社殿建立の正遷宮大祭の奉納演奏のためである。まずイベント順に天河から行こう。この天河弁財天女社は奈良県吉野郡天川村坪内にある。
 吉野山花やちるらんあまの川
 雲の堤をあらふしらなみ
 桜の季節に訪れるとアブナそうな聖地だ。天河弁財天女社は、イーノの前夜に神曲奉納した細野晴臣が中沢新一と出した“日本霊地巡礼、尖端的対談本”『観光』でトップに登場してくる。
 イーノの音楽がどう受容されようと仕方ないが、サイキックとイーノは遠い距離があるとみてきたから、奉納演奏はいささか驚かされたことは事実だ。
 イーノは弁財天が女神だったことに魅かれたのかもしれない。もっとも正遷宮大祭の神事奉納の最終日は北島三郎がキャスティングされていたから双方あまり真面目にとることもないだろう。
 どうせならイーノではなくグルジェフィズムにつっ走るロバート・フリツプの方がふさわしかった。
 イーノは自分がニュー・エイジ・ミュージシャンと見られることを即座に否定してみせた。
 「聴衆は馬鹿ではない。演奏家の方がはるかに馬鹿ということもありうる(笑)」
 一部の人々をエキサイトさせるといけないので細部へのコメントは避ける。

 

 イーノの登場した7月21日、第6夜。あふれた観客(千人ほどだろうか)を200人程のキャパシティに押し込むのに手間どり奉納開始は大幅に遅れる。
 黒シャツ、黒パンツのイーノはギタリストのマイケル・ブロック、それともう一人のインストルメンタリストとともに登場。いつものイーノのテープ・ループ・サウンドに、ときにノイジーにときにリズミックに、2人がからんでいく趣向だ。
 2時間、3時間と経過するうちにぎっしりだった人がだんだんと抜けはじめ、横たわる隙間ができ、そこにゴロンとしてからは実にいい夜だった。“気”の入り込む余地のない典雅な夜。フランク・ザッパの自伝「THE REAL FRANK ZAPPA BOOK BY FRANK ZAPPA」を抱えていたから“気”よけになったのかもしれない。

 

 東京へ帰って7月30日の午前中にシードホールへ(イーノに会ったのはその日の午後である)。ラフォーレ・ミュージアム赤坂では会場も大きく、またさほど暗くなかったのだが、シードホールは狭くまた真っ暗だった。入った直後、つまずきそうになったほどである。
 すぐ目に入ったのは、スポットを浴びたお米の一盛り、なにか地方の元旦仏前風景を思わせギョッとする。触ればくだいた石だったが。
 「あれは日本だけのための展示物だ。東急ハンズで見つけてきた(笑)」
 2年前から始ったこの「音と光」展の写真はいくつかの海外のアート・マガジンで紹介され、それを見たときは、この微妙でピュアな色彩がどこから来ているのか、わからなかった。
 立体作品をのぞき込んではっきりしたが、光源はモニターにうつしだされた赤・黄・青といった色彩パターンだった。そのパターンがゆっくりと移り替わるにつれて、そのモニター画面の上に組まれた立体にモニターの色彩が反映して、闇のなかに美しく浮かびあがるのである。工作物をモニター画面に留めたテープも見えていかにも手づくりを思わせほほえましかった。
 つまり、ジョゼフ・アルバースばりの抽象形体がゆっくり色と光度を変化させていくビデオ・ペインティングの画面上に素通しの立体物を置き、そのままにすれば光の彫刻、その立体物を半透明プラスティックでふさぐと光の絵画となるのである。
モニターを光源とするだけでなく、もう一種類はランプによるシンプルな光の絵画、も展示されていた。モンドリアンが見たらジェラシーを感じたかもしれませんね、と言ったら相好を崩して言った。
 「たぶんね」

 

滝本 誠

 


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